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日記(2023/8/11):でかいミッションが終わって次のミッションの終わりがはるか先になっている時特有の虚無感


1.犬神工房『胎界主』初見実況『犬界主』ミッションのとりあえずの完了

ここしばらく、あの奥深く手強いWEB漫画、『胎界主』( http://www.taikaisyu.com )の第二部までの初見実況をしており、それが先日終わったのでした。

胎界主の記事をまとめた胎界主系マガジンはこちらです。

https://note.com/inugamikoubou/m/m8592eacd1c01

胎界主初見実況は、Twitter(2023/8/11現在ではX)では #犬界主 のタグでやっていたものです。
まー長かった。
あと、紙芝居屋のように読者が乗れるように臨場感あふれる書き方にしたのですが、丁寧に描写を拾っていった結果、ダラダラ書き過ぎたのは良くなかったな。余計長くなってる。
5年ですよ5年。何タラタラしてんだお前。皆そこまでついていけないよ。

とはいえ、大変実りのある得難い体験でした。
全体小説ならぬ全体漫画といった感じで、人の世にたくさんある壁とその踏破を、あまり余すところなく丁寧に描いている作品でした。
また、漫画ならではの
「あっここでこの視線と表情になるということはこういうこと考えててこういう気持ちなんだな」
という描写が活きており、
「今までの描写の積み重ね、大事なんだなあ。出来事や内面が深く読めるようになるもんな」
と感じ入りました。
自作の創作活動にも大きく寄与することでしょう。私の主たる媒体は、漫画ではなく小説なので、ちょっとそこは気を付けねばなりませんが。

2.今は数学本をひたすら要約している

さて、今何をやっているかというと、いつもの通り、数学本をひたすら要約しているのです。
今読んでいるのは新井敏康『数学基礎論 増補版』です。

公理(特定の前提の約束事)から適正な推論規則(特定の操作の約束事)で導出した中間生成物を、定理と言います。
定理が間違いなく上の前提と操作に適う場合、これは物事の説明や、他の数学のために使っても問題のない、便利な道具となります。

数学においてはコンパクト性定理と呼ばれる定理があります。
今回扱うのは、数学の特に論理学におけるジャンルの一つ、意味論におけるコンパクト性定理です。

極めて大雑把に言うと、論理学はレベル分けができます。
なんかよくわからないがある変数や、その延長上である論理式(我々が扱う文もふつうこれです)や、さらにその延長上である証明の挙動を扱う丸裸の論理学
それと、その性質を調べるために、原始的な数字で番号を振り、適正な操作ができるようにした、つまりはそういう性質を満たす記号を作って丸裸の論理学をラッピングした記号論理学があります。
原始的な数字やその適正な操作や記号は、丸裸の論理学と適正な素材をこねくり回すことでできます。前者によって後者が構成できるので、丸裸の論理学論理学レベル1記号論理学レベル2である、程度に思って下さい。

記号論理学にはさらに細かいジャンルがあり、その中には記号論理学の意味論というものがあります。
意味論は「この論理式は正しいか。その際、どういう状態を「正しい」と見なすか」ということを扱うジャンルです。
世間一般的にも、論理学に求められていることの一つとして、
「導き出された文が正しく、だから説明の道具として使えるか」
はかなり大きなポイントでしょう。そこはちゃんと研究できていなければなりません。

意味論では意外な見解が示されます。
我々の考えるような正しさが成り立つには、何らかの議論領域が必要だというのです。
「3÷2という数がありますか?」という問いは、議論領域を自然数全体の集合とすると、「ない」が答えになります。整数全体の集合でも「ない」ままです。ところが、有理数全体の集合となると、これが「ある」になるんですね。(1.5は有理数であり、有理数全体の集合を議論領域としてから初めて成り立つ数だからです)
だから、議論領域次第で、同じ問いに、異なる答えが出てきてしまう。というのが、意味論における「正しさ」についての見解です。
驚くべきことですが、言われてみればそうである。と言わざるを得ないでしょう。

その上で、意味論におけるコンパクト性定理の話をします。
たいていの数学の議論では、議論領域は無限大の広さを持ちます。
自然数全体の集合は、最も初歩的な、最も小さい無限です。そして数学ではこれより大きなサイズのものがたくさんでてきます。非常になじみ深いもので言うと、線もそうです。無限に区切れるし、点が無限に埋まっているからです。
記号論理学の様々なジャンルでは、こういったものについて調べねばならないことが多々あります。
とはいえ、調べる際には、有限のサイズの議論領域で調べた方が、もちろんはるかに楽です。

当然ながら有限より無限の方が大きいので、一般に何らかの無限集合は何らかの有限集合を部分として持てます。
意味論におけるコンパクト性定理とは、任意の有限部分集合で正しい文は、全体となる無限集合でも正しいし、逆も成り立つ、というものです。
つまり?
有限である部分集合を取って、そこで文が正しかったことが確認できたとしましょう。
またその文の正しさがどんな有限部分集合でも成り立つことも確認できたとします。
こうすれば、無限集合全体でもその文が正しいと言える訳です。
1つ目と2つ目のプロセスは、やればできることであるので、これで3つ目が得られるというのは大きなメリットです。
落語家の立川志の輔が数学者の秋山仁に
「選挙で出口調査がなぜ通用するかって? 味噌汁の味を見るのにどんぶりなんか使わないで小皿で十分だろ? それと同じだよ」
と言われた話があるのですが、意味論におけるコンパクト性定理とは、この手の「一部調べれば済む」話の極めつけみたいなやつです。
まさかそんなうまい話があるとは…

さて、これの証明にはしばしば完全性定理というものが使われます。
「特定の論理体系では、証明可能ならば正しく、正しければ証明可能である」
という、これも極めて便利な道具です。
しかし、これを使いたくないという動機が、実は世に存在していたりします。
私も、数学の様々なキーワードを、循環定義にならないように並べるというプロジェクトをやっておりますが、完全性定理をコンパクト性定理の前に置くと、作業上どうしても循環定義が無くせなくなってしまい、一時期これで困り果てていました。(詳細な説明はテクニカルになるので避けます)
そして、コンパクト性定理を議論領域のサイズによって場合分けして、いずれにおいても完全性定理を使わないで済ませる新井本の証明法なら、循環定義の問題は最終的には直せることが判明したのでした。

当時買った動機はこれでしたが、その上でさらにこの本から取れる知見を全部拾おうとしたのです。
以前買ったケネス・キューネン『集合論』とオーバーラップする、同時に読むことで理解がより深まるところや、電子技術的にはともかく数学的応用には乏しく見える計算理論の本の話題を、なんと既知のキーワードにつなげていくような話も多々あり、そういう意味ではこれはたいへんに面白い本です。
まだ読み終えてはいませんし、今年終わるかどうかも怪しいのですが、まあやってますね。

3.でかいミッションが終わって次のミッションの終わりがはるか先になっている時特有の虚無感

3.1.「はい、次」

さて、それはそれとして、今、どうしようもない虚無感が、何かあると脳裡を過るのです。

今年の夏は酷暑なので、空調を以てしても、自律神経はメリメリとやられていき、快適さと集中力がメチャクチャになっているのは疑いようもないところです。

それとは別に、やはり、

  • でかいミッションが終わった

  • 次のミッションの終わりがはるか先になっている

この2つが大きいのでしょうね。

でかいミッションが終わること自体は喜ばしいのですが、急に終わると、脳がびっくりするんですよ。
(あれ? 忙しくて当然なのではなかったのか? 何をのんびりしている? 「いつも通りに」、「とにかくやる」モードではないのか? そうでないならおかしい)
などという糾弾が、脳の中であるのです。

まあ、警戒し過ぎなのは明らかですし、もうお外が忙しくないなら、忙しく「しよう」とせず、休んだ方がはるかに健康的です。
ですが、生き物として考えれば、警戒すべき状況が続いていたのに気を抜くようなやつは、何かあったら直ちに死んでいくんだから、それに抗う機能が埋まっているのは、ある意味しょうがない。

3.2.本を読んでも読んでも終わる気がしない

ということで、次のミッションとして、
「今溜まっている新井本の読み残しをひたすら読み進めていく」
ということでやりまくっているのです。
しかし、少なくともこれを書いている時点であと3章、ざっくり約200ページ残っている。いつ終わるのか? 何とも言えない。
しかもこれはケネス・キューネン『集合論』の副読本として読んでおり、つまり後で『集合論』の読み残しも読まねばならない訳です。(重複したところは読み飛ばせるので、そこはマシなのですが)
そっちに至っては、いつ終わるか、見当も付きません。

そもそも、舐めるように丹念に読むから、こんなに時間がかかっている訳です。
もっとざっくりと掻い摘んで読めば良いのでは?

3.3.その本の(場合によっては複数ある)ゴールを見て、既知の内容につながるところのみ読む。それ以外は今回飛ばす

今回読んでる本は、論点は多いのです。
だが、よく使う微積分や線形代数、あるいはもっと高度な数学につながる論点は限られて来ます。
この本だと、差し当たりのゴールは5つありますが、使う可能性があるのはそのいくつかだけです。
そこまでのロードマップは必要であるが、それ以外は今回飛ばして良い。
という路線でやっています。
これで大筋で要らん作業はしてないからその分終わりは早まっているはずです。

3.4.重要そうなものと未知のものだけ扱う

ロードマップを描く以上、使うキーワードは、極力少なければ少ないほど見やすくて良い訳です。
というか、ロードマップなのだから、出てくる項目はそれなりに重要そうなものか、あるいは聞いたことのない、知っておいた方が良さそうな未知のものであるべきです。そうではない些末なものが載っていたら、それは可読性に難あり、という話になってしまいます。

だから、名前付き数学的対象の定義補題(他の定理を導くのに使う道具的な定理)や定理以外、基本的には用いないようにすればよいのです。

または、数学で定理の証明の際にはしばしばあることだが、全て備えているべき性質としての「条件A,B,C(○○定理)」とか、漏れのない部分としての「類型I,II,III(○○定理)」とかについては、たいてい(A)だの(I)だのの目印が書いてあるものですので、それらを項目にしても良いでしょう。
それらが最終的に合流した先に「○○定理」という項目があれば良い。という発想です。

また、何度も何度も使う記号は、そのうち名前を付けて、項目として明示したくなりますので、これも独立させれば良いでしょう。

それ以外は?
項目を設ける必要はない。

これくらい割り切らないと、項目が体感的には果てしなく増えてきてしまいますし、時間もうんざりするほどかかってしまいます。
そしてそれはロードマップに出す値打ちのない項目です。
だから、最初からバッサリと省略することにしたのでした。

3.5.早く数学本を読み終えたいが、その後どうするのか?

さて、もしこれで、数学本を読み終える目処が立ち、そのうち本当に終わったとします。
その後、やはりきっと、
「次のタスクが残っている。終わらせなければ本当に自由になれない。スッキリできない!」
または
「何もやることがない。無の時空が迫り来る。俺はどうすればいいのだ?」
という類いの恐慌を来すことでしょう。
特に後者が困る。やっと自由になったのに、何が不満なんだ。何だこの体たらくは。

「飲み食いしたり小説や漫画読んだり映画見たりすればいいじゃないですか」

俺もそう思うんですが、ずーっと頑張りすぎると、酒やご馳走が思ったほど美味しくなくなり、小説や漫画も読むのが億劫になり、映画見ても問題ない予定を捻出するためにスケジュールを見なきゃならなくなり、気持ち良さや幸福度を、感度の鈍さや疲労感が上回るという恐ろしいことになるんですよ。

もちろん、その疲労感より、終わらないまま遊んだ時の居ても立っても居られない焦燥感の方が、はるかに大きいんですよ。だからやっていたのだ。
しかし、だとしても、せっかく得られた時間的自由から、砂を噛むような味がしたら、そりゃあ、なんじゃこりゃ、ですよ。

4.そもそも遊ぶのではなく休むことに専念した方が良いのではないか

感受性が摩耗したのは、心身がボロボロになってるからで、やるべきことはその回復であって、それまで何やっても嬉しくも楽しくも何ともないままではないのか。
だから、そもそも遊ぶのではなく休むことに専念した方が良いのではないか。

また、今のミッションが終わったら、サウナ宿に二泊三日で泊まって、サウナ浴びたり、グースカ寝たり、ダラダラとくだらないことを考えていたり、そんな過ごし方をしたいものです。

そのためにも、終わらすぞー。
がんばれ俺!
スッキリさせろ俺!
スッキリした後の休みは、休まるぞ!

kashmir『百合星人ナオコサン』のナオコサンの名言(そうか?)

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