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随筆(2020/10/3):発達障害者には『的外れでも死なない』のマインドがとても大事(6.挨拶から始めて、いろいろやって、いろんな信頼や質疑応答や、定型発達者的な社交や処世につなげる)

3_5.信頼にはレベルがある。沈黙交易でも信頼は成り立っているが、そこではふつうの人間関係での信頼は成り立っていない

綺麗事の徳と、親切の徳には、大きな効き目があり、
「相手が自分を受容する。少なくとも拒絶の姿勢を少しずつ改めていく」
訳です。

受容されていない相手との信頼は、沈黙交易のように、
「相手にソンケイのあるものを送っており、ナメてない」
が、
「恐ろしいので顔は見たくない」
という、人間関係というより、祟り神を奉るような在り方になります。
そういうギリギリのあるかなしかのレベルの信頼は、あるかないかで言えば、もちろん、あります。
だが、人間関係としては、これはもちろん成り立っていない。

祟り神相手に、会話が成り立っていて欲しいか? それ以前の問題だろう。
祟り神扱いの時点で、
「ナイフや拳銃を隠し持っていて、機嫌が悪いと胸元からスッと取り出す系の人」
扱いと、原理的には変わらんわけですよ。
そもそも会話が成り立たない人扱いしているのに、会話が成り立つと思う方がおかしい。

(ヘッダの野菜無人販売所は、そういう理由でそうなっているのではないはずなのだが、まあ沈黙交易のイメージを現代的に言い表すには便利ではあります)

3_6.実践としての礼儀作法と、意図としての親切による、人間関係レベルの信頼が構築されて、初めてふつうに質疑応答が成り立つし、定型発達者的な社交や処世もやっていける

(結果的には礼儀作法に則って)挨拶して、場を脅かさないで、不信を抱かれないで。
要請されている意図を読み解いてから、ためになる仕事をして、沈黙交易のような信頼を得て。
頼み事を聞いて、親切をやって、受容されて、人間関係に効いて来るレベルの信頼も得て。
そういう信頼関係の下でようやく、言葉の誠実さの徳に基づく、完全な質疑応答における、明瞭な意図の開示が成り立つ。
相手の人格次第では、これがなくても成り立つが、これがやはり不信によって阻まれていくことは、前に説明しました)

ふつう、ここからが、「定型発達者のやるような形態の」社交や処世です。

***

ちなみに、礼儀作法社交処世結果であって、挨拶場の安全安心の維持礼儀作法フィードバック的に効いて来る訳です。ここに循環論法はない。
カッチリとした礼儀作法のプロトコルなんかなかったとしても、挨拶をすることと、場を脅かさないことには、大きな効き目がある。
とはいえ、礼儀作法があった方が、後世の引き継ぎのためには当然便利ですよ。

そんな感じで、定型発達者のやるような社交処世を、模倣していく。
こうしたスキルを、いつかは身に着けてやっていけると、発達障害者にとっては極めて大きな武器となるだろう。

少なくとも私は、そういうことをして、ここまで生きて来た。
(哀しい生き物だな)
(そこで哀れむの、かなり相手をナメ切った文脈が乗るから、直ちにやめた方がいいですよ)
(話が長えよ)
(ちゃんと説明しなきゃなんなかったからです)
(驕るな。お前にそんな長文説明を聞いてもらえるだけの信頼はない)

(続く)

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