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寺山修司【永遠に続く問い】

唐突だが、まずは以下のふたつの命題をご覧いただきたい。

①「問い」は、「答え」を導くためにある。
②「答え」は、「問い」を導くためにある。

このふたつのうち、あなたがどちらに共感するのかを、考えて欲しい。少し補助線を引いてみよう。①については、たとえばあなたがどこかの会社の株を持っているとする。「明日の株価はどう変動するのか?」と問うあなたは、これまでの株価の推移や、識者の展望、あるいは勘といったものを用いて、「明日の株価は上がるor下がる」という答えを得る。このばあい、答えを導くことが肝心だ。他にも、天気や資格試験、転職などにおいて、我々が欲するのは、答えである。問いは、答えを求めるための出発点にすぎない。

②は、①とあべこべだ。ちょっとひねくれている、と感じる人も多いかもしれない。この命題は、答えよりも、問いを欲している。実生活の場において、そんなケースは、あまりない。「明日の株価はどう変動するのか?」という問いが、あなたになんらかの利益をもたらしてくれるわけではないから。しかし、答えよりも問いを求める変わり者もこの世には存在する。たとえば、何らかの研究に従事している人々。

話はずいぶん昔へと遡るが、磁石の不思議な性質は、かねてより人々の探究心をおおいに刺激するものだった。科学史家の山本義隆によれば、アリストテレスは磁石について「霊魂を宿している無生物」だと述べている(山本 2003)。しかし、後世に生きる我々は、この古代の賢人の答えが、誤りであることを知っている。

またローマの哲学者、ルクレティウスは、「磁石から出た原子が空気を打撃して空虚をつくる。その空虚に鉄の原子が流れ込むために、磁石が鉄を引き寄せる」のだと言う(山本 2003)。これも、私たちからみれば、なんだか変てこな理屈だ。しかし、私たちの知る「個々の原子の磁気モーメントが同じほうを向いていて、全体として大きな磁気モーメントを持った状態の物質が磁石である」という答えは、アリストテレスやルクレティウスの出した(今でこそ)珍妙な答えなしには導かれなかった。

ルクレティウスは、アリストテレスの言った、「磁石には霊魂が備わっている」という答えに対し、「本当にそうかな?」という問いを持った。それで自分なりの答えを出したのだ。さらにその答えは、後代の哲学者や科学者の問いを誘発し、それが積み重なって現在の答えが存在する。このような科学の発展の道を俯瞰するならば、ほんとうに重要なのは、何かを問うことであり、答えは、新しい問いを誘発するための、仮の足場にすぎない

人々は問いにたいしての答えを導くことで一時の安寧を得るが、すぐにその答えでは物足りなくなって、あらたな問いを立て、さらなる道を進んでいく。問いとは、あるひとすじの物事が流れている状態を指し、答えとは、その物事が一時的に立ち止まっている状態のことを言うのではないか。であれば、科学や哲学、さらに芸術といった、人間のあらゆる思考を進ませているのは、答えではなく、問いのほうなのだ

前置きが長くなった。先日、大阪のシネ・ヌーヴォという映画館で開催中の『寺山修司没後35周年記念特集 映画監督◉寺山修司2018』に行ってきたのだ。

この寺山修司という人間は、演劇、短歌、詩、俳句、小説、映画などといったあらゆるジャンルの芸術において、数え切れないほどの問いを産み出し、いっこうに答えにたどり着かないまま47歳という若さで死んでしまった。彼の芸術活動をすべて網羅しているわけではないが、その人生は、偏執的なまでに答えを忌み嫌い、問いだけをひたすら増殖させてゆくことだけに費やされている。彼が発足した劇団「天井桟敷」の舞台は、けばけばしい極彩色に塗られ、J・A・シーザーの担当する訳のわからない過激な音楽の鳴り響くなか、実験、土俗、社会的挑発、グロテスク、エロティシズムで埋め尽くされる

太った女性たちをただ舞台に並べる『大山デブコの犯罪』や、身体障害者を、好奇の見世物のように扱ったような舞台もたくさんある。また、観客に新宿の地図を渡し、街のどこかで行われている演劇を探して街をさまよい歩かせる『人力飛行機ソロモン』、阿佐ヶ谷をフィールドとした”市街劇”『ノック』といった前衛作品も存在する。私はこれらの演劇を実際に鑑賞したわけではないが、今日では上演できないようなものもある。当時においても警察沙汰になっているのだ。そこに存在するのはあらゆる偽悪的なふるまい、差別と下品さと自己顕示欲と傲慢さと、そして、問いを求めて飢える、ほとんど気が狂いそうな寺山の姿であったろうと察する

映画にしても同じだ。私が今回観た『実験映画特集1』においても、カメラに向かって放尿したり、裸体の男の身体にイモリを這わせたり、包帯でぐるぐる巻きにされた男の顔面に釘を打ち付けたりといった、思わず顔をしかめたくなるグロテスクな映像の洪水のなかに、ときどきはっとするような美しいショットが混じっている。また、演劇と映画を融合させた『ローラ』という作品。スクリーンの中いる女たちの誘惑によって、観客席で映画を見ていたひとりの男が立ち上がって映画のなかへと入ってゆく。男は映画の中で女たちに服を脱がされ、弄ばれたあげく、こちらの世界に逃げ戻ってくるのだ。実際に、役者が全裸で映画館の中を走り回るのである

さらに、『審判』という映画では、役者でも関係者でもないただの観客が、スクリーンに釘を打ちつけるというパフォーマンスが行われた。金槌が観客から観客へと手渡され、それを受け取った者はスクリーンの前に立って釘を打つ。私も3本ほど釘を打った。金槌を振りながら、映画って、こんなことしてもいいのか? いったいこれはなんなんだろう、という思いが頭をよぎった。寺山の問いを肌で感じた瞬間だったのだろうと思う。

(『審判』上映終了後、スクリーンには観客の打った釘だけが残された)

明日、5月4日は寺山の命日である。しかし、この機会にと、寺山の映画を勧める気は、私にはない。なにせグロテスクであるし、現代のモラルでは到底容認できない描写もある。しかしながら。映画とは、芸術とは、美しいとは、醜いとは、正常とは、病とは…いったいなんだろうか? 寺山はその答えを一切残さずに逝った。膨大な問いだけが残った。その問いは今も暗闇のなかを流れつづけ、これからもずっと、私を魅了するだろう。


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