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たかしの居場所


いつものるすばん


 午後の陽射しが家々の軒を鮮やかに照らし、ゆったり上る坂道の街路樹には濃い木陰が伸びつつあった。本気モードの暑さを避けているのか通りに人の気配がない。

6年生の夏休みを10日後に迎えようとしているたかし。夏休みに突入するけれども、たかしにとってはそれまでの日常とさほどの違いはない。学校の担任から渡される「授業プリント」が「夏休みプリント」と表題が変わるぐらい。

けさは朝ごはんを食べたあと、福祉施設の仕事に出る母親を見送ると、一息ついてから漢字を練習した。

それから授業プリントの整理。この4月からの1学期の分だけでかさばってきたのでファイルに綴じておこうと思いついた。

こうして整理していくとやり残しが気になる。見つけてやっているとけっこう時間のかかる作業だ。それと今年の担任の先生は熱心なのかもしれない。算数なんかは5年生のときの1年分のファイルの厚さとすでに同じくらいになる。

教科ごとにとじ終えたファイルを机の脇のブックスタンドにしまい、悦に入っているともう昼ごはん。きょうはあたためるだけなので楽なほうだ。こうして昼にひとりで食べるのも苦にならない。

午後はお風呂を洗って、洗濯物を取り込んでたたんでしまう。これも学校に行っていた頃からの自分の日課になっている。家族は母とぼくのふたりなんだとあらためて思えるようになって、ひととおりやれるようになったことがすこしだけ誇らしい。


夏の昼下がり


その後は自由時間。すこしだけ本を読んだら、今日はまだからだを動かしていないと気づいて庭に出たくなって飛び出した。

先ほどまで庭先でありの行列に木ぎれでちょっかいを出していたかともうと、おもむろに立ち上がり家の奥へ入り、冷蔵庫の牛乳でふうと息をして窓から外をちらりと見た。

そこには出かける前になっても情け容赦のない、まばゆい陽の光のもつエネルギーが感じられた。

「さてと。」たかしはひとりごとをつぶやくと、かばんのなかにテキストの入っているのを確かめ氷で冷やしたお茶を入れた水筒を手にとった。

家を飛び出すと近所の木々の生い茂る公園に立ち寄った。10分ほど公園のけやきの根元そばでじっと虫をさがしながら立ち止まっていたかと思うと、その通りをはさんで向かいのこじんまりしたビルに向かった。

「お願いしまーす。」

入口の扉をあけると甲高い声が通りまで響いた。毎週水曜日にかならずここで出す大きな声。家では小声でしゃべることがふつう。たかしにとってはその日、ためるにためただけの声をここで一気に吹き出す気持ちになる。

丸いほおにすう~と汗がひとすじ。コウタロウ塾に来ると大きな声が出るから不思議だ。からだのあちらこちらにスイッチが入るようだ。

「はい。こんにちはー。」

奥からすかさず返事があった。


コウタロウ塾で

「コウタロウ先生、そこで玉虫を見つけたよ。」

たかしは、入り口の戸をそそくさと閉めながら早口だなと思いながら言うと、ちらりと向かいのかべにかかる時計を見た。ここにある昆虫図鑑を開きたくて教室の授業の始まる時間より30分早く来ていた。

コウタロウ先生は早く来てもいやな顔ひとつせず相手をしてくれる。そんな先生のいるここはたかしにはぴたりとはまる感じがする。

「へえ、もう玉虫の時期かい。」

コウタロウ先生と呼ばれた男性はコーヒーを飲みながら本をめくっている、というより、たかしには本の山がしゃべっていて、しかもそこからうでが出てコーヒーカップを手にとっているように見える。文字どおり本の虫。

「先生、玉虫の幼虫を調べたいです。」

「そうかい。じゃあ、そのあたりの本が役に立つかな。」

と言いつつ、今度は「本の山」からあめ色になった竹のほそい棒がすうっと出てきて、その先でちょんちょんとそこいらへんを指さしていた。

たかしは棒の先あたりの「日本昆虫大系 第3巻」を両腕でようやく抜き出した。古い本のにおいがふっと鼻先をくぐった。抱えてそばの机に置くとさくいんを開いて「たまむし―ようちゅう」をさがしながら


「ぼく、中学はくぬぎの森学園に興味があるんです。学校案内に実験の写真が大きく出てました。」


たかしの居場所

「ふ~ん。そうかい。」

たかしの母さんが、「この子はもう2年間小学校に行ってなくて・・・。」と話すようすをコウタロウ先生と呼ばれている男性は思い出しながら本から顔をあげ、たかしを見た。

「それはいいかもな。あの学校のまわりもこの辺と同じで雑木林が多くて、遊び場には困らないしな。」

たかしは遊びに行くんじゃないけど、と思いながら不安がよぎった。

「だけど先生、算数だいじょうぶかな?…分数がまだわかんないし…。」

たかしはコウタロウ先生の教室に来るようになって1年半になる。通い始めてかけ算のわかり始めたたかしは、つくづくしまったと感じた。何で早くここに来なかったんだろうかと思った。

コウタロウ先生は、カラスノエンドウの実の笛をふいたり、アマガエルを水そうにたくさん入れてながめたり、かみなりの鳴る中で針金の輪のついた長い棒を持ち、耳にヘッドホンをつけてじっと立っていたり、生徒たちがいてもまず自分が楽しんでいる。

そうかと思うと今日のように本を何十冊も開いて、何かいっしょうけんめい調べている。そんな時、たかしは何時間でもここにいたい、と感じる。

「コウタロウ塾」という名前は変だが、そんな塾らしくないところが気に入っている。


学校に行っていない

 最近、この教室の6年生たちが光泉館中だの、桜花学園中に行きたいなどと話すのをたかしは耳にするようになり、進学先を気にするようになった。

「先生はどんな中学生だったの?」

たかしは玉虫の幼虫の絵を見ながらたずねた。

「おれか?どこにでもいるような中学生だったな。…学校には行ってないけど。」

最後の言葉にぴくり、と反応しながら表情には出さないようにしつつたかしは

「へぇー。」

と先を聞きたくてあえて控えめな返事をした。

「おれはなぁ・・・・・」

コウタロウ先生が話をはじめた。あごを右手の掌にのせたポーズ。この姿勢になると長い話が始まる。


コウタロウ先生の話


 入学して3日目で中学校に行けなくなった中学生のコウタロウ先生の家に、たびたび担任の先生が来て話をしたり勉強を教わったりした。とうとう学校には行けずじまいだったらしい。

そして高校も行かないで「大検」と呼ばれる試験を受けて、大学に通えたんだと話す頃にはたかしは身を乗り出して聞いていた。どれも初めて聞く話ばかり。

さらに大学では自分の好きなことを調べたり、おもしろい実験を一日中やったりしたことなどどんどん脱線したが、たかしは時間があればもっとくわしく聞きたいと思った。

「・・・でもなあ、たかし。先生は、知りたいことを追ってるといつの間にか窓の外が暗くてはっとすることがたびたびで・・・。腹の減ったのさえ忘れてしまう。子どものときからずっとそんな調子で、まわりから置いてきぼりなんだ。」

先生は、吹き抜けの階段の踊り場から一階に向かってモミジの種をたくさん落としながら言った。モミジの種は、どれも小さな竹とんぼのようにくるくる円をえがきながらゆっくり降りてきた。

たかしはコウタロウ先生のたった今聞いた話を、降りてくるモミジの種を手のひらで受けながらひとことずつ思い返した。階段から下りて来たコウタロウ先生は、モミジの種をひとつ拾い上げて、ノギスで種のはねの長さを測っていた。


たかしの進む道


「たかし、その範囲に落ちた種を20個集めてきて。」

「はい、先生。」

たかしはモミジの種を拾いながら、

ー中学がこんなだったらいいのにー。

と思った。どうしても教室にたくさんの生徒たちがぎっしりならんでいるようすしか頭に浮かんでこなかったたかしには、トンネルの先にほのかな光がさすように思えた。

ー自分のままでいいのかもしれない。ー

こころのなかでかちんと音がしたように感じた。ぴくりとも動かなかったものがようやく動力を得て動き始める感触。

「こんにちはぁ。」
「先生、おねがいします。え~、たかしもう来てたのかあ。」
「はーい。みんな、こんにちはー。」

どやどやと入ってきた生徒たちと、モミジの種を手に持った先生の声が教室にひびいた。

さあ、今日も教室がはじまる。たかしは先生から背中をぽん、とひと押ししてもらったような気がして、来週の土曜日の「くぬぎの森学園一日体験入学」に行ってみようと思いつつ、算数のテキストを開いた。


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