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自分への投資が成長へ繋がる。


株式会社ダル・マットグループ 代表取締役 平井正人氏

静岡県浜松市生まれ。こどもの頃から食べることが好きで親に連れられ食べ歩きを経験。大学時代、イタリア料理店でのアルバイトがきっかけでイタリアへの料理研修に参加、トスカーナ州の有名店“ガンベロ・ロッソ”で修業。帰国後、イタリア料理の巨匠と称される落合努シェフの下で修業を重ね、2004年11月、西麻布に“ダル・マット”をオープン。現在にいたっている。


小学生の頃、好きな食べ物はフランス料理を代表する逸品“エスカルゴ”だった。食べ歩きが好きだった両親に連れられ、月に1回各地の評判の飲食店を訪れ、美味しい食べ物を味わっていた少年だった。自分の食事を自らが作っていた少年だった。やがて成長した少年はイタリア料理の調理人を目指しイタリアに渡り修業を重ねた。帰国後、イタリア料理の巨匠の元で研鑽を重ね、目標にしていた30歳目前に自身の店をオープン。飲食好きの少年とは、株式会社ダル・マットグループを率いる平井正人氏のことだ。

イタリアへ。心躍らせ、夢膨らませ…

大学卒業と共にイタリアへ飛び立つ機上に、不安を抱えながらも“イタリア料理の料理人になる”と心躍らせ、夢を膨らませた平井氏がいた。

「イタリアンに魅せられたのは、大学時代~群馬県でしたが~、ホテルでの結婚式の配膳を3年間、その他イタリア料理店で、卒業するまでアルバイトをしたことがきっかけですね」。

「条件というほどではありませんが賄い付きのアルバイトを探し、イタリアンに限らず、とんかつ屋でのアルバイトを経験しました。アルバイトで得た収入は、全額といってもいいくらい食事に使いました。金額にして12~13万円くらいでしたか……」。

「ただ食べるばかりではなく、本を読んで勉強して友人に料理を振る舞うこともありました。作ったのは和食、イタリアン、フレンチなどいろいろでしたね。その本の中に落合シェフの本があったんです」。

就職活動もせず飲食業でのアルバイトに明け暮れていた平井氏に、イタリア行きという思わぬチャンスが訪れた。

「“イタリアに行きませんか”という募集があったんです。費用は90万円。内容は料理の専門学校に入って研修をしてレストラン配置というツアーで、半年間のプログラムでした」。

イタリア料理に魅せられ料理人になる夢を抱いていた平井氏は、迷うことなく応募した。
かくしてイタリアへ飛び立った平井氏。時計の針を戻し、その成長の過程を遡ってみよう。

子どもの頃、料理人になる芽が形作られていたかも…

うなぎの名産地として知られる静岡県浜松市に生まれ、清水市(現在は静岡市清水区)で育った平井氏、“食”とは幼い頃から縁が深かったようだ。

「現在、イタリア料理店を営んでいますが、飲食の道に進むきっかけは幼い頃にすでに芽生えたのかもしれませんね」。

―“食”に関する思い出を振り返ってみてください。

「小学校の頃、一番好きな食べ物は“エスカルゴ”でした。そう、フランス料理を代表する食べ物です。簡単にいえば“でんでん虫”“カタツムリ”ですね」。幼くしてすでに食通の萌芽が垣間見える。

「父親が食べ歩きが趣味だったようで、“○○の◇◇が美味しい”などという情報を仕入れると、家族全員、といってもボクは一人っ子ですから両親と三人で食べに行きました。月一回の家庭行事ですね」。家族揃っての食べ歩きは、地元、近隣に留まらず範囲は広かった。

「近場だけではなくクルマで30分、1時間かけてでも行きましたもの。ボクは連れていかれるだけでしたが、両親、特に父親は評判、話題になっている食べ物を食べてみたかったんでしょうね」。

昨今は、テレビ番組やSNSで紹介された有名店や話題になった飲食店へ時間をかけてでも訪れる人の行動を目にする機会が増えたが、当時は珍しかったのではないだろうか。その意味では、平井家は先駆的な家族だったとも考えられる。

「朝夕の食事は母親がつくっていましたし美味しかった記憶があります。お正月などは三段のお節料理でしたし、食べることに貪欲な家族だったかも知れません。こうした家庭に育ったためか、“美味しいものを食べたい!”という欲求とでもいうのか、現在のボクの原点になるのか、“食”に興味をもったのは子どもの頃からでしたね」。

「具体的には小学生の頃から、たとえば野菜炒めとか焼き魚とか、自分の食べるものは自分で作っていましたね。理由は、両親が共働きだったので自分で作るしかなかったんです」。

「そんなこんなで必然的に料理をしたり美味しい食事を摂ることが、特別なことではなかったと思います」。

「話は前後しますが、高校生までお米って、白ではなく茶色だと思っていました。ウチは貧しいからなのかと思っていましたが、実は玄米だったんです。これは健康食品の販売を手掛けていた母親の影響、考えでしたね。そのためか、お米に限らず普通のお菓子を買ったり食べたことがなかったんです。おやつも健康食品のお菓子でしたね」。

人間にとってもっとも大切な“食”と“健康”。こうした体験が平井氏が料理人になる原点となったのではないだろうか。料理人になることに何ら疑いもなく、当たり前の選択だったのだろう。イタリア行は当然だったであろうし、特別な選択でもなく必然でもあった。

巨匠と呼ばれるシェフに送った一通の手紙。

“食”と“健康”を重視する家庭で育ち、長じてイタリアの地を踏んだ平井氏。

「初めての試みだったのか、0期生という形で取り敢えずお試しでした。まず二か月間は専門学校で学びました」。

「15人ほどの日本人~職人だったり、店長だったり、イタリア語が話せる人だったり~が一緒で、経験のある方々ばかりでしたが、挫折感も委縮することもなく、そういう人たちの中に入れて貰えてことで、かえって“頑張ろっ!”という気、モチベーションになりましたね。恵まれたと思いますよ」。

「専門学校に通う最初の二カ月はホテルで、以後はレストランに派遣され三店舗で学んだのですが、一店舗目は一つ星の魚料理専門の店、二店舗目は郷土料理中心の店、三店舗目はイタリアで常に一位の評価を得ていた店で、四か月くらい仕事しました」。

―コミュニケーションは上手くいきましたか?

「半年ほど経ってからですかイタリア語が分かるようになり、考えていることなど相手に伝えることができるようにはなりました」。

―イタリア料理の先駆者であり、一般社団法人日本イタリア料理協会名誉会長の落合努シェフに手紙を書いたとか……。

「ええ、当時、赤坂のイタリア料理店“GRANATA(グラナータ)”の総料理長を務めていた落合シェフの下で働きたいと思っていて、その思いを伝えるためにずーっと手紙を書いたんですが、四カ月くらいしてからでしょうか、落合シェフご本人から直接、電話~国際電話~をいただきました。嬉しかったですね」。

「落合シェフから、『最低でも一年は居ろ』と言われました」。ところが思わぬ話が耳に入ってきた。

「帰国したら落合シェフの下で働くんだと言っていたら、新しく入ってきた日本の方に落合シェフが“グラナータ”を辞めたということを教えられ驚き、落合シェフに電話したんです。そこで『まだ何も決まっていないけれど、帰国したら“グラナータ”に行け』と言われ取り敢えず安堵しました」。

こうして一年二か月に及んだイタリアでの修業を終え、帰国の途についた。

落合シェフの下で働ける日がくるまで。

2005年帰国。真っ先に会ったのは落合シェフだった。

「初めての出会いは、新宿駅東口正面の“アルタ”でした。ここしか知らなかったものですから……」。

「第一印象は、おっかない!って感じでした。“グラナータ”に連れて行っていただき『ここで働けよ』と勧めていただいたのですが、落合シェフが開業するまで実家で待機することに決めました。落合シェフのお誘いをお断りしたことになるのですが、どうしても落合シェフの下で働きたく、その理由を説明し、ご理解いただきました」。

飲食に限らず憧れの人の下で働きたいという気持ちは、広く職人の世界にあるものだと思う。そこにあるのは、執念というには軽すぎる、生涯を駆けた覚悟だ。

「半年ほどでしたが、いわゆるダイニングバーで働くなど勉強をしていました。ある時、“danchu”という有名な料理雑誌に落合シェフが銀座に出店する記事が掲載され、早速、連絡をとりました」。

「落合シェフから指定された日、足立区の東武鉄道竹ノ塚駅に降りたのですが、そこには落合シェフが不動産屋と一緒にいて、住むところを紹介されました。この日が落合シェフの下で働くことが決まった日になりました。2007年8月のことです」。

イタリアでの経験は、まったく役に立たなかった。

“LA BETTOLA da Ochiai(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ)“。1997年9月に、落合シェフが銀座にオープンしたイタリア料理店だ。予約でいっぱいの店と知られる有名店だ。落合シェフの元で働きたいと切望していた平井氏。念願かなって働くことになった。

「落合シェフを入れて6人。息子さんがホールを担当、スタッフは全員が料理人でした。“グラナータ”出身者で、技は凄いし意識は高いし、働く姿勢の違いを感じました」。

―いざ働いて、どうでしたか?

「結論から言えば、イタリアでの経験は役に立ちませんでした。“素人”と“料理人”の違いとでも言いますか……日々、理不尽なことだらけでしたし、先輩たちも厳しかったですよ。先を読みながら仕事を進めることが求められ、身に付けなければならず、ある意味、仕事の仕方を学ぶ毎日でした。その一方で、食材に対する考えなど暇があったら勉強する日々でした。“ラ・ベットラ・ダ・オチアイ“は、雪の日でも傘をさして並ぶ人がいるなど人気店だったこともあり、休憩時間なんかほとんど取れなかったですね」。

「先ほども言いましたが、当時は足立区に住んでいて、朝6時から夜中2時まで仕事でした。落合シェフはもっと前に終わっているのですが、私を家まで送るために、私の終業まで付き合って頂く毎日で…。それを先輩が見かねて、23時に帰していただくようになりました」。

「“ラ・ベットラ・ダ・オチアイ“では4年間ほど働きました。お店を辞めた後、食べ歩きをし、東銀座にあった“Crattini(クラッティーニ)”というお店に勤めました。“クラッティーニ”を選んだのは、有名店など食べ歩きをしたなかで、一番気に入ったお店だったことと倉谷さんという有名なシェフがいらっしゃったことが決め手でした。ここには4年勤めました。当時、お店は乃木坂にあったのですが西麻布に移ることになったのですが、乃木坂の当時のオーナーが残ってくれということで、2年間勤めました」。

-独立を決意したのは?

「選択肢は二つありました。ひとつは“クラッティーニ”に戻る。もうひとつは別の職場を探すか、という道で迷ったのですが、先のふたつではなく独立を目指すという道を選んだんです。30歳までに独立しようと計画し、会社を設立しました。29歳のときでしたね」。

かくして、美味しいもの好き、料理好きの少年は、時を経て、経験を積み重ねて自分の店を持つことになった。

オープン後一週間、来客ゼロ。

「目標にしていた30歳目前、預貯金や借入などで資金を用意し会社を立ち上げ独立しました。物件など準備を経てオープンしたのは、2004年11月のことです」。

-場所は?

「乃木坂の“クラッティーニ”に勤めたこともあり親しみがあったので乃木坂に近い場所での開業を考えていたのですが、“西麻布”がいいんじゃないかとアドバイスをもらい、西麻布にしました」。

余談になるが赤坂に近い乃木坂と六本木に近い西麻布。両方に共通しているのは、いわゆる渋谷や新宿のような繁華街ではなく穴場的で落ち着いた、シックな感じが漂う“大人の街”“隠れ家的な街”という言葉が当てはまるエリアだ。

「オープンしてから一週間は、来店客ゼロでした。その後、来客はありましたが売上が3万円ほどしかあがりませんでした」。

そんな窮地(?)を救ってくれたのは、師と仰ぐ落合シェフと倉谷シェフだった。

「当時、テレビの取材や雑誌の記事などで飲食店の紹介が目立ち始めていた時期でした。そんな時、落合シェフと倉谷シェフへの取材が多かったのでしょうか、ご本人が取材を受けられない場合など、取材を回してくれました」。

―効果はいかがでした?

「メディアの力というか影響力を実感しました。一度の取材撮影でしたが、10誌くらいの雑誌に紹介されましたし、“東京カレンダー”という雑誌で紹介されたから予約の電話がひっきりなし、鳴りっぱなしでした。雑誌での紹介記事も増え、最盛期には年間、280誌で紹介されました」。

いまでこそ一般的になった“食べログ”がスタートしたのが2005年、当時はSNS黎明期。ネットで調べること以上に雑誌情報が優位な時代だった。

「オープンしてからは、夕方6時から翌朝4時まで営業していました。特に11時から12時くらいの時間になると、同業者の方が多くお見えになりました。睡眠時間がなくて辛かった記憶がありますね」。

以後、西麻布を皮切りに、恵比寿、六本木ヒルズと展開、現、5店舗を運営している。

「ここまで来るのに落合シェフにはお世話になりました。一番辛かった時期や辞めてからも面倒を見てくれましたし、気にかけていただけました。もっとも影響を受けた方ですね」。

人の成長過程に“偶然性の必然”“必然性の偶然”という言葉がある。平井氏の言葉には人の出会いを大切にし、その出会いをより良き関係に育てている姿勢が漂っている。

成長するためには、日々の勉強を怠らないこと。

「成長するには、日々の勉強~たとえ休日であっても~が欠かせません。必要なのは、経験を積み、知識を蓄えることです。取り組んできたことをメモしたり、本を読んだりするなど人それぞれに方法があるでしょうが、自分に投資することです。投資というと金銭的なことを考えがちですが、お金がなければ時間を投資すればいいんです」。

昨今、“タイパ”“コスパ”などやたらと“パフォーマンス”という言葉が氾濫している。

その中身を掘り下げてみると、“効率”で無駄を省けということのようだ。平井氏の話は違う。人生に、仕事に無駄なことはないんだということだ。

「始まりは素人であっても、同じことを繰り返すと上手になります。新しい知識を覚えたとき、苦手だった技術を身に付けたとき、嬉しいものです」。

「自己成長するためにも、なにかひとつでも、好きなもの、好きなことを徹底的に、トコトン追い求めて欲しいです」。

―ところで、「ダル・マット」って、どういう意味なんですか?

「イタリア語で“熱中する人の店”という意味なんです。ただ、20年経ったことを一つの節目として、さらに発展するために業態名を『プリ・マット』に変更する計画が進んでいます」。

イタリア料理に熱中している、誇り高い、料理人が創り出すイタリア料理が、今夜も人を引き付けている。

24/07/12
株式会社ダル・マットグループ 代表取締役 平井正人氏

飲食の戦士たちより

主な業態

ダル・マット

都会の中心にありながら、喧騒からは一歩隔った場所にて、ワインと共にイタリアンを召し上がって頂き、居心地の良い空間と、おくつろぎのひと時を提供できるレストランとして、皆さまに愛されて頂ければと思います。
DAL-MATTOでは日々、旬の食材を多くの契約農家や市場から探し集め、ご提供しております。
お料理は、おまかせのコースのみとなっております。

https://www.dal-matto.com/

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