随筆(2021/2/6):小学校算数水準での数の掛け算の「順序」という、しばしば「数学」「教育」上有害にはたらく、公理っぽい何か(D.数の掛け算の「順序」の、数学上の副作用の害とは、「頑張ったら罰がある」という学習的無力感を植え付けることである。これは、まずい)
2_7.副作用の害とは、具体的には何のことか
2_7_1.数学教育を真面目にやればやるほど、数学上誤ったこだわりを血肉と化してしまうというの、「頑張ったら罰がある」という学習的無力感の源に他ならない
数学として見た時の、副作用の害とは、何のことか。
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「これは、数学としての観点からは、『小学校算数水準での数の掛け算の話』『ではない』」
「『社会生活で、性質としての単位や、個々の条件や、全体としての結果が問われて、しかもそこに数が出て来る場合の話』だ」
この話をしないと、本来は数学ではよしとしていない、数学教育上の話の責任を、数学に負わせることになってしまう。
こういう学習、重ねれば重ねるほど、数学から外れる。ということになる。
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こうなると、
「どうも、やればやるほど、数学の理解に害があるのではないか」
「というか、正規の方法では、まともに数学を教えてくれないのではないか」
そう疑われる可能性が高い(何せ、現にそうなっちゃっているのだから、「その通り」としか言いようがない)。
一旦そう疑われたら、やる気のあった生徒はもう、数学教育や数学教師のことを何も信じてくれなくなる。
学習的無力感の塊になる。
数学の勉強を「やろう」などとは思わなくなる。
だって、
「頑張ったら罰がある」
んだから。
「数学の勉強、努力しましたね。
これはご褒美の、数学そのものには何ら役に立たない、数学の教材と称した別の何かです。
これをもって、数学の勉強における、さらなる頑張りを期待します」
というの、まあ罰でしょう。
職場に7〜8年前の、今や到底実用的でない、劣悪なスペックのパソコンを、完全に善意で満面の笑みと共に支給するよりも、もっとずっと酷い仕打ちをしているぞ(この例え自体、されたら仕事が破綻するレベルの、相当酷い仕打ちだけど)。
こんなもん、やってられるか。
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数学教育を真面目にやればやるほど、数学上よくないこだわりを己の血肉と化してしまうというの、
「頑張ったら罰がある」
ということに他ならない。
こうなるようでは、その数学教育は、数学に対して有害だと言えよう。
挙句、やればやるほど酷い目に遭う。
お話にならない。
これが、数学として見た時の、副作用の害です。
それはいくら何でもあんまりであろう。
これは数学教育なんだ。数学に寄与していて欲しい。これが、数学を学ぶ、正規の方法であって欲しい。
当たり前のニーズでしょう。だから、それは満たして欲しい。
でも、そうならない。
そこには別の事情がある。
それは、何か。
(次回は、数学教育における副作用の害の話をします)
(これは数学のみならず、むしろ数学教育においてこそ、メリットを根本から吹き飛ばす、致命的なデメリットとしてはたらきます)
(ということで乞うご期待)
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