「入門書」を下に見る人
新刊書店に並ぶ、無数の「入門書」を見ていると、時折思い出す学部時代の後輩さんがいる。
その後輩さんは、西洋哲学に強い関心をもつ学生で、常に何かしらの哲学書をリュックサックに忍ばせていた。彼とは、教育学系の講義で知り合い、近場のラーメン屋で一緒に麺を啜るほどの仲にまでなった。食事をしながらする会話は、最近読んだ本の話がメインで、彼はいつも西洋哲学書を取り上げていた。
ある日、いつも通りラーメン屋に行き、頼んだセットメニューが来るのを待ちながら会話をしていると、後輩さんが次の一言を口にした。
「最近、哲学を入門書を読んで分かった気になっている人が多いですよね。ぼくは絶対に入門書は読みません」
私は「??」と首を傾げてしまう。と同時に、ざっと後輩さんとの会話を振り返ってみると、たしかに彼が紹介する本のなかに「入門書」がなかったことにも気がついた。岩波文庫の青版や講談社学術文庫に収録されている哲学書が多かったように思う。
「入門書っていっても、色々あると思うんだけど。たとえばどんなもの?」
私は訊ねる。後輩さんはすかさず、
「そうですね。たとえばNHKの100分de名著。番組公式のテキストとかでてるんですけど、それを読んで、原典も読んだつもりになっている人、多いと思いますよ」
「なるほど、なるほど」と頷きつつ、自身の友人で、100分de名著が好き&きちんと原典にも目を通している人物がいたこともあり、「そうはいいきれないと思うよ」と口にした。
「そうですかね? 一冊の哲学書を、数回の番組と薄いテキストで解説できると考えている時点で、たかが知れてますよ」
この言葉を耳にしたとき、私は後輩さんが話してくれた「ある哲学書」の話を思い出した。
以前、二人の間で、読むのを挫折した本が話題になったことがあった。そのとき後輩さんは、カントの哲学に触れたくて岩波文庫版の『純粋理性批判』を手に取ったのだが、色々と勉強不足な点があることに気づいて、読みはじめるのを断念してしまった、と語っていた。そのときから約半年は経過していたので、その後の進展はどうなったのかを訊ねてみることにした。
「そういえば前、カントの『純粋理性批判』を読むのを断念したって言ってたけど、またチャレンジしてみたの?」
「いやまだチャレンジしてないです。まだまだ勉強不足なので、歯が立ちません。カントはまだ自分にははやいのかもしれないです」
この言葉を聞いて、「勿体ないなー」と思ってしまった。せっかくカントの哲学に関心をもてているのに、一度『純粋理性批判』に挫折したことによって、カントの哲学に触れる機会さえも遠のいてしまった。これでは、「0か100か」の「0」になってしまい、カントの入門書を読み、概要だけでも摑んでいる人よりも、カントの哲学を知らない人になってしまう。
「腹をすかせた犬たちが、川の中に毛皮が漬かっているのを見つけたが、そこまで行けないので、まず水を飲み干してから、毛皮に接近しようと申し合わせた。しかし、毛皮にたどり着く前に、飲みすぎて破裂してしまった。」(中務哲郎訳『イソップ寓話集』岩波書店、P116)
上記の引用文は、有名な『イソップ寓話集』(岩波書店)の中の「腹をすかせた犬」という一篇である。
何かの本を読もうとするとき、確かにある程度の基礎知識を身につけてから読みはじめる姿勢は賢明である。ただ「勉強不足」は言い出したらキリがないもので、結局、最初に読みたいと思っていた本を読む前に疲れはてて、読まずじまいになってしまうことがあるのだ。
「腹をすかせた犬」の中でいえば、「川の中の毛皮」が「最初に読みたいと思っていた本」であり、「(川の)水」が「基礎知識を身につけるために読む本」ということになる。
ときには、毛皮(原典)に向かってダイブすることも大切だし、水(入門書)を存分に味わう姿勢もあっていい。
「本を読む際は、あまり潔癖にならない方がいい」というのが、私の拙い読書体験から得た教訓である。
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