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そら豆サイズのこころをやわらかくて美味しいパンにしたい
優しいひとになりたいと思った。
優しく在るということは、当たり前だとも思っていたし、そのうえで私は当たり前以上の煌びやかな優しさどころか、当たり前の優しさすらも持ち合わせられず、むしろ、ぜんぜん優しい人間ではないよな、と捉えていた。
意識して優しい人間でいるものでもないよな、とも思っていたから、自分の優しさについてあまり頭をよぎらせることをしてこなかった。
今までに出会ったひとのなかに、大事な存在に、優しすぎるひとがいる。
そのひとは、誰にでも優しく在るが故に、優しさが厄となってしまうひとでもあった。実際に私はそれで傷ついてしまったことがあるけれど、それでも、嫌いにはなれなくて、時が経てば経つほど、尊敬もしている。
このままの私では、優しさで相手を傷つけてしまうことを悩むほどの立派な人間にはなれないだろう。できれば誰のことも傷つけたくないという気持ちは前提にありつつも、その前に、"それなりの優しさ"は、まず持っていられるひとになりたい。
私は言葉をたくさん吐くわりには、こころがそら豆サイズで、ちいさくて、ふっくらしていない。からだはでかいのにね。こころを柔軟に練って、生地を広げて、美味しいパンみたいになりたい。
今はパンがマイブーム。あのやわらかい食感みたいになりたい。見た目もかわいい。だから可愛くもなりたい。パンになりたい。木更津のカステットというパン屋さんのプレーンドーナツになりたい。(ドーナツもパンだよね。)
とにかく食感に感動したあのドーナツを思えば思うほどに、あの甘さとやわらかさと、美味しさと、それを総じた"やさしいパン"に私もなりたいと思う。
だからせめて、全人類とは言わずとも、あのドーナツを好きだと思うひとびとには、私のことを人として認識したときに、悪い人間ではないと感じてもらえるひとになりたい。
そしてそれは、"やさしい人間だと感じてもらえるようになりたい"とは違うもの。それを目標にしてしまうと、やさしさがつくりものになってしまう。
例えつくりものでも、やさしくないよりは良いかもしれないけれど、私が思う"優しいひとになりたい"とは、他人にどう捉えられるか以前の、"できるだけ自分自身をやわらかく扱いたい、そうすることで、ひとに自然と優しくなれる人間になりたい"という意味である。パンになりたい。
その先で、もっと多くの言葉を振りまくひとになりたい。綺麗でなくてもいい、芸術としての汚さは削りたくない。純粋に、もっと自由になるために、自由を愛されるために、優しいひとになりたい。パンになりたい。
嫌いなひとのことまでを好きになることはできない。誰にでも絶対に平等に優しくすることまではまだ描けない。仏になることまでは望めない。そういう人間らしさは、人間らしさとして許されたい。
でも、部分部分でちゃんとに優しくなりたい。
そう思えるようになってからのここ数日は、何かするたびに、何か思うたびに、ひっそりと「これはちょっと優しくないな」「もっとこんなふうに考えたいな」と、見つめ直せるようになった。歪みを整えるような感じ。自我を失わずに、整えるような感じ。これが、きっと今の私にとっては大切で、必要なことだと思った。
意識をせずに、さらには、優しくできなかった自分のことを責めすぎずに、今よりちゃんとに優しいひとになりたい。
一度そういう決意のようなものをこころのなかで掲げてみたら、自分のなかに良い空気が流れた気がする。薄い殻をひとつ剥けたような感覚がある。
「優しいひとを目指しながら頑張って生きてみる」と優しいひとに伝えてみた。
「優しさはいいことばかりじゃないけど、悪いことばかりでもないし、優しくなればいいことが増えるかも」と言ってくれた。
その返事が軸となって、生きられそうだなと思えた。ありがとうね〜。
頑張るぞと宣言することはなんだかちがう気がするけれど、優しくなれるはずのきっかけにできるだけ気づきながら生きていたい。
優しく生きていたいです。
いますぐにカステットのパンが食べたいな。
私、生きていたいらしいよ!素晴らしいな。
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