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名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第1回:『機動戦士ガンダム』

(2023年7月11日追記:過去に執筆した文章を読み返し、一部の表現に反省すべき箇所があったと判断したため、本文に修正を加えました。)

企画の趣旨について

 私は「ロボットアニメ」というジャンルに強い苦手意識、いや忌避感を持っていた。
 理由は大きく分けて二つある。第一に、戦後日本におけるTVアニメの開闢以来、「ロボットアニメ」の歴史は分厚く積み重なっており、近寄りがたいジャンル(要は「一見さんお断り」)に思えたことが挙げられる。高校や大学の先輩方にも「ロボットアニメ」に造詣の深い方は少なくなかったが、彼らが推薦する作品はどれも、2009年の大学入学時点で少なくとも10年以上前のアニメばかりで(例えば『マクロス7』など)、青年期の私には「懐古厨」的な(もっと言葉を悪くすれば「老害」的な)仕草に映った。加えて、細かな知識の量と正確さを競い合うような彼らのコミュニケーションに怖気づいた。彼らの仲間になってやろうという闘争心が湧き上がることはなく、衝突を避けるために「ロボットアニメ」そのものに背を向けた。無知の状態に居直れば、一方的に殴られる被害者で居続けられるからである。
 第二に、「ロボットアニメ」が自分に必要なジャンルとは思えなかったという慢心も挙げられる。私は小学生のころ、『コミックボンボン』の読者だったが(『サイボーグクロちゃん』や『ウルトラ忍法帖』シリーズが好きで単行本も揃えていた)、当時連載していた『∀ガンダム』(ときた洸一画)にはキャラクターの見た目ゆえに食指が動かず、話の中身も小難しそうだったため、今風に言えば「スルー」した。ほぼ同時期に放送されていたTVアニメ『ゾイド -ZOIDS-』(1999年~2000年)にもデザインに特段興味が湧かず、見るのをやめた。こうした選択は子供時代には好き嫌いとして正当化できるかもしれないが、その後も私は「特にロボットアニメを見ていなくても日常生活で困ることはない」という狭い認識にあぐらをかき続けてしまった。
 最近noteで読んで感銘を受けた読書エッセイに、次のような一節がある。

何かの本を読もうとするとき、確かにある程度の基礎知識を身につけてから読みはじめる姿勢は賢明である。ただ「勉強不足」は言い出したらキリがないもので、結局、最初に読みたいと思っていた本を読む前に疲れはてて、読まずじまいになってしまうことがあるのだ。……「本を読む際は、あまり潔癖にならない方がいい」というのが、私の拙い読書体験から得た教訓である。

 アニメについても同様に、「あまり潔癖にならない方がいい」のだろう。いま思えば、歴史が分厚く積み重なっているのは「ロボットアニメ」というジャンルに限ったことではなく、「ロボットアニメ」でなければ「一見さん」でも構わないという姿勢は幼稚な全能感のあらわれでしかない。大学生のころ、アニメ研の先輩から「お前は潔癖すぎる」と言われたことの意味が、30代に入ってようやく理解できるようになった。最近流行りの『鬼滅の刃』のセリフを借りれば「判断が遅い」と言わざるを得ないだろうが、つねに現時点がもっとも手遅れでないこともまた事実である。「アニメという山の形」(藤津亮太)を少しでもくっきりと捉えられるように成長したい。そんな思いが、先輩方との対話を経て、昨年9月ごろから膨らみ始めた。

 そこで、まずは「ロボットアニメ」を忌避してきた頑迷な自分の殻を破るために、現代まで続く一大シリーズの元祖となった『機動戦士ガンダム』(1979~1980年)を虚心坦懐に見てみることにした。私はこれまでガンダムシリーズをただの一本も見たことがなく、キャラクターやモビルスーツの名称はおろか、世界観の概要すら知らない状態であった。友人のガンダムファンP氏曰く、ガンダムシリーズに対する聞きかじりの知識すら持っていない人間はむしろ珍しいため、視聴後の所感を記録しておくことにはサンプルとしての意義があるとのことで、恥を忍んで本稿を書くことにした。
 なお、本文に入る前に一点だけ附記するが、ある種の子供向けジャンルでもあった「ロボットアニメ」の代わりとして私のバックボーンを形成したのは、小学校高学年の砌から見始めた円谷プロ制作の昭和ウルトラシリーズだった。きっかけは日本映画好きの父親がCS放送の「ファミリー劇場」で『ウルトラQ』をたまたまビデオ録画していたことだった。私は『ウルトラQ』の映像と物語に強く惹きつけられ、数年をかけて『ウルトラQ』から『ウルトラマンレオ』までの322話(『ウルトラセブン』第12話「遊星より愛をこめて」は欠番で見られなかった)を順番に見ていくことになる。その過程で『マイティジャック』、『戦え!マイティジャック』、『怪奇大作戦』も一通り視聴した(『恐怖劇場アンバランス』は未視聴)。本文中に昭和ウルトラシリーズの話題が登場するのは、上記の事情による。

TVアニメ『機動戦士ガンダム』について

1. 総評

 『機動戦士ガンダム』を全編通して視聴して率直に思ったのは、本作が骨太の架空戦記ものであることは確かだが、そう言ってしまうと大いに語弊があるということだ。本作は主人公たちが各地を転戦する物語として始動するが、第37話「テキサスの攻防」の終盤から「ニュータイプ」なる概念が前景化してまったく別のアニメに変貌し、第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」以降再び戦記ものに戻って、クライマックスを迎える。この変なアニメを未視聴者に対して端的に説明するのは難しく、ガンダムというIPがある種の面倒臭さを帯びることは「ファーストガンダム」の時点で予告されていたようにも思える(「ニュータイプ」概念とその描写については後述する)。
 本作の世界観は第1話「ガンダム大地に立つ!!」の冒頭から、ナレーションによって簡潔に示される。

人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、すでに半世紀が過ぎていた。地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった。宇宙世紀0079、地球から最も遠い宇宙都市・サイド3は「ジオン公国」を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この一ヶ月あまりの戦いで、ジオン公国と連邦軍は総人口の半分を死に至らしめた。人々は自らの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に入り、八ヶ月あまりが過ぎた。

 一聴しただけでは何を言っているのか理解できないが、各話の冒頭で同様のナレーションが繰り返され、一定の世界観に沿って劇中の会話や戦闘が進行するため、視聴者は画面を見続けることでいつの間にか世界観を体得している状態になる。この点は長編TVアニメとして本当によくできた作りだと思う。意味不明な新出単語を文章全体の文脈から推測するような営みだが、視聴者がこれに順応できれば、「結論を急がずに見ていればやがてわかるはずだ」という本作への信頼が右肩上がりに増進し、次へ次へと引っ張られるように最終回へと導かれる。
 全体の構成も美しい。宇宙戦艦ホワイトベースはジオンの強襲を受けたサイド7を脱出して地球を目指すが(第1話~第5話)、シャアの策略により当初の目的地(南米の連邦軍本部ジャブロー)を外れ、地球上のジオン勢力圏内に誘い込まれてしまう(第6話~第12話)。ホワイトベースは地球上を西進しながらジオンとの交戦を重ね、中央アジア、ヨーロッパ、そして大西洋をこえてようやくジャブローに到達する。その過程で敵将・味方・スパイが散っていく様子が描かれる(第13話~第30話)。ホワイトベースはジャブローから再び宇宙へ出撃し、ジオンとの最終決戦に挑む(第31話~第43話)。本作は宇宙空間と地球を往来しつつも、全体として見るとスタート地点とゴール地点が一致しない「一筆書き」のロードムービーとして成立しており、旅程で次々に新たな敵および新型モビルスーツ/モビルアーマーが登場しては散華していくため、最後まで視聴者を飽きさせない(『ジョジョの奇妙な冒険』第3部に近い、ある種のわかりやすい冒険譚と言うと少しニュアンスが異なるかもしれないが)。
 とはいえ、本作の「男らしさ」をめぐる規範はさすがに古臭く、1979年放送開始のTVアニメであることを認識させられる。エンディングテーマ「永遠にアムロ」の「男は涙を 見せぬもの 見せぬもの」という歌詞や本作における「軟弱者」という言葉の使い方ひとつとっても、「男らしさ」の強調はエヴァーグリーンな価値観とは言えず、40余年後の現在において註釈を付すことは避けられないだろう。興味深かったのは、本作の主人公・アムロが突然戦争に巻き込まれ、人殺しの兵器を操縦するパイロットとしてのプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、ガンダムを降りる選択をとらなかったことだ。15~16歳の少年であるアムロは厳しい軍規や体罰に当然反発するし、自分が一番ガンダムをうまく扱えるのだといううぬぼれを亢進させていき、一時的にホワイトベースからガンダムを駆って脱走したりもする。しかし、アムロは不平不満を言いつつも最終的にはガンダムに乗り込むのであって、それがかえって新鮮に思えた。このとき、私は『新世紀エヴァンゲリオン』に思考が汚染されているのを強く意識した(P氏は「ガンダムはセカイ系じゃないんですよ」と説明してくれた)。

2. 宇宙戦争の功罪

 『機動戦士ガンダム』の戦争描写については、昨年刊行された書籍と雑誌を踏まえて所感を述べることにする。アニメ評論家の藤津亮太は、近著の『アニメと戦争』(日本評論社、2021年)のなかで、『機動戦士ガンダム』と『宇宙戦艦ヤマト』を対比しながら、前者における戦争描写の第二次世界大戦との「繋がり」と「断絶」について整理を行っている。藤津は『機動戦士ガンダム』が「地球人類の国家同士」による戦争を描く一方で、その戦争を西暦から直結しない「宇宙世紀」における「未来戦争」と位置づけることで、「過去の戦争」である第二次世界大戦との「断絶」を意識させる作りをしていると指摘する。

 『ガンダム』で描かれた「戦争」の特徴は、現実に起きた戦争との「繋がり」と「断絶」が絶妙に共存しているところにある。
 現実の戦争との「繋がり」を感じさせる一番のポイントは、描かれる戦争が「地球人類の国家同士によるもの」という点である。
 それまでも敵や敵組織が人間という作品は存在した。例えば『鉄人28号』で主人公の正太郎少年が対峙するのは犯罪集団が中心だし、『マジンガーZ』の敵は、Dr. ヘルという悪の天才科学者を中心とした秘密結社だった。しかし国家対国家の戦いを描く作品となると、異星人など人間ではない侵略者が中心だった。『ヤマト』も異星人の侵略者との戦争を描いた作品だった。

(藤津亮太『アニメと戦争』日本評論社、2021年、106-107頁)

 一方で『ガンダム』は、これまでの歴史上の戦争と一線を画す部分も備えている。むしろこちらの「断絶」のほうが『ガンダム』における戦争描写では重要だ。どうして断絶が生じるかといえば、『ガンダム』で描かれているものが「未来戦争」だからだ。

(同書111頁)

過去の作品〔注:『サイボーグ009』や『宇宙戦艦ヤマト』〕では「過去の戦争」の悲劇と「未来戦争」の回避が結び付けられているのに対し、『ガンダム』は、一ヵ所をのぞいて第二次世界大戦への言及がない。

(同書112頁)

 もうひとつ「断絶」を強く感じさせる要素として無視できないのが「宇宙世紀」の採用だ。これにより『ガンダム』の世界で描かれるのは、我々の歴史=西暦から直結しない「未来世界」の物語であるという部分が強調されている。

(同書113頁)

 シリーズ終盤〔注:第40話「エルメスのララァ」〕、地球連邦と戦うジオン公国のデギン・ソド・ザビ公王が、息子でジオン公国総帥のギレン・ザビを評するシーンだ。デギンは、優生思想・選民思想を語るギレンに対し「貴公はヒットラーの尻尾だな」と評するのだ。これに対して、ギレンは、思い出すような言い回しで「ヒットラー? 中世期の人物ですな」と返す〔注:実際にはデギンが「貴公、知っておるか、アドルフ・ヒットラーを」と語り出した直後に、ギレンは「ヒットラー? 中世期の人物ですな」と返答している〕
 ここでギレンが言う「中世期」がどのような時期を指すかは不明だ。だが、大事なのは、ギレンが思い出すような芝居をしていることからもわかるように、宇宙世紀に住む人々にとって、西暦とはそれぐらい遠い時代の話なのである。そのためヒトラーへの言及は歴史の連続性(繋がり)を感じさせつつも、直結させるのではなく、むしろ「断絶」を意識させるという、絶妙の距離感で扱われている。

(同書114頁)

 藤津は続けて、『機動戦士ガンダム』を敗戦国の日本が手に入れた「良心の傷まない戦争ごっこ」のための「箱庭」と評する。第二次世界大戦から「断絶」した世界観での架空戦記ものであれば、娯楽として消費することに後ろめたさは伴わないというわけだ。

 『ガンダム』が描いたのは、「確立された世界観」のなかで「量産化された歩兵ロボット」が戦い合う「コスモポリタンによる未来戦争」だった。人類同士の戦争という一点でリアリティを確保しながらも、現実の戦争とは距離をとった『ガンダム』は、その結果として、「良心の傷まない戦争ごっこ」の舞台=箱庭としてとても大きな役割を果たすことになった。

(同書117頁)

SF戦記ものとして制作された『ヤマト』は、しかしその名前ゆえに、どうしてもアジア・太平洋戦争を想起せざるを得なかった。そこには一抹の後ろめたさがつきまとう。
 しかし『ガンダム』は、日本人が体験したアジア・太平洋戦争から完全に断絶した世界観である。そこでは戦争がいくら起こっても、現実の戦争と一定の距離感が保たれているから、エンターテインメントとして消費をしても後ろめたさを感じることはない。ファンは安心して、兵器、個人、あるいは人間関係といった「部分」を楽しむことができるのである。そういう意味で、『ガンダム』は、敗戦国である日本がようやく手に入れた、誰も傷つかない「戦争ごっこ」のための箱庭だったのである。この「箱庭」のファンに対する訴求力は強く、『ガンダム』は「SF戦記もの」としてシリーズを展開していくことになる。

(同書118-119頁)

 これに対して、軍事ライターの小高正稔は雑誌『グレートメカニックG』の考察記事において、『機動戦士ガンダム』における戦争は第二次世界大戦、特に太平洋戦争を参考に描写されていると見ている(もちろん、小高も本作が第二次世界大戦の史実をなぞっているとまでは主張していない)。

「一年戦争」は「未来」の戦争ではあるが、未来の社会をドラマの背景として描くことは難しい。その時代の常識である技術や社会規範を我々は知らないからだ。このため、架空の未来の戦争は近過去の戦争を参考に描写されることになる。

(小高正稔「『戦争』を通じて考える『ガンダムにおけるリアル』」
『グレートメカニックG 2021 WINTER』双葉社、2021年、41頁)

一年戦争の参考となったであろう戦争のイメージは、おそらく第二次世界大戦、あるいはその一局面としての太平洋戦争だろう(日本人は忘れがちだが、太平洋戦争は第二次世界大戦の「Pacific Theater」として認識されるべき戦争だ)。
 1970年代末に放送された『機動戦士ガンダム』は、1945年の太平洋戦争敗戦から35年ほどの時間しか経っていない。40代以上の制作スタッフには戦中、戦後の記憶があり、30代以下の若手スタッフも父親世代の出来事として相応に具体的なイメージを持っていたはずである。……実際、富野由悠季監督の父親は、戦時中に技術者として航空機用の与圧服の研究に従事している。戦争は過去のものではあったが、「歴史」というにはまだ、身近にありすぎた時代なのである。『機動戦士ガンダム』における「リアル」は、一見しもっともらしい「ロボット」の兵器的描写や現実の軍隊の装備体系を思わせるメカニズムの羅列ではなく、その当時の日本人の共有する「戦争の記憶」に根ざしたリアリズムによるのである。

(同論攷41頁)

 しかし、これは『機動戦士ガンダム』が、第二次世界大戦の史実をなぞっているか、といえばそうではないだろう。

(同論攷42頁)

 小高は、地球連邦軍・ジオン双方のキャラクター造形が日本人にとっての「リアル」な人間の姿をしていることに注目し、『機動戦士ガンダム』における一年戦争を「日本人対日本人」の戦争と整理している。

『機動戦士ガンダム』劇中で描かれる、近代以前の戦士、武人然とした将兵の姿は、当時の文芸作品や映像作品に描かれる日本人の姿としての「日本軍」や、「軍人」の姿なのである。

(同論攷42頁)

 地球連邦軍は、ある程度体制的、官僚的に描かれつつも「ホワイトベース」という「学校のクラス」的に描かれることで視聴者である「我々」と地続きの「日本人」的組織であることを担保されている(実際にはアムロを中心とした疑似家族的集団しか描かれないためにそう見える)。
 これに対して、本来であれば地球連邦軍=視聴者・日本人とは異質な面も持つ異なる人間集団・近代的組織として描かれるべきジオン軍人とジオン公国軍は、軍の本来の統制や秩序からはみ出した人々を場面の中心に据えることで、ザビ家内での権力闘争という「リアル」と並行して、日本人の感覚としての「リアル」な(=見慣れた)戦争の中に置かれた人間の姿を描いている。
 劇中のジオン軍人たちがしばしば見せる浪花節、「お母さん」と叫びながら散る学徒兵の悲劇は、日本人が文芸作品や映像作品で繰り返し描いてきた「戦争」のイメージをなぞるものである。……「日本人対日本人」というのが、『機動戦士ガンダム』の描いた「戦争像」なのだろう。

(同論攷42頁)

 小高は、『機動戦士ガンダム』という架空戦記ものを、結果的には日本人の「民族の神話」が反映されたものと評価している。藤津の指摘する「断絶」があったとしても、いわば「過ぎ去ろうとしない過去」として第二次世界大戦は透けて見えるという主張だろう。

 「宇宙世紀」という架空の歴史を描きながら、『機動戦士ガンダム』が日本人の歴史、日本人の戦争を描いている(描いてしまっている)のは、半ば意図的でもあり、半ば無意識でもあるのだろう。当時の製作スタッフにとって描くべき価値のある「戦争」はそれしかなかったであろうからだ。「愚かな戦争」であり、「悲惨な戦争」である一方で、アメリカという巨大な存在に対して戦った日本人の健気さ、切なさというアンビバレントな感情が太平洋戦争とそれに続く時代を生きた日本人の心情には通底しているのだろう。

(同論攷43頁)

 『宇宙戦艦ヤマト』は勝利する日本を描く物語であるのに対して、『機動戦士ガンダム』では敗北する日本としてジオン公国は描かれている。それは真逆なもののように見えるが、主人公の陣営にも対立する陣営にも日本人的なメンタリティを持つ人々が配置されていることを思えば、その根底には共通する部分があるのだろう。それはおそらく、日本人が「あの戦争」をどのように受け止め、消化してゆくのかという問題でもあった。

(同論攷43頁)

 とはいえ、私としては、『機動戦士ガンダム』が「戦争ごっこ」のための「箱庭」であることは否めないと思う。モビルスーツが爆発するときのバリバリいう雷鳴のような音は聴覚の快楽を呼び覚ますし、第1話でシェルターを飛び出したアムロが巨大なザクと対峙するときの構図(手前にアムロ、奥にザク)は、昭和ウルトラシリーズで見慣れていた合成映像のアニメ版という感じがして、親しみすら覚えた。そこには藤津の言うとおり、「後ろめたさ」は微塵もなかった。しかし、所詮は「箱庭」だから快楽に奉仕するものにすぎないと言い切るのも早計だろう。三年前、私が人形浄瑠璃文楽を本格的に見始めたときに購入した『マンガでわかる文楽』(誠文堂新光社、2019年)のなかで、イヤホンガイド解説者の佳山泉は文楽の悲劇的な展開について「ひとしきり胸打たれた後ふと人間世界に戻る瞬間/夢見てたような不思議な感覚になるんよ」と述べているが、『機動戦士ガンダム』の視聴感はこの感覚にも近い。第1話でドライに(つまり過剰なドラマなく)民間人が死んでいくときの、そして全編通して兵士たちが一人また一人と討ち死にしていくときの、何とも言えない息苦しさ。人形芝居に感情移入して落涙するのが馬鹿らしいのと同程度に、TVアニメで息が詰まる思いをするのは愚かである。冷静に考えればそうだ。しかし、人形芝居で舞台の幕が閉じ、TVアニメの本編が次回予告とエンディングテーマによって遮られるとき、いままで覚えていた甘美な感傷がふっと冷めてしまうとしたらどうだろうか。虚構と現実を往来する文楽を鑑賞しているときに近い感覚に襲われたとき、私は『機動戦士ガンダム』に対する畏敬の念を抱かざるをえなかった。

3. 奇っ怪な「ニュータイプ」描写

 先程、『機動戦士ガンダム』は第37話の終盤から別のアニメに変貌したと書いた。その理由はもちろん、ララァという謎の女性の登場を経て「ニュータイプ」なる概念が唐突に張り出してきたことである。スペースコロニーという生育環境に適応した人間のなかから、極度に勘が鋭く、鋭敏な認識能力を得た「ニュータイプ」が突然変異的に生まれるという設定は、理屈としてはわかる(なお、「新人類」という言葉が広まったのは1985年ごろのようだ)。ただ、映像表現として、「ニュータイプ」に関する描写はギャグにしか思えなかった。「ニュータイプ光線」(小黒祐一郎)による交信はまだ許容範囲に含まれるが、サイケデリックな背景で展開するアムロとララァの対話(というか念話)には、どうしても笑いを禁じえなかった(『帰ってきたウルトラマン』のオープニング映像をさらに華美にしたみたいだと思った)。ララァの瞳に虹彩がないのも「ニュータイプ」に関する描写の妖しさに拍車をかけていた。
 サブカルチャーに明るい先輩のQ氏(1980年生まれ)の証言によると、少なくとも80年代までは「ニュータイプ」という概念は真面目に受け取られていたという。東西冷戦の終結が見通せないなか、終末思想やニューエイジ思想が幅を利かせていた時代において、敵味方を問わずテレパシーでわかりあえる少年少女が登場する展開は、スタンダードな希望の表現だったというのだ。調べてみると確かに、五島勉『ノストラダムスの大予言』が祥伝社から刊行されたのが1973年であり、『機動戦士ガンダム』が放送されていた1979年~1980年は米ソデタントが崩壊しつつある局面でもあった(ソ連のアフガニスタンへの軍事介入が1979年12月)。そのような先行き不安だが、決定的な破局も迎えていなかった(ある意味幸福な)時代においては、究極的には人間同士はわかりあえるはずだという希望が称揚されており、それゆえに「ニュータイプ」に関するサイケデリックな描写も当時は違和感を持たれなかったのだろう。
 しかし、冷戦下のガンダムという前提知識を踏まえても、第43話(最終回)「脱出」における「アムロ・ナビ」とでも言うべき描写は奇っ怪である。「ニュータイプ」同士が念話で通じ合える(つまり受信できる)だけならまだしも、「ニュータイプ」でない人間に対しても思念(脱出ルート)を一方的に送信できるというのはやりすぎに思えた。もちろん、ホワイトベースの年若きクルーたち(カツ・レツ・キッカの三人も含む)が「ニュータイプ」の素質を持っていたからこそ、アムロの思念を受信できたのだと解釈する余地もあるだろう。だが、人間同士はわかりあえるはずだという希望を自明のものと受け取りにくくなった現代において、まっすぐに「ニュータイプ」の可能性を信じることは、私にはできなかった。
 ただ、ガンダムとジオングの双方が大破し、アムロがジェットパックでシャアを追いかけ、アムロとシャアが生身での一騎討ちで引き分けて(第42話終了後の次回予告で「すでに戦争ではない」と評されたのも見事)、アムロたちが崩壊する要塞から脱出するという一連の流れは、『クラッシュ・バンディクー2』のコルテックス戦や『メトロイド』シリーズの脱出ミッションを思わせるワクワク感に満ちていたのも事実である。『機動戦士ガンダム』が全編通してトンチキなアニメだったと総括できるはずはない。この絶妙なバランスこそ、本作が「名作」として語り継がれる一因なのだろう。

4. キャラクターとモビルスーツの魅力

 『機動戦士ガンダム』という「箱庭」のなかで躍動するキャラクターの魅力について、網羅的に語るのは至難の業だ。だから、個人的に思い入れのあるキャラクターを二人挙げるにとどめる。最も惹かれたキャラクターはハモン(とその対としてのランバ・ラル)、次点でリュウ。特に相討ちになる二人を意識して選んだわけではない。ハモンについては、自分が部下たちを率いるランバ・ラルになって彼女と愛を育みたいという憧れと、自分がアムロになって彼女から「坊や」と呼ばれたいという欲望が伯仲して、前後不覚に陥りそうになる。リュウについては、『ウルトラマンAエース』の今野隊員(山本正明)を彷彿とさせる「いいやつ」ポジションでかなり好きだっただけに、特攻で爆散したのは結構ショックだった。ホワイトベースのメインクルーで落命するのはリュウだけであり、その唯一無二感が抜けない棘のように私の心を苛むのだ。
 モビルスーツのデザインとしては、第37話に登場するギャンが断トツで好みである。甲冑騎士を思わせるスマートなデザインが文句なしにカッコイイのはもちろん、これが陰険で神経質そうなマ・クベの専用モビルスーツであるという事実がさらに気分を盛り上げる。嫌味な骨董マニアが確かな審美眼を持っていたことにモビルスーツのデザインで説得力を持たせるとは、脱帽せざるをえない。機会があれば、ギャンの色分け済みプラモデルを作ってみたいものだ(昨今、ガンプラ全般が在庫僅少のようだが……)。

劇場版三部作について

 『機動戦士ガンダム』TV版全43話を見た後に、劇場版三部作『機動戦士ガンダム』(1981年)『機動戦士ガンダムII 哀 戦士編』(1981年)『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙そら編』(1982年)も一通り見たが、いずれも楽しめなかった。正確には「あんなに面白かったTVアニメがこれほどつまらなく感じるのはなぜ?」という落胆がとにかく大きかった。「アニメ新世紀宣言大会」(1981年2月22日)にリアルタイムで参加できた世代にとっては、「自分たちの応援によって、ガンダムを映画館で見られる立派な作品に成長させた」という喜びがあったのかもしれない。しかし、そうした思い出補正を取り除いて、単純に映像作品として劇場版三部作を見たときには、ダイジェスト版なのに冗長で、物語としても不整合なつぎはぎになっている微妙な出来と言うほかない。
 確かに、劇場版三部作において、絵のクオリティや照度は上がっており、新規カットもふんだんに見られるため、視覚的にまったく楽しめないわけではない。また、第二部『哀 戦士編』で顕著だが、初見の視聴者に対する配慮なのか、ナレーションもわかりやすくなっている(ミノフスキー粒子の説明も丁寧になされる)。しかし、劇場版三部作は全体としてナレーション頼みとなっており、絵とセリフでじんわりと世界観を理解させるTV版と比べて、説明臭い作品という印象を与えることは否めない。さらに、TV版では全43話中の第37話(!)終盤になって急に前景化する「ニュータイプ」概念が、劇場版では序盤(第一部、マチルダの二回目の登場シーン)から所与のものとして位置づけ直されており、この点はどうしても違和感を拭い去れない。第二部『哀 戦士編』でアムロやセイラが「ニュータイプ」という言葉を自分から言うのは歴史修正のように思えたし、ホワイトベースが明示的に「ニュータイプ部隊」として戦闘配備されるのも心情的には納得できなかった。「変なTVアニメが“そういう既定路線”のアニメに化けてしまった」のは切ない。この改変について、アニメスタイル編集長の小黒祐一郎はコラム「アニメ様365日」のなかで「初見時には、歴史が改竄されたような気がした」と述べているが、まったく同感である。

 「ニュータイプ」概念ありきの構成になったこと以外にも、シャアとセイラの関係にフォーカスしすぎであること(捕虜となったコズンはシャアの情報を喋りすぎではないか)、スレッガーの声優が玄田哲章から井上真樹夫に交代したことなど、劇場版三部作にいまひとつ乗り切れない部分は多々あるが、「砂の十字架」「哀 戦士」「めぐりあい」「ビギニング」といった有名な主題歌・挿入歌を知ることができたのは収穫であった(どうでもいいことだが、私の父親はカラオケで「砂の十字架」をたまに歌っていたらしい)。それにとどまらず、劇場版三部作を見たことで、「ファスト視聴」がバズワードになる昨今、約一年ものの長編TVシリーズをじっくり噛んで味わうことの重要性を改めて痛感できたのは、私にとって得難い経験となったと言わなければならない。

結びに代えて

 本稿の結びに代えて、『機動戦士ガンダム』を視聴した効能についても簡単に書き残しておく。最も卑近な効能としては、本作に登場する数々の「名ゼリフ」を知ったことによって、この40余年散々氾濫してきたパロディやネタを一部理解できるようになったことが挙げられる。特に衝撃を受けたのは、「アムロ、行きまーす!」という出撃時のセリフが第21話「激闘は憎しみ深く」にしか出てこないことだ(それまでも「行きまーす!」とは言っている)。原典に当たることの重要性を再認識した次第である。また、富野由悠季監督がもともとは「富野喜幸」という表記だったことも勉強になった。
 そして何より、ガンダムシリーズおよび「ロボットアニメ」に対する心理的距離がぐっと縮まったことを嬉しく思う。何事においても「0から1へ」が一番労力を要する。だからこそ、他人から指摘を受けているうちが華と心得て、提示された改善点にフットワーク軽く取り組んでみることが大切なのだろう。2022年1月19日に齢31歳を迎え、今更そんなことに気付いた30代二年目の新春であった。

 次回更新は2022年3月、主題は『機動戦士Zガンダム』を予定している。

参考文献

小高正稔「『戦争』を通じて考える『ガンダムにおけるリアル』」『グレートメカニックG 2021 WINTER』双葉社、2021年、40-43頁。

藤津亮太『アニメと戦争』日本評論社、2021年。

『マンガでわかる文楽』誠文堂新光社、2019年。

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