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ライニア乱記 全てを白紙に 序章 国防省にて

 陸軍中佐ヘイズにとって、それは十年以上の軍人生活でも見なかった異常な光景であった。何せ、視界を覆うものが白一色でしかないのだ。元々存在したはずの建造物は見当たらず、背後に率いている部隊が並ぶ以外は住民の姿さえない。障害物に当たる感覚も覚えず、文字通りここにあった物体そのものが消えてしまったと見える。このライニア国最北の村で緊急事態が起きたと聞いて駆け付けたが、その実態は予想もしなかったものだった。
 部隊に調べさせたが、人命は誰一人確認されない。町だった場所には、ただ目が痛くなるばかりの白が広がるだけである。方向感覚も分からなくなる中、ヘイズは南にある首都の施設へと慎重に引き返していった。
 対策室として存在している部屋の隅に移り、ヘイズは椅子に腰掛けるなり息をつく。正面の机に載せられた、事態を知らせる書類へ軽く目を落とす。現地に赴いたものの、異常の原因は全く分からなかった。何も情報がない中、すぐに解決しろと言われても骨が折れる。軍服の襟元を軽く緩め、褐色肌の顔を軽く押さえながらヘイズは空中を睨み付けた。
 扉の奥から、部下が誰かと揉める声がする。この緊急時の来客を厭わしく思い、ヘイズは立ち上がって戸を開けた。部下に押し返されようとしていた客は、どこかじめりとした雰囲気を漂わせる男だった。年はヘイズに近いだろうか、やや中年に差し掛かっているように見える。一方で軽く巻かれた黒髪にはところどころ白が混じり、目を引き付ける。ヘイズの髪よりも少し濃い茶色の瞳は、左右でちぐはぐな方向を向いていた。その焦点が急にこちらへ定められ、ヘイズは慌てて身なりを整える。
「先ほど発生しました消却の件につきまして、ぜひ対策部隊の方とお話をさせていただきたいのです」
 神話学者のエティハと名乗ったその男は、ヘイズも訪れた「白い」町にあった大学で教えていたと語った。職場が急になくなってしまった彼に同情を覚えたのも刹那、ヘイズは続きの言葉に耳を疑った。
「この国に伝わる消却神話しょうきゃくしんわはご存知でしょう。それと今回の事態に関わりがあると、私は指摘に参った次第です」
 神話など、今や「史実ではなかった」との見解が常識となっている架空の産物である。消却神話の名はヘイズも聞いたことがあったが、その出来事が実際に起きているなど考えられない。
「貴方も懸念している通り、今は危急の事態です。お引き取りください」
「神話を根本から否定するおつもりですか? あの話も、私たちの周りで身近な魔法も、元は同じものから生まれているのですよ?」
 来客を追いやるべく伸ばした腕を、ヘイズはゆっくりと下ろした。ライニアは魔法が盛んな国だ。この世界では魔法の存在が一般的で、特にライニアは国民のほぼ全員が「魔法使い」と呼べるほど普及している。ヘイズもまた、主に仕事において問題なく使えている。だがそんな特別な技も、エティハに言わせれば元は架空のものだという。
「魔法は使い手の在り方を示す、人の思いによって生まれたもの。それは神話も同じです。人が考え出したそれは、ライニアの歴史に強い影響を与えました」
 昔に起きた大戦後に廃位となった王は、かつて神話に出てきた王祖の子孫と本当に信じられていた。さらに現在となっても、神話はこの国に根付いているのだとエティハは言う。
「この建物の前に、軍神キンイの像がありますね? あれもライニア神話の神でしょう」
 門前にそびえる鉾を持った男の像を思い浮かべ、ヘイズは瞬きを一つする。毎日何気なくその前を通っていたが、確かに神話は近くに存在していたのだ。
「神話を強く信奉する人は今にもいます。そんな人々が消却神話を実現しようと、動いているのではないかと私は思うのです」
 向こうこそ「そんな人々」の一人ではないのか。一瞬エティハへ浮かんだ疑問を心に収め、ヘイズは自らが持つ神話への知識を振り返った。大体のあらすじや神の名は知っているが、詳細な部分までは知らない。話題となっている消却神話さえ、恨みの神によってライニアの国土が一時的に消されたとしか覚えていないのだ。仮にエティハの言葉が正しいとして、神話を熟知していると思われる相手と対抗できるだろうか。
 身に着けている通信機の通知音で、ヘイズの思考は打ち破られた。手早く操作し、新たな一報を耳にする。調査したばかりの町に加え、その隣にあった集落も「消却」された。声に出して確認すると、扉の方から舌打ちが聞こえた。恐らくエティハのものだろう。
 被害の拡大を懸念して顔を引きつらせたヘイズは、何気なく視線をやった窓の外に釘付けとなった。通話を終えるなり、安全のためわずかしか開かない窓から手を出し、雪のように降る白い紙を一枚掴んだ。
 空からの通告に、ふと十八年前の騒動が思い出された。それを振り切って紙を一瞥し、ヘイズはすかさずエティハに見せ付ける。
「あなたが警戒されていたのは、このことでしょうか?」
 詰め寄ったヘイズに、エティハは黙って大きく頷くだけだった。「神話の再来」を目的に、消却爆弾をもって全てを白紙にする――それが「白紙郷はくしごう」なる組織が送ってきた声明の内容だった。このままでは消却神話と同じように、国全体が消されかねない。状況は一刻を争う。
 そう考えたヘイズの視線は、まっすぐにエティハへ向けられていた。この客人は、「白紙郷」と対決する切り札になるかもしれない。彼の見解を元に、この神話を拠り所とする事件を解決させる。いつもの厳しい面持ちが崩れず、しかしなるべく穏やかさを備えた声でヘイズは学者に呼び掛けた。
「恥ずかしながら、自分は神話に疎い者です。貴方の話をすぐに理解し切れないことも承知しています。それでも許してくださるのであれば、ぜひ我が部隊に手を貸していただけませんか?」
 エティハの口元がわずかに緩む。
「そのお言葉を待っていました」
 神話学者は軍人を前に、恐れも表さず堂々としていた。

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