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全てを白紙に 第三章 日常に帰る日 一、野蛮人として

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 イホノ湖の畔に大人の姿はなく、レンとリリ、ルネイだけが残された。湖を囲むように点在していた軍用車も撤退し、既に夕方近くなった。一度は「虹筆」を見つけた今、これから逃げるというのもどうなのか。
 ひとまず湖を出ようとしたレンは、後ろから袖を引っ張られる感覚に足を止めた。振り返った先を見て、思わず息を呑む。リリがその瞳の色に近いほど、目元を赤く腫らしている。
「……アーウィンさん、『白紙郷』の人だったんだよね? 私たちのこと、本当は嫌いだったんだよね?」
 受け入れ難い心が湧き出すも、レンは頷くしかなかった。アーウィンは確かに「虹筆」を自らの思惑で使おうとし、レンたちを「野蛮人」と呼んだ。あそこまでの敵意を持っていた彼に、衝撃を受けなかったか。尋ねるリリに、レンは長く黙してから肯定する。
「でもアーウィンさん、あんな言い方をしなくても……」
「レン姉さん、リリさん。ぼくたちの先祖――ライニア人は、ミュスの人たちにとっては『野蛮人』で間違いないんです」
 レンの呟きを遮り、ルネイが暗い表情で切り出す。彼が語ったのは、かつてライニアに住んでいた先住民族の悲惨な過去だった。今のライニア人にあたる人々がこの島に移った時、彼らはミュスのあまりにも白い肌を恐れた。そして楽器によって奏でる独自の魔術を異端と見做し、住んでいた場から追い出した。ミュスは様々な土地で差別を受け、迫害されたという。中にはライニアの社会に溶け込む者もいたが、そうした者は生まれ育った文化を忘れ、ライニア人として生きてきた。
「アーウィンさんは、そのことにも怒っていたのでしょう。これ以上ミュス――アンフィオとライニアが混ざり合うのが嫌だったんだと思います。きっとアーウィンさん自身も、本当はライニアの文化にあまり関わりたくないんじゃないんでしょうか」
 例えばアーウィンは、ライニア神話を信じていないだろうとルネイは零す。あの神話は、ミュスの後に島へ入ったライニア人が考えたものだ。ミュスの存在を切り捨てた作り話など、アーウィンは一蹴するに違いない。
 ライニア人による迫害は、近代になっても続いた。植民地とした隣国・アレクへミュスの人々は追い出され、今もほとんどがそこに住んでいる。しかし完全な植民地支配が終わった今も、ミュスのアレクでの扱いはあまり良くないようだ。
 レンは熱くなった顔を下に向け、片足を踏み鳴らした。自分にも半分、先住民を追い立てた「野蛮人」の血が入っていると思うと、どうも恥ずかしくなる。アーウィンの怒りも、ひしひしと思い知らされていく。面を上げず、レンは浮かんだ激情を吐き出す。
「こんなのって、ないよ! アーウィンさんも他のミュスの人も、何も悪くないのに!」
「……わたしも、アーウィンさんをひどく扱うつもりなんてありませんでした。でもライニア人のせいで、あの人は」
 声を詰まらせたリリに、レンは同調した。アーウィンを初めて見た時は驚きもしたが、彼の存在を邪険に思いなどしなかった。むしろ窮地を救い、傷を治してくれた彼を見下せるはずがない。自分を励まそうとしてくれた言葉を、信じていたのに。
 アーウィンに再び会いたかった。彼に差別意識などないと、ちゃんと口頭で伝えたかった。しかし彼は「白紙郷」の一員として、軍に連れて行かれている。彼らのもとへ赴かない限り、アーウィンには会えない。
 首都の方向を確かめようとして、レンは湖の外を目で探った。高い木々の隙間から、なだらかな草地が見える。その瞬間、風に乗って何かのはじけるような音がした。レンには遠くで消却爆弾が爆発したように聞こえたが、ルネイは顔に懸念を浮かべている。心配事でもあるのかレンが問うと、ルネイは低めた声で答えた。
「さっきの音を聞いた限り、今までより規模の大きい爆発が起きています。この近くでは消却が進んでいるでしょう」
「白紙郷」が「虹筆」を得るために重要視していたイホノ湖はともかく、別の地域に出るのは危ないだろう。そして「虹筆」のなくなったここも、いずれ消される。ルネイの推測を聞きながら、レンは本当にライニアが全て消却されることを危惧していた。このままでは、望んでいた日常は遠くなるのではないか。
「……わたしには、何が出来る?」
 不意にレンは呟く。「虹筆」を軍から取り戻して自分たちで使うのか、いっそ「白紙郷」と対峙して彼らが動けないようにするか。拳銃を持つ手がわずかに震えるのを覚えた時、その腕を誰かに捕まれる間隔があった。
「レン姉さん、この非常事態が終わったらあなたは――」
 ルネイに言われて、レンは騒ぎが収束した後を考える。フュシャが勝手に名付けた「非常」魔法は、日常に戻ったら使えなくなるかもしれない。だがそれでも、このまま「白紙郷」に屈するわけにはいかない。再び魔術実技の成績が最低であるのを見ても構わない。自分の魔法は、本当に困った事態が起きた時のためにあるのだから。
 腕から手の離れていたことに気付いたレンは、振り返った先のルネイがずっと俯いているのが気掛かりだった。しばらくして顔を上げた彼の提案で、今晩は畔での野宿が決まる。周辺の森にはルネイの魔法による結界が張られ、侵入者にもすぐ気付けるという。加えて何かがあった際にすぐ逃げられるよう算段を立て、長い一日は終わった。

 ひやりとした深夜の寒さが身を包む中、シランは再びイホノ湖に向かっていた。空には月も星も出ていないが、夜目は利く上に周辺の地理は把握している。リリに射られた傷も、魔術で治した今は問題にならなかった。まだ少女たちは、あの湖にいるだろう。目星を付け、暗い森の中をシランは駆ける。
 全く人間には呆れるものだ。シランは静かに、昔から抱いていた恨みを募らせる。母も、果昇に生まれた父も、自分を蔑ろにしていた。包帯が巻かれている腕や脚には、かつてひどい傷跡があった。日々の虐待やいじめで受けたものだ。魔術の師匠によってそれは治されたが、代わりに手痛い呪いを掛けられた。
 過去の人間たちだけではない。「白紙郷」にまつわる問題にも、シランは愚かさを覚えていた。昔、師匠の語った言葉が蘇る。ライニアは自然に滅んでいくのだと。滅びるならそれに任せるべきだと、シランは思っていた。「白紙郷」はライニアを変えようとしているようだが、それは意味がない。いずれ滅びる世を「良い方向」に進めても、何になる。
 黒々と光る水面が、目前に迫ってきた。シランは足を止め、腰の布に備えた鞘から刀を抜く。「白紙郷」にも、それに抗う人々にも嫌気が差した。負の感情が積もり積もった今なら、あの大魔術を使える。そう確信して、シランは刀を逆手に持つと勢いよく地面に突き立てた。かつて校舎を破壊した威力の技は、しかし今回も発現しなかった。ただ土が抉られ、周りには静かな風が吹くだけだ。
 九年前以来、シランは何度もこの技を振るおうとしてきたが、尽く失敗した。落胆と怒りを覚えながら、今宵も諦める。まだ鍛錬が足りないのだ。自分は再びあの魔術を使えるに至っていない。これまで以上の研究が必要だ。
 額の汗を拭ってから、シランは湖を巡った。森へ深く入ろうとすると、見えない壁に阻まれる。それが外の脅威を退けるためのものだと気付き、シランは畔に人がいると確信した。この時間帯を考えれば、野宿をしているのだろう。壁を破るべく、刀を振り上げる。そこに足音を聞き付け、シランは武器を下ろした。湖の方から、三人の人影が近付いてくる。ランタンを持つ彼らの顔がはっきり見えるのを、シランはその場でじっと待っていた。

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