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28年間におよぶ海外駐在のはじまり

山崎豊子さんの書いたベストセラー小説「沈まぬ太陽」では、主人公が左遷人事で長期海外勤務で苦労するという話しがある。

約8年間、パキスタン、イラン、ナイロビと俗にいう、エマージング系の生活が厳し国でたらいまわしにされるというものである。

 私の場合は、左遷でたらい回しにさせられわけではない(と自分では思っている)が、同じJTC (Japanese traditional company)会社勤務で通算28年間の海外勤務をすることになった。

私は海外勤務がとても楽しかったので、1つの国での任期が終わりに近づくと、そのまま横移動で別の国を希望した。

会社からすると、おそらく、駐在好きな便利な社員で、かつ、なかなか本社で合うポストが見つけられなかったということかもしれない。 

最近では、海外赴任はあまり人気がないと言われているようだが、私はいろいろ面白い経験をさせてもらったので、それをここに書いておこうと思う。

ホントは、若い人がこれを読んで海外に出ていってくれると嬉しいのだが、おそらくは読んでくれる人はほとんどいないか、せいぜい、おじさん読者が、自分の社会人人生と照らし合わせて読むくらいかとも思う。

多少脚色が入ったり、記憶違いなことがあったりするかもしれないが、「海外駐在で面白い経験をした」、ということが言いたいことで、それ以外のとところで、多少の矛盾や誤りがあっても読みがなして貰えたらと思います。

私は電機メーカー勤務で、電子部品を販売する部署に配属されました。入社したのは1990年。

ちょうど、カセットプレーヤーがCDプレイヤーに置き換わり始めた頃で、私の部署は、CDプレイヤーを生産するのに必要な部品をで電機メーカーや工場に販売する部隊でした。

入社3年で香港駐在になりました。

てっきり香港勤務で、香港のメーカ・工場に対しての部品セールスを担当すると思っていたら、私が赴任する前の週に香港人を1人雇った。
年齢を調べてみると、私より年上なので、私の部下にはできないし、私が新人の彼の部下というのもなんなので、これから商売が始まりそうな中国を担当してくれと、香港の日本人上司に言われました。

 これが私の中国担当の始まりです。(今から思うと、かなり適当なjob assignですが、当時はこんなものでした。今でもJTCではあまり変わっていないかもですが。。。)

翌日には、日本人上司に、香港の隣町にある中国・深圳に連れて行かれました。
香港資本の電子部品商社の深圳支店を訪問し、そこの所長さんに紹介され、お前は明日から毎日この事務所に来て働くようにということになりました。

大学時代の第二外国語は中国を専攻していたのですが、しょっちゅう単位を落としていたくらいで、中国語は全く話せない状態でした。

翌日から、支店長さんの名刺を中国側の国境でタクシーに見せて、この部品商社の深圳支店に通いました。
なんだかんだといって、それからほぼ毎日、私は深圳で働くこととなります。 

香港勤務の人に比べると、1人だけ貧乏くじを引いた感じで、涙眼になる日も多々ありましたが、それから6年間働き中国語がペラペラに。
その8年後には、台湾子会社の社長になります。 中国語のおかげです。

貧乏くじ引いても手抜かずに頑張ると、後から振り返るととてもよい修行になっていたというパターンです。
ただし、当時の自分にはそういった将来への糸は全く見えていませんでした。

Steve Jobsのconnecting dots。

人生をある地点から振り返ると、一見、バラバラにしか見えないような出来事が、あら不思議、成長線で繋がているのがみてとれるというヤツです。
人生におこることには無駄がないと、という言い方されることもあります。

涙目で深圳に通て仕事をしていた、当時の私には全く分かっていませんでしたが、中国ビジネスを担当したことは、私の人生キャリアの基礎土台となったのでした。

*Steve jobsのconnecting dots.  Appleの創業者 Steve jobsが2005年のスタンフォード大学卒業式で行った伝説のスピーチで出てくる言葉です。
こちらか、youtubeで動画が見れます。
https://www.youtube.com/watch?v=VfEk3vcWtzM


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