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商店街の反攻はあるか?!〜現代の考察

元は「敗北主義的な商店街」というタイトルにはしていましたが、今後の逆転や新たな可能性について考えたときに、前向きに「反攻」と銘打たせていただきました。
しかしまぁ事実そう思うわけなんです。

私にはなんとも恵まれたことにガールフレンドがおりまして、そのGFの家の近くには商店街があるのです。偶に二人で通ることがあるのですが、八割方の店はシャッターが閉まっておるのです。照明が見えるのは、薬局、場末の個人塾、そして某スーパーマーケットサンリブ(以下「スーパー」と呼称)だけなのであります。

少し昔の商店街

昔は良い商店街でした。
私が小学二年生の頃は買い物体験と銘打って学年の皆で当該商店街へ買い物へ行ったものです。果物屋の陽気なおばさんの笑顔やいきいきと商品をおすすめしてくる元気なおじさんが沢山いて、ほぼ半額まで値切って売ってくれたり、試食させてくれたり、蜜柑を一個サービスとしてつけてくれたり、更にはその後個人的に買い物に行くと、「〇〇小学校の子やね!これ、安くつけとくけん買っていき〜」と声をかけてくれたりしました(そういう戦略だったんかな?知らんけど)。
なにはともあれ当時の自分には人間の温かみがこれほど強く感じられる場所はそうないだろうと感じさせるほどの活気がありました。
そのころには商店街のアーケードの中に居座るスーパーの姿がありましたが、気には留めませんでした。やはりその頃は商店街に活気があったのです。


現在の商店街

スーパー一強となった今日商店街を通ると、スーパーの照明と対照的に寂れに寂れ、余計に暗く感じられる商店街への哀愁を抱かざるを得ませんでした。所謂シャッター商店街、その寂しさの何たることか…。中には、新しい店を始めているものも有っても、従来の「まさに商店街!」というような野菜や、卵、肉を売っているものではなく、シェイクだったりソフトクリームだったりと食べ歩き向けのような店がほとんどという傾向です。

スーパーがあるということ=日用品・おおよその食品は揃う

これを考えれば致し方のないことだと言えますね。スーパーでは買えないもの、味わえないものを多様に考え、各店で競争し、活力を見せることで客を呼び込む必要がある、そう考えます。

そもそも何故スーパーが商店街の中に現れることとなったのか、ですよ。
やはり資本主義…。自身らの店が儲からなくなるのは商店街の人間は当然知っていたはずでありますが、然し、なにはともあれスーパーは建てられたわけです。これは半ば強行的であったようですが…。

これに対して現状を知ったちょうどその時の自分は
「不買運動でもやってスーパーを潰し、商店街の時代を再興せよ!!」
そう心のうちで叫びました。


憤怒の後の理性的な考察

商店街を通るうちに気づきました。やはりスーパーという存在は便利であり、その利便に抗うことは能わないということに。

商店街には野菜がある。魚がある。肉もある。

然し、調味料は?お菓子は?油は?日用品は?

アルワケネェダロソンナモン

そしてわざわざ
「野菜は〇〇さんのところ、魚は☓☓さんのところ、肉は△△さんのところ、そして残りはスーパーで買うの(-ω☆)キラリ」
なんて面倒なことができますか?!できませんよ!全部一括で安いスーパーで買うのが一番時間・金・労力を考えれば妥当でしょう。
だから勿論、買わざるを得ない商品が数多並ぶスーパーに対して不買運動を行うというのはあまりにもデメリットがデカいって話なんですね。


商店街の反攻はあるのか?!with学生

商店街再生プロジェクトなるものがアチラコチラの学生によって自主的に行われています。こういった試み自体はとても良いことだと思っています。若者が自身の生きる地域に興味を持ち、地域の課題に関して考え、盛り上げる。然し、方法論として弱いことしかやっていないという節はやはりあるわけです(お前が偉そうに言うなベシッ)。

まずは「祭り」に頼りすぎているということです。子供を集めてじゃんけん大会をして景品と交換、また学生が店舗と協力して作成した小物をプレゼントだとか。そのことが「日常」での商店街の売上にどれほど貢献できるかというと微妙なのではないでしょうか。
また「クラウドファンディング」にも頼っていますね。このような活動は学校の「総合的な学習の時間」の一環として行われているので、下の学年への引き継ぎがない限り、その代限りという残念なことになってしまいます。よって、集めた資金を使って継続的に商店街を発展させていくことはかなり困難を極めるでしょう。であれば、明治時代の士族授産の政策のように、
ふるさと納税のような仕組みを作った上で、潰れた商店街の各店に(新たに当該商店街で開店するに限る)開業資金として支給する(また貸し付ける)方が効果が上がりそうではあると思います。

難しいな資本主義やら新自由主義やら…

現代の考察〜あるかもしれない未来

近頃はステレオタイプなものは次々と淘汰され、より新しいもの、より合理的なものが人々には求められて、合理性という観念が世に蔓延っています。それはスーパーマーケットは勿論、ウーバータイムパフォーマンス重視の生活などがその例となります。またその一種の反動として退廃を求め、シャッター商店街や廃墟巡りなんて文化が生み出されたという解釈が私の中にはあります。それはかつての文学界におけるエロ・グロ・ナンセンスのような社会の抑圧に対する反動としての一体系と似たところがあるのかもしれません。

人々は利便を求め、知らずうちに他者を淘汰している。
然し自身も同時に淘汰される恐怖を抱えて生きている。
その逃避先が退廃であり失われているものなのである。

私が抱く、もしかしたら有り得て、且つ望む世界の妄想は、
全てが機械化し、全ての人々が仕事をしなくなり、
そして再び、古代ギリシアのような世界(奴隷→機械)が再臨し、人々は哲学を探求する

これは人間を深化させ、新たな政治システムの構築に寄与するのではないかというものであります。


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