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なんとなく vol.3

五月

 人間とは欲深い生き物だ。つくづくそう思う。
 五月初旬の連休を終え、すでに二週間が過ぎようとしている。一週目、俺は月曜日と火曜日の放課後、二日連続で龍河先生を訪れた。月曜日はただ会いに行って、火曜日は英語を教えてもらった。
 今週もすでに一回、月曜日にお邪魔している。その三回とも俺は、別の友達と約束してるだとか、腹が痛いから便所にこもるだとか、二組の奴に用があるだとか言って、将太と裕吾に嘘をついた。
 俺が突然現れても、龍河先生は迷惑そうな素振りは見せない。かと言って、「待ってたよ!よく来たね!」みたいな雰囲気があるわけでもない。俺は部屋の隅に立てかけられたパイプ椅子を勝手に拝借し、龍河先生の近くに勝手に座る。龍河先生は相も変わらず淡々としているが、俺が喋ればちゃんと反応してくれるし、質問すればなんでも答えてくれる。龍河先生からも話しかけてくれるし、訊いてくれる。もちろん笑顔も見せてくれる。
 おかげで少しずつ龍河先生のことがわかってきた。
 歳は二十七歳だということ、洋服は友達の店で買っているということ、髪も友達の店で切ってもらっているということ、甘いものが好きだということ、だから太らないように筋トレをしているということ。
 そう、この筋トレ話で、今週の月曜日は二時間が過ぎたと言っても過言ではない。
 俺が初見で予想した通り、龍河先生は鍛えていた。こうも非の打ち所がなさすぎると、さすがです、としか言いようがない。とはいえ、部活に所属しなかった俺も身体が鈍らないように家で筋トレをしている。それを伝えたら、龍河先生は俺の腕や腹、背中をぺたぺた触って、「いいねえ」と満足そうだった。どんな筋トレをしてるのか、この筋トレはすげえ効くからやってみろ、などと、教えたり教えられたりしているうちに、五時になっていた。
 そして今日は金曜日。俺は英語準備室に向かっている。担任に用があるから先に帰ってくれと言った俺に、将太と裕吾は待ってるよと言ってくれた。
 幼稚園からずっと一緒にいてくれる将太、龍河先生に異常なほどの憧れを抱く裕吾。そんな二人に嘘ついて、無理矢理帰らせて、誤魔化して逃げて、俺は先生に会いに行こうとしている。
 わかってる。俺は先生を独占したいのだ。
 裕吾から抜け駆けするなと言われて呆れていたくせに、実際先生との距離が縮まってみれば、自分だけが特別でいたいと思う。身勝手極まりない。将太も裕吾も心底いい奴で、俺にはもったいないぐらいの最高の友達だ。だから二人が先生に近づけばきっと、いや絶対、先生は二人を受け入れて好きになる。すごく気が合って、すごく親しくなってしまうかもしれない。そうなったとき、俺は僻まずにいられるだろうかと考えてしまう。俺が先なのに、と。
 そんな風に思いつつ、将太と裕吾を先生に紹介したい気持ちもある。同じクラスだから紹介するってのもおかしな話だけど、この二人が俺の友達ですって自慢したい。二人が最高にいい奴だってことを知ってもらいたい。
 心が苦しい。
 龍河先生を独占したい気持ちと、将太と裕吾に対する罪悪感と、傷つきたくないだけの弱い自分と、友達への親愛と。
 ここで冒頭に戻る。人間とは欲深い生き物だ。つくづくそう思う。
 将太と裕吾への後ろめたさを感じているくせに、英語準備室が近づくにつれてわくわく度が上がっていく。龍河先生を目の前にすれば楽しさと嬉しさが上回って、罪悪感は影をひそめてしまう。そんな自分にまた嫌気がさす。
 でも、龍河先生と過ごせる時間が楽しくて仕方がない。
「先生はうちに来る前、どこの高校にいたんですか?」
「どこにもいねえよ」
「え?」
「誰かに教えるのは教育実習以来だからな」
「え?」ちょっと考えるが意味が分からない。「どういうことですか」
「どういうことってどういうことだ」
「え、だから……」ちょっと考えるがやっぱりわからない。「どういうことですか」
 困惑した俺の顔を見て龍河先生は笑う。
「俺が訊いてんだよ」
「あ、すいません。いや、だからその……え?免許取っても先生にならなかったってことですか?」
「そういうこと」
「なんでですか」
「別になりたくなかったから」
「じゃあなんで今教師やってんですか」
「校長に頼まれたから」
「校長に?」
「ああ。校長に恩があって断れなかった」
「へえ」
「時期がずれてたら断ってたが、今なら一年ぐらいなんとかなるから受けたんだよ」
「はあ……」よくわかんないけど、タイミングがよくてよかった。「その、校長に恩ってなんなんですか」
「俺の高校んときの担任」
「へええええ。そうなんですか」ふと始業式のある場面が蘇った。「あ、だからか」
「ん?」
「あ、いや、始業式のときに、校長が先生を見て笑ってたんです。親しみを込めた感じで」
「親心ってやつだな。散々迷惑かけたから」
「へえ……」
 先生の高校時代か。迷惑かけたってことは、やんちゃしてたってことなのかな。どんな感じだったんだろう。
 なんてぼんやり考えていたら、なんだか強い視線を感じた。顔を上げると、頬杖つく龍河先生が俺をじいっと見つめていた。
 え、なに、照れるからやめてください。
 どうしたんですか、と訊く前に、龍河先生が口を開いた。
「どうした?」
「え?」
「いや、勘違いならいいんだが、しんどい顔してる」
「そう、ですか?」
 思わず手のひらで頬を擦ってしまう。
 近頃の自分の行動と思考が自分を滅入らせているのはたしかだ。最低だな、情けないな、かっこ悪いなってずっと思ってる。だからと言ってそこまで深く思い悩んでるつもりはなかった。でもそれがもろに出てしまっていたんだとしたら、それも情けない。
 小さくため息をついたとき、龍河先生のいつもと変わらない声が俺の顔を上げさせた。
「無理に訊こうとは思わねえし、立ち入るつもりもねえよ。だがあんまりしんどいなら……なんだっけ、ショウゴだかユウタだか覚えてねえが、そいつらに言え」
 先生、違います。将太と裕吾です。ごっちゃになってます。
 そう、将太と裕吾。俺の大切な友達。
 龍河先生は身体の向きを少しだけ机に戻し、常備しているチョコを口に放った。
「俺――」自嘲する笑いが零れて、龍河先生の顔が俺に向く。「嫌な奴になってました」
「ん?」
「今から俺、気持ち悪いこと言いますけど許してください」
「内容による」
「え」
「冗談だよ、なんだよ」
 大きく息を吐き、もうどうにでもなれ、という気持ちで告げた。
「俺、先生を独占したかったんです」
 一秒、二秒、三秒。
「あ?」
「あ、待ってください。ちゃんと説明します」
「だろうな」と龍河先生は言って俺に向き直ると、チョコを口に入れる前と同じ姿勢でまたじいっと見つめてきた。
 だからさ、照れるんだって。もうこれは一気に喋るしかない。
「あの、先生はご存じないというか、興味ないと思うんですが、先生は生徒にすごい人気があるんです。女たちはもちろんですけど、男たちも先生のこと憧れの眼差しで見てるんです。俺も、はじめて先生を見たときはかっこいい人だなって思って、でも最初はそれだけだったんです。それで、先生がうちのクラス受け持つことになって、授業がはじまって、小野君のことがあって――」
 喋ってるうちに落ち着いてきた。俺が今先生に伝えたいこと、聞いてほしいことは、意外と真面目な話なのかもしれない。そう思うと肩の力が抜けて、自然と言葉がついてくる。
「先生は、いつも素っ気なくて、ぶっきらぼうで、だからはじめは、正直言うと恐ろしかったです。でも、先生が俺らに伝える言葉はすごくまっすぐで正しくて、なんか、すごいなって思ったんです。俺が授業中に質問したときも、放課後の授業のときも、先生はまっすぐ俺に応えてくれて、なんか、そんな先生を見てたら、どうしたらそんな風になれるんだろうって思って、先生のような、まっすぐな人になりたいって思ったんです」
 だんだん整理ができてきた。自分の胸のうちにあったのに、ずっと隠れていた想いや考えが表面に浮かび上がってくる。
「映画を一緒に見たり、昼に誘ってくれたり、こうやって放課後一緒にいてくれたりして、少しずつ先生との距離が縮まって、そしたらなんかすごく、先生とずっと一緒にいたいって強く思ったんです。俺はこの先、先生からものすごく大きな影響を受けるんだって、教師っていう立場じゃなくて、一人の人間として、先生は俺にとって特別な人になるんだって、なんでかわかんないけど、なんとなくそう強く感じて。だから俺は、こうやって先生と過ごす時間を大切にしたいんです」
 正直な想いを口にすると、隠したい想いも露わになる。俺は自分に嫌気を感じながら吐き出した。
「けど、その想いが変に捻じ曲がってちゃって、俺、先生に将太と裕吾を、俺の友達ですって自慢したいのに、それをしちゃうとあいつらに先生を取られちゃう気がして、だからなんかできなくて。こんなこと言うとほんと気持ち悪いですけど、先生は俺だけの特別で、先生の特別は俺だけがいいって、どっかで思っちゃってるんです。あいつらほんとにすごいいい奴らだから、先生もあいつらのこと絶対気に入るし、あいつらも先生のこと絶対すごい好きになるし、そしたら俺はどう思うんだろうって。嬉しいって思うのか、寂しいって思うのか、なんでって思うのか。なんかもう、そんなこと考えてる自分がすごい嫌で、なのに、俺がこうやって先生に会いに来てることはやっぱりあいつらに言えなくて、嘘ついて騙して追いやって、あいつらだって先生と話してみたいって思ってるのに、俺、すごい嫌な奴だなって――」
 ハッとする。一人でアホみたいに喋り続けてしまった。視線を上げると、龍河先生は変わらない姿勢のまま、やっぱり俺をじいっと見つめていた。
「すいません」と思わず謝ってしまった俺に、龍河先生は微笑むことなく、ただまっすぐ俺を見て言った。
「謝ることじゃねえだろ。凌の素直な気持ちだろ?それが。だったら謝る必要はねえよ」
「でも、変なこといっぱい言っちゃいましたし」
「どこが。俺はどこにも変だと思うことはなかったがな。誰だって誰かを特別に想うし、特別に想われたいって思うもんだ。その特別を守りたいって思うのも当たり前のことだろ」
「……そうですね」
 少しの間を置いて、龍河先生が俺の名前を呼んだ。
「凌」
「はい」
「凌がそいつらを自慢したいってんなら連れてくればいい。俺がそいつらをどう想って、そいつらが俺をどう想うのかなんてわかんねえけど、それでお前らはなんか変わんのか?俺と凌はなんか変わんのか?お前らがダチであることに変わりはねえ。それと同じで、俺が凌を好きなことに変わりはねえし、凌が俺を慕ってくれることに変わりはねえ」
「……あ」
「だろ?」
 すとんと、綺麗に落ちてきた。身体にすっぽり納まった。
「はい」
 俺の返事に、龍河先生は満足げに口元を緩めた。その顔にからかうような色が加わる。
「愛の告白されんのかと思った」
「え?」
「まあ、似たようなもんだったが」
「いや、あの……」そりゃそうだ。ずっと一緒にいたいだの、特別だの、取られたくないだの。今さら恥ずかしさが津波のように俺を襲ってくる。「……すいません。全部忘れてください」
「やだ」
「ええっ!」
「忘れられるわけねえだろ。だから凌も、俺が言ったこと忘れんな」
 くうううううう!くそっ、忘れませんとも!
 ああもう、どこまでかっこいんだこの人は。先生、やっぱり愛の告白だったのかもしれません。
「帰るか」と龍河先生が立ち上がる。俺も立ち上がってパイプ椅子を元あった場所に戻し、ドアを開ける龍河先生に続いて準備室を出た。
「先生」
「ん?」
「ありがとうございました」
 軽く会釈した俺を見て、龍河先生は微かに笑って言った。
「どういたしまして」
 龍河先生の少し後ろを歩き、その背中を眺める。不思議な気分だった。
 先生と出会ったのは一ヶ月前で、こうやって話すようになったのはつい最近のこと。先生の普段の生活も、これまでの生活も、趣味嗜好も、喜怒哀楽も、夢も、俺はなに一つ知らない。俺は砂漠の中の砂を一粒二粒拾っただけ。
 それなのに、俺は先生に強く惹かれて、先生の言葉が忘れられなくて、独占したいと思うほど強く想ってしまう。なんでなんだろう。こんな風に誰かを想うことははじめてのことで、ましてやよく知らない人のことをこんな風に想うなんて、俺はどうかしてしまったのかもしれない。
 俺はこの人に惚れているし、憧れている。それは間違ってはいない。だけど少し違うんだ。ただ、特別なんだ。

 いつもの如く、バーガーとポテトとコーラ。そのセットが三つ並ぶテーブルに、俺は頭を下げた。
「ごめん!」
「え、なに。なに急に。怖いんだけど」
「凌ちゃん、おでこにポテトくっついちゃうよ」
 おでこを触りながら顔を上げて、姿勢を正す。
「俺、龍河先生を独り占めしてた」
 裕吾はポテトを口に入れながら、将太はコーラにストローを挿しながら、俺を見る。もう一度謝ろうとしたとき、少し怒った声で拗ねるように裕吾が言った。
「知ってる」
「バレバレだよね」
「え、そうなの?」
「そりゃあね。帰らずに学校に残るって、今の凌ちゃんに理由は一つしかないじゃん。俺らを置いてけぼりにしはじめたの、凌ちゃんが先生と仲良くなりだした頃だもん」
「ひどいよなあ?俺ら友達なのにさあ」
「だからごめんって」
「言っとくが、違うぞ。俺らが怒ってんのは抜け駆けして先生と仲良くしたことじゃなくて、それを隠したこと。別に隠す必要ねえし、お前が先生んとこに行くっつったからって、俺らが邪魔するとでも思ったのか?」
「いや、邪魔っていうか……」
 俺は、昨日龍河先生にぶちまけた自分の想いをそのまま話した。龍河先生から貰った言葉も、龍河先生には言わなかった不思議に感じている部分も全部。
 将太も裕吾もなにも言わずじっと聞いてくれた。ポテトを口に入れることもなく、コーラを啜ることもなく、ちゃんと聞いてくれた。全部聞いた二人は同時にため息を漏らした。
「凌、お前はアホか」
「うん、凌ちゃんがこんなにバカだとは思わなかった」
「だからごめんって」
 将太と裕吾は顔を見合わせて、またため息をつく。
「もし俺が凌と同じ立場になったら同じように考えたと思うよ。だからそのことは責めない。しかしだ!」裕吾は手に持ったポテト三本を俺に向けてから口に入れた。「俺らの友情を疑うとは如何なもんよ!」
「裕ちゃん、口の中見えてるよ。行儀悪いよ」
「俺らの友情なめんなよ!」
「裕ちゃん、零れてるよ。汚いよ」
「俺らがどんだけお前を愛してるか証明してやろうか!」
「裕ちゃん、周りに迷惑だよ。うるさいよ」
「俺らが――」
「わかった!十分わかった!もう大丈夫!」
「ならば、詫びとしてシェイクを買ってこい!俺はバニラ!」
「裕ちゃん、いい提案だよ。俺はストロベリー」
「はい、買ってきます」
 財布を持って立ち上がった俺に、「Mサイズね!」と二人から声が掛かる。俺は苦笑いを浮かべて注文カウンターに向かった。

 休みを挟んで月曜日。
 今日は英語の授業がないから龍河先生に会えるチャンスがない。というか、そもそも龍河先生を校内で見かけることがない。今まで見かけたのは、自販機の前で肉食動物たちに囲まれていたあのときだけで、瞬間移動してるんじゃないかって思うぐらい、龍河先生の出現率は低い。
 しかし女どもはよく、「先生の今日の服いいよね」とか「先生と目が合っちゃった」とか言っている。女どものレーダーが過敏なのか、俺が遭遇しないだけなのか。なんてことを考えていたら、三限目の体育が終わってグラウンドから校舎に戻る途中で、龍河先生を見かけた。
 うちの高校は校門から見て、手前に一棟、奥に一棟校舎が並び、奥の棟の向こう側にグラウンドが広がっている。手前の棟も奥の棟も、一階の一部分が通り抜けられる造りになっていて、生徒たちはそこを抜けて校舎へ、グラウンドへ、校門へと行き来している。校舎の右隣に第一体育館、その奥に第二体育館、グラウンドの左側にはテニスコートが広がり、その手前、校舎の左側は教員、来賓用の駐車スペースとなっている。敷地内にはほかにも弓道場とか、トレーニングルームとか、図書館とか、いろいろ施設が備わっているようだが、俺には用のない場所だし、今まで足を踏み入れたこともない。
 手前の校舎と奥の校舎を繋ぐ二階の渡り廊下中央部分には、生徒たちの下駄箱がある。二つの校舎間にはその下駄箱へと続く階段があって、階段正面は生徒のたまり場となる広場、階段奥側は花壇やベンチがある中庭が広がっている。今の時期は昼休みにここで休んでいる生徒も多い。
 その中庭に龍河先生がいる。ベンチに座って背を預け、よく晴れ渡った空に顔を向けて目を瞑っている。
 俺の足は考えるよりも先に龍河先生へと近づいていく。見つけてしまったからには声を掛けずにはいられない。だって話したいんだもん。急に方向転換した俺に驚いた将太と裕吾は、戸惑いながらも俺の後をついてきた。
「こんなとこでなにしてるんですか」
 突然声を掛けられても龍河先生は驚かない。閉じていた瞼をわずかに開けて俺を見ると、また閉じてしまった。
「散歩」
「歩いてなくないですか」
「心の散歩だよ」
「……なるほど」
 空を見上げる顔にくすりと笑う笑みが浮かび、龍河先生の瞼が開いて俺に向いた。
「凌、今ダサいと思っただろ」
「いえ、思ってません……なに言ってんだろうとは思いましたけど」
「てめえ」と龍河先生は笑いながら怒って、俺の脛を蹴った。全然痛くないから俺も笑ってしまう。そこではたと気が付いた。
 やばいやばい、先生との世界に浸ってしまった。
「あ、先生。ちょうどいいんで――」振り返り、四歩ぐらい後ろにいる将太と裕吾を見る。「渡真利将太と相沢裕吾です」
「ん?ああ」
 視線を向けられた将太と裕吾は軽く頭を下げただけで、近寄ってこようとしない。裕吾は目が泳いでいる。
「悪い、どっちがどっち?」
「こっちが渡真利将太、こっちが相沢裕吾です」
「しばらくは間違えそうだな」ちょっと考えるようにしてから、将太と裕吾の顔を覗くようにして訊く。「お前ら今日昼は?」
「え?」「え?」
 わかるわかる。話しかけられるとドキドキするよね。俺だって今なんでもないように装ってるけど、すごいドキドキしてるから。
 話しかけられて思考が軽く停止している二人に代わって俺が答える。
「持ってきてないです。俺ら普段から持ってこないんで」
「じゃあ昼付き合って」
「はい!」
 突然のことに驚きと戸惑いを隠せない将太と裕吾も、「はい!」と喜びを滲ませて頷いた。
「お前ら時間平気なのか」
「あ、そうだ。先生は戻らないんですか?」
「俺はここで凌にバカにされた傷を癒す」
「バカになんてしてないですよ」
 龍河先生はまた小さく笑い、見かけたときと同じように空を見上げて目を瞑ってしまった。
「早く行け」
「はい、じゃあまたあとで」
 まだ緊張したままの将太と裕吾を連れてその場から離れる。階段を上る前にもう一度中庭に目を向けると、あたたかい陽の光を全身で浴びるように、龍河先生は同じ姿勢のまま空を見上げていた。
 なんだろう、神々しいぞ。アポロンか?いや、アポロン以上だ。アポロンよ、お前がどれほどの奴か知らないが、先生はお前に負けないぞ。
「おい、凌」
 裕吾に肩を叩かれ我に返る。
「うん?なに?」
「ちょっとさ、急すぎないか?俺、心の準備ができないよ」
「俺のときも急だっただろ。わかったか、俺の気持ちが少しは」
「うん、わかった。一人で先生と飯食ったお前、マジですごい」
「だろ?すごいだろ?」
「それにしてもかっけえな。座ってるだけなのにかっけえな」
「そうなんだよ。二人でいるときあの顔に見つめられるんだぞ?あの顔で笑うんだぞ?俺だけに。止まらないんだよきゅんきゅんが」
「でもやっぱり先生、俺と裕ちゃんの名前知らなかったね」
「まあな、それは仕方ない」
 二人には現在に至るまでの経緯は話してある。プライベートなことは勝手に話していいことじゃないから話してないが、視聴覚室での龍河先生とのやりとりは伝えてある。だから龍河先生が生徒の名前を覚えるつもりがないことも、その理由もわかってる。
「でも昼飯に誘ったってことは、ちゃんと二人のこと覚えようとしてくれてるってことだよ」
「なんだよ、かっけえよ。そういうさりげない優しさに弱いんだよ俺は。ああ、緊張する。緊張して授業どころじゃねえ」
「裕ちゃんがそんなに緊張すると俺まで緊張してくるからやめて。っていうか、なに話せばいいの」
「あ、そうだ。昼飯んときはプライベートなこと訊くのはやめてくれ。肉食動物たちの目が光ってるから」
「そうだね、危険だね」
「先生のことは俺が守ってみせるぜ」
「裕吾、お前は意気込みと行動が伴ってないな」
「うるせえな。緊張しちゃうんだからしょうがねえだろ」
 廊下を曲がって教室前の廊下に出ると、次の授業の担当教員が教室の前に立っていた。「やべっ」と駆け出し、俺たちは慌てて席に着いた。
 時間が気になって仕方がない。ちらっと横を見ると、裕吾はなにかを考え込んでは手のひらになにかを書いている。あれは訊きたいことリストだろう。将太はというと、黒板に目を向けてはいるが、心ここにあらず状態。気もそぞろ。使ったことないけど、こういうことかと納得した。
 チャイムが鳴って俺らは同時に立ち上がる。ついにきた。こんなにも待ち遠しい昼休憩ははじめてだ。
 食堂の前で三人、今か今かと待ちわびている。そして待ち人が現れた。廊下の向こうから歩いてくる。すれ違う生徒の視線を気にする様子もなく、いつもの龍河先生が歩いてくる。
 今日の龍河先生は、藍色のプルオーバーの下に白シャツを着て、ボトムスはブルーのストレートデニム。プルオーバーの裾から出てる白シャツの見え具合も、上下のサイズ感も、すべてがバランスよし。一時間前も思ったけど、龍河先生は今日も素敵です。
 ああ、やっぱり輝いている。先生が歩いたあとに光の残像が見えるのは俺だけだろうか。
「悪い、待たせた」
「いえ、大丈夫です」
「なに食うかな」
 龍河先生は腕を組み、メニューが書かれたボードに目を向けた。誰もがやるその仕草、よく見るその仕草、なんてことないその仕草。俺も将太も裕吾も、そんなどうってことない仕草に見惚れしまう。
 本日のメニューは、カレーうどん、オムライス、酢豚定食、親子丼、おにぎり、デザート。
「俺はカレーうどんにします。あとおにぎり」
「俺は酢豚だな。お前らは?」
「え、あ、俺は、も酢豚ですね」と将太。
「俺は凌と一緒で、カレーうどんとおにぎりにします!」と裕吾。
 俺たちの選んだものを聞くと、龍河先生は券売機に向かった。四人分の食券を買おうとしていることに気が付いて、俺は慌てて言う。
「あ、いいですいいです。自分たちで払います」
「いいよ、こんくらい」
「違うんです。奢られちゃうと、これから先生を昼に誘いたいとき誘いづらくなるんです」
「ああ、そういうことか」
「そういうことです」
「あ、デザートなに?」
「オレンジゼリーです」
「お、いいねえ」と言って、龍河先生は酢豚定食の食券を一枚、デザートの食券を四枚購入すると、デザートの食券を俺らに差し出した。「こんくらいはいいだろ?」
 その言い方がなんだか可愛くて、俺の胸は締め付けられる。それは将太と裕吾も同じようで、将太はなにかを堪えるようにしながら胸を押さえ、裕吾は直視しないよう明後日の方向に視線を向けていた。
 デザートの食券をありがたく頂戴し、俺らも自分たちの食券を購入して龍河先生と一緒に列に並ぶ。すると、後ろからこそっと裕吾が俺に訊いた。
「なあ、すげえ見られてる気がすんだけど」
「見られてるんだよ。でも気にすんな」
「なんか、いつも先生こんなんなんだって思うと、心配になっちゃうね」
「そうなんだけど、俺らが気にしてると余計目立つだろ?だからいつも通りでいればいい。先生と話してると気にならなくなってくるし」
「そうか、わかった」
「うん、じゃあ気にしない」
 それぞれが料理を貰って席に着く。ちょうど隅の四人席が空いていて、周りは男だけ。俺はほっと胸を撫で下ろした。窓際に龍河先生、その隣に俺、向かいの窓際に将太、その隣が裕吾。手を合わせて食べはじめると、俺のカレーうどんの丼ぶりに左からしめじが放られる。
「酢豚にしめじ入れるか?ふつう。なんでもかんでも入れやがって。しめじ業者と癒着してやがるな」
 ぶつぶつ文句言いながらしめじを箸で掴む龍河先生は、可愛さMAX。俺ら三人は無言で見つめ合い、悶絶する気持ちを分かち合った。
 しめじを全部排除した龍河先生は、あの男らしい食べっぷりなのに可愛いという反則技を繰り出し、将太と裕吾をさらに苦しめた。俺は一応免疫があるものの、それでも「ああ、もう」と何度心の中で呟いたかわからない。
「凌ってずっとこんなん?」
 酢豚の人参を口に運びながら、龍河先生が目の前の二人に訊く。話しかけられたことに感動したのか驚いたのか、まあ両方だろうけど、将太と裕吾は一瞬停止して、口に入っていた分を慌ててごくりと飲み込んだ。友達歴が長い将太が自然と話す形になる。
「そうですね。俺はちっちゃい頃からずっと友達なんですけど、ずっとこんなんです」
「こんなんって、どんなん」
 俺が怪訝な顔で訊くと、将太は俺をまっすぐ見て言った。
「変なとこ真面目で潔癖で、たまにぶっ飛んでるところがある、可笑しな奴だけどすごいいい奴」
「ああ」と裕吾と龍河先生の声が揃う。
「なんですかその反応」
「凌とはまだ一ヶ月ぐらいの付き合いだが、なんとなくわかるから」
「俺もすげえわかる。凌のそういうとこ好きだけど、でもたまに怖くなる」裕吾は俺に向かってそう言うと、そのまま龍河先生に向き直った。「つい最近もこいつすげえなって思ったことがあるんすけど」
「へえ」龍河先生の顔に喜色の色が浮かぶ。
「ちょっと待て、なにを話すつもりだお前は。先生に話す前に俺に話せ」
「凌、黙ってろ。えっと――」裕吾を指差したまま龍河先生が固まる。
「裕吾です」俺からの助け舟。
「裕吾、話していいぞ」
 名前を呼ばれて感極まっている裕吾をいつでも静止させられるよう、俺は身構えた。
「えっと、先生と凌がはじめて昼飯食いに行った日のことなんすけど」
 あの日?なんかあったっけ。
「飯食い終わって凌が教室に戻ってきたら、どっかのクラスの女が三人、凌を訪ねてきたんすよ」
「裕吾、待て――」
「凌、うるせえ」
「ううう」
 龍河先生にそう言われたら黙らざるを得ない。自分があの女になにを言ったのか正直よく覚えていない。必死で記憶を探りながら、裕吾が話す内容を耳で聞く。でもこれはきっと、気恥ずかしいやつだ。
「その女三人ってのが、いつも先生の周りをうろちょろしてる女どもなんすけど、先生と凌が一緒に飯食ってるのを見て、凌に近づけば先生とお近づきになれるって思ったみたいなんすよね。それでいきなり凌んとこ来て、先生との間を取り持ってくれないか、みたいなこと言ってきて。そしたら――」
 ――あのさ、あんたら恥ずかしくないの?人をじろじろ見て、媚び売って、摺り寄っても相手にされなくて、挙句に人を利用して。自分の力で手に入れられないなら、それはあんたらには分不相応だってことだろ。
 ――最低なのはあんたらだろ。あんたらさ、自分が仲良くなりたいと思ったら相手もそう思ってるとでも思ってんの?ぎゃあぎゃあ騒いで迷惑かけて嫌な思いさせて、相手の気持ちも考えろよ、ガキじゃねえんだから。誰だか知らねえけど醜いんだよお前ら、やってることが。
 思い出した。先生に聞かれるなんて恥ずかしい。
「で、最後に『どっか行ってくんない、邪魔だから』って一蹴して、そいつらは退散したんです」
「あれはすっきりした。あのあと拍手喝采だったもんね」将太は俺に笑いかけてから、龍河先生に視線を移す。「こういう奴です、凌ちゃんは。自分の大切なものが傷つけられたり傷つきそうになってると、真っ先に駆け付けて守ってくれる。その為には相手が誰であろうと立ち向かう勇気と力がある」
 気恥ずかしいどころじゃない。友達から急に褒められるとどうしたらいいかわかんなくなる。
「ちょっと将太、どうした。俺そんな経験ないぞ」
「お前が覚えてないだけだ」
 裕吾までそんなことを言い出して、言ってからおにぎりを口に入れた。将太はうんうんと頷き、まだ続ける。
「あと、思い立つとすぐ行動に出たりもしますね。普段はふつうの真面目で愉快な奴なんですけど、たぶん凌ちゃん独自の直感みたいなのがあって、それに身体が勝手に従っちゃう、みたいな」
「なんかそれは、アホっぽくないか?」
「そうかな。俺はすごいなっていつも思ってる」
「やめろよ、なんだよ急に。照れるだろ」
「凌ちゃんがどういう奴か、先生に知ってもらいたいんだ」
 おにぎりを飲み込んだ裕吾が将太に加勢する。
「凌はすげえいい奴です。俺は将太みたいにうまく言えないっすけど、いつも助けてもらってるし、いつも俺らのこと考えて行動してくれるし、俺は凌と友達になれてマジでよかったって思ってます」
「なになになに。どうしたんだよお前ら。気持ち悪いぞ」
「いいじゃんたまには。言わないと伝わらないし」
「そうだよ。凌のおかげでこうやって先生と飯食えてるしな」
「もういいって。それ以上言ったらカレーの汁飛ばすぞ」
「それは絶対やめて」
「俺がどんだけ気を付けて食ってたか知らねえのか」
「知るか!んなこと!」
 裕吾を跳ねつけ、そういえば先生が全然喋ってないじゃないかと思って横を向くと、龍河先生は右手に箸を持ったまま頬杖をつき、楽しそうに嬉しそうに頬を緩めて俺らを眺めていた。もちろん俺らはその表情に見惚れてしまう。
「凌、お前はいいダチを持ったな」
「え、あ、はい」照れるけど、それはほんとのことだから素直に認める。
「お前らもいいダチを持ったな」
 将太と裕吾は一つ頷いて笑って、「はい」と答える。
「凌が言ってた。俺の友達はほんとにすごいいい奴らだって、自慢の友達だって、俺に紹介したいって」そこで龍河先生は、見惚れる顔を俺に向けた。「凌、十分伝わった、お前のダチがすげえいい奴だって。自慢したくなるはずだ」
「はい、伝わってよかったです」
「将太、裕吾」
「はい」将太と裕吾の声が揃う。
「お前らが凌を想う気持ちも十分伝わったし、凌にも伝わってる」
 龍河先生が俺と目を合わせる。俺はそれに応えるように、目の前に座る友達二人の目をちゃんと見て、照れながら、素直にお礼を伝えた。
「うん、伝わった。ありがとう」
「やめろやい。照れるだろ」
「うん、改まって言われると恥ずかしいよね」
「お前らがはじめたんだろうが!」
 あっはは!と笑う声に、俺らはぴたっと動きを止めて龍河先生を見た。食堂全体の時間も止まったに違いない。食堂にいる誰もが龍河先生の笑顔に見惚れているに違いない。
「すげえいい奴三人と食う飯はうまいな。また食おうぜ、四人で」
 龍河先生は頬を緩めたまま、今度は豚肉を口に入れる。俺ら三人は視線を合わせて笑い合い、飯を口に運んだ。
 飯を食い終わって食堂から出ると、龍河先生がなにかを思い出した顔になった。
「そうだ、凌」
「はい」
「中間終わるまで放課後来るの禁止」
「え」
「テスト作ってるから」
「ああ」そっか。なんだ、よかった。
 ふっと龍河先生の頬が優しく緩む。
「そんな顔すんじゃねえよ。なんか理由がなけりゃ来んななんて言わねえよ」
 じゃあな、と言って龍河先生は背中を向けて行ってしまった。
「なあ」
「ん?」
「先生は俺をどうしたいんだろうか。惚れさせたいんだろうか」
「もう惚れてるだろ」
「……たしかに」
 俺ら三人も歩き出し、余韻に浸りながら教室に戻る。話題が食堂での話になるのは当たり前。
「あれはずるいな。かっこいいのに可愛いってどういうことだ。俺の脳みそは処理しきれねえぞ」
「なんだろうね。見た目だけじゃなくてさ、不思議な魅力があるんだよね。惹きつけられてしまうっていうか」
「お前ら、わかってくれたか」
「独占したくなるのも頷ける」
「俺は独占されたい」
「先生の笑顔、やばいだろ」
「や~ばい!」
 将太と裕吾は息ぴったり。声だけじゃなくて、少しだけ怒気を含んだ感じも揃った。うんうん、その感じ、わかるわかる。
「なんだありゃ」
「あれは反則だ」
「男でこうなんだから女はどうなるんだよ」
「男も女も関係ない。先生はすべての生きとし生けるものを虜にしてしまう魅力があるね」
「くそお、かっこよすぎなんだよ」
「わかるわかる。かっこよすぎて腹立ってくるんだよ」
「どうしたらああなるの」
「知らね、わかんね」
「タオル投げた。裕ちゃんがギブアップです」
「俺さっき中庭で陽を浴びる先生見て、先生のことアポロンかと思ったもん。そのあとすぐ、いや、先生はアポロン以上だなって結論付けたけど」
「おお、神を超えた」
「凌ちゃん、一応言っとくけど、先生は人間です」
「ですよね」
「です」
「あ、そういや裕吾。お前さっき授業中になんか手に書いてなかった?」
「なぜそれを」
「訊きたいことリストだろ?」
 ぐっと黙り込んだことが答えになっている。
「でもなにも訊いてなかったよ」
「緊張しちゃって訊けなかった」
「緊張してたわりにはぺらぺら人のこと喋ってたな」
「ああ、あれはね。人のことだから」
「うわあ」
「まあまあ。楽しかったからいいじゃん」
「まあな」
「また四人で食おうっだって。ああ、今日はよく眠れそうだ」
「そりゃよかったな」
 ふと沈黙が訪れる。三人のため息が重なって、将太だけの声が零れた。
「かっこよかったね、先生」
「うん」と俺と裕吾はすぐに同意した。

 中間テストは明日からの四日間。中間テストを目前に、学校内はどこかそわそわした空気が充満している。なんだかちょっとしたお祭りみたいで、俺はこの時期が好きだ。テスト対策が万全というわけでもなく、テストが好きだというわけでもなく、ただいつもと少し違う雰囲気がなんか好きなのだ。それにテスト期間中は一日三限で終わって早く帰れるし、得した気分になる。と将太と裕吾に話したら呆れられた。
「呑気な奴はいいな」
「凌ちゃんはマイペースだから」
「ちゃんと勉強はしてるぞ」
「解答欄一つずつ間違えて零点取らねえかな」
「笑えるねそれは。ずっとネタになるじゃん」
「なんだお前ら。今日はやたら絡んでくるじゃないか」
「だってよ、なんかテストってだけで嫌な気分になるだろ」
「やだなあって気分にはなるよね。なんでかわかんないけど」
 そう言いながらも、二人は優等生なのである。将太は日頃からちゃんと勉強していてそれが成績に繋がっているし、裕吾はそもそも頭の出来がいい。もちろん勉強はしているんだろうが、根を詰めて勉強をしている様子はなく、イメージとしてはさらっとやっておしまい、っていう感じ。それでいて成績は常に学年一位か二位のどっちか。いつもバカやってるくせに、とこっちが絡みたくなるぐらいだ。そこで俺はふと気が付いた。
 もしかして、これもギャップ萌えってやつになるんじゃないか?
「おい、裕吾」
「なんだよ」
「どうしてそのギャップを利用しないんだよ」
「なんの話だ」
「裕吾はバカだけど頭いいだろ」
「喧嘩売ってんのかお前は」
「ああ、なるほど」将太が納得したように頷いた。
「女はギャップに弱いって言うだろ。だったらお前のそのギャップが役に立つんじゃないか?」
「待て、俺のどこにギャップがあるんだ。俺はべつに頭よくねえし、そもそもバカじゃねえ」
「将太、殴っていいか」
「いいよ。今のは裕ちゃんが悪い」
「なんで!どこが!」
「お前が頭よくないなら俺は底辺だぞ。あと、お前は勉強以外バカだ」
「将太、殴っていいか」
「ダメ。今のは凌ちゃんが正しい」
「嘘だろ!」そこでチャイムが鳴った。「あ!俺の癒しの時間がはじまる!」
 俺らは慌てて席に戻った。放課後訪問禁止令が出てから、龍河先生を拝めるのは授業のときだけになってしまった。目の保養はできるときにしておかなければならない。目に焼き付けておかなければならない。そのぶんドキドキしちゃうんだけど。
 教室に龍河先生が入ってくる。それだけでクラス全体がすっと引き締まる。一ヶ月前とは明らかに違う空気が教室を覆うようになった。
 いつも通りの足取りで教卓に近づく龍河先生のその姿を、俺は否応なしに目で追ってしまう。
 今日の龍河先生は、グレーTシャツの上に濃紺のオープンカラーシャツを羽織っている。ボトムスはオフホワイトのチノパン。
 何度見ても首を捻ってしまう。どうしたらああなるのだろう。どうしてそんなに似合うのだろう。でも先生、おかげで視力が上がった気がします。今なら未来さえも見える気がします。
 龍河先生が俺たちと向かい合う。
「今日は授業なしだ。自習でいい。英語以外でも構わねえから、各自中間に備えて好きにしてくれ」
 ここで「じゃあ帰ってもいいんですか」と言ったり、スマホを取り出してゲームをしたり、席を移動しておしゃべりをはじめるようなバカはいない。そんなことをしたらどうなるのか、小野君のおかげでクラス全員が知っている。反面教師になってくれてありがとうと、クラス全員が小野君に感謝しているに違いない。
「英語でわかんねえことがあったら訊くように」
 それだけ言うと、龍河先生はドア近くにパイプ椅子を置いて座り、文庫本を広げた。目の前に座られた裕吾は落ち着きをなくしている。
 なんの本だろうとクラス全員が思ったに違いないが、もちろんそんなこと訊く人はいない。みんな龍河先生が言った通り、自分が勉強したい科目の教科書を取りに行ったり、問題集をバッグから取り出したり、英語の教科書を開いたりして自習をはじめた。立派に改心した小野君も素直に自習に取り組んでいる。
 さて、俺はどうするか。ちょっと悩んで、明日テストがある数学の教科書を取りに行った。
 自習時間がはじまってしばらく経つ。教室内はページがめくれる音と、文字を書く音だけでとても静かだ。集中していた俺は、その声で意識が外に向いた。
「先生、教えてもらいたいんですけど」
 その声に「あ」と思う。この声はなっちゃんだ。そろりと顔を捻ると、龍河先生がなっちゃんの席に近づこうとしていた。どうやら龍河先生は定期的に席の合間を行き来していたらしい。
 なんてことだ、集中して気付かなかった。
 なっちゃんの席に辿り着いた龍河先生は机の端に手を置き、なっちゃんの手元を覗くように身をかがめた。なっちゃんは顔を赤らめ、近い距離にどきまぎしながら龍河先生に質問している。
 そりゃそうなるよ、わかるわかる。でもちょっと複雑。
「ああ、それは――」と龍河先生のプチ授業がはじまった。なっちゃんがさらになにかを訊いて、それに龍河先生が答えて、というやりとりを何回か続けて、なっちゃんは理解できたようだ。
「ありがとうございました」
「ほかにもあれば遠慮せず訊いて」
「はい」
 なっちゃんは自習に戻り、龍河先生はゆっくりと歩き出した。すると別のところからまた声がかかる。
「先生、俺もいいですか」
「ああ」
 その生徒のほうへ近づき、なっちゃんのときと同じように龍河先生は手元を覗き込む。どきまぎするのも一緒。
 ドキドキするよね、わかるわかる。
 そう、こういうのが増えた。
 一ヶ月前は誰も質問なんてしなかったし、龍河先生をどこか恐れていた。恐れているのは今も変わらないけど、それ以上に龍河先生を慕う気持ちが大きくなっている。龍河先生の授業はわかりやすいし、教え方もうまい。俺らがなにか質問すればとことん応えてくれる。俺らがちゃんと理解できるように力を尽くしてくれる。そして言葉の端々に、素っ気ないけれど俺らを想う気持ちがこもっている。だから俺らも応えようと思う。なにより、龍河先生から学ぶことが楽しいと思うようになっている。
 そういう俺らの想いは重なって積もって、それは龍河先生に対する敬意という形になった。だから龍河先生が教室に入ってくると空気が引き締まる。生徒たちの気持ちが引き締まる。この人から学びたいと思う。
 気持ちが余所にいっていた。ぼんやりとどこでもない場所を眺めていた俺の目の前に突然龍河先生の顔が現れて、俺は文字通り飛び上がった。
「うおあっ!」
「随分余裕あるじゃねえか」
「すいません」
 クラスのみんなも大声出してすいません。みんなの驚いた顔が前向いたままでも見えています。ほんとすいません。
 龍河先生はからかうように小さく笑うと、俺の頭にぽんと手を乗せ、そのままドア近くに置いたパイプ椅子に戻っていった。
 やばい、これはやばいぞ。なんだこのなんとも言えない感情は。
 あれか?これが世に言う頭ぽんぽんってやつなのか?なるほど、たしかに嬉しさ半端ないな。ただ頭に手が乗っかっただけなのに、幸福感が満ち溢れるじゃないか。今なら俺、動物と会話をすることも、花を咲かせることもできる気がする。空に虹を架けることだってできちゃう気がする。まったく、どうしてこんなことができるんですか、先生。
 俺が浮き立つ心を宥めながら残りの時間を過ごしている間にも、何回か龍河先生は声を掛けられていて、驚いたことにあの小野君も龍河先生に声を掛けていた。その瞬間、教室にはなにかに打ち勝ったような感動の波が押し寄せた。立派になったね小野君、とクラス全員が涙を拭ったに違いない。
 しかし龍河線先生はやっぱり変わらない。表情一つ変えずに小野君に近づいた龍河先生は、みんなと同様どぎまぎしながら訊く小野君の質問に、一つ一つ丁寧に答えていた。知りたいから学ぶ。小野君は今、学んでいる。俺がこんなことを思うのはおこがましいのかもしれないが、なんだか嬉しかった。
 授業の時間がもうすぐ終わる。龍河先生はパイプ椅子を壁に立てかけ、教卓の後ろに立った。自然と生徒の手は止まり、前を向く。
「英語のテストはこれまで伝えたことを問題にしてる。少し捻った問題もあるが、落ち着いて考えればお前らならわかるはずだ。ちゃんと予習しておくように」
 龍河先生が教室から出て行った。ドアが閉まるのと同時にチャイムが鳴った。
 じわじわと、龍河先生の言葉が沁み込む。
 クラス全員の顔に笑みが広がり、誰の心にもやる気が漲っていく。これは俺の憶測じゃなくて、たしかなことだ。

 チャイムが鳴り、ほっと息をつく音があちこちから聞こえてくる。やっぱりどこか気を張っていたんだろう、俺自身も一つ息を吐いて椅子に寄りかかった。中間テスト四日目の最終科目が終わったのだ。
 完璧だ!とは言えないが、まあできたほうじゃなかろうか。英語もできたと思う、たぶん。
 将太と裕吾と昼飯を食って帰ろうと約束はしているが、まだ昼飯には早い。俺らと同じく時間を持て余している生徒はまあまあいて、教室に残ったままテストの話題を中心にだらだら喋っている。
 俺らもだらだら喋ってると、男が三人教室に入ってきて俺らのところへやってきた。二年のとき同じクラスだった奴らで、今でも仲がいい。
「バスケやろうぜ!」
 テストが終わった解放感からか、そう俺らを誘ってきた。俺らも暇だし腹空かすために汗でも流すか、となり、みんなで仲良く体育館へと向かった。
 やるからには真剣勝負。とはじめは言っていたものの、全員バスケ部ではないし、これまでも授業でしかバスケはやっていない。それなりの形にはなっているがみんな格好だけ。だんだん可笑しくなってきて、最後はふざけているようにしか見えなかった。
 そんなこんなで一時間ぐらいわちゃわちゃし、腹減ったから終わりにしようとなって解散。別クラスの三人はそのまま帰っていったが、俺らはちょっと休憩すると言って体育館に残り、体育館の側面にいくつかある扉のうちの一つから外に出て、石段に腰かけ涼んでいた。そこは体育館の裏側にあたる部分で、目の前には緑色のフェンスがあり、その向こうは草木が生い茂っているだけの藪。風が吹くたびにさわさわと音を立て、今の季節は心地がいい。
 俺らがそこに座ったとき、俺らがいる場所からまあまあ離れたところ、第二体育館寄りに幾人かの生徒がいることには気付いていたが、とくに気にしてなかった。
 汗も引いたしそろそろ戻るか、と立ち上がる。と同時に、なにかが勢いよくぶつかる音がして、俺らは反射的にその音のほうへ顔を向けた。見ると、向こうのほうに集まっていた生徒のうち一人がぶっ倒れている。
 何事だと瞠った目は、その先に立っている龍河先生を見つけてはち切れんばかりになった。
 おいおいおい、なにがあった。お前ら先生になにしたんだ!
 将太と裕吾と顔を見合わせるが、二人ともあんぐりと口を開けたまま、どうしたもんかと動くことができない。ぶっ飛ばされた生徒のお友達もその場に呆然と立ち尽くしたままだ。龍河先生がそいつらになにか言っているようだが、ここからだと聞こえない。だけど一つだけわかることがある。今の龍河先生はあのときと同じ、小野君に「殺すぞ」と言ったときと同じ顔をしているに違いない。
 立ち尽くしていた生徒たちがぺこぺこ頭を下げはじめ、ぶっ飛ばされた生徒も腹を押さえながら立ち上がってぺこぺこ頭を下げて、みんな仲良く去って行った。龍河先生はそれを見送ることなくこちらへと歩いてくる。風に揺れる木々を眺めながら歩いてくる。俺らは駆け寄ることもできずにその場に突っ立って、だんだん近づいてくる龍河先生をただ眺めていた。すると、やっと俺らに気が付いたのか、それともそこに誰かがいることに気が付いただけなのか、龍河先生の顔が俺らに向いた。俺らはハッとし、声を掛けるにはまだ少し遠かったからとりあえず会釈だけしておく。足取りは変わらず、龍河先生はそのままこっちに歩いてきた。
 声が届く距離になって龍河先生に訊く。俺が訊くしかない。
「こんなとこでなにやってるんですか」
「散歩」と答え、龍河先生は俺らのそばで足を止めた。こんなとこで偶然遭遇したことに驚くこともなく、もちろん、親しげな表情になるとか、少し表情が明るくなるとか、そういったことも一切ない。そう、どこからどう見てもいつもの龍河先生。さっき生徒一人ぶっ飛ばしてましたよね?と確認したくなるほど、いつもと変わらない。
「散歩、好きですね」
「暇だからな」
「はあ」
「ここ敷地広いだろ。気晴らしにちょうどいいんだよ」
「たしかに、そうですね」後ろから急かされる。早く訊けと背中を突っついてくる。くそっ、訊くよ、訊けばいいんだろ。「あの、先生」
「ん?」
「さっき、なにしてたんですか」
「さっき?」
「なんか、生徒が一人ぶっ飛んでたような」
「ああ。たばこの吸い殻捨てやがったんだよ、あいつ」
「え?」
「たばこ吸うくせに携帯灰皿持ってねえとかあり得ねえだろ」
「え?」
「常識だろうが」
「え、あ、はい。それは知ってるんですけど、あの生徒たばこ吸ってたんですよね?」
「ああ」
「あの、先生、たばこ吸ってることを注意しません?ふつう」
「あ?」
「え、だって、未成年の喫煙は法律で禁止されてるわけですし」
「知るか、んなこと」
「ええ?」
「凌、未成年の喫煙はなんで禁止されてるんだ?」
「身体に悪い影響があるから、ですよね」
 将太と裕吾も俺の答えを肯定するようにうんうんと頷いてくれている。
「正解。たばこってのは有害物質と発がん性物質の塊だ。成長期のお前らがそれを摂取したら身体にどんな影響があるのか、十七にもなればさすがにわかるだろ。それでもいいから吸いたいってんなら、それはもうあいつの責任だ。俺が知ったことじゃねえ」
「はあ」
「だが、吸うなら吸うでルールは守らねえとダメだろ。てめえの部屋に吸い殻捨てんのかって話だよ」
「捨てないですね」
「だろ?ああいうの胸くそ悪くなるんだよ。ポイ捨てとか、信号守んねえとか、歩きたばことか。最近だとあれだな、歩きスマホ。当たり前のことができねえ奴が当たり前に生きてんじゃねえよ」
 背筋が伸びる。ポイ捨てはしたことないし、たばこは吸わないからあれだけど、信号無視しちゃったことあるなあ、歩きスマホしちゃったことあるなあ。したことあります、なんて、絶対言えないなあ。
 将太と裕吾を横目で見ると、澄ました顔してた。ははーん、お前らも俺と同罪だな。ふっふっふ、と心の中でほくそ笑んだとき、龍河先生が俺らの顔を見渡して訊いた。
「お前らはなにしてんの」
「え、あ、バスケしてました。先生もやりますか?」
「やんねえ。怪我したくねえもん」
「大丈夫ですよ、遊びですから」
「遊びだろうと怪我する可能性はゼロじゃねえだろ」
「まあ、そうですけど」
「この手は命とおんなじぐらい大事なんだよ」手のひらをグーパーグーパーしながら言う。「だから遊ぶならお前らだけで遊んでろ」
 ふと記憶が蘇った。小野君だ。小野君とのあの一件、あのとき、小野君が龍河先生の腕を掴んだ途端、龍河先生の様子が一変した。命と同じぐらい大事だということは、それだけ過敏になるはずだ。
 なるほど、小野君は一番やっちゃいけないことをしてしまったってことだ。俺も気を付けなければ。あ、だから拳じゃなくて蹴りだったのか。なるほどなるほど。
 なんて納得してる場合じゃない。龍河先生が俺らから離れようと足を踏み出している。
「ええ!ちょっと待ってください。行っちゃうんですか?」
 こうやって龍河先生と話すのは二週間ぶりぐらいだ。もう少し話したい。
「だから俺はバスケはしねえって」
「いや、そうじゃなくて」
「もしかして俺がバスケできねえとでも思ってんのか」
「え?」
「なめられたもんだな。貸せ」
 裕吾に向かって手を差し出し、裕吾は持っていたバスケットボールを手渡した。バスケットボールを受け取った龍河先生は靴を脱いで体育館の中に入ると、スリーポイントラインまで進んだ。俺らは顔を見合わせて、扉から中を覗く。
 両手で持ったバスケットボールが額のあたりまで持ち上がり、膝がわずかに曲がって、膝が伸びると同時に腕も伸びる。綺麗に伸びた腕から放たれたバスケットボールは、弧を描いてリングに吸い込まれた。流れるようなフォームは美しかった。
「すごい」思わず零れ出たように将太が呟く。
「左手は添えるだけ」有名なバスケ漫画の名台詞を裕吾が呟く。
「あいつは化けもんだ」現実逃避したくなって俺が呟く。
 バウンドするバスケットボールを拾って龍河先生が戻ってくる。それを裕吾に返して靴を履くと、嬉しそうにするわけでもなく、誇らしげにするわけでもなく、当たり前のように言った。
「なめんなよ」
 それだけ残して龍河先生は行ってしまった。
 なんだあいつは。
 顔もよくて声もよくて、スタイルもよくてセンスもよくて、頭もよくて運動神経もよくて、ぶっきらぼうだけど優しくて、かっこいいのに可愛くて、かっこよくて、かっこよくて、かっこよくて、かっこよくて、かっこよくて。
 かっこいいしかないじゃないかこんちくしょう!
 龍河先生が歩いていった方向を俺も将太も裕吾も眺める。
「凌、あれは、同じ生き物か?」
「いや、あれは人間じゃない。違う生物だ」
「そうだよな。じゃないと俺、泣いちゃうぞ」
「あれと自分を比べたらダメだぞ」
「そうだよな。俺の努力は無駄じゃないよな」
「裕吾、お前はよくがんばってる」
「凌、お前も十分がんばってる」
「だよね、将太」俺と裕吾の声が揃う。
 懇願するように訊いた俺らに、将太は容赦なく言い放った。
「あれは、俺たちと同じ人間です」
「将太てめえ!」
「空気読めよ!」
「俺はちゃんと現実を受け止めてるだけだよ」
「違う!あれはどこかから来た異星人だ!」
「そうだ!あれが俺らと同じ人間なら俺らは味噌っかすじゃねえか!」
「あんなんが近くにいたら絶望しか感じないだろ!」
「そうだ!あれが俺らと同じ人間なら俺は引きこもるぞ!」
「じゃあ先生と関わるのやめればいいじゃん」
「それはいや」俺と裕吾の声が揃う。
「即答じゃん」
「だってかっこいいんだもん。優しいんだもん。大好きなんだもん」
「そうだ!先生は見た目だけじゃない、中身もかっこいいんだぞ!」
「一緒にいると楽しいし、先生の話好きだし。心臓が壊れそうになるけど」
「そうだ!俺は先生からいろいろ教えてもらわないといけないんだ!」
「そんな人を人間じゃないなんて言ったら怒られるよ」
「……嘘です。紛れもない人間です」
「……すみません。調子に乗りました」
「でもあの完璧さは異常だね」
「だよな!」俺と裕吾の声が揃う。
「先生の欠点ってなんなんだろう」
 しばしの沈黙。俺は結論を出した。
「ないと思う」
 将太も裕吾も頷くしかなかった。

 休み明けはどの授業もテスト返却の時間になる。もちろん英語も。
 火曜日の三限目、龍河先生もクラス全員分の答案用紙を抱えてやってきた。
 今日の龍河先生は、水色と白のストライプシャツに濃紺のチノパン。これだけ聞けば、至って普通の組み合わせ。しかし龍河先生が着ていることを忘れちゃいけない。ストライプは細すぎず太すぎず、少しゆったりめのシャツはチノパンのサイズ感とバランスがとれていて絶妙だ。大事なのはサイズとバランスだってことは龍河先生を見て学んだけど、それを実際やるとなると難しいんだよなあ。
 それにしても先生、今日は爽やかですね。初夏を感じますね。
 だがしかし、龍河先生が爽やかな笑顔を振りまくことはもちろんなく、教卓の後ろに立つなり「テストを返す」と言って、生徒の名前じゃなくて出席番号で呼びはじめた。名前覚えてないからね。
 出席番号一番は裕吾。すぐに立ち上がり、龍河先生の元へと駆け寄る。龍河先生との距離がほんのちょっと近づいたからといって、裕吾は馴れ馴れしくしたりなんかしない。というか、そんなこと畏れ多くてできるはずもない。裕吾は答案用紙を受け取ると、軽く頭を下げて自分の席に戻った。
 二番、三番、四番と、淡々とした龍河先生の声が続いている。どの生徒も裕吾と同じように、龍河先生の元へ駆け寄って答案用紙を受け取ると、軽く頭を下げて席に戻っていく。答案用紙を渡される際に、「よくがんばったな」「惜しかったな」「もう少しがんばれよ」なんて声が掛かることはない。龍河先生の声音と同様、テスト返還式は淡々と続いている。
 俺の出席番号は十三番。番号が近づくにつれ、テスト結果への緊張とはまた違うドキドキ感が俺を襲ってきた。
「十三番」
 教卓は目の前にあるが、ちゃんと立ち上がって龍河先生のそばに行く。答案用紙が差し出され、受け取るときに目が合った。だけどそれだけだった。これまでの十二人のときと同じ表情で俺を見て、答案用紙を俺に渡す。
 正直に言おう。ちょっとのちょっとだけ期待していた。言葉はなくとも表情が少し和らぐとか、表情は変わらずともなにか一言あるとか、なんかあるんじゃないかって期待してる自分がいた。そんな自分が恥ずかしい。自惚れも甚だしい。
 でもそういう龍河先生だから俺は好きなんだ。授業中は絶対に誰も特別扱いしない。みんな等しく、同じ熱量で応えてくれる。
 ああ、やっぱり好きだわ。
 改めてじんわり思って、答案用紙を眺めた。八十七点。
 ……え、嘘!結構自信あったんだけど!
 間違えた箇所を探す。六ヶ所間違えている。四つは完全なケアレスミス、二つは俺が苦手としている動詞を使った英訳問題だった。
 やっちまった。放課後わざわざ教えてもらったってのに、なにやってんだ俺は。
 気落ちしつつ、答案用紙を上から目でなぞっていく。下までいって、俺の目がある箇所で止まった。下の余白部分に龍河先生の文字。
『いつでも教えてやる、いつでも来い』
 思わず目の前に立つ龍河先生を見上げてしまった。龍河先生はまだ答案用紙を返している最中だったが、俺が勢いよく顔を上げたからか、生徒に向けていた顔を俺に向けた。そしてわずかに表情を緩めた。仕方ねえな、とでも言うように。
 詫びるために頭をちょこんと下げ、俺はそのまま答案用紙を見ているふりをした。
 どうしよう、嬉しすぎる。これは俺だけだよな?もしかして特別扱いしてくれてる?いや、違う違う、そうじゃない。勘違いするな調子に乗るな。落ち着け俺、落ち着くんだ俺。うううう……。
 やっぱ無理!
 せんせえええええ!だいすきだあああああ!
 俺が悶絶している間に答案用紙はすべて生徒の手元に戻り、龍河先生は別のプリントを配りはじめていた。各列の一番前の生徒に、列の人数分を渡していく。
 自分の分を一枚取って、俺は残りのプリントを後ろの生徒に渡した。渡されたプリントは龍河先生の文字で埋められた答案用紙。正しい答えと、その答えの解説が丁寧に書かれている。丁寧だけど、端的でわかりやすい。
 クラス全員に行き渡ったのを確認し、龍河先生は「まず一問目」と口を開いた。そうして龍河先生との答え合わせの時間がはじまって、途中、生徒からの質問があったりしながら、授業が終わる三分前にすべての答え合わせが終わった。
 俺は質問しなかった。龍河先生の解説を聴いて自分がなにを間違えたのかがわかったから。言われればわかるのに、自分の頭では足りなかった。
 ああ、悔しい。
 龍河先生がクラス全体を見渡す。
「間違えたからといって苦手意識を持つ必要はねえ。間違えたなら正せばいい。間違えたことを悔しいと思うなら学べばいい」
 そこで言葉を切り、龍河先生はもう一度クラス全体を見渡した。そして、優しく微笑んだ。
「今回のテストは少し難しくしたところがある。みんなよくやった」
 クラス全員が呆然とする中、龍河先生はいつもと同じようにさっさと教室から出ていった。少ししてチャイムが鳴る。だが誰も動かない。動けない。
 龍河先生が笑った。褒めてくれた。少しずつ実感して、それがたしかなものになったとき、誰の顔にも満面の笑みが広がった。
 ――みんなよくやった。
 それはテストの点数のことじゃない。俺らは真摯に向き合ってくれる龍河先生の想いに応えたかった。だから自分なりに努力して考えて準備してきた。結果なんかじゃない。龍河先生はその俺らの努力を、行動を、想いを褒めてくれている。そんな人だから、俺らは龍河先生から学びたいと思うんだ。

 その日の放課後、将太と裕吾と三人で英語準備室に向かっている。
 龍河先生のおかげで自分の間違いに気付くことはできたけど、やっぱり悔しいし、あんなに教えてもらったのに情けない。
 将太と裕吾に「放課後先生に叩き直してもらう」と伝えると、将太も俺と同じ個所を間違えていたらしく、「俺も叩き直してもらう」とついてきて、裕吾は「俺も教えてもらいたい」とついてきた。
 英語準備室のドアは開いていて、中を覗くと机に向かっている龍河先生がいた。いつもの泰然とした様子に変わりはないが、その目はとても真剣で、声掛けるのを躊躇ってしまうほどだった。
 三人で顔を見合わせ、今日はやめたほうがいいかも、と目顔で頷き合ったとき、中から声が掛かった。
「凌?」
 気付かれてしまった。もう一度部屋の中を覗くと、龍河先生は赤ペンを持った右手を机に乗せたまま、椅子に座った身体をわずかにドアのほうへ向けていた。
「すいません。テストで間違えたとこもう一回教えてもらおうかと思ったんですけど……」
「ああ」
「あ、でも大丈夫です。忙しそうなので、また今度にします」
「構わねえよ。いつでも来いって言ったのは俺だ」
「え、でも――」
「今日は三人か」
「あ、すみません。俺も同じとこ間違えたんで、もう一回ちゃんと整理したいなと思って」
「ああそうか、将太も間違えてたな。だが裕吾、お前は満点だろ」
「え!」驚いて裕吾を振り返る。「さすがだけど、じゃあ必要ないじゃん」
「ほんとだよ、裕ちゃんなんで来たの」
「うわ、二人とも冷たい」目を大きくして、俺と将太をきょろきょろ見る。「だって寂しいじゃん、二人は先生に勉強教えてもらってんのに俺だけ帰るって。それに点数は関係ねえだろ、勉強するのに」
「まあ、たしかに」
「隣で待ってろ。すぐ行く」
「え、でも、忙しいんじゃ」
「採点してただけだ。忙しいわけじゃねえよ」
 採点って大変な作業なはずだけど……と思ったが、龍河先生の厚意は無駄にしちゃいけない。
「ありがとうございます。じゃあ、隣で待ってます」
「ああ」
 ドアから離れる間際にちらっと目を向けると、龍河先生はあの真剣な目に戻って、机に広げた答案用紙に赤ペンを滑らせていた。
 それから五分ぐらいで視聴覚室に入ってきた龍河先生は、一番前の席に三人、横並びで座っている俺らを見て「なんか可愛らしいな」と小さく笑った。ホワイトボードは準備済み、すぐに放課後の授業がはじまる。
 はじめてここで勉強を教えてもらったときと同じやり方で授業は進んでいく。三限目の授業で自分がどうして間違えたのかはわかっているから、教えてもらうというより、自分たちの解釈が正しくなったのか、自分たちが正しく理解できてるのか、それを龍河先生に確認してもらうような形になった。
 様々な例題を出されて、たまに躓くこともあったが、それでも正しい答えには辿り着ける。俺も将太も、自分の頭に入ってるものが間違っていないと再確認できて安堵できた。
「ああ~なんでテストで間違えたんだろ。ああ~情けない」
「ここは苦手だったから重点的にやってたのになあ」
 出された問題に間違えることもなくなり、お開き状態である。龍河先生もホワイトボードのマーカーを右手で弄びながら、椅子の背もたれに寄りかかって長い足を投げ出している。
「先生すいません。あんなに教えてもらったのに間違えて」
「なんで謝んだよ。間違ったっていいじゃねえか」
「え?」
「間違ってもまたこうやって学ぼうと思ってんのはなんでだ」
「それは……」将太を見ると、将太も俺を見た。二人で顔を戻す。「次は間違いたくないし、このままじゃ間違ったままだし、悔しいから、ですかね」
「俺も悔しいです。間違えた自分に腹立つし、自分はこんなもんじゃないって思っちゃいます」
「じゃあいいじゃねえか。ここで諦めて、もういいやってなってんなら俺だってお前らのことぶっ飛ばしてるが、お前らはこうやって諦めないで学ぼうとしてる。それは自分を少しでも成長させたいからだろ?なら、間違ったことは決して悪いことじゃねえ」
「……そっか」
「そうですね」
 俺にも将太にも笑顔が戻る。龍河先生の顔が裕吾に向いた。
「裕吾、間違えなかったお前が成長してねえってことじゃねえからな」
「先生、ひやひやしてました」
「裕吾は今のままでいい。自分のやり方でこれからもたくさんのことを学べばいい」
「先生、俺泣きそうっす」
「お前、勉強はできるのにな」
 龍河先生のその言葉に、俺と将太は爆笑した。
「そうなんですよ。勉強はできんのにほかがバカなんです」
「言動がアホなんです」
 龍河先生も楽しそうに笑う。
「バカなの?アホなの?どっちなの?」
「両方です」
 俺と将太の揃った声に、龍河先生はまた笑う。
「先生、なんとか言ってやってください。俺はいつもこういう扱いを受けてるんです」
「それは自業自得だろ。俺らがどんだけ迷惑を被ってるか」
「そうそう。もう少し自重してよ」
「俺は知ってるぞ。そんなことを言いながら、お前らが俺のことをどんだけ好きなのか」
「こういうのを毎日聞かされるんです」
「俺たちが否定的なことを言うと知らない人に同意を求めたりするんです」
 げんなり顔の俺と将太とは違って、龍河先生は微笑ましいものを見るような表情を浮かべている。その表情のままどうでもよさそう言った。
「いいじゃねえか。誰にでも欠点はある」
 それで思い出した。俺と将太と裕吾の顔がハッとなり、「いけ!」と二人が俺を見る。はいはい、訊きますよ。
「先生」
「ん?」
「先生の欠点はなんですか?」
「俺の欠点?」
「はい。っていうか、欠点あるんですか?」
「そりゃあるよ」
「なんですか」
 思わず力が入る。将太と裕吾も身を乗り出している。
「言うわけねえじゃん」
「え!ずるい!」
「参考までにお聞かせください!」
「先生!俺に希望を与えてください!」
「欠点晒すバカがいるか。それをカバーするために日々努力してんだろうが」
「え、先生も努力してるんですか?」
「凌、ぶっ飛ばすぞ」
「すいません」ご勘弁を。「でも、だって、なあ?」
「先生は完璧です」と裕吾。
「そう見えます」と将太。
「と、いうことです」と俺。
「はあ?」
「どうやったら先生みたいになれるんだって、みんな思ってますよ」
「……」
 呆れて言葉も出ない、という表現を体現するように、龍河先生は呆れている。少しして、身体から力を抜いて息を吐き出した。
「俺は自分に満足したことなんかねえよ。どこがとは言わねえが、欠点だらけの人間だ。だが、お前らからはそう見えててそう思ってくれてんなら、一つ言えることはある。今の俺があるは、今までの俺がいるからだ。なにもせずに今の俺があるんじゃねえ。失敗して挫折して、後悔して絶望して、幸せを知って喜びを知って、いろんな人に助けられて与えられて、なりたい自分になるために努力して、そういういろんなもんが重なって重なって、やっと今の俺がある。だが、まだ道半ばだ。俺の理想とする俺はまだまだ先を歩いてやがる。追いつくことはねえだろうが、少しでも近づけるように俺は努力をするだけだ」
 もう一人の背中を追うように、龍河先生は遠くを見ている。
 なにも言えない。俺らみたいなガキが言えることはなにもない。なにか言うには俺らは幼すぎる。
 そんな俺らを励ますように小さく笑って、龍河先生は続けた。その柔らかい表情とは裏腹に、俺らに向けられたまっすぐな目は力強い。
「これから先、お前らになにが起こるかなんてわからねえが、絶望を感じてどん底になって、死にたくなることもあるかもしれねえ。だが、諦めるな。這いつくばってでも前に進め。必ず希望はある。それを見つけたらどんなに小さくても、絶対にその手から離すな。みっともなくてもいい、がむしゃらにしがみついて、その希望をでかくしろ。そうやって自分の未来を切り開け」
 龍河先生の声が苦しいほどに届く。なんでかわかんないけど、俺は泣きそうだった。まるで龍河先生自身のことを話しているように聴こえて、言葉の一つ一つに願いが込められているように感じて。
 俺らは今、とても大切なものを受け取ったんだ。いつかきっと、俺は先生のこの言葉と想いに救われる。なんとなく、そんな気がする。
 黙り込む俺らを見て、龍河先生は少し眉を寄せた。
「なんだその顔は。もしもの話だよ」
「いえ、違うんです。なんかすごくて、言葉が出なかっただけです。ありがとうございます」
 俺が頭を下げると将太と裕吾も頭を下げた。
「ほら、そろそろ帰れ」
「もう五時か」
「先生はまだ帰んないですか?」
「ああ、今日はもう少し残る」
「すいません、俺らがだらだらしたせいで」
「そんなことねえよ。いい息抜きになった」
「じゃあ毎日来ようかな」
「裕ちゃん、そういうこと言ってると嫌われるよ」
「すいません」
「裕吾と将太もバイトしてんのか?」
「はい、俺は漫喫で働いてます」
「俺は親がやってる飯屋で」
「へえ」
「今日はたまたま三人ともバイトがなくて――」そこまで言って、ふと不安になって訊いてみた。「またお邪魔しても大丈夫ですか?」
「今さら訊くか」
「そうですよね。また来ます」
「でも凌ちゃん、大丈夫なの?」
「なにが」
「なにがって、バイトない日――」
「ああうん、平気」
 将太の言葉を遮ってしまった。少し気まずい空気が流れて、それを打ち消すように将太が明るい声を出す。
「そっか、ならいいんだ。じゃあ、帰ろっか」
 ごめん、将太。
「だな。先生の邪魔になっちゃうし」
「そうだな」
 わずかに強張った空気に龍河先生が気付いていないわけがない。だけど今は知らないふりをしたい。このまま知らん顔してほしい。だから俺は龍河先生の視線から逃れるようにドアへと歩き出した。
 みんなで視聴覚室を出て、俺はぺこりと頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「訊きたいことあればいつでも来い」
 じゃあな、と言って龍河先生は英語準備室へ足を向けた。ちょっとだけ背中を見送り、俺らも下駄箱のほうへと歩き出す。
「将太、さっきごめん」
「ううん、俺が無神経だった。ごめん」
「まだそこまで話せないよな、いくら先生でも」
「……うん」
「でも、マジで大丈夫なのか?」
「それはほんとに平気。もともと平日はあんまり行けてなかったし、土日で行けるから」
「そっか」
「土日のほうがゆっくりできるもんな」裕吾は納得顔で言って、その顔をきらきら輝かせた。「っていうかさ、先生すごいな」
「うん、すごい。すごいとしか言えない」
「欠点あるって言ってたけど、その欠点がなんであろうとそれも含めてやっぱり完璧じゃね?」
「あれは言葉が出なかった、ほんとに」
「うん、俺泣きそうだったもん」
「わかる」
「俺も」
「なんか、本当にすごい人なんだなって思った。だからああなれるんだなって納得した」
「欠点なんですか、なんて訊いた俺らが恥ずかしいよな」
「ほんとだよ、訊いた俺が一番恥ずかしいよ」
「もうさ、俺たちは先生から学べることをとことん学ぶしかないよ。勉強だけじゃなくて、人として学べることもどんどん吸収して、少しでも近づけるようにがんばろうよ」
「だな。先生も言ってたもんな、なりたい自分になるために努力してるって」
「そうそう。だから裕ちゃんも先生を見習ってよね」
「勉強はできるのにな、なんてもう言われないように」
「それはもう言うな。よし、俺はなるぞ、先生のような男になってやる!」
 がんばれがんばれ、と言いながら言われながら、下駄箱で靴に履き替えて外へ出る。まだまだ空は明るい。校門まで行ったところで、俺は後ろを振り返って校舎を見上げた。
 とんでもなくかっこいいのにすごく可愛くて、素っ気ないのにすごく優しい。たまに恐ろしいけど、すごく想いやりに溢れてる。
 そんな先生を想うと不思議と心があったかくなる。
 俺はこの先ずっと、先生の背中を追いかけるんだろうなって、なんとなくそう思った。

≫≫ 六月へつづく


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