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ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』を読んで

この小説は十代の時に買って読みましたが、断片的にしか覚えていなかったので、割りと新鮮な気持ちで読みました。
昨日読みましたが、初めて読んだ十代の時に感じた衝撃を再び受けました。自分の語彙力の欠落に失望すると同時に、厳密な言葉を用いた文章の美しさに心を動かされました。

デカダン、唯美主義、ダンディズム、“新”ヘドニズム……
ヘンリー卿の“気ままな”ウィットに富んだ言葉の数々は私の心の奥底で息を潜めていた得体の知れない観念を開花させようとしました。

「誘惑を除き去る方法はただひとつ、誘惑に負けてしまうことだけだ。反抗でもしようものなら、人間の魂は、自分に禁じたものに対する憧れで毒され、魂の醜悪な法則ゆえに醜悪とされ不法とされているものに対する欲望に悩まされることとなるだろう」(43頁)
「それこそ人生の偉大な秘密のひとつだーー感覚によって魂を癒し、魂によって感覚を癒すこと、それなのだ」(48頁)
「ありふれた丘の花は一度はしぼむが、また花を咲かせる。きんぐさりは来年の六月にもまた今と同じ黄色に輝くだろう。もうひと月も経てば、せんにんそうには紫の花が咲き、くる年ごとにその葉は緑の夜のように同じ紫色の星を抱き続けるだろう。けれど、人間はその若さを取り戻しはしない。二十歳の時に烈しく高鳴った歓喜の鼓動はやがて鈍り衰える。四肢は力を失い、五感は朽ちてゆく。こうして我々は醜悪な人形となり果て、怖れのあまり逃げ出した過去の情熱や、思いきって身を委ねることのできなかった誘惑の思い出につきまとわれるようになる。若さ!若さ!若さを除いたらこの世に何が残るというのだ!」(52頁)
「青春を取り戻したいなら、過去の愚行を繰り返すにかぎる」(87頁)

こういったヘンリー卿の刺激的な言葉はこの小説の見所の一つです。

背徳を享楽し堕落してゆくドリアン・グレイを、どうしても他人とは思えませんでした(太宰治『人間失格』の葉蔵ような感じで。葉蔵よりもドリアンは退廃していますが、どちらも堕落と美しさがある)。
ドリアンは罪を犯し、その罪によって苦悩します。
シビル・ヴェインを自殺させた。バジル・ホールウォードを殺し、その罪を隠蔽した。そのためにアラン・キャンベルが自殺した。
嫌と言うほど罪業を重ねた。

“忘却を買うことのできる場所”である阿片窟で、旧き罪悪感の記憶を新たな罪悪の狂気によって抹殺する。

「ぼくという人間そのものが、ぼくの重荷となった。ぼくは脱け出したい、逃げ出して忘れてしまいたい」(386頁)

「おれのあの善行も、結局は虚栄にすぎなかったのか?あるいは、ヘンリー卿が嘲笑しながら言ったように、目先の変わった感覚を味わおうとする欲求にすぎなかったのか?それとも、あるがままの自分よりも立派な行為をしようと仕向ける演技に対する情熱だったのか?いや、この三つの動機が全て混じっていたのかもしれない」(417頁)

ドリアンは善く生きようとしたが、代わりに罪悪をその顔に現す肖像画は醜いままで、慚愧の念により焦燥し耐えかねて自分の肖像にナイフを突き刺した。

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なんでこうなったのか、ドリアンは善い青年でした。バジルが描いた肖像画のせいか、または……
何もかもが遅すぎたのでしょう。私もドリアンと同じく罪を重ねて生きていているから、ヘンリー卿に感化されたのも、シビルを愛したことも、バジルを殺してそれを隠蔽したことも、シビルの弟に殺されそうになるのも、全部身に覚えがあるわけないのに、自分の良心の呵責に似た部分を見つけてしまいます。10代の時に読んだ時は全くそんなこと思わなかったのに。

この小説のバジル、ヘンリー卿、ドリアンはワイルド自身を反映させたものだと言いました。
バジルは彼が思う彼自身、ヘンリー卿は世間が思う彼、ドリアンは彼がなりたかったもの。
そうすると、ワイルドがどう生きたのか、もっと興味が湧きました。

この小説は他人に勧めるものじゃなく、自分の中に仕舞い込んでおきたいと思っていました。
でも今は、この小説をあの人に読んで欲しいと(押し付けがましくも)思ってしまいました。
魅力的で、十代の私に新たな観念を植え付け、何度目を通しても未だに解らないことだらけだけど、この小説ほど強く影響を受けた本は今のところありません。
といっても、この小説以外にも愛読書はあるし、他の小説や漫画からも影響を受けているから、私自身のアイデンティティはよく分からないし、自分のことをもっと精密に分析したいと思いました。

今日は、昨日読んだ『ドリアン・グレイの肖像』をもう一度読んでいたのですが、明日はまた新しい本を読もうと思います。

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