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『鬼滅の刃』鼎談企画 文学・思想編(長谷川晴生×藤崎剛人×髙橋優):文化の旅へ急がず焦らず参ろうか

(2024年2月18日追記)
本記事の剽窃が発覚しました。詳細は
こちらの記事をご参照ください。

はじめに

 前回鼎談(歴史編)に引き続き、ゲストを入れ替えて『鬼滅の刃』に関するオンライン鼎談を実施した。今回は「文学・思想編」と題して、文学・思想研究者の二人をお招きした。前回鼎談のテーゼを踏まえつつも、また別の着眼点から議論を尽くすことで、『鬼滅の刃』をさらに立体的に把握することが可能となった。私としても、切り口一つで作品の風景を一変させられる批評という営みの豊かさを再認識することができ、大いに刺激を受けたところである。以下では、歴史研究とはひと味もふた味も違う文学・思想研究の奥深さ、その一端が読者諸賢の眼前に広がることだろう。

参加者(敬称略)

長谷川晴生(はせがわ・はるお)
最近は「ヨーロッパの右翼に詳しい人」という扱いを受けているものの、本人としてはドイツの文学と思想を学んでいるつもり。共著に北村紗衣編『共感覚から見えるもの』(勉誠出版、2016年)、訳書にフォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』(新泉社、2019年)など。
経歴および業績の詳細はhttp://hhasegawa.la.coocan.jp/を参照。

藤崎剛人(ふじさき・まさと)
「北守」のハンドル名で知られている一般のヘサヨ。専攻は公法思想史、主な研究テーマはカール・シュミット。『Newsweek日本版』でWeb連載「現代ニホン主義の精神史的状況」を担当。『ハーバー・ビジネス・オンライン』にも不定期連載中。共著に田中信一郎編『日本を壊した安倍政権』(扶桑社、2020年)。
経歴及び業績の詳細はresearchmapを参照。

髙橋優(たかはし・ゆう)
noteで「蛮族のためのアニメ月評」を更新中。専攻は西欧初期中世史(フランク王国史)。今回は大学院進学前の「昔取った杵柄」にも頼りながら、博学多識の二人との対話に挑む。

1. アイスブレイク:前回鼎談の感想など

髙橋 前回鼎談(歴史編)はお読みになられましたか。

長谷川 はい。『鬼滅の刃』が漫画としてもアニメとしてもブームになっていることは把握しており、あとで申し上げるように自分の関心に引っかかるところもあったのですが、インターネット上にある文章を見てまわる限りでは、あまりピンとくるレヴューがなかったんですよ。一方、前回鼎談は各人の専門分野を生かしたうえで、かなり突っ込んだ話にも踏み入れていたので、こちらとしても大変面白く、しかも勉強になりました。具体的な感想は、前回鼎談の公開当時のツイートで申し上げた通りです。

 それ以外でいえば、クラウス・テーヴェライトの「白い女」「赤い女」論を参照して禰豆子の性格を分析するくだりも、まあこちらにはそれなりに馴染みの道具立てではあったのですが、初見の方には新鮮だったのではないでしょうか。

髙橋 前回鼎談でも述べた通り、私にとってもテーヴェライトは「新鮮」だったのですが、長谷川さんの周辺では「馴染みの道具立て」なのですね。

長谷川 ドイツ文学研究、というと広すぎかもしれませんが、少なくともヴァイマル時代の思想や文学を扱っている人間にとっては、よく読まれている二次文献と言ってもよいのではないでしょうか。

髙橋 専門分野が変われば、「馴染みの道具立て」も変わるということですね。続いて、藤崎さんにもお話しいただこうと思います。

藤崎 はい。私もとても楽しく読ませていただきました。私も最近ようやくTVアニメを通して見たばかりで、面白いアニメだと思いましたが、この段階ではあまり特に言うことはないかなと思っていました。しかし、前回鼎談を読んで刺激になり、言うべきことが少しだけ出てきたように思います。つまり鬼殺隊の問題です。 私設暴力装置としての鬼殺隊が、天下国家に代わって鬼と戦うのはどういうことなんだろう、と考えてみたくなりました。

髙橋 そういえば、かつて『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論で一世を風靡した北守=藤崎さんほどの人物でも、最近アニメを見るのがしんどくなっていると伺ったのですが、実際はどうなのでしょうか。

藤崎 一世を風靡したというか、あのときはたまたま結末を当ててしまったので、それで注目してもらったということですね。しかし今では、時間の融通が効くからと配信サイトで映画や海外ドラマばかり観ていたら、気が付いたらアニメを観なくなってしまって……。学園でバトルしたり、異世界に転生したりしなかったり、女子中高生が音楽やスポーツをやったりみたいな、似たような作品が続いてうんざりしていたのもありますが……。

長谷川 私の方は「女子中高生の活動」ものくらいしか見られなくなっていたので(笑)、『鬼滅の刃』について何か喋るように言っていただいて、かえってよかったと思っております。

2. 大正初年設定の必然性:柳田國男『山の人生』について (1)

我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。又我々をして考へしめる。
――柳田國男『山の人生』
(『定本柳田國男集 第四巻』筑摩書房、1968年、60頁)

髙橋 前回鼎談では、『鬼滅の刃』は大正初期を舞台にしているにもかかわらず、「大正らしさ」や「大正要素」が薄いという話になりました。これに対して、長谷川さんは以前、『鬼滅の刃』の冒頭シーンが柳田國男『山の人生』(1926年)の第一章を着想源としており、大正初期という時代設定には必然性があるのではないか、という趣旨のツイートをしていましたね。

 ただ、『鬼滅の刃』と『山の人生』の関係については、ウェブメディアで「古神道・民俗学の視点から読み解く」と称したいい加減な言説がまかり通っており、私としても不満を覚えておりました。

長谷川 『山の人生』は、少なくともこの第一章だけは非常に有名ということもあり、『鬼滅の刃』との関連を想定した人はほかにもたくさんいたようです。おっしゃっているその記事だけではなく、SNSやブログで言及していた方もそこそこ見ました。というか、ちょっと読書習慣のある人であれば誰でも思いつく程度の話でしょう。さらに言えば、学校や大学の課題で読ませられる機会も多いテクストですから、「作者の人はそこまで考えてない」とは必ずしも言い切れず、直接の着想源だった可能性だって少なくはないと思っています。

髙橋 この機会に、改めて『山の人生』の第一章について、解説をお願いします。

長谷川 『山の人生』の第一章「山に埋もれたる人生あること」は、西美濃、つまり岐阜県での一家心中事件についての物語的な叙述になっています。ある貧しい炭焼の男が、十三歳になる自分の息子と、やはりそれくらいの歳の拾い子の娘を山奥で育てているのですが、ご想像の通り生活に困窮していきます。ある秋の日、寝入ってしまった男が夕方に目を覚ますと、夕日に照らされたこの「兄妹」が一心に男の商売道具である斧を研いでいるのですね。そして、「阿爺(おとう)、此でわしたちを殺して呉れ」 (『定本柳田國男集 第四巻』筑摩書房、1968年、59頁)と言って仰向けに寝る。こうして、この男は斧で一家心中を試みるわけです。結局、男は子供二人を殺したものの自分は死にきれず、逮捕されて服役し、やがて特赦される段階になってその資料が法制局の官僚であった柳田の目に触れることになったという経緯になります。
 私事を言いますと、『鬼滅の刃』は一昨年くらいまで全く知らなかったのですが、何かの拍子にインターネットで冒頭シーンの概要を目にして、これって柳田の『山の人生』ではないの、と思ったのが興味を持ったきっかけでした。

髙橋 確かに、柳田の紹介するエピソードには、炭焼・十代前半の兄妹・山奥での惨劇という要素が詰まっており、『鬼滅の刃』の冒頭シーンともろに被るような気がしてきました。
 とはいえ、柳田の紹介した一家心中事件というのは、『山の人生』の第一章によると、刊行時(1926年)の「三十年あまり前」、つまり明治後半(1895年前後)に起こったもののようですね。そうすると、『鬼滅の刃』の舞台となっている大正初期(1910年代前半)とは時間差があるように思うのですが、本当に大正初期という時代設定に必然性めいたものはあると言えるのでしょうか。

長谷川 『山の人生』の第一章が文学史的に重要とされているのは、田山花袋を中心とする自然主義文学との関係で読まれているためです。柳田本人が、『故郷七十年』(1959年)で、法制局官僚として入手したこのエピソードを、友人であった花袋に、まさに自然主義で扱うべき小説のネタとして話して聞かせた、と証言しているのです。

藤崎 面白い友人関係ですね。それはいつのことなのでしょう。

長谷川 花袋へのネタ提供がいつのことなのかははっきりとは分かっていませんが、柳田の法制局勤務は1902年から1914年ですから、この期間であることは動かないでしょう。言うまでもなく、花袋の代表作が描かれたのもちょうどこの時代で、『重右衛門の最後』が1902年、『蒲団』が1907年、『田舎教師』が1909年、『生』・『妻』・『縁』三部作が1908年から1910年です。鬼と鬼殺隊双方の背景に近世から近代にかけての日本の無惨(!)な暗黒面を置いている『鬼滅の刃』の舞台設定が大正初年、前回鼎談でいうところの「明治のおまけみたいな時代」であることに必然性があるとすれば、『山の人生』のエピソードが改めて浮上したのが、まさにこの時期、要するに自然主義の全盛期だったからではないでしょうか。なにしろ自然主義は社会の暗部を描き出すと謳っていたわけですから。

髙橋 しかし結局、花袋は友人の柳田から提供されたエピソードを、自身の小説執筆には活かさなかったわけですよね。

長谷川 そうですね。『故郷七十年』によれば、 花袋は「そんなことは滅多にない話で、余り奇抜すぎるし、事実が深刻なので、文学とか小説とかにできない」と作品化を断ったことになっています。これを受けて柳田は、続く箇所で「田山の小説に現はれた自然主義といふものは、文学の歴史からみて深い関係のある主張ではあつたが、右の二つの事実〔引用者注:『山の人生』の第一章にはもう一つ別のエピソードが書かれている〕のやうな悲惨な内容の話に比べれば、まるで高の知れたものである」と切り捨てることになります(『定本柳田國男集 別巻第一』筑摩書房、1971年、342頁)。このすれ違いが、後年の文学史家の注目するところとなるわけですね。

髙橋 花袋は「私小説」としての、いわば性欲全開の自然主義に傾倒していくことになりますね。

長谷川 おっしゃる通りです。総じて近代文学の批評家や研究者は自然主義批判をする傾向にありますから、市民階級の卑小で私的な欲望にこだわる花袋の自然主義と抜き差しならない貧困を実存主義的に扱う柳田の民俗学という対立が決定的になったメルクマールとして、この決別を位置づけていくことになるわけです。柳田の民俗学が本来あるべき自然主義の姿で、花袋の自然主義はまがいものである、とでも言うかのように。

髙橋 例えば、新潮文庫版の『蒲団・重右衛門の最後』に収められた福田恆存による解説などが、長谷川さんのおっしゃる自然主義批判の一例でしょう。福田は次のように述べています。

 芸術作品を生むものを、われわれは芸術家と呼ぶのであって、芸術家というものがはじめから存在していて、かれが生んだものを芸術作品と呼ぶのではない。文学青年はそれを混同します。……文学青年とは一口にいえば、芸術家の才能なくして、芸術家に憧れるものです。かれらは芸術作品を創造することよりは、芸術家らしき生活を身につけることに喜びを感じるひとです。人生にたいして自分のおこなう観察のしかたや行動のしかたが、いかにも芸術家のそれであるという自覚ほど、かれらの若い虚栄心をくすぐるものはない。が、かかる虚栄心は、真の芸術家の情念であるよりは、むしろ善良なる市民のものであります。花袋の文学には、文学という毒気の強い渦のなかに巻きこまれた善良な一市井人のたあいなさのようなものがある。かれはそういう意味において、文学青年の典型でありました。
(田山花袋『蒲団・重右衛門の最後』新潮文庫、2003年、225~226頁)

 まあ、福田は花袋には主体的な問題意識が欠けており、「私小説」としての自然主義すら徹底できなかったと書いているので、よりボロクソに批判しているわけですが(笑)。

長谷川 面白いことに、『鬼滅の刃』における『山の人生』参照を指摘したうえで、相変わらず花袋批判と柳田礼賛をしている人ってのもいるんですよね(笑)。俳人の坪内稔典です。いつまで同じことをやっているのか……。

髙橋 柳田と花袋を対抗的に理解すること自体は問題ないと思うのですが、では、柳田を一つの極に置いたときに、国家官僚であった柳田は「抜き差しならない貧困」にどのように対処しようと考えたのでしょうか。柳田は東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省して「農政学」の専門家を自認していた人物です。こうした経歴が彼の思想にどのような影響を及ぼしたと考えるべきでしょうか。

長谷川 そうか、髙橋さんは柳田の直接の後輩なんだよね(笑)。柳田の農政学というと、小作料金納産業組合育成に焦点を当てられることが多いですよね。前者は、当時は物納だった小作料を金納に変えるべきだ、とする主張です。後者は、ちょうど柳田が入省した1900年に成立した産業組合法を活用して、小作農や自小作農(小作もしないと生活できない自作農)をはじめとする、単独では経営が成り立ちにくい農民に産業組合を作らせよう、というものです。もっとも、柳田本人が前述の通りすぐに法制局に異動になってしまったこともあり、このような立場は著書や大学で持っていた講義で主張されただけで、どこまで現実の政策に反映されたかは怪しいようですが……。
 こうした柳田農政学の評価については百家争鳴で、戦後の農地改革につながる近代的な面を強調する見方もあるようですが、やはり柳田は山県閥に属する官僚なわけでして、農政学といっても、例えば地主制度にメスを入れようとする性格ではなかった。産業組合にしても、前回鼎談で出てきた言葉でいえば「共助」のお膳立てですからね。柳田の息子の友人で、柳田本人とも交流のあった憲法学者の中村哲が、『柳田國男の思想』(法政大学出版局、1967年;講談社学術文庫、1977年)という本を書いています。そこで言われているのは、農政学徒としての柳田の思想的立場はドイツ新歴史学派に近く、一方ではレッセ・フェール的な自由主義に、他方では社会主義に対抗するものであった、ということです(文庫版(下)、89頁)。アルミン・モーラーなら「保守革命」的と呼ぶかもしれません。

藤崎 一種のコーポラティズム思想と言えるわけだ。コーポラティズムは右派的側面と左派的側面、前近代的側面と近代的側面を同時に内包しがちなので、見方次第で評価が変わってしまうのですよね。

長谷川 この点については近年、柳田はピョートル・クロポトキンの影響を受けたアナーキストだったのではないか、という見解が出ていますね(絓秀実/木藤亮太『アナキスト民俗学:尊皇の官僚・柳田国男』筑摩選書、2017年)。クロポトキンは、まさに『相互扶助論』(大杉栄訳を口語化した新版が2017年に同時代社より刊行)の著者だったわけです。そして、政府の直接的介入ではなく小規模共同体の相互扶助ベースで問題を解決しようとする構想は、現代の保守派にも受けがいいんですよ。例えば、安倍晋三前首相は、2018年の国家公務員合同初任研修開講式で、明らかに産業組合論を意識しつつ、農政官僚としての柳田の「構造改革」を讃える訓示を行っていますね。まあ、いまなおよく見かける、柳田を過剰に「リベラル」に解釈する論者よりはるかに正統的な理解でしょう。

 なお、柳田農政学については、当時の地方改良運動のなかで持ち上げられていた二宮尊徳系の報徳社を批判していたところに近代性を見る向きがあるようです。しかし、前述の中村によれば、それはあくまでも、組織や運営形態がマズい、ということであって、理念そのものには肯定的であったらしいんです。しかも、報徳社の持っている俗信仰的な側面をかなり買っていたといいます(『柳田國男の思想』文庫版(下)、82~83頁)。最近、松沢裕作『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書、2018年)などで、現在の自己責任論の源流として「通俗道徳」(安丸良夫)に改めて注目が集まっていますが、柳田にしても明治のそのような風潮とは無縁ではなかったと言えます。

髙橋 掛川に本部のある大日本報徳社といえば、東大法学部の国法学講義で取り上げられたことを思い出します。というのも、美濃部達吉の師である一木喜德郞は、大日本報徳社の第3代社長でもあったからです。私としても一度掛川は訪れてみたかったのですが、なかなか機会がないままにこんな御時世になってしまいました。いずれリベンジしたいものです。また、先程名前が挙がった中村哲は美濃部達吉の弟子ですから、一木→美濃部→中村という師資相承の関係も見て取れます。戦前から戦後にかけて、いかに東大法学部人脈が大きな存在感を示してきたかの一例でもあるでしょう。
 話が脱線しました。東大法学部の内輪ネタはこのくらいにして、柳田農政学が自由主義と社会主義の双方に対抗するものであったというのは重要だと思います。柳田は「抜き差しならない貧困」に対して、主に「共助」のお膳立てで対処しようとしたということですね。小作料金納を主張していたように、制度改革の側面が皆無だったわけではありませんけど。

長谷川 『山の人生』を書いた柳田は、凄惨な貧困の現実から目を背けてはいけない、というメッセージを発しているとはいえます。一方、その克服は相互扶助、「共助」によって成し遂げられるべきものだったわけです。言い換えれば、社会問題は認識されなければならない、しかし国家的な再分配の方向には行かない、ということです。というところから振り返ると、『山の人生』も違った見え方をしてくるんじゃないでしょうか。

髙橋 前回鼎談の最後で、私は「公助の重要性を今こそ再評価すべき」だと申し上げました。『鬼滅の刃』に「公助」の色彩が薄く、鬼殺隊の「共助」で鬼の「自助」を討つという図式になっているのは、着想源の一つとなった可能性が高い柳田の思想と響き合うものがありそうな気がしてきました。

長谷川 ですから、『鬼滅の刃』は、炭焼・十代前半の兄妹・山奥での惨劇という道具立てだけを『山の人生』から借りた、という話では済まないのかもしれません。前回鼎談で、「国や政府は何もしてくれないので民間レベルで何とかするしかないという、まさに自助・共助の思想」が『鬼滅の刃』を貫いている、という指摘が出ていましたね。これが柳田本人の傾向と共鳴してしまっているんですよ。あるいは、平成から令和にかけてのサブカルチャーと「生きづらい明治社会」が共鳴してしまっている、と言うべきでしょうか。

藤崎 社会改革に意欲がある若者がクラウドファンディングに走ったり、オンラインサロン的な方向に行ったりしてしまう現代の日本の問題とも重なってきそうですね。何か社会問題を解決する事業に国や自治体の予算措置を求めたり、広く社会に問いかけるような運動を行ったりするのではなく。

髙橋 富の再分配のような「公助」を要求する方向には行かないのは由々しき問題ですね。まあ、「公助」を求めても窓口で説教・門前払いされるような国なので、「自助・共助」が若者の処世術になってしまうのは仕方ないことなのかもしれませんが……。

3. 二度の文学的改変とその意義:柳田國男『山の人生』について (2)

An diese Penaten ist das Weibliche geknüpft, welches in ihnen teils seine allgemeine Substanz, teils aber seine Einzelheit anschaut.
女性的なるものは、この竈門の神々に結び付けられている。女性的なるものは、まさに竈門の神々のなかに、一つにはおのれの普遍的実体を、一つにはおのれの個別性を直観するのである。
――G・W・F・ヘーゲル『精神現象学』
(G. W. F. Hegel, Werke 3. Phänomenologie des Geistes, Frankfurt am Main 1970, S. 337)

長谷川 ところで、『山の人生』の話には、さらに先があります。柳田が書いている内容は、実際に起こった事件を忠実になぞったものではないらしいんです。このことを発掘したのは民俗学者の谷川健一です。件の一家心中未遂は地元でなかば民話として語り継がれており、それを戦後になって谷川が見つけてきたんですね。谷川によると、本来の事件は柳田が描いているような劇的なものではなく、娘に盗みの疑いをかけられたために、父親が(娘の弟にあたる)息子も巻き込んで死のうとするという、非常に分かりやすい展開にすぎなかったそうです。父親の職業が炭焼であることや、父親だけ生き残って服役したことは『山の人生』と同じなのですが。ちなみに、この家族の実名も分かっており、父親が和田佐次郎(ただし民話では「新四郎さ」と呼ばれる)、娘がなを、息子が市三郎だそうです(この発見に関する谷川の著作は何点かあるが、現在入手しやすいものとしては、谷川健一『柳田国男の民俗学』岩波新書、2001年)。

髙橋 『山の人生』の第一章は私も読んだことがありますが、そこに元の事件からの改変が見られるとは知りませんでした。今の話を伺って、『山の人生』をナイーブに読むのも考えものだなあ、と思わされました。

長谷川 要するに、柳田は陳腐な事件に一種の文学的改変を施したんですね。どこにでもある事件をつかまえて容易に心理的説明のつかない不気味さを加えていくのが、『山の人生』における柳田の作為だったと言えます。「身内に犯罪の疑いをかけられた父親が一家心中を図る」だとすぐに忘れられる新聞社会面ネタにすぎないとしても、「夕日のなか斧を研ぐ子供たち」が「貧困だけを背景に直接的な契機もなく」自分から殺してくれと言う(当然こういった描写もすべて柳田の創作です)となると、なんと素晴らしい「文学」なんだ、と思ってもらえるのです。しかし、これは事実そのものではなく、いわばロマン主義的に粉飾された挿話だったわけですから、自然主義作家たる花袋が柳田の提供するネタに飛びつかなかったのは賢明だったことにもなりますが。

髙橋 そうすると、『鬼滅の刃』の冒頭シーンは、谷川が発見した元の事件から二度の改変を経たものである、と言えそうですね。惨殺される娘の位置は二転三転していることになる。

長谷川 おっしゃる通り、『鬼滅の刃』との関連でいえば、どうしても娘の位置の変遷に目が行くのは避けられないと思います。図式化すると、以下のようになります。

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 まず、娘は、元の事件→『山の人生』→『鬼滅の刃』で、炭焼である父親の実子→拾い子→実子と動いています。さらに、同じ実子でも、元の事件では姉であったのに対し、『鬼滅の刃』では妹(禰豆子)になっているのです。

髙橋 おっしゃることは理解しましたが、実子/拾い子、姉/妹という違いについては、どのように考えればよいのでしょうか。

長谷川 元の事件で実子だった娘が『山の人生』で拾い子とされていることについては、いろいろな推測が可能でしょう。例えば、民俗学の成立自体に「自分は両親の実子ではなく貰われてきた子である」と思い込んでしまう、いわゆるファミリー・ロマンスが深くかかわっている、という説(大塚英志『「捨て子」たちの民俗学』角川学芸出版、2006年)を念頭に置いてもよいのかもしれません。
 しかし、ここで参照してみたいのは、『山の人生』の第一章は、前回鼎談から話題に出ているソポクレースの悲劇『アンティゴネー』から理解すべきである、という文芸評論家の絓秀実の主張です(『アナキスト民俗学』、252~259頁)。

髙橋 前回鼎談では『アンティゴネー』の内容には立ち入りませんでした。この悲劇のあらすじをご説明いただいてもよろしいでしょうか。

長谷川 簡単に言えば、『アンティゴネー』は次のような話です。出生の秘密を知ったテーバイのオイディプース王が追放されたあと、息子のエテオクレースが後を継ぐものの、もう一人の息子であるポリュネイケースも王位を主張し、外国と同盟して攻めてきます。結果、二人は相討ちになります。二人のうちポリュネイケースの方は国家への反逆者(外患誘致罪!?)なので、新たな王になったオイディプースの弟、クレオーンは、彼の死体の埋葬を禁じます。しかし、オイディプースの娘でポリュネイケースの妹であるアンティゴネーは、この決定に反抗して兄の埋葬を強行し、地下に幽閉されて事実上の死刑になってしまいます。同時に、アンティゴネーの婚約者であったクレオーンの息子、ハイモーンも自殺することになり、テーバイ王家はついに崩壊してしまうのです。

髙橋 ありがとうございます。では、『アンティゴネー』から『山の人生』の第一章を理解するとはどういうことでしょうか。

長谷川 絓が前提としているのは、哲学者のヘーゲルによる有名な、ある意味では実に分かりやすい『アンティゴネー』読解ですね(『精神現象学』、『法の哲学』など)。反逆者の死体を埋葬するな、というクレオーンが「国家の法」を、反逆者でも兄だから埋葬する、というアンティゴネーが「家族の法」を表しており、『アンティゴネー』の劇は両者の相克として読める、というものです。ヘーゲルは、「国家の法」を代表するクレオーンを「男性性(Männlichkeit)」一般に、「家族の法」を代表するアンティゴネーを「女性性(Weiblichkeit)」一般に読み換えていきます。ヘーゲルはもちろん「国家の法」の側に立っているのですが、そうすると、「家族の法」およびそれを奉ずるとされる女性の扱いは厄介になってきます。家族が国家と対立するとしても、国家は家族を廃止できないわけですから。そこで出てくるのが、かの悪名高い名言(?)なのです。いわく、女性性は「共同体にとって永遠のイロニー(die ewige Ironie des Gemeinwesens)」である、と。

藤崎 国家にとっての異物を、ミソジニックな手法で国家の中に取り込んでおくわけですね。

長谷川 この手のゴリゴリの父権主義にもとづく『アンティゴネー』読解に対しては、ジャック・デリダやジュディス・バトラーによる別解釈が用意されておりますので、お怒りになった方はそちらもご参照ください(笑)。
 さて、『山の人生』で「国家の法」で禁じられている嘱託殺人に父親を誘う子供たちは、いずれも上で言う「家族の法」を体現していることになります。ヘーゲルに即して言えば、このような「家族の法」を駆動するのは、共同体のイロニーである「女」の役割です。絓の読みによれば、実在の一家心中事件から『山の人生』への家族関係の改変は、「女のイロニー」性を強調しようとしたためということになります。件の娘は、元の事件では炭焼の男の実子であり、盗みの嫌疑をかけられていて死のうとする合理的な理由も持っていたのですが、『山の人生』では来歴不明な拾い子というミスティックな存在とされ、死への直接的な動機もよく分からないように描かれています。「女のイロニー」を際立たせるには、こちらの方が都合がよかったのですね。もちろん、プロイセンのベルリン大学総長たるヘーゲルと同じく柳田も大日本帝国の官僚であって、『山の人生』では一見すると「家族の法」に寄り添っているかのように見せながら結局は「国家の法」の側に立っており、イロニーは「文学」として提示されておしまいではあります。

髙橋 元の事件から『山の人生』への一度目の改変については理解できましたが、『山の人生』から『鬼滅の刃』への二度目の改変については、どのように考えればよいのでしょうか。

長谷川 二度目の改変も、いま申し上げた一度目の改変の延長で考えることが可能だと思います。『山の人生』を書いたときの柳田は、娘は実子ではなく拾い子とした方が事件の不可思議さを強調でき、「国家の法」に対する「女のイロニー」を体現する人物像としてふさわしいと思っていたわけでしょう。しかし、反対に、血のつながりのある兄弟姉妹、特に(弟と姉ではなく!)兄と妹のペアに神的な力を見ることだってできるわけです。というか、柳田本人が後年はそちらの立場に移行していきます。みなさんよくご存じの『妹の力』(1940年)所収のいくつかの論文で詳しく語られる、玉依彦と玉依姫のペアですね。この観点からすれば、アンティゴネーがそうだったように、娘は拾い子より実子、しかも兄に対する妹の方がよいのです。

髙橋 『妹の力』は、前回鼎談でも挙げた大塚英志『「妹」の運命:萌える近代文学者たち』(思潮社、2011年)の中でも取り上げられており、柳田がプリミティブな妹に「萌えて」いた証左とされています。大塚は柳田の巫女論を「『妹萌え』の根拠を古代の信仰に結びつける詭弁に過ぎない」(『「妹」の運命』、49頁)と一蹴した上で、「『妹』たちは男たちの脆弱な内面を代償するものとして『少女』というもう一つの呼び名とともに現代詩にもギャルゲーの如きサブカルチャーの中にも等しく生き延び、未だ批評されないものとして今も、そこにある」(同書206頁)と書いています。大塚のサブカルチャーに関する言説をどこまで真面目に受け取るかはともかく、確かに現代の我々にとっては、「拾い子」よりも「妹」のほうがミスティックな存在として輝きを放っているとは言えるのかもしれませんね。

長谷川 おっしゃる通りです。なお、いま名前が出た大塚英志についていえば、彼は漫画原作者にして何冊も柳田論を書いている民俗学出自の文芸評論家であるわけですから、我々などよりはるかに『鬼滅の刃』を論評する適任者なのではないかと思います。まあ、思うところはあっても発言したくないのかもしれませんが(笑)、どこかのメディアが原稿依頼してしまえばいいんですよ。 
 ついでに言えば、ここまで炭焼一家の家族関係にのみ即して考えてきたわけですが、それ以外の面でも、『鬼滅の刃』自体が柳田的なイロニーに満ちてもいますよね。『山の人生』では惨劇が秋の夕日に照らされた山中で行われるとすれば、『鬼滅の刃』ではそれが降りしきる雪のなかになります(TVアニメ第1話、原作第1巻第1話)。いずれにせよ、原型となった一家心中事件の散文的な内容とは一線を画して、おぞましい行為は美的な日本の四季のイメージでおおわれるのです。現代サブカルチャーの創作者であったり享受者であったりする我々は、どうあがいても柳田から逃れられないのかもしれません。

4. 融通無碍な鬼の造形:日本古来の鬼/西洋の吸血鬼の融合

Das Kapital ist verstorbene Arbeit, die sich nur vampirmäßig belebt durch Einsaugung lebendiger Arbeit und um so mehr lebt, je mehr sie davon einsaugt.
資本は死せる労働であり、生ける労働を吸い取ることで、吸血鬼的にのみ息を吹き返す。そして、吸血を繰り返せば繰り返すほど、ますます長い命を得る。
――カール・マルクス『資本論 第一巻』
(Karl Marx, Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie. Erster Band, Berlin 1977, S. 247)

髙橋 ここまで、『鬼滅の刃』の冒頭シーンの着想源が柳田國男『山の人生』の第一章だったのではないか、という点について、かなり細かく検討してきました。

長谷川 ちなみに、『山の人生』の他の箇所では、「鬼子」が人間の両親から生まれてしまう類型の話を取り上げていたりします(第十七章「鬼の子の里にも生まれしこと」)。生まれたときから三歳児くらいの大きさがあった、額に目がもう一つあった、分娩されるや否やすぐ親に噛みついた、殺しても一日で蘇生した、といった『鬼滅の刃』の読者/視聴者が興味を持ちそうな逸話になっているんですよ(『定本柳田國男集 第四巻』、112~113頁)。

髙橋 補足ありがとうございます。
 さて、前回鼎談では「そもそも鬼とは何か」という問題を充分に掘り下げきれませんでした。再度、歌人で古典文学に詳しい馬場あき子『鬼の研究』(三一書房、1971年;ちくま文庫、1988年)を入口として、「鬼自体が何の表象か」というテーマを取り上げたいと思います。

長谷川 その本のなかで、馬場は鬼を五つに分類しています。神道系(祖霊、地霊)、山伏系(天狗)、仏教系(夜叉、羅刹など)、人鬼系(放逐者、盗賊など人間社会から脱落した者)、変身譚系(嫉妬に狂った女など)です。前回鼎談では、このうち四番目の人鬼系を『鬼滅の刃』の鬼のベースにあるものと説明していましたね。

髙橋 長谷川さん、なにか言いたげな様子ですが、異論でもありますか。

長谷川 はい(笑)。まあ、その説明自体はよいのですが、一方で指摘しておかなければならないのは、『鬼滅の刃』の鬼は、よく言えば融通無碍に、悪く言えば無節操に、ほかの類型を取り込んでいる面もあるということです。例えば、鬼は藤の花を怖れることになっていますが(TVアニメ第4話、原作第1巻第6話)、これは古典和歌などで藤が紫雲、つまり仏法を示唆する花とされていることを考えると腑に落ちます。

紫の雲とぞ見ゆる藤の花いかなるやどのしるしなるらむ 
――右衛門督公任(拾遺・雑春)
おしなべてむなしき空と思ひしに藤咲きぬれば紫の雲 
――前大僧正慈円(新古今・釈教)

ここからも明らかなように、仏教系の鬼の要素も入っているわけですね。
 また、禰豆子の図像を見ていくと、どうも変身譚系の鬼、いわゆる「鬼女」の相貌もないとはいえないところがあります。人間だったころの禰豆子は、大正初年の女性としては当たり前ですが、髪を結っていますね。ところが、鬼になるとその髪が下ろされて牙が生えるわけです(TVアニメ第1話、原作第1巻第1話)。「黒髪を振り乱す」ってのは嫉妬に狂った鬼女の代名詞みたいなもんでしょう。宇治の橋姫ものの一つである謡曲「鉄輪」を引いてみましょう。シテの女がアヒ(貴船神社の社人)の前で鬼に変化する場面です。

いふより早く色かはり、いふより早く色かはり、気色変じて今までは、美女の形と見えつるが、緑の髪は空さまに、立つや黒雲の雨降り風と鳴る神も、思ふ中をば離(さ)けられし、恨みの鬼となつて人に思ひ知らせん憂き人に思ひ知らせん。
(野上豊一郎『解註謡曲全集 第四巻』中央公論社、1935年、396頁)

「緑の髪」というのは、もちろんアニメ的な緑髪ではなく(笑)、美しい黒髪の定型表現ですね。それが「空さまに」、つまり逆立ったと言っているのです。もっとも禰豆子の場合、前回鼎談にあったように、『鬼滅の刃』の物語上は「白い女」にとどまるわけですから、嫉妬に狂う「赤い女」にはなり得ないのですが、絵柄のうえではそこに接近しているかもしれないということです。

髙橋 前回鼎談でも、禰豆子が「ボーダー上の妹」だということは指摘されていましたが、図像の話は出ていなかったので興味深いです。変身譚系の鬼、特に嫉妬に狂った鬼女は文楽の演目にも登場しますよね。有名どころで言うと、道成寺の安珍・清姫伝説を下敷きにした『日高川入相花王』渡し場の段ですが、この作品でヒロイン(?)の清姫は恋い焦がれる安珍の冷たい仕打ちに逆上し、「悋気嫉妬の執着心」ゆえに大蛇に変貌してしまいます。また、宇治の橋姫は『東方地霊殿』の水橋パルスィ(「妬ましい」を連発する敵キャラクター)の元ネタにもなっています。嫉妬に狂った鬼女という設定は現代サブカルチャーにおいても重宝されているのでしょう。
 ところで、藤崎さんが、某同人ボイスドラマ企画で水橋パルスィ役を演じた声優(?)のファンから虚偽DMCA通告を食らってから1年ほどになりますね(笑)。

藤崎 え、あの「声優」(?)は、そのキャラの役をやっていたんですか。私にとっては、ヤバいオタクの成れの果てに酷い目に遭わされた記憶としか結びついていない……。

長谷川 まさに「なんの面白みもないじゃない」というわけですね(笑)。

髙橋 話を戻しましょう。『鬼滅の刃』の鬼に、仏教系の鬼や変身譚系の鬼の要素も見られるとは考えてもみませんでした。ただ、長谷川さんも人鬼系が『鬼滅の刃』の鬼のベースであることを否定まではしませんよね。

長谷川 それはおっしゃる通りです。前回鼎談で『鬼滅の刃』の鬼が人鬼系に見立てられていたのは、彼らがすべて元人間ということになっているからだと思われます。彼らの鬼へのなり方には、(1) 病気治療の過程で突発的に鬼になってしまう(鬼の始祖、鬼舞辻無惨のみ)、(2) 無惨はじめ上位の鬼に接触して自発的に鬼にしてもらう、(3) 上位の鬼によって非自発的に鬼にされてしまう、の三種類があるわけですが、少なくとも(1)や(2)に関しては、酒呑童子譚に描かれるような「人間社会からの脱落者」としての鬼と見てよいでしょう。実際、山中などに拠点を構えたうえで市街地に出没して人をさらったり食ったりするのが鬼のメインの活動なわけですから、『鬼滅の刃』は酒呑童子ものの正統な末裔といえます。
 ただし、実は、『鬼滅の刃』の鬼は酒呑童子一派と完全に一致しているわけでもないのですよね。酒呑童子が盗賊的な組織、あるいは討伐側の武士団に対応するような主従関係による組織を持っているのに対して、『鬼滅の刃』の鬼は基本的に組織化され得ない存在として描かれています。無惨をトップとするピラミッド型の構造があるわけではなく、あくまでも無惨と個々の鬼が一対一の関係、恐怖を通じた関係を結んでいるだけなのですね(これについては5.で触れることになるでしょう)。そもそも、鬼たちが団結して刃向ってくるのを避けるため、無惨によって共食いするようにプログラムされているわけです(TVアニメ第10話、原作第3巻第18話)。ですから、巷間でよく言われているように無惨と配下の鬼たちを「ブラック企業」の文脈でとらえるのは、どちらかといえば失当なのかもしれません。家父長制的な組織になっているのはむしろ鬼殺隊の方ですね。

藤崎 確かに、鬼は無惨の名を呼ぶことも禁じられており、横の連帯ができないようになっています。もしヤバい企業の社長だったら、むしろ自分の名を社員達に唱和させそう。

長谷川 また、酒呑童子一派は、どちらかといえば人間に騙されてしまう存在とされていますね。『御伽草子』 の「酒呑童子」でいえば、山伏に化けた源頼光たちの正体にいったんは気づくものの、すぐに別人だと言いくるめられてしまいます。そして、「神便鬼毒酒」なる鬼の力を奪う特殊な酒を飲まされたうえで襲撃され、「情けなしとよ客僧たち、いつはりなしと聞きつるに、鬼神に横道なきものを」という台詞とともに討たれてしまうわけです(市古貞次校注『御伽草子(下)』岩波文庫、1986年、211頁)。このあたりは、酒を醸造する文化のない先住民を酔わせて討伐する話を引きずっているのかもしれません。ともかく、有名になった「鬼神に横道なし」からも分かるように、鬼は謀略が不得手なはずなのです。ところが、『鬼滅の刃』の鬼は、一定量以上の人間を食っていれば悪賢くなるようで、むしろ「嘘ばかり言う/自分の保身のため」とすら評されます(TVアニメ第24話、原作第6巻第50話)。

髙橋 確かに、言われるまで意識していなかったのですが、『鬼滅の刃』は「鬼神に横道なし」の原理に背いていますね。『アンティゴネー』でも「世のなかに鬼の族(うから)は多けれど 人にましてぞ鬼なるはなき」(第1スタシモン、日本語訳は長谷川氏による)と歌われている通り、どちらかと言えば鬼(言葉を変えれば怪物、化け物、異形……)よりも人間のほうがおぞましいのだという言説が優勢でしょう。鬼が「人間社会からの脱落者」というのは、おぞましい人間社会で「人並み」に暮らしていけなかったということなのですから、鬼のほうがナイーブ、いわば「まとも」な存在とも言えます。児童文学の『泣いた赤鬼』しかり、泉鏡花『夜叉ヶ池』(1913年)『天守物語』(1917年)しかり、醜い人間と純真な化け物の対比の方が、私には身近でした。そう考えると、『鬼滅の刃』の鬼は日本の古典文学以来の鬼の造形とは一線を画していたのですね。

長谷川 『鬼滅の刃』の鬼と日本の古典文学の鬼の相違点のうち最大のものは、前者が血のやり取りによって増殖する点でしょう。無惨は自分の血を注入することによって、人間を鬼に変えたり、すでに鬼になっている者を強化したりすることが可能ということになっています。要するに、『鬼滅の刃』の鬼は、酒呑童子的な日本の鬼をベースにしつつ、西洋の吸血鬼の影響も受けているわけですね。まあ、ここは誰しも気づくところだとは思いますが。

髙橋 作者の吾峠呼世晴自身も『吾峠呼世晴短編集』の中で、『鬼滅の刃』の元になった「過狩り狩り」という作品に寄せて、「着物を着た吸血鬼というものはあまり見ないような気がしたので明治・大正時代あたりで和風のドラキュラを描こうとしたのを覚えています」とコメントしています。西洋の吸血鬼がモチーフとなっているのは明らかで、この点に関しては「作者の人はそこまで考えてない」とは全く言えません。西洋の吸血鬼といいますと、やはりブラム・ストーカーの作品が先駆的なのですかね。

長谷川 まあ、ギリシャ神話のラミアから語り起こす種村季弘の名著『吸血鬼幻想』(河出文庫、1983年)を読めば分かるように、吸血鬼についての伝承や物語は遥か昔からありました。とはいえ、現代のサブカルチャーに対する影響が最も大きいのは、おっしゃる通り、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(1897年、翻訳としては新妻昭彦訳、丹治愛注釈『ドラキュラ 完全詳注版』水声社、2000年)ということになるでしょうね。ストーカーのドラキュラ伯爵は、(1) 不死者である、(2) 吸血行為により人間を吸血鬼に変えて増殖することができる、(3) 世俗の武器では完全には傷つけられない、(4) ただし太陽の下には出られない、(5) 生命維持のためには故郷の土や棺を持って歩かねばならない、(6) 流水を渡れない、(7) 鏡に映らない……といった特徴を持っています。まあ、丹治愛『ドラキュラの世紀末:ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究』(東京大学出版会、1997年)によれば、こうした個々の要素は『吸血鬼ヴァーニー』(1847年)、『カーミラ』(1872年) などの先行作品にすでに見られるようですが、それを集大成したのがストーカーだったのでしょう。そして、これらのうち(1)から(4)は、見事に『鬼滅の刃』の鬼、特に無惨に当てはまりますね。無惨については、貴族出自である点でもドラキュラ伯爵と共通です。

髙橋 確かに、「吸血行為により人間を吸血鬼に変えて増殖することができる」という点は、血のやり取りによって増殖する『鬼滅の刃』の鬼と重なりますね。

藤崎 『吸血鬼幻想』では、一方で吸血はエロスのイメージと不可分なものであったとも書かれていましたね。吸血鬼ものは性的なものや恋愛との関連が欠かせないという印象もあります。1992年の映画『ドラキュラ』も、ブラム・ストーカーの原作に忠実に作りながら、ドラキュラ役のゲイリー・オールドマンとミナ役のウィノナ・ライダーのラブロマンスを強調していました。また、種村は女吸血鬼がレズビアンのイメージと結びついていたことにも触れていますが、1936年の映画『女ドラキュラ』は、規制が厳しかった時代のハリウッドでそうした行為を描く隠れ蓑であったと、ドキュメンタリー映画『セルロイド・クローゼット』(1995年)で解説されていました。

長谷川 ただ、注目に値するのは、ストーカーの『ドラキュラ』やそれ以前の吸血鬼ものに見られた、吸血を性行為の隠喩とするような含みが、どうも『鬼滅の刃』からは消えているらしいところなんですよ。確かに、若い女を好んで食う鬼はいるようですが(TVアニメ第6話、原作第2巻第10~13話の沼の鬼など)、それは血のやり取りによる増殖とは別次元の話になっています。無惨にしても、性欲がまったく感じられない男なのですよね。

髙橋 反対に、上弦の参・猗窩座は女だけは絶対に食わないのが面白いですよね(笑)。いずれにせよ、『鬼滅の刃』の鬼に性欲の問題が生じないとすれば、血のやり取りはどのように考えればよいのでしょうか。

長谷川 『ドラキュラ』の「血」について、性行為の延長とは別の見方をしているのが、ドイツの文学研究者・批評家であるヨッヘン・ヘーリッシュという人です。ドラキュラ伯爵は、近代的なものを軽蔑する典型的な中世以来の貴族キャラである割に、たんまり貨幣を貯め込んでいます。しかも、超人的な能力がある設定になっているのに、いちいち貨幣と書類を介した合法的契約を締結するのにこだわっています。そもそも、ロンドンの弁護士であるジョナサン・ハーカーが、トランシルヴァニアにある彼の城に呼ばれるところが話の発端だったわけです。近代化された吸血鬼ものである『ドラキュラ』においては、この貨幣こそ血と関係するのではないか、というのがヘーリッシュの読みです。ヘーリッシュは、『ドラキュラ』の第二十三章で、ハーカーがドラキュラをナイフで攻撃する場面を、決定的なシーンとして分析しています。もちろん、ドラキュラは普通の武器では倒せないわけですが、切り裂かれた上着から血の代わりに紙幣や金貨が落ちてくるところにヘーリッシュは注目します。「ドラキュラの血管には、血ではなく貨幣が流れているのである」(Jochen Hörisch, Kopf oder Zahl. Die Poesie des Geldes, Frankfurt am Main 1998, S. 347)。
 ここで、ヘーリッシュの見方が特におもしろく思えるのは、血と貨幣のアナロジーは、むしろ『ドラキュラ』よりその末裔たる『鬼滅の刃』にこそ当てはまる節があるからです。なにしろ、ドラキュラとは異なって、無惨は吸血ではなく輸血(?)で眷属を増やすんですから。言ってみれば、これは投資であり、買収なのです。先程、無惨とほかの鬼たちの関係を「ブラック企業」の上司と部下として見るのは不適切なのではないか、という話をしました。むしろ、これは企業同士、あるいは企業と個人事業主の話と考えるべきでしょう。個人事業主は、一般の労働者のようには団結できず、血=貨幣を介して意のままに操られるしかないわけです。

藤崎 なるほど。宗教的な罪と罰の関係を債権・債務関係のアナロジーで考える見方は普遍的にありますが、血と貨幣のアナロジーは面白いですね。現代では、たとえばUber Eats配達員のように、実態は「労働者」として働いているのに「個人事業主」として扱われることによって、過酷な労働環境のもとに置かれている人々がいます。事故にあったらアカウント停止の脅迫を受けたり、唐突に報酬が平均で3割カットされたりするような理不尽な扱いを企業によって受けてしまう。
 鬼はそうしたシステムに最後まで抵抗はできず、最後まで血=貨幣を通じて支配されてしまうわけですが、人間の場合は私の友人のように、労働組合法の労働者性に基づいて組合を結成し、団結して戦う人々も出てきています。

5. 鬼/人間、国家/鬼殺隊の分節:共同体のあり方をめぐって

Wo findet der Einzelne heute Schutz? Bei seiner Partei und bei seinem Verband. Nicht beim Staat gegen die Partei oder gegen den Verband.
今日の世界で個々人を保護するのは、かれの属する党派や団体である。党派にも団体にも敵対的な国家は、個々人を保護することもしない。
――カール・シュミット『グロッサリウム』
(Carl Schmitt, Glossarium. Aufzeichnungen aus den Jahren 1947 bis 1958, hrsg. v. Gerd Giesler und Martin Tielke, Berlin 2015, S. 161)

髙橋 長谷川さんのお話で、『鬼滅の刃』における鬼の表象が、日本古来の鬼と西洋の吸血鬼の要素をうまい具合に融合したものであるということはよく分かりました。
 一つ興味深かったのは、「鬼は基本的に組織化され得ない存在として描かれて」いる、という点です。前回鼎談では「残虐な敵に立ち向かうには、自らもまた残虐にならなければならない」、つまり「鬼を斬るためには鍛錬を重ねて限りなく鬼に近付かなければならない」という話をしていたのですが、今になって考えてみると、鬼と人間が紙一重の存在であるというのは一面の真実であるとはいえ、やや単純にすぎる議論だったのかなとも思っています。というのも、古来「人間はポリス的動物である」と言われてきたように、人間は鬼とは異なり、集まって共同体を形成するものだという側面を見落としていたからです。
 いま藤崎さんがおっしゃっていたように、現実の「労働者」は組合を結成し、団結して「資本家」と戦うこともできるわけです。ここで、公法思想史を専門とする藤崎さんに伺いたいのですが、人間が集まって共同体を形成するという側面を重視すると、『鬼滅の刃』についてどのようなことが言えるのでしょうか。

藤崎 確かに人間単体でみると、鬼に堕ちてしまう人はいます。しかし一方で労働組合のような共同体を結成する能力も持っているわけですね。鬼は無惨に対する労働組合を作ることができなかったわけですが、先程長谷川さんが指摘されたように、そもそも鬼は共同体を作ることができないのです。 その点で人間と鬼は全く異なります。
 「残虐な敵に立ち向かうには、自らもまた残虐にならなければならない」というのも、現実の逃れがたい一側面を現わしています。しかし、それは人間が鬼にならなければならないという意味ではなくて、人間は共同体として残虐な「怪物」になるという意味です。ホッブズのリヴァイアサンの話は有名ですね。自然状態の恐怖に耐えられない人間は、国家を作ります。『リヴァイアサン』の表紙は無数の人間から成り立っている巨人であり、いわば怪物なわけですね。鬼という単体の怪物に対して、人間は群れることによって怪物になると言えると思います。

髙橋 鬼は単体でも強力な怪物だから群れる必要がないが、人間は弱いからこそ群れなければならず、その結果として国家という怪物になるということでしょうか。

藤崎 そうですね。ただし群れを作るためには、何らかの紐帯が必要になるわけです。つまり社会契約ですね。ホッブズによれば社会契約によって自然権を国家に譲渡し、国家に保護されると同時に国法 に従う。ホッブズのモデルは現代人から見れば過激に映るかもしれませんが、まあ何らかの合意・契約の上に法が成り立つというのは他の政治思想家も言っていることです。

髙橋 鬼と拮抗するために人は群れる、そして群れを維持するためには法が必要である、という理解でよろしいですか。

藤崎 そう言ってよいと思います。「王としてのノモス(法)」という格言がありますが、国家には法が必要だと。ところで、ノモスを作るためには、「ロゴス(言語/理性)」が必要ですね。対話をしなければ合意も何もあったものじゃないわけですから。
 逆にいえば、鬼にはロゴスは必要がないわけですね。だって群れることができないのだから、そもそもノモスが作れない。一部の例外を除いた鬼は、長谷川さんのお話にもありましたが、無惨との一対一の関係のなかで、恐怖によって従わされているにすぎません。無惨の逆鱗に触れると殺されてしまう。しかも、何がその逆鱗なのか分からない。

髙橋 読者/視聴者の間で「パワハラ会議」と呼ばれているやつ(TVアニメ第26話、原作第6巻第51~52話)ですね。

藤崎 そうそう。何故か一番ヤバい奴(下弦の壱・魘夢)が生き残るという。無惨の逆鱗に触れると殺されてしまうというのは、神話において神々の気まぐれで人間の生が左右されるのに似ています。自分の力ではどうしようもないことなのです。鬼に秩序があるとしても、少なくともそれは人間同士が合意を結ぶ社会契約としての法とは違いますね。

髙橋 鬼にはロゴスは必要がないとのことですが、低級の鬼はともかく、ある程度人間を食らった鬼は言葉を話しますよね。珠世が「白日の魔香」で手毬鬼(朱紗丸)の口を割らせるという展開(TVアニメ第10話、原作第3巻第18話)もあった。うめき声を上げて徘徊するだけのゾンビや化け物とは違う。そこはどのようにお考えでしょうか。

藤崎 実は私も、最初それでびっくりしたんですよ。禰豆子が喋らない鬼だったものですから、鬼はみんなあんな感じで、理性のない化け物を退治する話だと思っていたら、普通に喋る鬼が出てきて驚きました。しかし、本来は鬼にロゴスはなくていいと思うんですね。鬼のロゴスにみえるものは、無惨が自身の目的に叶うように、仮に与えているだけであって、鬼は「ピュシス(自然本性)」しかない存在なのではないでしょうか。だからこそ、恐怖で従わせるしかない。言ってみれば鬼は、ホッブズにおける国家の形成以前の段階に留め置かれているわけです。
 まとめると、鬼の種族が絶対者としての無惨と個々の鬼たちの恐怖に基づく一対一の関係で動いているのに対して、人間の社会はノモス、つまり法に基づく国家などの共同体を前提にしているわけです。

髙橋 しかし、前回鼎談でも述べたように、『鬼滅の刃』においては「国家権力との関係、天下国家といった要素」は前景化しませんよね。鬼殺隊は国家に属する軍隊ではなく、産屋敷家の私設武装集団なわけです。人間が群れて鬼殺隊という団体を形成しても、社会契約に基づく国家になるわけではないように思うのですが。

藤崎 確かに『鬼滅の刃』には国家が出てくることはなく、鬼殺隊は単純にその代行でもなさそうです。いま鬼の種族と人間集団をピュシスとノモスの二項対立として単純化させましたが、鬼殺隊と鬼、あるいは鬼殺隊と国家という関係を考えてみるとき、もう少し議論は複雑になろうかと思います。
 その議論の前提として、3.で引かれた『アンティゴネー』をもう一度検討してみましょう。そこでは、クレオーンの「国家の法」とアンティゴネーの「家族の法」の対立というヘーゲルの解釈が紹介されました。『アンティゴネー』では、「国家の法」と「家族の法」の対立は、双方和解することなく悲劇に至ります。
 『鬼滅の刃』でも、この対立に似ていると思われるシーンがありました。TVアニメ第22~23話で、全ての鬼は殺せという隊規に従って、禰豆子を殺そうとする鬼殺隊の「柱」たちと、禰豆子を守ろうとする炭治郎が衝突する場面(原作第6巻第45~47話)です。ここでは隊規に従って禰豆子を殺そうとする「柱」と、妹を守ろうとする炭治郎の対立があります。
 しかし、鬼殺隊は国家ではないから、この対立は和解不可能な「国家の法」と「家族の法」の対立ではありません。ここは大きな違いだと思うわけですね。だから産屋敷耀哉はクレオーンとは異なり「柱」たちを説得し、炭治郎の訴えを聞き届けられる。鬼殺隊の隊規というのは、集団の紐帯という意味ではノモスなのですが、「国家の法」とは異なるということです。
 
長谷川 いまのお話を伺っていて思ったのですが、鬼殺隊の隊規は、むしろ「家族の法」の一種ということになりますね。産屋敷が隊士たちを自分の「子供たち」と呼んでいる(TVアニメ第5話、原作第2巻第8話)ところからも明らかなように、鬼殺隊は疑似的な「親子」なのですよね。擬制的親子関係というと、現代人は博徒的な組織を想定するかもしれませんが、ある時期までは割と普通に見られたわけです。最近でも、藤野裕子『都市と暴動の民衆史』(有志舎、2015年)という本で、まさに『鬼滅の刃』の時代の都市労働者がそういう結合を持っていたことが書かれています。まあ、このテーマの研究に先鞭をつけたのも柳田國男ですけれど(例えば、「親方子方」 『定本柳田國男集 第十五巻』筑摩書房、1969年、370~390頁)。そういうわけで、禰豆子の処遇問題にしても、家族の成員をめぐる家族間の諍いにすぎず、全く別の原理としての「国家の法」とバッティングするものではなかったので、比較的すぐに解決できたんでしょう。
 一方、「国家の法」の存在は、わずかに示唆されてはいるのですが、鬼殺隊の「家族の法」との衝突は、作品として徹底して回避されています。例えば、炭治郎が浅草ではじめて無惨と遭遇するシーンでは、無惨が通行人を鬼に変えたことで騒ぎが生じ、警察沙汰になります(TVアニメ第7~8話、原作第2巻第13~14話)。しかし、大変都合のよいことに、すぐにそこに現れた珠世が「惑血 視覚夢幻の香」とかいう術を使ってくれますから、刀を持って堂々と繁華街を歩いている炭治郎が職務質問されたりはしません。また、無限列車に乗り込もうとした鬼殺隊の面々がプラットフォームで駅員(当時は鉄道院の職員、つまり国家の官吏ですね)に帯刀をとがめられる描写があることはあるにしても、そのあとどうなったかは意図的にオミットされていますね(TVアニメ第26話、原作第7巻第54話)。

藤崎 まあ、たとえご都合主義にせよ「国家の法」との衝突を回避したことで、作品的には分かりやすくなっていますね。
 「残虐な敵に立ち向かうには、自らもまた残虐にならなければならない」という言葉に立ち戻ると、それは「群れる」という要素を抜きにして単純に考えるべきものではなく、人間は国家という共同体を作って初めて、怪物たりうるのだと解釈すべきではないでしょうか。しかし鬼殺隊は、その怪物化を避け、「家族の法」の共同体として、国家に対するオルタナティブとして挑戦的に立ち上がっています。
 つまり、「国家の法」を墨守した結果、家族を破滅させたクレオーンとは異なり、「家族の法」に基づき柔軟な決断ができる鬼殺隊は、結果的に集団に利益をもたらし、構成員の結束を固めることにも繋がっています。禰豆子を生かすという決断に見られるように、人間はこのような「緊急事態対応型」の共同体を立ち上げることによって、自ら怪物となることなく、鬼という怪物と対等に渡り合うことができるのです。

髙橋 藤崎さんはいま、鬼殺隊を「柔軟な決断ができる」、「『緊急事態対応型』の共同体」だとおっしゃいましたが、国家という怪物に対して親分子分関係(クライエンテリズム)を持ち上げるのは、端的に言って近代以前への退行ではないのですか。

藤崎 もちろん、それは大きな退行です。いや正直、疫病が流行っているのにバロック悲劇に出てくるような無能総理を頂いている国家に住んでいれば、鬼殺隊のような臨機応変な決断が可能な組織はうらやましいと心のどこかで思ってはいますよ。〔注:関連記事はこちら。〕

髙橋 いやあ、鬼殺隊に魅了されているのは、往年の「ヘサヨ」として大丈夫なのですか。

長谷川 そう、それじゃ「しばき隊」や「SEALDs」と変わりませんよね。

藤崎 それはいくらなんでも、いくらなんでもご容赦ください! でも、鬼殺隊が多くの人にとって魅力的な組織として描かれているのは事実だと思いますよ。その魅力に右翼と左翼の区別はないからです。公法学者カール・シュミットは、『パルチザンの理論』(新田邦夫訳、筑摩書房、1995年)で、もはや国家が担えなくなってしまった「緊急事態」における「決断」機能を、まさにこうした非正規の戦闘集団であるパルチザンに託すのですが、その中で彼が称賛しているのは、なんと毛沢東なのです。 我々ヘサヨは難しい立場に立たされています。しかしこうした組織については、原則的にはやはり拒否していくべきだと思います。憲法を破って戦うよりも、憲法を守って死ぬことのほうが誉れなのです。

6.  「サムライ」礼賛を超えて:公家的なものと武家的なもの

案外、その当時、かれらの心を占めていたのは、武家的なもののために血で汚されてしまった公家的なものの名誉回復策のほうだったかもしれないのだ。
――花田清輝「公家的なものと武家的なもの」
(『花田清輝著作集 Ⅳ』未來社、1964年、285頁)

髙橋 先程、鬼殺隊が「家族の法」に従う擬制的親子関係に基づく組織なのではないか、というお話を伺いました。私としては、擬制的親子関係、あるいは親分子分関係と言われると、博徒的な組織よりも武士団を想定したほうが分かりやすいのではないかと思うのですが、この点いかがでしょうか。

長谷川 そうですね、「家の子・郎党」だの「寄親・寄子」といった武士社会の語彙からも分かる話です。柳田國男も、先程名前を挙げた「親方子方」の論文で、このテーマを研究するためには中世の軍書や系図によって武家社会の慣行を見ておくことが必要と言っていますね(第四章)。
 鬼殺隊については、明治になって以降も武士的な結合を維持している集団と見てしまって差し支えないと思います。前回鼎談で、『鬼滅の刃』は「サムライ、ニンジャ、ゲイシャ、ハラキリ……といった日本イメージ」を売り物にする「セルフオリエンタリズム的な性格を帯びている」という指摘が出ていました。これは全くおっしゃる通りですが、日本に関するオリエンタリズム的な視線は基本的に武家的なものに偏っていますので、鬼殺隊がそういう集団であることは都合がいいんです。なにしろ、日本刀で敵を斬首するのが任務なわけですし、身内がヘマをしたら切腹するんですから(笑)。
 ところが、ここでどうしても注目しなければならないのは、鬼殺隊の敵である無惨はどうも平安貴族であるらしいところです。私はTVアニメしか見ていないのですが、まだアニメ化されていない原作の先の巻ではそういう話になっているんでしたよね?

髙橋 はい、鬼になる前の無惨はいわゆる平安装束を身に着けており(原作第15巻第127話)、平安貴族であることはおそらく確実でしょう。

長谷川 やはりそうなんですね。先程から申し上げているように、鬼の種族には組織らしい組織が見られないわけですが、これはトップが武家ではなく公家であるところに一つの原因があるかもしれません。公家だって自分に仕える、「さぶらう」侍は抱えているにしても、武士団的な結合はつくれないのです。

髙橋 ただ、鬼殺隊を従える産屋敷家は、無惨と同じ血筋とされています。産屋敷家が代々短命なのは、一族から鬼を出したせいで呪われたという設定になっているのです(原作第16巻第137話)。先程、鬼殺隊は「明治になって以降も武士的な結合を維持している集団」とおっしゃっていましたが、議論にほころびはありませんか。

長谷川 平安貴族の子孫には地方に土着して武士団の棟梁になった者もいるわけで、産屋敷家が無惨の一族から出たとすれば、そういった武士家系なのでしょう。屋形号を名乗っている(?)のですし。一方、無惨本人は、いかに個人的に絶大な武力を持っていたとしても、正真正銘の公家なのです。
 ということを考えると、『鬼滅の刃』は、武士的な集団が敵を倒していく「セルフオリエンタリズム」的な作品であると同時に、最終的に「武家が公家を圧倒する」物語でもあるわけですね。「武家が公家を圧倒する」は、鎌倉以来武家政権が続いたことも手伝って、むかしから非常に人気のあるお話です。一部の歴史学者はそういう歴史叙述を見ると「階級闘争史観だ!」と激昂してしまうのかもしれませんが(笑)、なんのことはない、江戸幕府のイデオロギーの時点ですでにそうだったんですよ。

髙橋 マルクス主義の退潮は西洋史界隈でも顕著でして、1980年代に学生だった人から、マルクス主義を追い落とすのは「親殺しの快感があった」という話を伺ったこともあります。それはともかく、その江戸幕府のイデオロギーとはどのようなものだったのでしょうか。

長谷川 新井白石の『読史余論』(正徳2(1712)年)を読むと、奈良以前のように武装しなくなった平安貴族は統治能力を失って久しい、武家も京都に住んで公家化してしまうと武家らしい武家にとって代わられる、という認識に溢れていますね。例えば、平氏政権について、白石は次のように語っています。

昔源平の両家、相傚びて朝の御固めにおはせし時、弓馬の術いづれもまさりとおとりはあらず、保元・平治の乱に、平家の勲功有りし事、源氏の人々には猶まさり給へり。然るに、わずか廿余年が程に、其武事殊の外に衰へ、源氏の兵起るに及で、たつあしもなくかけ敗られ給ひし事、其家運の尽ぬべき時至れりとはいへども、平家の人人、此年月都の内に住み給ひ、公家の人々と朝夕に親みならひ、武勇の事、いつとなく打忘られしに因れるなり。
(村岡典嗣校訂『読史余論』岩波文庫、1936年、267頁)

遊んでばかりいる公家は常に武家に敗れる、というこの手の認識は、「富国強兵」をうたう明治の御代にも引き継がれ、20世紀になっても相変わらず武士が賞賛され、ついには「サムライ」がオリエンタリズム的な日本のイメージとして定着するにいたります。

藤崎 スポーツのナショナル・チームは、やたらと「サムライ」を冠したがる傾向にありますね。サムライジャパン、サムライブルー……。これも一種のオリエンタリズムの内面化、セルフオリエンタリズムといえるでしょう。

髙橋 つい最近のアニメでも『体操ザムライ』(2020年10月期)というのがありましたね。主人公の新垣城太郎は「サムライ」の異名をとる体操元日本代表という設定です。

長谷川 面白いのは、まさにこのような「サムライ」礼賛の風潮に対する嫌がらせ的に、話はそんなに単純じゃないだろう、と半畳を入れた人物がいることですね(笑)。先程引いた新井白石を題材に「公家的なものと武家的なもの」というエッセイを書いた、花田清輝です。白石は、あのような文章を著している一方で、実は公家的なものに非常な憧れがあった幕臣で、京都に行って有職故実を研究したり雅楽を流行させようとしたりしていたわけです(『花田清輝著作集 Ⅳ』未來社、1964年、283~291頁)。白石に限らず一般的に、花田が示唆しているように、権力を奪われた公家を馬鹿にしながらも公家の文化的権威にどうしても憧れてしまうのが武家なのですよね。それは、大学を軽蔑するそぶりを見せながら「実務家教員」になりたくてしかたがないビジネスマン、という具合に反復されているのかもしれませんが。

藤崎 そのような現代の武士たちが「文化的なもの」を身につけようとして、『日本ウィ紀』を読んでしまったり、「YouTube大学」で「学んで」しまったりといった惨事も起こってしまっているという。

長谷川 そういう「武家的なもの」との対比という意味で、『鬼滅の刃』の「ラスボス」である無惨が公家というのは、なかなか上手いことをやっているなあと思いましたね。鬼と鬼殺隊の戦いを「公家的なものと武家的なもの」の相克と見るならば、鬼になりたくなって実際になってしまう鬼殺隊士が出てくるのも当然に思えます。20世紀の武士としての鬼殺隊は、短い命を燃やし尽くして死ぬ、前回鼎談に出てきた表現で言えば「パッと咲いてパッと散る」ことしかできないのに対して、鬼は不死の命を持っているわけです。不死の命は、永続する「文化」と言い換えてもいいでしょう。「サムライ」としての主人公たちが日本刀で敵を斬首するセルフオリエンタリズム漫画である『鬼滅の刃』は、一皮めくれば、武家的なものは公家的なものに実は依存せざるを得なかったという、苦い認識を隠しているのかもしれません。

(以上)

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