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「愛で荒む」~ナルキッソスと「私」~

プロローグ

悲劇の始まり

その昔、光源氏と同じように怖いほど美しい男の子が生まれた。この子は、ナルキッソスと名付けられた。ただし、光源氏とは違う運命が待ちわびていた。予知者が「神様達まで狂わせる美少年に成長する。彼が唯一してはいけないことは自分の反映を見ることだが、その日がいつか来るだろう」と言った。その予言が数年後そして何世紀も廻って繰り返し当たってきた。伝説によるとナルキッソスと一緒に死んでしまった者もいるという。
    私は死なないで済んだが(?)彼の死体を見てしまった。彼の死体が池で浮いていた光景を見て悲痛な叫びをあげた。私は溺れて死んでしまったナルキッソスへ近づき、泣きながら息を引き取ったその体を抱きしめた。その日、私の心の傷がどれだけ深かったことを思い知らされた・・・。

Narcisismo (ナルシシズム、自己愛)文献学と出会った日・・・

私が中学一年生の時、地理の授業で先生がギリシャ神話に関して話していた。その話の中でナルキッソスのことを先生は語り始めた。私は、ギリシャ神話には全く初耳で興味深く話を聞いていたが、何かが足りなかったというか、「ナルキッソス」、その名前を聞いて何かひっかかるものがあった。話が進むにつれて、私の頭の奥深くで眠っていたスペイン語の言葉が起こされた、それはNarcisismoだった。
    その時、まさかと思った、ナルキッソスの話がこの言葉と繋がっているのかと推測した。それでもスペイン語とギリシャ語って違う言語だし、「ナルキッソス」は名前だし、それが「Narcisismo」という形容詞にどう変わったのか分からないし、スペインはギリシャの文化と全く関係ないとは言えないがどのように関係しているかも知らないし、疑問がたくさんあって私は精神的に圧倒された。その場では繋がりがあるだろうと思っただけで、もやもやが消えないまま中学生時代を過ごした。

文献学について

高校生になって語源学の授業でスペイン語が古代ギリシャ語そしてラテン語から成り立っていることを知り、やっと中学生の頃の悩みが晴れた。もちろんこの授業でも色々と今まで知っていた言葉の意味が変わっていった。幻想的な言葉が驚くことに現実的な現象から成り立っていたり、一つの言葉が二つ三つの言葉に分別出来たり、日本語で書く漢字を分析したようで今まで使って来た言葉の新しい意味を学んだりしてとても頼もしかった。
    例えば、「Demonio(デモニオ)」は現代では、デーモン、鬼のように人間に悪さを起こす悪霊のことを意味するが、古代ギリシャ語の「δαιμονιον (ダイモ二オン)」が元になっていてプラトンの著作に出てくるソクラテスがいつも「声が聞こえる」と言うが、その声がこのダイモ二オンである。頭の中で聞こえる声、命令のようなことを言い出してくる声がダイモ二オンだ。確かに考え事をしてる時とかよくそんな声が聞こえたりするなと関心した。
    火が花のように咲くから「花火」だといったように、書かれた言葉の分析がロマンス諸語でも可能なことである。「Geometría(ヘオメトリア)」という言葉は、日本語訳では幾何学のことを指すが、「地球」という意味を持った「γῆ(へ)」という言葉と「μετρία(メトリア)」という「測り」という意味の言葉から成り立っていて、最終的に地球の測りといった意味を持った言葉になる。これもプラトンにとって大事な学問で、彼のアカデミア(プラトンが建てた学校のこと)にヘオメトリアの知識がなかったら入れなかったのである。
                  このように言語の分析や語源から考えられる言葉の意味を研究する学問を文献学と日本語では言う。それだけではなく、語源学をもとに歴史的に言葉の意味の変化や言葉を伝統的にどのように使われてきたかも勉強したりする。スペイン語では「Filología(フィロロヒーア)」と言って、言葉を愛する学問という意味も持っている。

ナルキッソスとナルシシズム

文献学について説明して分かった通り、ギリシャ神話のナルキッソスとNarcisismo (ナルシシズムのこと)、この二つの言葉の繋がりが明らかになる。自分だけを見る、他人のことはどうでもいいという考え、そんな自己中心的な行動がナルシシズムである。ナルキッソスも神様達からまで注目されていたにも関わらず、彼は自分のことだけを見て死ぬまで自分を愛したのである。ナルシシズムの意味を知っていなくても、ナルキッソスの話を知っていれば、それがどんなものなのか文献学のおかげで考えることができる。

ナルキッソスと再び出会う

私はナルキッソスと去年の十月に再び出会った。メキシコ国立自治大学で、ダンテ・アリギエーリのスペシャリスト、アウグスト・ナバ先生の「心象の時代(1250~1350):神学、鏡、愛そしてフィロソフィア」というタイトルでヨーロッパ中世期の哲学について講座会が行われた。この機会でナルキッソスの話を違う視点から語られて私の心は奥深く揺らされた。この講座でナバ先生が当たったいくつかの点を翻訳しながら、私の解釈も含めて説明したいと思う。

この目で見る世界はアレゴリーである

Omnis mundi creatura quasi liber et pictura nobis est, et speculum.

(Alanus de Insulis, Rhytmus alter, PL. 210, Col 579)

ラテン語で書かれたこの文章は、ヨーロッパ中世期の学者たちが世界をどのような目で見ていたかを表している。独自で日本語訳をしてみたが、「私たちにとってこの世界全ての生き物は本と絵みたいであり、鏡のような存在である」と、意味が全く通じないので解説しようと思う。
    Omnis mundi creaturaは、「この世界全ての生き物」のことなのだが、日本語の「生き物」では 「creatura」 の誰かから作られる、生み出されるというニュアンスがないため、ここでひっそりと隠れているクリエーターである神様の存在を予測できない。これは、私たちが日々見る世界は神様の作品であるという意味を持っている。そうでもなれば神学にとって欠かせない知識はこの世界を読み取ること、解釈することになる。そこで、私たちがこの作品(この世界)を見るために用いるものは、Liber et pictura、「本と絵」である。本と絵とはいえども、聖書と百科事典、有名で権威を持った作家のものだ。最後に言われるspeculumは、「鏡」なんだが、本と絵だけがこの世界の鏡のような存在だという意味ではなく、この世界自体が鏡なんだと言っているのだ。
     上記を読んで最初の神様が作った世界だと理解できても、最後の点(この世界は鏡のようだ)は、漠然な考えだと思われるだろう。ここからはヨーロッパ中世期の神学や哲学的な説明が必要になる。まずは、神学的には欠かせない説を示してから、哲学的な説を話していこう。
     聖書のはじめに創世記を読むと、神様はその昔、何もない空間から天と地を生み出したと語られる。この地は暗くてまとまった形が全くなかったため、神様がはじめに与えたのは光だった、そして光と闇に分けた。その後、地球という場所を六日間で作ったのだった。ここまでの話で注目してほしいのは、どうして地球のことを先に語ったかである。人類の始まりの話だから地球の誕生から語るのは同然だと思られるかもしれないが、よく考えてみると、創世記は神様が作り出した世界を語っているのだから、神様がいる天の誕生をはじめに語るほうが普通ではないのだろうか。地球の誕生から語る理由の一つとしては、この頃、地球中心説を信じていたことを忘れてはならないのである。

ヨーロッパ中世期の宇宙の動き説: 地球中心説

                 さて、この説が神学や哲学にどのような影響を受けたのか。地球が中心的な立場にあったということは、人類の立場も大事だったということになる。人間が世界の中心的存在にあることがポイントである。さらに言えば人間の心の中を重視しているのだ。当然ながらここでは科学的に研究しようという考えではない。確かにこの世界にあるものを科学的に観察することはとても大事である。そうでないと神様の作品を見ていない、認識すら出来ていないことになってしまう。ただし、この作品は観察されるだけのものではない。神様が作った世界なんだから、彼が私たち人間に伝えたいことがあるのではないか、その答えを探るにはこの世界のものを見た上で考えられること、その内面にあるものにも目を向けないといけないのだ。この世界は人間の心を描いているのだと当時の哲学者は考えていたのである。この世界は、人間の心の鏡なんだと。こうして人間とこの世界の繋がりを神様の存在を通して説明していた。
     当時読まれていた聖書や百科事典、描かれた絵などはこの世界を観察した上で十分に考えをめぐらせたもので、アレゴリーなんだと理解して研究されていたのである。アレゴリーは、一般的に世界の出来事や物事、世界で経験することを説明するために比喩を用いた物語や絵のことだ。なので、聖書を読まれるときはそれが歴史的に起こった出来事を話しているのではなく、大体がアレゴリーだと理解するように。

想像力豊かなヨーロッパ中世期 (トマス・アクィナス VS. イブン・ルシュド)

上記の内容で分かるように、本と絵はとても貴重だったことはむろん、想像力が知識の一部としてとても肝心だったことも明らかになる。想像力と言われれば、人間の能力の一部で頭の中で描く力という概念があるだろう。この概念に反論したイブン・ルシュドという哲学者の想像力に関する考えを紹介しよう。

Sicut igitur paries non videt, sed videtur eius color; ita sequerentur quod homo non intelligeret, sed quod eius phantasmata intelligerentur ab intellectu possibili. Impossibile est ergo salvari quod hic homo intelligat, secundum positionem Averrois. Quidam vero videntes quod secundum viam Averrois sustineri non potest quod hic homo intelligat

Tomás de Aquino, De unitate intellectus, 66, Cap. 3: Rationes ad probandum unitatem intellectus possibilis

      上の引用は、ヨーロッパ中世期の代表でもあるスコラ学の哲学者、トマス・アクィナスが想像力の本質についてイブン・ルシュドの考えを議論している。引用の訳してみた:壁に眼力はないのに壁の色が見える。そうなるとこの人間は考えてないことになってしまう、知力なしに心象のみで理解できていることになる。したがって、イブン・ルシュドが述べている人間は知力を持っていないことになる。分かりやすいように訳しているつもりだが、スペイン語でもどんな言語で訳しても、当時のスコラ学の教えが現れるので解説がまた必要になる。
      スコラ学の考えを勉強するには欠かせない哲学者と言えば、アリストテレスだ。上の議論に関してはアリストテレスの考えを全体的に紹介する必要はなく、「De anima(デ・アニマ)」(日本語では、「霊魂論」と訳されている)という著作に触れれば十分である。この著作では、大まかにいうと霊魂の能力や仕組みを明確にしようとしている。その中で、上の引用にも出てくる「Phantasmata(ファンタスマタ)」という魂の能力の一部を説明している。この言葉を「心象」と訳したのだが、もう少しニュアンスを広げると空想や幻想、ファンタジー、他にも霊、幽霊にも関係する意味も持っている。
                     トマス・アクィナスもイブン・ルシュドもこの魂の能力を説明しようとして、学者たちの中でよく用いられた眼力の類推を使っている。眼力の類推は、壁について述べている部分である。この壁は、目で見える物の表面を指している。そして、壁の色は想像力が働き、作り出す物である。トマス・アクィナスにとって、ファンタスマタは想像力を働かせ、その物のイメージを浮かばせる能力だけなんだと理解している。知力なしで成し遂げられることなんなら、この人間には理解力がないことになる。最終的にイブン・ルシュドのファンタスマタの概念が間違っていると議論している。なので、トマス・アクィナスのファンタスマタの概念としては、「心に残った印象を描く力だ」と言えるだろう。
      ただし、トマス・アクィナスは、イブン・ルシュドの言葉遣いを無視しているがために想像力のみに起こる現象を理解出来ていなかったことが最近の研究でも明らかになった。イブン・ルシュドが主張してる重要点の一つ目は、想像力の本質に受動的ではなく能動的な特徴を持っていることである。想像力は有機性を持っている、いわば、眼力の類推で表すとその壁は生きているのだ。二つ目、人間は、想像力を通して理解すること。これは、「人間はファンタスマタがないと物や物事を考えることさえ出来ない」とアリストテレスの宣言を考えているのでしょう。魂は、知力が先に動くわけではなく、考えたい物や物事のイメージが真っ先にないと知識的な力が発揮されないのだ。ファンタスマタは、知力を可能にするために必要なプロセスとなる。

愛と影

読者はここまでの話がスコラ学の哲学になってしまい、ナルキッソスの話から全く関係ないような気がするだろう。しかし、ナルキッソスの話は、スコラ学の鋭い目からするとさっきまで関係のあったナルシシズムの意味から全く離れて、象徴的な愛の姿のアレゴリーとして見直すことができる。これは、どういうことなのか。次の詩を見てみよう:

鏡の前に立つナルキッソス
泉に映る自分の影に恋して
自分を見ていても、悲しく
ハートを射止められ 頭を空に
影を捕まえようと身を投げ出し
その愛で不思議な死に出くわした:
私も、美貌を求め
お偉い そなたを目にしたら
鬱憤に恋し
離れたくても、去ること出来ず
この愛が密接で
日頃に病み、荒み
ナルキッソスは喜び、受け入れられたけれど
私の前に そなたを見ながら 死の姿が現れた

チアロ・ダバンサーティ (Chiaro Davanzati,13世紀) 
アウグスト・ナバ先生のスペイン語訳から私が日本訳したが、オリジナルはイタリア語である

     チアロ・ダバンサーティはナルキッソスの話で自由詩を書いているが、実際にナルキッソスは自分の水影を見て、これが自分だと自覚しないことがはっきりする。自分を見ているのではなく、水影が別人だと思い込んでしまい、その影は愛する人の姿になる。ナルキッソスは、その影に夢中になってしまっているのだ。恋愛でこういった経験は誰にでも起きることだ。
     「一目惚れ」や「片思い」、「恋に落ちる」などが、この「影に恋をする」経験だ。一度見ただけなのに、その人が忘れられない。それだけでなく、お互い言葉を交わしてもいないその上に、自分の存在を知られているかいないかにも関わらず、その人の姿をあれこれ考えていると頭が狂ってしまい、夜に眠れなくなったり、悲しい曲を聞きたくなったり、食欲もなくなったりして元気がなくなっていく。影がこのように悪い影響を及ぼすのをヨーロッパ中世期の医学では愛の症状として研究されていた。
     当然、ここで話す「影」の概念は物理的に起きる現象ではなく、上で説明した「心象」と訳したファンタスマタのことである。イブン・ルシュドの言うことに基づいて考えると、想像するものは、霊か幽霊のような形で生きる可能性を持っていることになる。この場合は、好きな相手の姿が霊のように現れるのだ。愛は、その相手と一緒にいたい強い願望から生まれるが、この霊は相手の気を引いたことを想像させて、空想にふかされて魂の能力をだんだんと狂わせるのだ。だから、最後には魂の判断力だけでなく体の働きまで衰えてしまうのである。

最後に

ユニバーサルアレゴリー

わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず

万葉集防人歌(若倭部身麻呂)

去年の十月までには客観的にナルキッソスの話を聞いていた私はナルキッソスがナルシストだなと思っていた。私と全く関係ないなとも思っていたが、再会で本当は恋愛で誰もが一度はある経験に遭遇したんだと関心した。そして、それがヨーロッパ中世期の学者たちが呼ぶユニバーサルアレゴリーなんだと理解した。そして、自分に関係ないなと軽々に思いながら読み聞きしてはいけない物があることと一つの言葉が潜めているたくさんの意味があることに驚いた。
     ギリシャ神話のように比喩を用いて書かれたものは、ある場所や人特有の話を描くのではなく、文化や社会を超える誰もが経験することを語っているのだ。例えば、上の短歌はナルキッソスの話と同じような経験を歌っている。この短歌の書き手がこのギリシャ神話を知っていたかは重要ではないのだ、選ばれた言葉と用いられたイメージが大事なのだ。愛する人の影、水、忘れられない、という言葉からもナルキッソスと同じ寂しさも感じられる。
     自分の恋愛経験を振り返って、ナルキッソスのような経験がなかったとしても、あなたがいつかその経験に巡り会うかもしれないと語っているのだ。文化や社会の影響を重視されるのもいいことだと思うが、それを超える経験もあることを忘れずに。

[今回は、私の好きな哲学のテーマを書くことに挑戦しました!上手く説明が出来ているかまだ自信がないんですが、今月いっぱい考えて頑張って書きました。テーマに関係あるなと思った音楽と絵も載せているので、そちらも記事を読みながら楽しんでください!]

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