見出し画像

宿世

どこまでも近づけなかった。
最適な距離を探るために待ち続けることはできなかった。


触れた目には、数えられるくらいの可能性が広がっていた。
澱みなく映るその姿に、ふたりは新しい自分をみた。

伝えたい言葉はいつもありふれていて、飾れば飾るほど陳腐なもののように思えてならなかったその「言葉」は、それほど重要ではないことを意味していた。


「言葉」なんてただのまやかしに過ぎなかった。いくらなにをどう伝えられても、私に響く時、それが本物だとすでに「心」がどこまでも理解していたからだ。

お飾りのように並べ立てられたその「言葉」の背後に存在する願望を読みとるのに、時間なんてものの数秒もかからなかった。

どうしてほしいのかはすぐにわかった。私の「心」を置き去りにして、投げかけるその「言葉」を相手は一体どう感じていたのだろう。

そうして投げかけていると、だれかが消えた。
でも同時に理解した。
人は私に「言葉」なんて本当は求めていないということ。

人が求めているのは、受け止めてくれること。
寄り添ってくれている安心、あなたは大丈夫という肯定。

寄り道も遠回りも記憶が薄れてゆく中で、やっとわかったことだった。でもそれで頂上に到着したわけではなかった。


一方、永遠に満たされない私はずっと健在だった。
なにを受け止めても、幾度もなく私を素通りしていく人々。


受け止めて然るべき。これくらいあなたに独白したとて、なんてことはない。あなたなら受け止めてくれるはず。括弧がつく人々のそんな気持ちが透けて見えた。

いかにもそれらしい常套句を並べては、自身を説得した気になって、あとをやり過ごす。困りごとが発生すると、神に祈るが、本心は無視する。私はなにかの確認中継地か?そう感じることは必然だった。

この居場所をどこか遠くの、過去の往来ともいえるその地点から帰ってきては、似たような事情をただ重ねることしかできなかった。時が過ぎても、満ちること永遠になく、ただ人は変わらない、変えられないという絶望の淵を通り越えた後にやってくる一種のあきらめを何度も体験したような気分であった。


だれかになにを伝えても、理解できないと同義の言葉たち。
期待なんてしない。経験に基づいた知しか宿すことができないのだとしたら、私の感じることが異常なのかもしれない。そう思った。

それらはパターンを変えて何度も味わった。
大抵予想のつくシナリオで展開され、
似たような言葉の羅列が私の前を横切った。


でもそんな私の前を横切らない言葉もあった。
その言葉は、私のなかに違和感なく侵入してきた。
気持ち悪さも絶望も願望もない。
その言葉としてただ存在している。 


死んだ人の言葉、音楽に紛れている言葉、物語の言葉。

どれも直接投げられた言葉ではないのに、
私はそこに光を見出していた。

居場所はいつもここにあった。
静寂で、穏やかな、たったひとりの私しかいない。


もうひとつ上にいる私。
頭にいる私。
心にいる私。

心はもうひとつ上にいる私の声を聴くために存在している。頭にいる私、まただれかの心のなかにいる私が、
その声を聴くことを困難にしていた。


私はいつもわかっていた。自分がどうしたいのか、どうなっていくのか、どうすることが最善か。すべて知り尽くしていた。

人間は生きていると、あらゆる足枷を無意識に嵌めてしまう。誰かが自分の道を困難にしているという意識に苛まれ、見失う。その意識に侵されている限り、元来た道を辿り帰ることは永遠にできない。


私は過去に生きていた。

生きてきた以上の体感がする。本当に数十年の話だろうか。
もう何千年も前から繰り返されているような気がしてならない。何度も死に、何度も生き還って、まだ此処かと落胆しては、また死に、ふたたびこの地に舞い、生き戻ってきた。

そのくらいに飽きていた、このループから。
今世こそこんな私を殺してやりたいと思った。

自分で嵌めた足枷に縛られる自分と
自分の言葉に苦しめられる自分。

ある人が言った。言葉は心と同じく流動的だと。

絶対的だと思えてならなかった「言葉」に縛られていた私は、それを聴いてふっと軽くなった。
変わらないのは私だけだった。
正しくは、変わりたくなかったのかもしれない。

変わらないものに思い馳せ、安心していた。
安住の地は、コントロールできる今にあって然るべきで、
その領域を超えようものなら、たちまち不安に侵され、動けない理由を探すことだけがうまくなっていた。

しかし、それももう必要のないことだ。
なぜなら、足枷を嵌めていたのは自分自身であったから。

生身のだれかではなく、
私は、私自身に救われたかったのだ。

それに気づくことができたとき、
この世の真理はいつでも私からはじまるのだとわかった。



外にみつける必要のなかったことも、なぜ私が生身の人間ではなく、今は亡き人々の言葉をしきりに求めていたことも。

真理となる言葉に出会うため。この世にある、かつて成し遂げられなかった人々が、時代を超え、孤独であった人たちが命をつなぎ残してくれた言葉。

そう思ったら運命なんてものはすでに存在していたのだ。
目の前にあることを拾うだけで、私に帰ってこれた。

日々の景色を鮮明にただ美しいと感じるようになった。 
自然の尊さを実感するようになった。 
「今」をただ生きる。
生は、この瞬間瞬間の連続だということ。

人の数だけ考えが異なるように、人それぞれの愛情表現をしっかり受け取れるようになりたいと思った。人が表現してくれる愛というものの素通りはしたくないと思った。

でも正直、今は明日がどうなるのかさえ、もうどうだっていい気分だ。

いつでも私に帰って来れるなら、「今」を感じながら、歩き続けることができるのなら、それ以上の喜びがどこにあるだろうか。

だれと生きようが、私には関係ない。相手を変える必要もなければ、無理に自分を変える必要もない。時間はかかったが、立ち上がることができた。歩き方を知った今、呼吸の合う人たちとともに、自然と一体化するように、流れるように生きると願うことが、現在のわたしの讃美歌になる。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?