「悶々」? さあ、辞書を手に。
辞書とのファースト・コンタクトはいつだったろう。
母が読んでいた旺文社『国語辞典』を盗み読んだときかしら。
上記リンクには第十一版を掲げたが、いま手元にあるのは第八版である。
函も装幀もボルドー・カラー、銀に輝く題字が眩しい。
1998年に重版が発行された当時だから、いくらかわたしの年上だ。
窃視の動機は一つ、「この悶々よ、どうにかなれ!」という願いだったとおもう。
不安、憤懣、絶望、焦燥、虚脱、屈折、獣性、畏怖、愛執、狂奔、傲慢、卑屈。
日々を黒々と塗りつぶすこれらの「悶々」から脱却する秘訣が、言葉にある、
言語化することにある、幼いながらわたしはそう感じていた。
しかし、閑があれば辞書を紐解くほどの勤勉な子どもではなかった。
閑という隙間には「悶々」の風が吹き込むから、おちおち読書していられない。
ゲームに興じて、ひたすら現を抜かす。「現」からは簡単に目を逸らせる。
The BEATLESも「Strawberry Fields Forever」で唄っている。
ゲームは楽しい。よく創られた世界だとおもう。
しかし、どう足掻いても、ゲームに「逃げ込んでいる」という自意識が拭えない。
美麗なエフェクトが煌めく画面を見つめながら、
頭のどこかで友人や学校のことを「悶々」と考えている。
そんなときに辞書をめくると、なんだか心中が整理され、目先が変わる。
次第にわたしはゲームから離れていった。
代わりに、母方の祖母に買い与えられたカシオ社製電子辞書「エクスワード」に
わたしは深く、深く、没入していった。言葉に魅入られたのだとおもう。
「エクスワード」との出合いは中学2年次、そしてつい先日、破損した。
ほとんど10年にも亘る付き合いである。
壊れてみて初めて、かなりこの機器を頼りにしていたことを知った。
全ての収録コンテンツそれぞれに愛着がある。
ラジオ体操も、リトル・チャロも繰り返し観たし、楽しんだ。
無論姿勢しだいではあるが、電子辞書があれば教員の目をごまかして独学できる。
「授業に関する」調べ物かどうかは分かるまいて。
とりわけ『広辞苑』と『明鏡国語辞典』、『ブリタニカ国際大百科事典』が
わたしの中高時代で思い出深い辞書である。
偉ぶって云うことでもないが、授業中ずっと読んでいた。
「あ」から虱潰しに辿ったこともある。
すこし気取ってでも、知らない言葉を頭のなかに仕入れておくと、
新型の「悶々」に対応できるという気がしていたので、浴びに浴びた。
「短期的・長期的に役に立つ」のも辞書の滋味ではあるのだが、
もはや誰も使わない/使ったら煙たがられるような言葉も、
たいていシッカリと収録しているのも嬉しいところである。
いかなる「悶々」も解決しないような死語。あなたが好きです。
たとえばトイレにもいろいろ表現がある。
「お手洗い」「便所」「化粧室」だけじゃない、
「厠」「御不浄」「雪隠」「憚り」「閑所」「後架」なんてものもある。
これらの語を見つめていると心に浮かぶものがある。
元来「便」(註釈参照)な空間であったはずの「トイレ」が、
「憚ら」なくてはいけない「不浄」なところとして認識されるに至った歴史。
「自然」を「浄」ではないとして「文化」と区分する近代的思考。
すると「文化」とはなんぞや…遥かな気持…
死語でも、たいていは類語を持つ。
ふとしたときに「トイレ行ってきます」ではなく、
「閑所にしばし参ります」と言い換えてみる。
「キレた」ではなく「堪え難き憤懣に駆られた」と。
「まじやばい」ではなく「(記入欄)」と。
口頭では使えないテクなので、noteとか手紙に盛り込んでみると愉快である。
言い換えをするのも趣があるし、気の利いた喩えを捻り出すのも一興。
「死んだ魚のような目」だけが「虚ろな目」だろうか?
「シュールだね」と呟くだけがシソンヌへの讃辞だろうか?
「宗教っぽい」と一言で言い表して、なにか見落としてはいないだろうか?
言葉は一つでは(つまら)ないはず。
人間はかつて単一の言語でバベルの塔建造を進めたという。
それを神が「そりゃいかん」と言語を撹乱して、建設は中断した。
落胆する向きもあるかもしれない。
しかし、わたしたちには現状、無数の言葉がある。
無数の言葉があるから人間は塔を多角的に捉えられるし、新たな創造に向かう。
わたしは人間の言葉がもつ無限の可能性に期待しています。
今夜、辞書読んでみない?
(今後も辞書・事典の紹介を使命に掲げ励みますので、引き続きご愛顧のほど。)
推薦図書:
一、二冊目は言葉遊びの世界最高峰。『文体練習』から、どうぞ。
三冊目は二冊目の翻訳者である柳瀬尚紀による辞書案内。
四、五冊目はトイレ周辺、ひいては「自然」と「文化」を考えるのに好適。
I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)