【じぶん心理學】何かのせいにする人の心理的内部構造と怒りについての捉え方
結論から言うと
人のせいにするよりもじぶんのせいにした方が楽だと言うこと
人のせいにしてしまった途端に
じぶんでコントロールできない物事に
なるから大変になってしまうのだ
じぶんの幸せにすることに責任を持つことはとても大切だ
最近では自分の機嫌は自分でとれるように
といわれるようにだんだん世間がなってきた
そうなのだ
責任を取ればとるほどうまく物事が進みだすのは間違いないのである
今日は人生における責任の話と人のせいにしてしまう人の内部構造を
分析的に書いてみたいと思う
あなたは責任って言葉にどんなイメージをもっているだろうか
重たいもの じぶんを追い込めるもの 苦しくさせるもの
心を窮屈にし圧迫させるもの
などのイメージを持っている人はいないだろうか
責任(せきにん、英: responsibility/liability)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたこと の原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事。
(ウィキペディアより転載)
デジタル大辞泉の解説によるとこうも書いてある
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」
3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある
とある
責任とは反応のことであり任務のことなのだ
じぶんを幸せにする任務を放棄してはいけないのはこれでわかるはずだし
じぶんがしたことを 正しく認識して
じぶんの選択に間違いがあった あるいは
じぶんの考えに甘いところがあった
こういったところを
素直にそれを認めて迷惑をかけた他者がいる場合は素直に謝ること
これが責任を取るということでもある
謝って済むかどうかは別の話だけど何かミスがあってその
責任をとることの最低限度の姿勢はこれしかない
これは相手がいる場合に対しての責任だ
問題は
じぶんがじぶん自身に対しての責任をとるというところなのだ
責任を取れない人
あるいはその責任から逃れている人
背負いたくなくて人のせい まわりのせい 環境のせい 親のせい
ばかりにしている人がいる
未成年に良くありがちだが
何を隠そう過去のわたしがそうだった
家庭環境のせい両親のせいばかりにしていた
じぶんの人生やじぶんのした選択を嘆き
その責任を取りたくなくて
被害者ずらして 両親や姉や環境のせいばかりにしていたのだ
でもよくよく考えると責任転嫁してしまいたくなるような
現実を自分で創ってしまっていたし
そういう間違った選択をしてしまっているということが
自分がしたことなのに 人のせいにしている間は 氣がつけないのだ
だけど自ら自らの責任を手放してしまうしかなかった理由がきっと存在していて
じぶんでじぶんの責任をとることを投げ出してしまう理由もきっとあったので
それを紐解いてその内部構造がどうなっていたのかということをあらためて分析して書いてみたいと思う
責任転嫁や人のせいにする人の内部構造はこうなっている
内面に抱えているマイナスや苦しい出来事があまりにも多いと
責任を取るということがどうしてもできなくなってしまうのだ
つらすぎて 苦しすぎて いったん何も考えたくない
その物事から逃がれたい 苦しすぎる 辛すぎる 直視できない
という心理的状況になりながら
その責任の存在をどこかで自分にあるのだということを知っていて
その重圧を知っていて
だけど抱えている苦しい荷物があまりにも多すぎて
その責任もだなんて考えると重すぎてみえて今の心の状態では抱えきれなくなってしまっているのだ
その場合は 時間を置くことで改めて向き合える心の体力が回復することで解決はするはずだ
だけど
本来ならば自分の人生に責任を取らないと幸せになどなれないというのに
そのことに氣がつかず ずっと人のせい 許せない 被害者はじぶんだ
とずっと主張してしまうようになってしまう人がいる
それは
じぶんの過ちやじぶんのミスのせいにされるのが嫌だから
じぶんの間違いにされて責められるのが嫌だから
正当な理由があるのにその理由を聞きもしないで
じぶんのせいばかりにされるのが納得いかないから
それか じぶんがもうすでに人のせいにしてしまっているので
今更しぶんに悪いところがありましたなどと
いえなくなってしまっているから ひっこみがつかない場合もある
だけどすべては
自分で選ぶことも出来た
受け取ることも 受け取らないことも
選ぶことも 選ばないことも
採用することも 採用しないことも
最初から自由だったに
もし仮に誰かになにかを勧められたとか
そういう場のながれだったとか
じぶんの意思では簡単には選べないようなことがらのことがあったとして
その決断を急かされたり 周りを固められたりして 選ばざるを得なかったとしても
決めたのは自分で 選択したのは自分なのに
同調圧力に負けたのは自分のほうなのに
そのせいで決断した自分の選択や決断を
人のせいにしてしまう理由がそこにはある
話をじぶんに勧めてきた人のせいだ
同調圧力のせいだ
急かした人のせいだ
迷いがあって納得がいかない決断を
させられたあるいはしてしまった
せざるを得なかった場合
その結果が意に反していたり伴わなかった場合
なにかのせいにしたくなるの当然かもしれない
じぶんのせいだと認めたくないのだ
じぶんの選択の間違いだと認めたくないし
じぶんで自分を苦しめる結果にしてしまったことを直視したくないのだ
だから他者に責任転嫁し他者のせいばかりにしてしまうのだ
全部じぶんがまいた種だったと氣がつかない限り
ずっとそういう思考が頭を支配することになる
だから
人のせいにしたり ずっと他人を許せなかったり
責任転嫁したりする人が生み出されるのだ
マイナスな出来事のおかげで
目の前が見えなくなるほどの被害をこうむっているにもかかわらず
その責任は全部自分の選択にあるということがどうしても納得いかない
向こうがわるいんじゃんか こればかりになってしまう
その責任がどちらにあるのかばかりに捕われて
冷静に真実を認識出来るような余裕がない なので
人を許したりできずその出来事を人のせいにしてしまうのだ
そうするしかほかにやり場がないのだとも言えるし
すでにじぶんのしあわせが崩れ落ちているのにもかかわらず
さらに責任は自分にあるということで
追い討ちをかけられてしまうと
思考停止に陥ってしまうからだ
だから人のせいにすることから逃れられなくていつまでも
口論が絶えず もめにもめて 最終的に裁判にまでなってしまうケースがあるのだ
なのでここは素直に
人のせいにしてしまいました
じぶんにすべての責任がありました
すべては自分の選択ミスが起こした出来事でした
と
じぶんの非を素直に認めることができ
素直に謝ることができれば
その筋は通すことになり
責任をとることに繋がる行動が取れるということなのだ
じぶんの責任はじぶんで取れたほうが幸せなんだ
誰かに責任転嫁したり明け渡したらいけない
それは誰かにいつまでも支配されてしまうことに繋がるし
じぶんの人生をじぶんでコントロールできないということになってしまう
じぶんの人生をじぶんでコントロールするためには
自分の責任を自分で取れるだけの意思が必要だ
その意志の力がない場合は時間をとり
心の荷物をどんどん手放し解放し
誰かや何かのせいにしてしまう 甘え を手放し
じぶんの真実を直視し認めて
じぶんの人生に責任をとれるような心の状態になる必要がまずあり
はじめてそこで素直に謝れるようになり
感謝できるようになるのだ
すべての好ましくない出来事は
じぶんがじぶんの責任をとれるようになるために
そのことに氣がつくために起きた出来事だったのだと
知ったとき 人の心ははじめて進歩し成長し行動に移せるのだ
責任転嫁やなにかのせいにしてしまう人の心理構造は
今の段階では上で述べたこと これがすべてだ。
じぶんでじぶんの責任を取れるようになってきたら人生はおもしろくなる
じぶんでじぶんをコントロールできる範囲が広がるからだ
なので ぜひ
自分の責任を自分で取れる人になろう
そうやって生きてるうちに
ある事柄でじぶんでは取れない責任が発生してしまう場合は
その事柄にはまだじぶんは関われないということ合図でもある
自分の行いがすべてで
それを正すのも自分の責任なんだ
間違いを認め素直に謝るのもそうだ
すべて自分の責任だ
責任を取ればとるほど物事はうまくいくんだ
甘えがなくなり 自信すら生まれてくる
そしてじぶんの責任をしっかり取れる人はかっこいい
そういうもの。
それに加えて喜怒哀楽 怒 の話をして今日は終わりたいと思う
優しい氣質の人はなかなか怒れない場合がある
言いたいことがいえずに
自分が我慢すれば自分が耐えさえすれば
その場が収まるなどとほんとに勘違いしていたりする場合がある
もっと怒れ 怒鳴れ
怒っていいのだ 怒りとはじぶんを大事にしてくれよという
精神上必要で健康な叫びなのだ
じぶんがじぶんを大事にするために怒るのだ
じぶんを大事にしてくれない他者に対してのメッセージなのだ
じぶんをもっと大事にしてくれよないがしろにするな
という痛烈な叫びなのだ
だけどそんなかわいいヘルプを出せない人がいる
怒れないのだ
それは幼い環境で怒る人ばかりまわりにいたせいもあるかもしれない
怒る人に対して嫌悪感が定着し
怒りの感情に対してもよくないイメージが定着していて
怒ることはよくないことだと信じてしまったのだ
怒ることに対して虫唾が走るぐらい嫌な体験をしている場合もある
怒っている人が基本的に大嫌いだし
自分がそうなるのはもっと嫌だと思ってしまう体験が
どこかで知らず内にあったのだろう
そういう人に限って
怒る人がまわりにでてくるし
怒こらなければいけない出来事が数多くおきてしまうのは
実に不思議だ
それはすべて 怒りという感情そのものも 愛してくれよ
解放してくれよ
というサインだと思う
怒りの構造はこうなっている
ほかにも
自分が大事にされてない
自分が尊重されてない
ということに対して
自分を尊重してくれ
自分を大事にしてくれ
と怒るのが普通なのだ
愛されたいのだ その対象の人からも
尊重されたいのだその人からも
大事にされたいのだその人からも
かわいいと思うすごく
怒ってる人がいたらそういうことでもある
尊重されたいのだ
大事にされたいのだ
そうされなくて悲しいのだ
尊重されなくて大事にされなくて拗ねてるから
氣を引くために
意地悪したり意固地になっていたり
無視したり問題を起こしてみせるのだ
それらはすべて愛してくれのサインだ
それを素直に出せないから人は怒るのだ
かわいいと思う 怒る人 怒ってる人
かわいい人なのだ とても
怒りは悪くないのだ
怒りに対してのイメージを印象アップさせたらいい
もっともっとそして
怒りを出すタイミングがきたら どんどん出したらいい
それも自然な感情だからだ
優しい人に言いたい
もう怒りを我慢しないでほしい
優しい人ほど怒りを外に出してもいい
怒りはブロックされると抑圧されて
不思議とさらに怒るような出来事が起こるようになるし
そのたびに解放できてたらいいのだけど
それでもまだ我慢して我慢して我慢して
いい顔ばかりしてると
いつか大爆発が起きて 理性が効かないぐらい怒りが洪水のようにあふれだして
望まない結果や犯罪になりかねない場合もあるので
怒りは怒りでちゃんと感じたら外に出しましょう
ということなのだ
怒りは本来かわいいのだ
もっと出そう
怒る自分も愛おしいのだ
ただ
じぶんに責任があるにも関わらず
怒りに任せて他者を怒鳴り散らすのはよくない
自分に非がある場合は反省しなければいけない
それは書かなくてもいいことだね
とまぁ今日はこのへんで筆をおくことにする。