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名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第11回:『オシャレ魔女♥ラブandベリー しあわせのまほう』


はじめに

 2024年8月14日(水)、TOKYO MXでアニメ映画『オシャレ魔女♥ラブandベリー しあわせのまほう』(2007年3月21日劇場公開;以下、『しあわせのまほう』と略記)が地上波初放送の機会を得た。本作はセガのキッズカードゲーム「オシャレ魔女♥ラブandベリー」(以下、「ラブベリ」と略記)を原作としたオリジナルストーリーであり、「ラブベリ」に登場する二人のオシャレ魔女、ラブ(CV: 今野宏美)とベリー(CV: 柳井久代)がオシャレ魔法学園に入学するまでの経緯を描いている。今般の地上波初放送は「ラブベリ」のリリース20周年を記念した様々な施策の一端を担うものである(参考に、2024年3月19日にセガから出されたニュースリリースを示す)。

 『しあわせのまほう』が劇場公開された2007年3月当時、私は高校一年生の春休みを過ごしていた。言うまでもなく、私は「ラブベリ」のメインターゲットから外れており、積極的に女の子向けコンテンツを追いかけていたわけでもなかったから、「ラブベリ」の盛り上がりをリアルタイムに感じていたとは言いがたい。せいぜい、フジテレビ系列で放送されていたバラエティ番組「はねるのトびら」の一コーナーであった「オシャレ魔女 アブandチェンジ」というパロディを見ていたくらいである(*1)。

(*1)「オシャレ魔女 アブandチェンジ」に関しては、2007年正月に放送された和田アキ子の出演回がいまだにインターネットで拡散・反芻されており、この回だけは局所的に知っているという人も少なくないだろう。「逆輸入」的な面白さとしては、『しあわせのまほう』にお笑いコンビ・北陽の二人(虻川美穂子・伊藤さおり)が声優として出演していることが挙げられる。なお、本作と同時上映されていた『甲虫王者ムシキング スーパーバトルムービー ~闇の改造甲虫~』ではお笑いコンビ・ドランクドラゴンの二人(鈴木拓・塚地武雅)がゲスト声優とエンディングテーマの歌唱を担当しており、「はねるのトびら」華やかなりし頃の空気をよく伝えている(一般論として、子供向けコンテンツにゲスト出演するお笑い芸人の変遷を整理してみると、そこから何かしら見えてくるものがあるだろうと思う)。

 つまり、私は「ラブベリ」に関しては、当時生きてはいたけれど、生き証人として語れるほどよくは知らないという立場にとどまっており、私にできるのはこれまでと同様、虚心坦懐に作品と向き合うことだけである。ただ、2007年当時の文献からも「ラブベリ」の盛り上がりは窺われるので、「ラブベリ」現象の理解を深める意味も込めて、二点だけ紹介しておこう。第一に、『しあわせのまほう』は『アニメージュ』2007年2月号に掲載された「2007 New Title Special Feature: 2007年はコレを見ろ!」と題された特集記事のなかで取り上げられており、そこでは次のような現状認識が見られる。

セガのゲーム『ムシキング』は男の子とお父さんたちの間で一斉(ママ)を風靡し、その女の子版として作られた『オシャレ魔女』もお母さんたちを巻き込んで大ヒット。ゲームセンターでそれぞれの機械の前に子どもたち(とその親)がたむろする光景はよく見られる。

(『アニメージュ』2007年2月号、2007年、55頁)

 第二に、社会学者の鈴木謙介と電通消費者研究センターの共同研究成果をまとめた新書『わたしたち消費:カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス』(幻冬舎新書、2007年)のなかで、「ラブベリ」は「売れているという実感はないのに、売り上げ数を見るとヒットしている商品」(同書21頁)、すなわち「局所的なヒット商品」(同書22頁)の一例として挙げられている。鈴木は「ラブベリ」を筐体9,000台以上、カード発行枚数は1億8,300万枚にものぼる「驚異的な流行」(同書21頁)とまとめている(*2)。

(*2)ただ、鈴木の記述に事実誤認が散見されることには注意を要する。鈴木は「このゲームには様々な派生商品があるのも特徴」と述べたうえで、「ラブandベリーを主人公にしたアニメが放送され……映画も昨年公開されて、興行収入は五億円に上りました」と書いているが(同書21頁)、「ラブベリ」のTVアニメは存在を確認できず、『しあわせのまほう』の公開日も2007年3月21日なので、当該書籍が発売された2007年から見た「昨年」ではない。こうした校閲の機能不全は当該書籍のデータとしての信憑性を大きく低下させていると言わざるをえない。本稿では、一部の社会学者や広告業界が2007年当時に「ラブベリ」に注目していたという事実を紹介するにとどめる。

 本稿は、こうした同時代の盛り上がりから離れて、私がいま改めて『しあわせのまほう』を虚心坦懐に見たときに感じた本作の魅力を二つの観点――ストーリーと声優――から整理するものである。

見どころ①:「自己決定・自己責任論」の手前で踏みとどまる利他的なストーリー

 本作のダブル主人公であるラブとベリーは、人を幸せにするオシャレ魔女になることを夢見て、オシャレ魔法学園への入学を志す二人の少女だ。ラブとベリーは境遇こそ違えど――ラブはオシャレ魔女と人間の父親のあいだに生まれたハーフであり、ベリーは優秀なオシャレ魔女の家系に属している――、TPO(時・場所・場合)を弁えられず、何度も学園の入学試験に落ちてきたという点で共通していた。そんな「落ちこぼれ」の二人は、学園長のイザベラ(CV: 野沢雅子)から再度チャンスを与えられることになる。学園長は「人間の女の子を一人幸せにする」という課題を達成した暁には二人の入学を認めると宣言し、誰をどのように幸せにするかというところから考えるよう二人に言い渡す。学園長はあわせて、人の美しさの隠し味は笑顔であるというヒントも二人に授ける。二人は学園長の屋敷に住み込みで家事をこなしながら、与えられた課題を達成するために行動を開始する。二人は街角で偶然知り合った歌手志望の少女・ユミ(CV: 矢島晶子)を「幸せにする」ターゲットに選ぶ。自分の見た目や歌に自信を持てないユミを元気づけようと、二人は種々の「オシャレまほうカード」を使ってユミをドレスアップするが、ユミはなかなか笑顔にならない。それもそのはず、たとえ善意から出た行動だったとしても、ラブまたはベリーの趣味を一方的に押しつけ、ユミを着せ替え人形のように扱ってきりきり舞いさせるのは彼女の「幸せ」には程遠い。ユミをうまく元気づけられなかったことを発端に、ラブとベリーは諍いを起こしてすれ違うようになり、ベリーはオシャレ魔女になるという夢を諦める寸前まで追い詰められていく。

 課題に行き詰まった二人は、先人の知恵に活路を見出す。マリア先生(CV: 虻川美穂子)は、「人を幸せにする」というオシャレ魔女の使命を全うするためには、「相手の気持ちになって考える」ことが大切だと助言する(この助言は「TPOを弁える」とパラフレーズすることも可能だろう)。さらに、二人はオシャレ魔法学園に飾られた「伝説のオシャレマスター」(CV: 島本須美)の肖像画から「真の幸せとは、人が自分のなかに輝く宝石を見出して、笑顔でいられること、前を向いて歩いていけること。わかりますか?」という声が響いてくるのを幻視/幻聴する。この言葉を直截に言い換えるなら、次のように整理できるだろう――オシャレ魔女の役目は人間に「輝く宝石」を与えて、人間を「笑顔」へと差し向けることなどではない。なぜなら、一人一人の人間のなかにはすでに「輝く宝石」が内在しており、多くの人間はそのことに気づいていないだけだからである。オシャレ魔女にできることといえば、人間が自分の「宝石」の輝きに気づくお手伝いをすることくらいなのだ、と。ラブとベリーはマリア先生や「伝説のオシャレマスター」の言葉を咀嚼して、ユミが一番元気でいられるのはどんなときだろうかと想像を巡らせ、ユミが離れ離れになってしまった友達からもらったマスコットの衣装を白地のオシャレまほうカードに描いて実体化させることを思いつく。この昔の友達との思い出の結晶がオーディションへ向かうユミの背中を押すことになる。二人のはからいに勇気づけられたユミはステージ上で見事なパフォーマンスを披露し、オーディション合格を勝ち取って歌手デビューを果たす。ユミのオーディション合格を見届けたラブは、「もう、試験の結果はどっちでもいい。ユミの笑顔が見られたから」とベリーに告げる。この利他の境地に達したことにより、ラブとベリーはオシャレ魔法学園への入学を認められることになる。

 そして、自分に内在する「輝く宝石」を自ら掘り当てることが難しいのは、オシャレ魔女自身にとっても同様である。自分にどんな才能があるのか、どんな長所・美点があるのか、自分自身で気づくのは困難を極める。だからこそ、他人の才能や美点に気づいたときは、利他の精神をもって率直に本人にフィードバックしてあげよう――そんなメッセージが本作には透けて見える。ラブが衣装のデザインに長けていることを最初に見出したのはラブの母親だった。ベリーもユミには「あなた自分で気づいてないけど、すごくイケてるんだよ?」、「思い出は、ユミのなかからなくならないでしょ?」と伝えていたけれど、自分がエリートの母親や姉とは違う独自の魅力を持っていることは、ラブから指摘されるまで信じられていなかった。オシャレ魔法学園への入学を果たした二人に、学園長は「いつでも自分を見失わないように生きていきなさい」と訓示を送り、「伝説のオシャレマスター」も「いつも優しさと笑顔を忘れないでください。それこそが、何よりも輝く心の宝石、最高のオシャレなのです。この世に幸せを広げるために、これからも努力を続けていくのですよ」とエールを送った。これらの言葉は一見すると終わりなき自助努力・自己啓発を謳っているように見えるかもしれない。しかし、その裏に自分の「宝石」へと迷わずに邁進するための羅針盤を与えてくれるのは友達や家族であるという前提が隠されていることは見逃せない。

 この隠れた前提について考えるうえで参考になるのが、書評家・文芸評論家の三宅香帆が日本の労働観に関して提唱した所説である。三宅は「社会のことを知っても、自分には関係がない。それよりも自分自身でコントロールできるものに注力したほうがいい」という「市場適合あるいは自己管理の欲望」こそが2000年代以降の思想だと指摘する(三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社新書、2024年、183-184頁)。三宅は2002年に開始された「生きる力」を重視する「ゆとり教育」と2003年に刊行された村上龍のベストセラー『13歳のハローワーク』に注目し、新自由主義のあおりを受けた「競争しなければいけないのに、個性を活かさなければならない」というジレンマを2000年代の特質と見る(同書189頁)。三宅は90年代後半から00年代にかけての「『好きなこと』『やりたいこと』に沿った選択学習、進路形成を推奨する教育」が「『やりたいこと』を仕事にすべきだ」という風潮を生み出したと述べて(同書190-191頁)、次のように結論づける。

90年代のバブル崩壊を経て、2000年代の新自由主義化による労働環境の変化の影響を受けた若者たちは、もはや消費で自己表現することは難しくなった。その結果、労働そのものが「自分探し」の舞台になったのである。

(同書192頁)

 三宅はこうした「自分探し」の発展形として、2010年代半ばのビジネス書の基調をなす「行動重視」傾向と「自己決定・自己責任論」を見出している。より詳細に述べれば、「コントローラブルなものに集中して行動量を増やし、アンコントローラブルなものは見る価値がないから切り捨てる」(同書211頁)、そして「自分の人生のコンパスを自分で決め、努力する」(同書212頁)のが望ましいとする価値観が前景化してくるということだ。

 以上の記述を踏まえて、2007年に公開された『しあわせのまほう』が発するメッセージを検討すると、そこに2000年代から2010年代への飛躍がいま始まらんとする予兆を見て取ることも可能かもしれない。本作は、一方でまず注力すべきは「自分」を見失わずに生きていくこと、あるいは「自分のなかに輝く宝石」を見出して前進することであると言いながら、他方でその「宝石」を掘り当てるためには自助努力だけでは足りず、他人の助け(つまり客観的なフィードバック)が必要だという利他的な留保はつけている。これは『アイカツ!』(2012~2016年)の「セルフプロデュース」という決定的なキーワードを経て、「誰かを幸せにするということ、それには3つのタイプがあると思う。まず、世の中の多くの人を幸せにできる人。自分の周りの身近な人を幸せにできる人。それと、自分を幸せにできる人。でも、今ならわかる。誰かを幸せにするってことは、結局は、自分が幸せになるってことなんだ」という『Wake Up, Girls! 新章』(2017~2018年)第13話の言葉へと流れ込む潮流の一歩手前で踏みとどまっている。さらに下流の貯水池として『トラペジウム』(2024年;ただし高山一実による原作小説は2018年刊行)を位置づければ、客観的指標の欠如と能力開発ファナティシズムの高揚へといたるラインが引けるかもしれないが、この点に関しては検討を重ねたうえで別稿を期することとする。

見どころ②:今野宏美・柳井久代・矢島晶子の正・反・合

 極々私的な話をすると、私にとって今野宏美は、速度のある危険球ビーンボールを投げてくるような声優に映っていた。『らき☆すた』(2007年)――私が高校時代にリアルタイムで見ていた数少ないTVアニメ――の小神あきらと『日常』(2011年)のはかせのイメージが強すぎるだけかもしれないが、今野宏美は重力を振り切って高速でどこかへ飛んでいきそうな、力強く伸びのある内角高めの投球/発声で、打席に入った(つもりの)私をたびたび仰け反らせたものだった。そして、今野宏美の声が重力を感じさせないからこそ(これが「軽やか」と形容すべきものでないことには注意を要する)、彼女の女房役は重力を担わなければならないように見えていた。『らき☆すた』や『日常』での白石稔はまさしく重力――今野宏美を引き戻す力――を体現していたと言えよう。

 話を『しあわせのまほう』に戻すと、今野宏美(ラブ役)に対して柳井久代(ベリー役)を配置するという布陣は前述の重力仮説を裏づける追加の証拠のように見えて、私は独りよがりな興奮を抑えきれなかった。ラブが遅刻寸前で食パンをくわえて走るシーンや、オシャレ魔法学園の面接試験で志望動機を尋ねられて「オシャレのことをいっぱい勉強して……もっともっとイケてる女の子になって、モテたいからです!」と答えるシーンは、今野宏美が重力を振り切る速度を出せることを端的に示すシーンとして必見である。そんな今野宏美が柳井久代によって重力圏内にギリギリ抑え込まれながら、対峙することになるのが矢島晶子(ユミ役、現・うえちあき)だ。ここで――またもや話が脱線してしまうが――、今野宏美の初期キャリアを構成する『センチメンタルジャーニー』(1998年)を比較対象として置くと、面白いことが起こる。「12都市12少女物語」として展開されたオムニバス作品『センチメンタルジャーニー』の第7話「山本るりか ~中部戦線異状あり!~」において、今野宏美は山本るりかという少女役を演じているが、彼女はここでスイッチヒッターとでも言うべき両利き(ambidexterity)の演技――具体的には小学生の頃のるりか、高校生になったるりか、双子の兄・昌宏の身代わりを務める男装のるりかという同一人物の三変化――を要求されていた。るりかは小学生の頃のある出来事がきっかけで、嘘をつかずに本音で生きることをモットーとするようになったが、なし崩しに「双子の兄に扮して女の子とデートする」という嘘に雁字搦めにされていくという若干複雑な役柄であり、新人の今野宏美には荷が重かったかもしれない。とまれ、このときの相手役の少女・今中香澄を演じたのが矢島晶子であった。すなわち、今野宏美は矢島晶子の胸を借りるかたちで必死に嘘の練習をすると同時に、矢島晶子が演じる香澄の小悪魔的な嘘――昌宏の気を引こうとする、見本のようにしたたかな嘘――に翻弄されるという得難い経験をしたと言える。そして、『センチメンタルジャーニー』から9年越しに、再び矢島晶子(ユカ役)を幸せにするお手伝いをする役柄を今野宏美が演じることになるとは、面白い巡り合わせとしか言いようがない。

 繊細な制球を要求されてから9年が経過し、今野宏美は重力を振り切る投球を許されるようになった。だが、可動域を制限するディレクションが弱められたとしても、またもや矢島晶子に軍配が上がったように思う。なぜなら、矢島晶子は『しあわせのまほう』の劇中で、声優歌唱コンテンツではないにもかかわらず、「エンジェルンルン」、「Re-Born」、「TOMODACHI」の三曲を歌っており、物語のなかでもはラブとベリーの二人が憧れる美少年・ショウ(CV: 甲斐田ゆき)と結ばれることになるなど、圧倒的な存在感と耳朶への喜びを提供していると言わざるをえないからである。「ラブベリ」のメイン要素ではないものを過剰に評価するのはいかがなものかと我ながら思うものの、本作を声優の観点から見たときには、今野宏美と柳井久代の取っ組み合いと均衡を吸収・解放し、おいしいところを持っていったのが矢島晶子だったということはなかなか否定しがたい。やはり、商品としてマネタイズすることを想定していない声優歌唱が不意に差し込まれるのはいいものである。

おわりに:TOKYO MXのCMに見えるアニバーサリーの地層

 本作の地上波初放送が「ラブベリ」のリリース20周年を記念した様々な施策の一端を担うものであることはすでに述べたとおりだが、TOKYO MXで本編の合間に流れていたCMを見ると、「ラブベリ」以外にも多くのキャラクターコンテンツのアニバーサリーを記念する施策が展開されていることが見て取れる。『プリパラ』10周年、『弱虫ペダル』10周年、『おジャ魔女どれみ』25周年、ハローキティ50周年といった具合に様々な「周年記念」が地層のように積み上がるのを見ると、アニバーサリーとはビジネス上の要請を受けて設けられた節目であって、時間の経過によって半ば自動的に成立するものではないのだという思いを新たにする。以前、ブランディング会社に勤める人から「ブランドとは消費者の記憶のなかに押されたスタンプのようなものであり、消費者から忘却されたとき、ブランドは真の意味で消滅し、終わりを告げる」といった話を聞いたことがあった。キャラクターコンテンツも同様に、定期的に消費者に思い出してもらうことによって命脈を保つのだろう。しかし、ここでいう「消費者」に新規顧客がどれだけ含まれているのかはしばしば疑問に思う。新規顧客の獲得が見込めない状況では、「懐かしさ」を刺激することによって往年のファンから徹底的にお金を搾り取ろうとする動きが活発化する。こうした持続可能性の低い施策を頼みの綱とすることには批判的でありたいものの、私自身も歳を重ねるごとに「懐かしさ」を刺激される機会が増えている。改めて、財布の紐を締めつつ、未来志向の(自己)投資を実践しなければならないと自分に言い聞かせた。

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参考文献

鈴木謙介/電通消費者研究センター『わたしたち消費:カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス』幻冬舎新書、2007年。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社新書、2024年。

『アニメージュ』2007年2月号、2007年。

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