随筆(2024/8/21):怠惰から丁寧へ至る道
1.怠惰から丁寧へ至る道
よく、
「丁寧さは才能であり、秀才はしばしば努力の天才である」
という話がなされます。
この言説はしばしば
「丁寧さや努力、大変だし、常人がそこまで真剣にやるべきとまでは言えない、無理してやらなくてもよいこと」
という文脈でなされます。
私もまあまあ丁寧にやる方だし、努力する方の人間ですが、この文脈の方には少し首を傾げるところがございます。
「大変であることは否定しないが、
食ったことのないもん食って満腹になる大変さとか、
呑んだことのない酒呑んで不思議な酔い方をする大変さとか、
やったことのないゲーム遊んでヘトヘトになる大変さとかと、
だいたい同じアレだぞ。
そしてそれらがグルメや酒やゲームをやめる理由になんかならないだろ。
知らんことをすることは疲れるが、その疲労は長期的に見れば、貪欲を前にして常に敗れる。
丁寧も努力も、貪欲から出たものなら、ふつうにガンガン行っちまうもんだぞ?」
こうです。
知らないものへの体験に対する、好奇心と貪欲から出発した努力と丁寧さは、グルメや酒やゲームのように、止め処無く延々とだらしなく続けられるものです。
という話を、これからします。
1.1.怠惰から来る退屈
心地よいとは言えないかも知れないが、家とは呼べるところで、何もせず、体力気力を温存することは、気ぜわしくない限り、誰にでもできます。
怠惰であることには、何の美点もないかもしれません。
しかし、生きていく上では、体力気力の回復の過程は、ないでは済まされません。
そこであくせくしていたら、体力気力の回復などおよそ不可能でしょう。
怠惰は、回復のために、極めて重要な姿勢です。
***
とはいえ、たいてい、怠惰のまま過ごしていたら、「退屈でしょうがない」という心理状態になります。
「何か」したくてしょうがなくなるでしょう。
とはいえ、「何か」する元気はまだない。
具体的に「何」がしたいという訳ではない。
「何もしていない」状態が苦痛である、というだけです。
これはまだ別に回復しきったことのサインではありません。元気はまだないんだから。
その時期を
「結局怠けたいだけなんだろう。やる気があるように見せかけて、何もやりたくないのだ」
と罵る向きもあります。
バカみたいな話ですが、
「蹴飛ばすと治るから蹴飛ばしているのだ」
という認識で繰り出されるキックは、回復に寄与しません。
むしろダメージを与えて、より長い回復を余儀なくさせるか、しばしば回復不可能な状態にします。最悪、当事者が苦しみ抜いて死にます。
だからこの手の言説は無視して回復を待ちましょう。
1.2.退屈から来る好奇心
そのうち、少し元気がでてきたら、外界に興味が戻り始めます。
ダラダラとスマホをポチポチしながら、
「久々にあれがしてえ」
「久々にあそこに行きてえ」
「久々にあれが食いてえ」
とか、そんなことを思うようになるかも知れません。
もうちょっと元気になると
「あれまだやったことねーな。どんなもんだろう。いつかやってみてーな」
「あそこまだ行ったことねーな。どんなもんだろう。いつか行ってみてーな」
「あれまだ食ったことねーな。どんなもんだろう。いつか食ってみてーな」
という風に、好奇心が芽生えてきます。
やったことのないことに興味を示している時点で、かなり良くなっている証拠ですね。
少し気分が前向きになっている自分に気付くかも知れません。
1.3.好奇心から来る貪欲
やれる程度には元気になり、実際にやってみて、楽しい。となると、これはもう大いに回復したと言えるでしょう。
とはいえ、その頃には、やりたいことはどんどん増えていくはずです。
私は食べる人なので、
「食ったことのない店に来たぞ! ウメー! メニュー見てたらあれもこれも食いたくなってきたな。次回はこれを食ってみるか」
というのはしょっちゅうです。
変な言い方ですが、回復にさえ気を付ければ、貪欲になるのは坂道を転がるようにいとも容易いのです。誰にでもなれます。
ここまでの時点で、努力はほぼ必要ありません。「結果的にこうなっている」「気が付いたらやっている」プロセスだけで出来ている。
(通販かスーパーで御飯と惣菜買うくらいの気合は要りますが)
1.4.貪欲から来る凝り性
さて。
貪欲で、ある程度元気だと、より刺さる快楽を求めて、快楽を得る方法を多少凝るようになります。
凝り性、大した話ではありません。
「今日はラーメンの気分じゃないな。うどんとかそばとかパスタとかだ。電車やバスに乗って、あの店まで行ってみっか」
とか、その程度の話から始まります。
そんなことをしているうちに、いつの間にかかなり快楽に対してマニアックになっている、感応(官能)的になっている自分に気付くでしょう。
1.5.凝り性から来る努力
ちなみに、凝り性という時点で、単なる受け身ではなく、かなり前向きにやっているということです。
凝るために費やされるリソースや労力は、実はこれは努力です。
そしてこれは、より大きな快楽を、しかも今フッとやりたいと思ったことを実現するための努力です。
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努力という言葉で連想されるキツさは、大抵
「やりたくないことに努力を割いている」
ところによるところが大きいものです。
もちろん努力そのものがリソースや労力の消耗であり、それがキツい、というのもあるのですが、単に消耗だけではそこまでキツくなりません。
遊びにおいては、やってる最中「楽しかった」なら、疲労にかかわらず「またやろう」と思うのはかなり自然なプロセスです。
仕事でも「報酬が十二分にある」なら、疲労にかかわらず「この仕事(かねづる)を手放したくない」と思うのはかなり自然なことです。
遊びにおいては「楽しくない」、仕事においては「報われていない」と感じると、それに対する努力が一気に世知辛く見えて来る、ということです。
そして凝り性は、楽しいことをやるための努力の向き方です。
凝り性に基づく努力は、努力としては「割ける」努力です。
キツい、という気持ちは
「己は今これがやりたいんじゃい。やるかやらんかのゼロイチの話じゃい。やらんゼロより、多少キツくてもやってイチを得た、ということの方がはるかに脳は喜ぶんじゃい」
という短絡的な回路に蹴り飛ばされます。
短絡、大事。
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とはいえ、よほどキツいと、それはマイナスワンになり、上の話は成り立たなくなります。
が、それは「よほどキツい」時に限られます。
そうでない場合は、「やりたい」という短絡が勝るはずです。
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そして、ここの絡みで、一つ、気を付けるべき話があります。
キツい努力をたくさんして、ある日バテると、「なにもかもがよほどキツい」という学習を得てしまうことになり、何もかもできなくなります。
よくある話です。これは引っ込み思案とかそういう問題ではなく、学習です。
周囲が
「お前は引っ込み思案だからダメだ。もっとブレーキをベタ踏みせずにアクセルかけて走れ。できない? だせぇ。要は勇気がないんでしょ?」
と突っ込めば突っ込むほど、当事者は
「あっ! こいつら、よほどキツいことをやりまくって何もかも失敗した、という経験のない甘ちゃんか、失敗経験を忘れるバカの暴走列車だ! 甘ちゃんのバカの暴走列車、勝手にいつかどっかで事故って死ねばいいが、じゃあ俺を巻き込むな。お前らだけで死ね」
としか思わなくなるでしょう。
だって本当にそれは、よほどキツいことをやりまくって何もかも失敗した経験がない生存者バイアスの中で喋っているか、よほどキツいことをやりまくって何もかも失敗したにも関わらずそれを忘却の彼方に送り込むことで踏み倒しているかのどちらかでしかないからです。
「俺は過去に倒産したが、再出発を恐れないし、何も怖くないぜ! ということで資金が欲しい。分けてくれ。後でのしつけて返すから」
という元社長、割と真剣に周囲にうろついていてほしくないタイプの人物でしょう。
ここでは周囲の方がそれと同レベルのことを言ってるんだから、そりゃあ同レベルだとしか思いようがないし、じゃあアドバイスが脳に通る訳がありません。
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さて、彼らから唯一学ぶべきことがあります。
「彼らはシリアスにキツい努力をそれほどしていない。
シリアスにキツい努力は年にせいぜい一個か二個くらいしかしていない。
だからこそ今こうして潰れていないでヘラヘラしていられるのだ」
これです。
回復することを考えるなら、浅瀬でチャプチャプやるのが一番です。
そうしたら、よほどキツい努力を、年に一度や二度はできるくらいの気力が整い、努力して、それなりの確率で成功するのです。
言葉を変えると、
「自分はシリアスにキツい努力「しかしてこなかった」のではないか?
今や、できそうなことが、目に見えるリストの中に何もないのではないか?
そうではなく、できるやつだけやって、小さな報酬と、それによる回復を積み重ねる方が、今はより利得が大きいのではないか?
シリアスに頑張るのは、ある程度回復が練り上がった後にしよう」
ということなのです。
要は、今目に見えているのが、やりたいがキツすぎることだらけだったら、それは全部マイナスワンなので、今はやめておきましょう。努力の類いをなるだけやめましょう。
今まで言ったように、怠惰に戻り、退屈になり、好奇心が、貪欲が、凝り性が湧くまで、回復を待ちましょう。
今まで書いた、努力の要らないプロセスに、一旦戻りましょう。ということです。
だって今そこすらできないくらいヤバい状態に陥ってるんだから、その先をやろうったって、できないですよ。そりゃあ。
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一旦仕事を辞めると、立場は不安定になるので、手癖で働けて、報酬が得られるなら、働きながら回復するのもよいでしょう。
例えば週に一二回くらいスーパー銭湯でぐだぐだ風呂入ってコーヒー牛乳飲んで休憩室でゴロンしているのもいいですね。
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回復したら、凝り性の赴くままに、努力できる自分に気付いているはずです。
もう少し高いレートで成功することも、以前より容易になっているはずです。
そして、その後も
「努力しすぎて報われなかったやつが努力しないのは、記憶力や学習能力の問題だとは認め難く、勇気がないからとしか考えられない」
などというバカみたいな話を決してしないようにすれば、それが一番なのではないでしょうか。
1.6.凝り性から来る丁寧さ
そして、やっていく凝り性と、そこに向けて注がれた努力のクオリティは、成果の丁寧さのクオリティに直結します。
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ここで舌打ちして
「嫌なことに割く凝り性や努力のリソースなどない。
好きでもないことは雑にやるに限る。
そんなくそくだらない世間の連中の穢れた目的のために、己が凝り性や努力を練り上げてきたのではない。
人様の神秘的なやる気を、貴様らの親切めかした全体主義的カルト思想の食い物として、チュルッと吸うな。
その臭い口を閉じたままたちどころに窒息して全員死ね」
と言いたくなるかもしれません。気持ちはもちろん分かります。
が、好きなことで凝り性をやりまくっていると、好きではない、どうでもいいことに対しても
「この手癖で、あのクソかったるい工程をやっつけて、やつらが何の文句も口にしなくなったら、さぞかしせいせいするのでは?」
と思う日が、そのうち来ます。
そうなると、小さな工夫でより大きな成果を上げることに血道を上げ出すことになるでしょう。
これは、些細な丁寧さをたくさんやることで、全体の仕事の丁寧さが外形的に上がる、という話です。
***
細部の仕事の丁寧さや、全体の仕事の丁寧さの外形を褒められながら、
「は? 仕事全体のクオリティ「以外」の、たかが小手先の、たかが外形を、何褒めてんだこいつら?
仕事、舐めてんのか? バカか? 目利きもない雑魚の癖に、何偉ぶってやがる。惨めったらしいんだよ貴様ら」
と思うかもしれません。
が、仕事の成果を評価する時に、やっている人と評価する人との評価点はもちろん異なります。
仕事「が」上手く行ったかどうかは、それは仕事をやった人の方がたいていは詳しいでしょう。
しかし、仕事を評価する側は、納品された仕事の成果がパッと見にまともそうかどうかを重視します。
そうでない仕事は、使う前に「ダメそう」と思ってしまうし、その印象はまず覆せません。
人間、きれいに盛り付けられた料理の方が、豪快ですらない雑な盛り付けの料理より、たいていは旨く感じられてしまうのです。
外形、つまりは物理や光学を、舐めてはいけない、ということでもあります。
仕事の成果を舐めさせないために、細部を丁寧にやることには、外形的な効き目があります。
人は全体を見た後で、細部の雑さや丁寧さに目が向くものなのですね。
だから、丁寧であることは、仕事の成果を舐めさせないことに、そして評価に効きます。
2.丁寧にやる才能は、実は太る才能と同程度のものです
怠惰と退屈と好奇心と貪欲と、凝り性と努力と丁寧さは、実は己に才能が乏しくても練れる鍛錬です。
たとえそれが才能に見えたのだとしても、それは実質的には、太る才能と同程度のものです。
怠惰は誰にでもできる。退屈もそうだし、好奇心も、貪欲もそうです。
そこまで来たなら、凝り性になるのも簡単なことだし、そのための努力など屁でもありません。
この努力の手癖を、様々な分野への丁寧さに向ける。(向き方については既に説明したところです)
こうすれば、仕事をすることも、評価させることも、かなり容易になってくるでしょう。
5年で己を支えうる武器になり、10年で20年30年戦える兵器となる。
この功夫(クンフー)で、生ある限り、世界と渡り合ってやりましょう。
だからさ。
皆、頑張ろうな。
方位を見誤らず、ダラダラと距離を伸ばしていこうな。
いつか、方位の先のどこかに、届くだろう。
そう信じて、明日のために今日も寝て、来年の今頃には好きなことをして、再来年の今頃にはいろんなことをしていような。
5年後の、やれてる自分を、想像してみような。
息はキツそうだが、目をガンギマらせていて、大暴れしていて、やりまくっていて、なんか…こう…カッコイイなあ。
ああなれたらいいよなあ。
なろうな。
(以上です)
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