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となりの誰かの闇をとてつもなく知らない

先週は吹田の事件や地震で気疲れしていた。吹田の犯人は捕まり、被害を受けた警察官は意識を取り戻したらしく(本当によかった..)、犯人の親も謝罪文を公表した。報道の断片的な情報を受け取って、少し安堵したら、つい先週の非日常な週末は日常に遠のいていった。

そして新しい週末、穏やかな土日を過ごした。梅雨らしい湿気と、たまに雲間から顔を出す夏の空。冷えた麦茶がおいしい。風が気持ちよい。

買い物に出かけた。箕面市にあるショッピングモール。犯人が見つかった場所にも近いが、見たい、近づきたい気持ちはなく、単に近所だった。メガネを新調し、人工の安全な小川を散歩し、食材を買って、降り出した雨に濡れながら、なんのことなく家に帰ってきた。意識の片隅を除けば、穏やかで日常的な週末だった。

非日常は日常のそばに転がっている、それはよく知っている。身内のソーシャルワーカーさんが言うに、何らかの生きづらさを抱えた人は、僕らが思っている以上に存在している。なかには、深く満たされない人もいるんだろうね。

集団性バイアスがかかったように、周りの人を信じて疑わず、僕らは無意識に「住み分けされた安全なほうにいる」と思っているのかもしれない。犯人のような人とも、日常的にすれ違っている可能性は高い。反対に、自分が誰かにとっての加害者かもしれないし、世間を揺がす可能性だって否定できない。

先日捕まった犯人は、今もどこかで息をしている。今も否認してるんだろうか。「許せない」「認められない」そんな強い怒りや悲しみに、到底すぐには向き合えないんだろう。正面から向き合えば、きっと自分を保てないと理解っている。自分が罪をおかせば多分そうなってしまう。状況と気持ちが混同する渦中、混乱して何も見えなくなる。かの尊師の出自も、先日の通り魔の人生も、吹田の引きこもりの暮らしも、無念にも殺された命や崩された日常を前にすれば、なんの弁解にもならない。

だけど、こんなにたくさんの人がいて、陰惨な事件がなくならないのに、裁かれる人の闇は闇のままで、一瞬も光が当たったような気がしない。当てても仕方ないのかな。Aのようなドキュメンタリーはあるけど、何も解明されないまま死刑が執行され、平成が終わった。

闇の底に何があったのか。圧倒的な虚無が支配してるのか。いざ、そういう立場に置れないと分からないのか。自分の想像力が足りないのか。なんの理由も分からない。

僕は呑気だ。遠い国の独裁も、死と隣り合わせの戦場も、権力による埋め立ても、あらゆる差別も知らず、平和な日本で、すぐ近くにいる誰かの闇も知らずに生きている。辛い過去は忘却して、明るい未来を盲信する。都合よく目を背けたい気持ちがある。どこかの首相のことも悪く言えないかもしれない。

大きな病気や老い、突然の災害は避けられない。事件、人災だって同じなのかな?いつ非日常がやってくるかも、と思うと怖い。保険を上乗せした、とお茶を濁すかもしれない。怖いけれど、予期できないし、それは防げない。知らない誰かの闇に光をあてるなんて、現実的ではないと思う。

諦めを過ぎてしばらくしたら、不意にこんなインタビュー記事が流れてきた。

“主人公は社会を騒がせるニュースを気にしながらも、雨が降る中で「傘がない」ことが自分にとって問題なのだと思う。

そして、家を出て恋人に会いに雨の中を走る。雨に濡れながら、「それは いい事だろ?」と問う。社会的なイシューより、目の前にある個人的な事を大切にする。この主人公は「今」を生きている。”

この人の歌は聞かないけれど、どこか核心を突かれたような気になった。日々のニュースに一喜一憂して、自由に発言ができるSNSの全能感に酔って、いま目の前のことに向き合えていないのかもしれない。それはそれで捉えるとして。

いま自分にとって何が問題で、何ができるのか、逆に問われたような気がする。ごく個人的に守りたいものがある。日常もそう。病いや老いのように、個人の気持ちだけで守れないこともある。家族や親戚、友人、会社、地域に頼る必要もある。これまでは自覚もなく、たくさん守られてきた。けど今度は僕が、問題を自覚して、守りたいものと向き合っていく番だ。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。