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#136 なぜ体罰が起こるのかを事例を用いて仮説を立ててみる

部活動での体罰


部活動(だけではないけれど)と体罰の関係には根強いものがあります。
昨今では、「体罰はだめだ」と言われていますが、それでも道半ばと言ったところでしょうか。

女子バレーボールの強豪、東京都市大塩尻高校(長野県塩尻市)の女子バレーボール部長(教諭)が、指導の一環として同部所属選手9人の前髪を切っていたことが27日までに同校などへの取材で分かった。

そもそもなぜ教師は体罰をしてしまうのでしょうか。今回の事例を私なりに分析したいと思います。

前提として

 今回は部長が指示をしたとニュースでは書かれていますが、顧問と部長の関係性も気になるところです。仮に顧問と部長に非常に強い上下関係(顧問>部長)があり、顧問の指導の忖度として部長が髪の毛を切っていたのなら、顧問の意を汲んだ部長が実働部隊として機能したことになります。 
 普段の部活運営がどのような形で行われてかは現時点では定かではないですが、顧問の男性教諭は「指導力で有名な顧問」だったようですから、部長が独断と偏見で、部員に髪の毛を切ることを強要することは可能性としては低いように感じます。
 そのため、今回は前述した顧問と部長に上下関係があり、顧問の思想を部長が体現したと仮定し、体罰を容認する顧問の思想の分析を行いたいと思います(この家庭が異なっていた場合、新たな分析が必要になることは断っておきたいと思います)

体罰に対する成功体験

 顧問自身が「体罰」に対しての感覚が甘いことが挙げられると思います。体罰はだめだという思想が世間の表に出てきたのはせいぜい20年。少し前までは(それが良いかどうかは別として)体罰は当たり前のように存在し、また社会的にも容認される風潮がありました。当時の学園ドラマや漫画を見てみると、それはわかりやすいでしょう。
 今回問題となった顧問は1968年生まれ。学生時代は1980年〜1990年です。おそらく「体罰」と非常に近い距離で学生時代を過ごしたと言えるでしょう。そんな環境の中、体罰による肯定的な部分(もちろん今ではありえません)を体感していると言えます。俗にいう「スポ根」と呼ばれる概念ですね。人は自身の成功体験を元に人生を歩みます。彼の中での体罰(あるいはそれに準ずる指導)が「肯定的な体験」として埋め込まれているなら、例え時流がその考えを否定しようとも、そこに順応するのは難しい側面があります(人は変化するのは難しいから)。

権威、評価、そして給料

 部活動の「結果」が彼の権威、評価、給料、しいては存在意義に直結するというという側面があったのではないかと思います。顧問の勤務校は私立学校であり、企業体の側面を捨てることはできません。受験料、入学金、授業料を生徒に払ってもらうことで、学校経営は成り立ちます。生徒を集めるためには、その学校に入学する利点を受験生やその保護者に理解してもらう必要があるでしょう。大学の合格実績や部活動の成績などは、その学校の魅力として分かりやすく機能します。
 顧問としては、成績を残し、その部活に多くの希望者が学校を受験すれば、学校経営に多くの功績を残すことになります。そうなれば法人の中での立場や発言力も強くなるでしょう。管理職への栄転やその結果として自身の経済力アップに繋がる可能性も高くなります。強豪校の監督となれば、他の学校からも一目置かれるようになり、講演会などの依頼も増えるかもしれません。書籍を出して有名になり、売れることもあるでしょう。

プレッシャーと思想の強要

 逆に言えば結果を出さなければ、当然、180°違う結末が待っています。そういう意味では、顧問はある意味相当のプレッシャーの中で戦っています。いつしか、そのプレッシャーは「児童・生徒のために」ではなく「自分のために」という概念に変わっていってしまうでしょう。勝たなければならないというプレッシャーは、相手への攻撃性に繋がります。(自分のために)相手に求めることが徐々に増えていき、そうあれない生徒に対する苛立ちや怒りが増幅していくでしょう。
 その苛立ちや怒りに、彼の学生時代の体験とそれに付随した価値観が交わっていき、「部活動はこうあるべきだ」という自身の思想を相手に強要することになります。今回の髪の毛を切る事例も、顧問自身の部活動に望むべき価値観が、自分の求めるレベルに達していない生徒への(独りよがりな)苛立ちと繋がった結果のような気がします(野球部は坊主でなくてはならないという主観とさほど変わりません)

体罰をなくすために必要なこと

体罰を防ぐには様々な対策を講じる必要があります。体罰が起こる原因は思想や社会システムが絡み合い複雑であるからです。ただ、その中でも私が体罰を防ぐ上で特に大切だと思うことを3つ紹介したいと思います(もちろん他にもありますが、今回は3つでご勘弁を)

1. 体罰がいかに児童・生徒の成長に対して悪影響を与えるかについて正しい知識を持つこと
私たちは知識を持つことで、根拠のない古い悪習を捨てることができます。始皇帝は長寿を求めて水銀を飲んでいましたし、瀉血は18世紀になるまで当然の治療法とされていました。科学が進歩し、正しい知識を身につけることでより良い対応策を考えることができるのです。体罰がいかに人間の成長に対して悪影響を与えるかに関する理論的知識を学ぶ必要があります。

2. 学校教育は決して、「教員や学校のため」に存在するのではなく、「児童・生徒のため」に存在することを社会が理解すること
学校教育における主役は必ず児童・生徒であり、学校で行われるいかなる活動も、その主体は彼らです。部活動における「勝ちたい」という気持ちは顧問自身が持つものではなく、部活に所属する自身の中から生まれるべきものです。学校側が教員に対して勝つことを求めること自体が歪な形であることを社会が理解する必要があります。

3. 教員自身の体験はあくまで主観であることを理解すること
人は生きていく中で様々な経験をし、自己の価値観を形成していきます。教員自身が大切にしている価値観が、児童・生徒の未来を切り開くために必要だと思った時、それを伝えることは大切です。一方、それはあくまで「個人的な」体験であり価値観であることを認識する必要があるでしょう。私たちは一人ひとりが違う存在であり、価値観も十人十色です。相手の価値観に反する思想や行動を強制する権利など、誰も持ち合わせていません。圧力によって他者を従わせることなどできるはずがないのです。

追伸

この原稿はは昨日の午前中に書いたものですが、夕方にも別のニュースで体罰のニュースが流れてきました。
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230428/2000073339.html

「体罰」を行った教員は、自分が行った事柄に対する責任を追う必要があります。しかし、起こるたびに都度、懲戒を与えるだけでは対策が後手後手にまわってしまいます。社会全体として取り組まなければならない課題であるという認識を一人ひとりが持つ必要があるのです。

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