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なんとなく vol.5

七月

 期末テストの四日間がはじまる前日の朝。
 教室に入ってきた裕吾の顔を見て、俺も将太も目を瞠った。すぐに駆け寄る。
「どうしたそれ」
「なんで」
「なんでもねえよ」
 顔をしかめて裕吾は笑うが、なんでもないはずがない。裕吾の左頬骨あたりは紫色に変色し、唇の左端は切れて赤く腫れている。
 おいおい、なにがあった。龍河信者にボコられたか、とクラス全員が恐れ戦いたに違いない。
 だけど俺と将太は恐れ戦かない。この傷の理由が想像つくから。
「裕ちゃん、それ――」
「大袈裟に見えるだけで大したことねえよ」
「傷の大小のことじゃなくて、それも心配だけど、なにがあった?親父さんとか?」
「そんなとこ。顔見りゃ進路進路って、アホかっつーの」
「やっぱそれか」
「ちゃんと話せてんの?」
 裕吾は鼻で笑って歪んだ笑みを浮かべる。こいつがこんな顔するのはこの話をするときだけだ。
「なにを話すんだよ。人の話もろくに聞けねえ奴と」
「……そっか」としか言えない。そんな自分が情けない。先生ならなんて言うだろう。
「ああもう!お前らがなんでそんな顔すんだよ!」裕吾がいつもの笑顔になって言う。「気にしなくていいから、マジで」
 いつもこうだ。この話になると裕吾は誤魔化して逃げてしまう。だから俺らも深く突っ込むことができなくて、いつも有耶無耶になっておしまい。だけどそろそろちゃんと話したほうがいいのかもしれない。もうすぐ具体的な進路を考えなきゃいけない時期だし、それに向かって進まなくちゃいけない。裕吾は裕吾で考えてるのかもしれないけど、このままではいけない気がする。だからと言って、俺らが口出ししていいものなのかどうかもよくわからない。
 俺と将太は顔を見合わせて小さく息を吐き出した。
「なあ裕吾、俺らでも話ぐらいは聞けるし、俺らにもできることがあるかもしんないし、だからちゃんと話そうぜ。お前んちのことだから余計なお世話なのかもしんないけど」
「せめて裕ちゃんがなにを思ってるのかぐらい聞かせてよ」
「優しいなあ、お前らは。俺は幸せもんだなあ。加山雄三の気持ちが今ならわかる」
「裕吾――」
「あそうだ、凌」
「うん?」と返事すると、裕吾が唇の端を指差した。
「あとでここにお薬塗って」
「……塩を擦り込んでやるよ」
「殺す気か」
 こうやってまた有耶無耶になって、俺らは笑うしかない。
 三限目、英語。チャイムが鳴り龍河先生が教室に入ってくる。
 今日の龍河先生は、オレンジがかった黄色のTシャツに黒いチノパン。そんな明るい色、俺は買う勇気がない、というか着こなせない。なんでもかっこよく着ちゃうんだもんなあ。ああ、かっこいい。マジでかっこいい。朝からもやもやしてた気分が少しだけ晴れました。先生、ありがとうございます。
 龍河先生はいつもと同じように教卓の後ろに立ち、クラス全体をさっと見渡した。その目が裕吾を捉え、わずかに細められたがそれはほんの一瞬のこと。龍河先生はいつもと変わらない様子で授業をはじめた。
 裕吾はというと、いつもは龍河先生をガン見してるくせに、今日はなにも見ようとしない。龍河先生のほうに顔を向けてはいるけど、その目はどこも見ていない。
 裕吾、俺らに話せなくても、先生になら話せるんじゃないか?先生、どうしたら裕吾と話ができますか。
 中間テストのときと同じように、この日の授業も自習。龍河先生は前回同様、パイプ椅子をドア近くに置いて本を読みはじめた。俺は古典の教科書を取り出して机に広げるが、どうも気が散って仕方がない。裕吾のことが頭から離れない。
 裕吾の家はお医者さん一家である。裕吾の父親も祖父さんも医者、先祖代々医者。親戚もほとんどが医者。相沢家は医者になるのが当たり前。相沢家の長男ともなれば、この世に生を授かった時点で相沢総合病院の跡取りとして育てられる。なぜ生きるのか、という問いを受ければ、家督を継ぐため、そんな答えを平然と返してくるような家系なのだ。でもって裕吾は長男。
 裕吾は医者になりたくないと言っている。勝手に敷かれたレールを歩いてたまるかと。裕吾には弟が二人いるが、どうやら裕吾ほど頭の出来がよくないらしい。そうなると必然的に裕吾に対する期待は大きくなり、相沢の名を、相沢総合病院を守るのは裕吾だと、相沢家の誰もが決めつけている。裕吾はそれに反発している。そしてそのことを親父さんは認めない。
 この二年の間に、裕吾がちょろちょろと話してくれたことをまとめるとこんな感じ。今日みたいに傷を作ってくることは滅多にないが、親父さんとは度々言い合いをしているようで、その度に裕吾と親父さんの溝が深くなっているように感じる。裕吾がこの話を極端に嫌うようになっているからだ。
「先生、いいですか」という声で俺の意識は呼び戻された。顔を上げてちらっと後ろを窺うと、龍河先生は声を掛けてきた生徒の机に近づこうとしていた。
 いかんいかん。ぼうっとしてたら叱られる。とはいえ、一度でも龍河先生に意識が向けばその動きも追いたくなる。龍河先生は生徒の机から離れ、周りを見渡すようにしながら教室の一番後ろまで行くと、廊下側に並ぶ机の間を通って前のほうへと歩いてきた。
 龍河先生の足が一番前の席で止まる。裕吾の席だ。足を止めた龍河先生は裕吾の頭にぽんっと手を乗せ、なにかを囁いた。それに対して裕吾がどう反応したのかはわからない。龍河先生はそのままパイプ椅子まで戻り、いつもと変わらない様子で本を読みはじめた。裕吾にそっと目を向ければ、少し赤くなった顔を和らげ、その肩からは余計な力が抜けているように見えた。
 龍河先生が裕吾を気にかける素振りを見せたのはそれきりで、残りの時間は定期的にウロウロし、ウロウロしないときは本を読み、授業を終えるチャイムが鳴ると、龍河先生はいつも通りさっさと教室から出ていった。となると、気になることは一つ。
「なあ、さっき先生なんて言ったの?」
「あ?」
「お前に声掛けてただろ」
「……教えない?」
「うわ、腹立つうう」
「先生の情報は共有しろって言ったの裕ちゃんじゃん」
「それはそれ、これはこれ」
「将太、俺もう将太とバイトの休みが被ったときだけ先生んとこ行くわ」
「そうだね、そうしよ」
「待て待て待て。俺が悪かった」
「はじめから素直に吐けばいいんだよ」
「お前すげえ威力ある脅し文句持ってんな」
「努力の賜物です。で?なんて?」
「べつに特別なことじゃねえよ」ぽりぽり額を掻く。「無理するな、って」
 なぜか俺と将太の肩からも力が抜ける。
 無理するな、か。「どうした」でも「大丈夫か」でもない。無理するな。
 龍河先生は裕吾が抱える事情はなにも知らない。それでも、裕吾の顔にある異変に、裕吾が笑い飛ばすことのできない深い事情を察したのだろう。
 無理するな。
 なにも知らない龍河先生が掛けた、最大限の裕吾を想う言葉。
「その通りだな」
「うん、そう思う。裕ちゃんって能天気なくせに変なとこ頑固だし、融通利かないとこあるし」
「え、俺今、貶されてる?」
「されてるな。でも同時に俺らに心配されてるな」
「……」
「先生も心配してるな」
「……」
「話したくなきゃ無理して話すことはないけどさ、溜め込みすぎてもうダメだ、苦しいってなったら、たまには俺らを頼ってくれってこと」
「そういうこと」
「……うん」
 そこには微かな笑みもなかったが、裕吾は頷いてくれた。結局また有耶無耶なってしまうけど、裕吾が「うん」って言ってくれたから今はこれでいい。
「それで?頭ぽんどうだった?」
 難しい顔をしていた裕吾の顔がみるみる緩みはじめる。
「……やばかった」
「ついに味わったな」
「学校中を叫びながら走り回りたくなった。しばらく髪洗えねえ」
「洗えよ」
「臭いと嫌われるから洗おうね」
「頭ぽんにこんな威力があるとはな……」そこで裕吾がふと首を傾げた。「先生も誰かにきゅんってすることあんのかな?」
「そりゃあるだろ」
「好きな人とか、気になる人には思うんじゃない?」
「おい、好きな人って誰だ!気になる人って誰だ!」
「知るかよ。あ、俺に訊けって言うなよ。訊くなら自分で訊け」
「そんなつれないこと言うなよ。友達だろ」
「友達だから、先生との距離が近づくように協力してやってんの」
「……なるほど」
「納得しちゃったよ」
「いいのいいの、こんなんで」
「よし、俺は決めた。訊くぞ!期末が終わったら訊いてやるぞ!」
「そうだ!裕吾、お前ならできる!」
「おうよ!」
「ほら、チャイムなったよ」
 ついに明かされる。龍河先生の恋人の有無、もしくは好きな人の有無。
 俄然やる気が出てきたぜ。期末テストがなんぼのもんじゃい!

 やる気が出たからといって、それが実力に繋がるわけではない。ぼちぼちの結果を残して期末テストを終え、夏休みまであと一週間ちょっととなり俺らはもう浮かれ気分。ちなみに英語は九十四点。ほかの教科は八十~九十前後。俺、がんばりました。
 裕吾の意気込み通り、期末が終わったらすぐに龍河先生のところへ行こうと思っていた。裕吾も気合十分、「俺はやってやるぞ!」と鼻息荒くしていたが、俺らは思い出した。採点する忙しそうな龍河先生を。昂る気持ちと龍河先生に会いたい気持ちをぐっと抑え、採点が落ち着くまでドキドキわくわくしながら待ち、そして、ついに出陣。
 行け!裕吾!
「先生、セックスってどんくらい気持ちいんすか」
 場所は視聴覚室。ちょうどペットボトルの水を飲んでいた俺は吹き出した。そりゃ見事に吹き出した。毒霧かってぐらい吹き出した。なかなか初心な将太は目をまん丸くして固まっている。
 なにもない空間に吹き出せてよかった。もしも先生の顔面に吹き出してしまってたら大変なことになってたぞ。危ない危ない、ギリギリセーフ。なんて安堵してる場合じゃない。でも水が変なとこに入ってむせて、声が出ない。
 龍河先生を見ると、ぽかんとはしているが驚いた様子はない。なに言ってんの?てな感じで裕吾を見つめているだけ。さすが動じない龍河先生。
「だいぶ唐突だな」
「すいません」
「どんくらいって言われてもな。すんげえ気持ちいとしか言えねえよ」
 おお、普通に答えてくれてる。いいんですか、赤裸々にいいんですか。
「すんげえ気持ちいかあ……」
「裕吾はまだ童貞か」
「はい」
「お前らも?」
「……はい」と将太。
「俺は一応……」と俺。
「凌は経験豊富なんで」と裕吾。
「おい、嘘言うな」
「やるじゃん」
「いやいや、信じないでください。今いないですし」
「だがセックスはしてんだろ?」
「……まあ、そうですね」先生。
「あの気持ちよさは言葉じゃ言い表せねえよな?」
「……まあ、そうですね」俺に訊かないでください。
「ってことだ。すんげえ気持ちいとしか言いようがねえ」
「自分でするのとは違うんすか?」
「それは違うな。な?」
「……まあ、そうですね」ああ、なんか恥ずかしい。
「へえ……やっぱり相手の人によって変わるんすか、その気持ちよさは」
「裕吾、お前は先生になにを訊いてるんだ」
「社会勉強だ。こういうのは経験者から訊くのが一番だろ」
 いやいや、お前が知りたいのは恋人もしくは好きな人の有無だろうが。どうしてこうなった。どうやったらこうなった。
「気持ちよさは相手によって変わるんじゃねえの?身体にも相性があるって言うからな」
 うん?今のはどっか引っかかったぞ。
「先生はあんまり差を感じないんすか?」
「俺は一人の女しか知らねえからわかんねえ。そいつ以外を知りたいとも思わねえし」
 え、え?それって、え、それって。
 うおええええええっ!
 しつこく質問してた裕吾も、ずっと黙り込んだままの将太も、もちろん俺も、訊きたいことがありすぎて口がもごもごしてしまう。裕吾を責めたくせに、ここは訊かずにはいられない。
「え、あの、え、え、あの、先生は恋人がいらっしゃって、その方と長くお付き合いされてるんですか?」
「長くってどんくらいだよ」
「ああ、そうですよね。いくつのときからお付き合いされてるんですか?」
「十八」
「ええええええっ!もうすぐ十年じゃないですか!」
「だな」
「え、あの、ご結婚は考えてるんですか?」
「考えてねえ」
「え、でも、相手の方は……余計な口出しですけど」
「結婚がお互いにとって一番の選択なら迷わずするが、今は一番じゃねえんだよ。お互い自分の生活があって、お互いそれぞれ別の一番がある。そんな状態で結婚したって、お互いを無駄に縛り付けて息苦しくするだけだろ」
「はあ……」わかるようでわからない。まだ俺がガキだからか。「どんな方なんですか?」
「すんげえいい女」
 ぼふうううううんっ!
 そうだよね、そりゃそうだよね。自分の心臓を想えばもうこれ以上訊いちゃいけない。でも訊きたい。心臓兵たちよ、もう少し堪えてくれ!
「あの、写真とかないんですか?」
「見せるわけねえだろ」
「え、なんで!いいじゃないですか!」
「やだ。惚れられたら困るだろ」
「こんなガキが惚れたところでなんの問題もないですよ」
「やなんだよ、俺が」
「もしかして先生、彼女さんのことめちゃくちゃ好きですか?」
「当たり前だろ。惚れてるから一緒にいんだよ」
 ぼふうううううんっ!
 がんばれ俺、まだギリギリいけるぞ。
「なんか、素敵ですね。十年一緒にいても変わらないですか?よく聞くじゃないですか、なあなあになっちゃうとか」
「ならねえよ。ずっと好き。好きすぎてやべえよ」
 どふわばああああああんっ!
 はい、木っ端微塵。
 なんでこう、この人はこういうことをさらっと言ってしまえるんだ。
 ああ、どんな人なんだろう。先生にこれだけ想われる人ってどれだけ素敵な人なんだろう。きっと相手の人も先生のこと大好きなんだろうなあ。ああ、いいなあ。ああ、羨ましいなあ。先生に想われるその人も、その人に想われる先生も。
 ハッと我に返った。夢中になって将太と裕吾を忘れてた。見ると、二人ともただ呆然としてそこにいる。魂半分持ってかれてるけど、とりあえず意識はあるようだ、よかった。
「裕吾と将太はどうした」
「ちょっと刺激が強かったようです」
「お、さすが経験者」
「やめてください」
 ふふん、と龍河先生は楽しそうに笑う。この笑顔を浮かべたときは俺をからかう気満々。危険な香りぷんぷん。牽制するように睨み付けると龍河先生はさらに楽しそうに笑って、頬杖つきながら言った。
「可愛いなあ、凌は」
「やめてください」
「なんで」
 なんでって、俺の心臓はもう木っ端微塵だからですよ。今せっせと修復中なんですよ。
「あれですよね、先生楽しんでますよね、俺をからかって」
「うん」
「うんって」
「言ったろ。俺は好きな子いじめたくなんの」
 ずるい。ずるいよ先生。そんなこと言われたら、どんなからかいも嬉しくなっちゃうじゃないか。
「こんだけいじめられてるんですから、彼女さんの写真見せてくださいよ」
「やだ」
「うううう」
「知ってるか、この言葉。ギブアンドテイク」
「……はい」嫌な予感がする。
「乗るか?」
 少し首を傾げて、挑発するような表情を浮かべる龍河先生。
 どうする、俺。一体なにをテイクされるんだ。恐ろしい、恐ろしいけど彼女さんの写真も見たい。見たくてたまらない。行け、風丘凌!戦え、風丘凌!
「……乗ります」
「お、いいねえ」
「どうか、お手柔らかに」
「凌は恋人いねえの?」
「はい」
「なんで」
「なんでって、いないもんはいないんですよ」
「いい男なのにもったいねえな」
「いやいやいや」
「どういう人に惹かれる?」
「え?」
「凌はどういう人に心が惹かれる?」
「うーん……」過去を振り返ってみる。なっちゃんを思い浮かべてみる。「よく笑う子ですかね。嫌なことがあったり落ち込んだりしても、最後はちゃんと笑える子ってすごいなって思うし、そういう子って笑顔が似合うじゃないですか。こっちも元気貰えるし、一緒にいて楽しいし。あ、あと、ごはんをおいしそうに食べる子ですね」
「ふうん。じゃあ逆に惹かれねえのは?」
「うーん、雑な子ですね。不器用とかそういうことじゃなくて、人と接するときとか、なにかに取り組むときとか、そういう物事に対する態度が雑な子は好きじゃないです。たとえそれが気に食わないことでも、得意じゃないことでも、自分なりに精一杯やってる子のほうが俺は好きです」
「ふうん」
 そう呟く龍河先生の顔には、さっきまで浮かんでいた俺をからかう笑みじゃなく、嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「俺、なんか変なこと言いました?」
「いや、なんも。やっぱ凌のこと好きだなあと思って」
 どふわばああああああんっ!
 油断していた。せっかく少し回復してたのに……ごめん、俺の心臓。
「ど、どうして。好きな子の話しただけですよ」
「俺ね、ある程度親しくなったらどういう人に惹かれるか惹かれねえか、訊くようにしてんの」
「なんでですか?」
「そいつの本性がわかるから」
「え?」
「惹かれるってことは、そいつ自身がそういう人でありたいって思ってる、もしくはそういう人に憧れてるってことだろ?惹かれねえってことはその逆で、そういう人にはなりたくねえって思ってるってことだよな?」
「あ、はい。そうか、そうですね」
「どういう人に惹かれるか惹かれねえかって訊かれて、容姿の良し悪しだとか、財力だとか、そういう外見のことを言う奴は人の内面に目を向けることができねえ奴だと俺は思ってる。俺の勝手な判断基準だがな」
「でも、たしかにそうかもしれません」
「凌はちゃんと人を見ることができる。相手を知ろうとすることができる。俺はそういう奴が好きなんだよ」
「それは、そう言ってもらえるのは、すごく嬉しいです」
「だからいじめたくなんの」
「ええ?そこに辿り着きます?」
 俺のやっかみを龍河先生は受け流し、ポケットからスマホを取り出すと何度かタップしてスワイプして、俺にそのスマホを差し出した。
「はい」
 なんだ?と思って手に取ると、スマホの画面にとんでもなく可愛い女性が映し出されていた。
 はっ!まさか!ギブアンドテイク!忘れてた!
「えええええっ!この人が彼女さんですか?」
「なに!」と復活した裕吾。
「見たい!」と復活した将太。
「お前らはダメ。凌、こっち来い」
「え、あ、はい!」スマホの画面を伏せて龍河先生のそばに行く。
「えええ!」
「なんでですか!」
「凌とは取引成立だから」
「うそだろおおお!」
「見たいいいいい!」
 地団太を踏む二人はほっといて、もう一度スマホの画面を見る。
 とんでもなく可愛いぞ。なんだこれは。しかもこの満面の笑み。撮影者である先生に向けられた笑顔だよな、この笑みは。幸せです!大好きです!ってこの笑顔が物語ってるじゃないか。先生への愛情が溢れんばかりじゃないか。なんて楽しそうなんだ、なんて幸せそうなんだ。なにをしたらこんな笑顔にすることができるんだ。っていうか、なんだこの可愛さは。容姿の良さもさることながら、内から可愛さが滲み出てる。ダダ漏れてる。やばい、すごい可愛い。マジで可愛い。ああ可愛い!くそ可愛い!
「先生」
「ん?」
「こんなに可愛い人、生まれてはじめて見ました」
「言っとくよ。嬉しくて踊り出すんじゃねえかな」
「凌!見せてくれ!俺に、俺にその写真を!」
「凌ちゃーん、なんでもするからさあ!ちょろっとだけでいいからさあ!」
「黙れ外野!こっちは身を削ってんだよ!」
「放心してる場合じゃなかった」
「やっちまった」
 机に突っ伏す二人はほっといて、もう一度スマホの画面を見る。
「先生」
「ん?」
「俺、惚れました」
「殺すぞ」
「嘘です」
「返せ」
「あ、もう一回だけ。目に焼き付けておきます」じいいいいいっと見て、スマホを返した。「ありがとうございました。脳内に貼り付けました」
「剥がせ」
「先生は彼女さんのどこに惹かれたんですか」
「全部」
「おお」
「まっすぐで、一生懸命で、無邪気で、バカ正直で、泣き虫で、全力で俺と向き合ってくれる」
 龍河先生は視線を落として、スマホに映る大切な人を見た。その口元が優しい線を描き、思わず見惚れてしまうほどの優しい表情になる。そして優しい声で言った。
「すべてが愛おしい」
 俺も、机に突っ伏していた将太と裕吾も、ただ黙って柔らかく微笑む龍河先生を見つめた。
 今まで好きだと想う人はいた。今も好きだなと想う人はいる。でも愛おしいと想ったことはない。その想いは俺にはまだよくわからないけど、先生が目の前の女性を心底大切に想い、心底惚れていることぐらいはわかる。それを隠すことなく堂々と言葉にできる先生が、俺は心底羨ましい。決して自分に嘘をつかない先生が、俺は心底慕わしい。
 先生、俺も先生のことやっぱり好きです。先生みたいな人、俺は大好きです。
「先生と彼女さん、すっっっっごいお似合いです」
「ん?」
「先生がそれだけ大切に想うってことは、彼女さんはそれだけ大切に想われる人です。俺は俺なりに先生のこと知ってるつもりですから、先生と彼女さんはなにもかもがお似合いです」
「よくわかんねえが、俺は褒められてるな?」
「はい、最高に褒めてます」
「凌に褒められるのははじめてだな」
「またそうやって……」
 真下横を見下ろせば、あの笑顔を浮かべた龍河先生が俺を見上げていた。そんな龍河先生にしかめっ面を見せてからそっぽを向くと、ぐぐぐぐぐっと身体に重みが乗っかってきた。慌てて踏ん張り、寄りかかってくる龍河先生の身体を支えてもう一度真下横を見下ろせば、少し拗ねた表情をする龍河先生が俺を見上げていた。
「怒んなよ」
 ぼふうううううんっ!
 これ以上やったら血吐くぞ!穴という穴から血が噴き出すぞ!
「怒ってませんよ」嬉しいんだよこんちくしょう!
 楽しそうに笑って、龍河先生は俺から身体を離した。
 ああ、温もりが去っていく。この温もりをホッカイロにしてほしい。常に俺をあたためてほしい。いいなあ彼女さんは。この温もりがいつも隣にあるのか。いつもこうやってふざけ合って笑い合ってんだろうなあ。ああ、羨ましい。ああ、俺も混ぜてほしい。ああ、胸が苦しい。
 まあでも、先生に恋人がいることもわかって、その恋人が破壊的に可愛いこともわかって、すごい疲れたけど大満足だ。
 将太、裕吾、おつかれさん。とくに俺、おつかれさん。
 それにしても……。
 はああああああああ、彼女さん可愛すぎだろ。なんだありゃ。

 夏休みまであと二日。今週から授業も午前中だけになったし、気分はもうすっかり夏休み。夏休みになにかあるわけじゃないけど、とにかく俺の心は軽くって軽くって、このまま羽ばたけちゃいそう。
 なのに、なにこれ。
 いつも通り俺は登校して、教室に入って、将太がその五分後ぐらいに教室に入ってきて、将太に「おはよう」って挨拶して、将太も「おはよう」って挨拶して、そのままちょっと話してたら裕吾が教室に入ってきて、裕吾に「おはよう」って挨拶して、裕吾は俺だけを見て「おはよう」って挨拶して、それを見た将太がぷいって顔を逸らして、裕吾は自分の席に座ってこっちに来なくて、将太は不機嫌な顔で自分の席に戻って、俺は訳わからず一人ぼっち。
「おい~どうした~」と言う俺の嘆きは誰にも届かなかった。
 そんなこんなで三限目終わりの休憩時間。
 これまでだったら、俺、将太、裕吾、誰かの席に自然と集まっていた。それなのに今日は一限目終わりの休憩時間も、二限目終わりの休憩時間も、ぜーんぜん集まらない。将太も裕吾も席から立とうとせず、立ったとしてもそれは便所だったり、ほかの用事だったり、二人同時に立ち上がった場合はどっちかが座って鉢合わないようにする始末。将太と裕吾、どちらか一方に近寄るわけにもいかず、俺はいじめられっ子のようにずっと一人ぼっち。ああ、寂しいなあ、としみじみ思って、俺は立ち上がった。
 まず、将太。
「今日マック行くぞ。来なかったらスキンヘッドにすっかんな」
 次、裕吾。
「今日マック行くぞ。来なかったらちんこへし折るかんな」
 二人は頷いてくれた。よかったよかった。
 さて、四限目は今学期最後の英語の授業。たぶん自習になるけど。
 チャイムが鳴って龍河先生が教室に入ってくる。
 今日の龍河先生は、白Tにベージュのハーフパンツ。少年のような服装でさえかっこよくなるのが龍河先生。首元にちらりと見える、いつもつけてるネックレスがきらりと光った。もう夏本番ですね。
 それにしても、よく巷で見かける上下の組み合わせなのにおかしいな。俺も持ってるけどなんか違うな。とクラスの男全員が首を傾げているに違いない。
 これが龍河マジックなのだよ、諸君。と俺は言ってやりたい。
 教卓の後ろに立った龍河先生は、俺の予想通りのことを口にした。
「今日は自習にする。期末の見直しでも構わねえし、大学受験の準備でも構わねえ。好きにやってくれ」
 そう言って龍河先生はいつもの場所で本を読みはじめた。
 俺はなにをしよう。うーん、英語にするか。この学期で学んだことをもう一回ちゃんと頭に入れておこう。復習は大切だ。
 それにしても、将太と裕吾はどうしたんだ。昨日はふつうだったよな?
 昨日は学校が終わって、俺は用事があって先に帰ったけど、あいつらはマック行くって言うから駅で別れて――ってことはなんかあったならそこだな。マックで喧嘩か。こんな感じになるのははじめてだし、あの二人がそう簡単にこんな感じになるとは思えないし、結構重い感じか?
 まあ、原因がどっちにあるにしろこのままじゃよくないな。夏休みは三人で遊ぶ約束もしてるし、今日で丸く収まればいいけど。
 はあああああ。ため息が出ちゃうよ。
 そういえば、先生は夏休みどうするんだろう。臨時と言っても教員だから学校に来るのかな。そりゃそうか。でも授業もないのになにするんだろう。映画三昧かな。ああ、一ヶ月半近くも先生に会えないのか。
 はあああああ。ため息が出ちゃうよ。
 そこで俺はまた重大なことに気が付いた。俺は今とんでもなく忘れちゃいけないことを考えていたじゃないか。
 うん?うん?ううううん?一ヶ月半も先生に会えない?
「ああああっっ!」
 俺はまた大声を上げてしまった。みんなが集中してるってのに、ましてや龍河先生が静かに本を読んでるってのに。恐る恐る顔を上げてドアのほうを見ると、足を組んだ龍河先生が背もたれに寄りかかって俺を見ていた。
「凌――」
「すいません」誠心誠意早口で謝る。
 龍河先生はわずかに眉をひそめ、手元の本に視線を戻した。その間際、口元が綻んだように見えたのは俺の願望じゃない。堪えきれずに今も笑っているのが俺には見える。それを隠すため、口元に手をあてて俯く龍河先生に俺はまたきゅんとする。
 あの日を丸々再現するように、授業が終わって俺は龍河先生の後を追った。
「龍河先生」
 振り向いた龍河先生は足を止め、俺が追いつくのを待ってくれた。その顔にはすでに、俺をからかうときのあの笑みが浮かんでいる。俺は龍河先生に手のひらを見せて言った。
「なにも言わないでください」
「なんだよ、言わせろよ」
「だいたい想像つきます」
「へえ」あの笑みがさらに広がる。「言ってみ」
「先生、そんなことより」いかんいかん、乗せられてはいかんぞ。「今日このあとお邪魔してもいいですか?」
「ああ」
「じゃあ三人で行きます」
 龍河先生は少し首を傾げて俺を見た。
「なんかあんのか」
「え?」
「困った顔してる」と言って、俺の頬を片方つまんだ。「授業中も考え込んでただろ」
 頬をつまむ手が離され、俺はそこを指で触る。
 先生、大正解ですけど、今はあなたに困らされてます。
「……すいません。実は、将太と裕吾が喧嘩したっぽいんです。あの二人がこうなるのってはじめてで、このあと話聞こうと思ってるんですけど、先生がそばにいてくれたら俺が心強いっていうか――」そこまで言ったものの、ちょっと違うなと思って付け足した。「いや、そう思ってるのはほんとなんですけど、ただ単に、夏休み入る前に先生と一緒にいたいってのが本音です」
 自分から言っておきながら恥ずかしくなって少し俯いていると、痛くないでこぴんが俺の顔を上げさせた。そこには、あったかく微笑む龍河先生。少しだけからかう色がある。
「可愛いこと言ってくれんじゃん」
「……ほんとのことなんで」
 ぽんっと、龍河先生の大きな手が俺の頭に触れる。
「将太と裕吾のことは俺が聞いていいのかわかんねえが、凌がそう言うならとりあえず連れてこい。俺は構わねえよ」
「はい、ありがとうございます」
「またあとでな」と龍河先生は俺に背中を向けた。
 よし、あとは将太と裕吾だ。仲直りできますように。
 HRが終わり、俺は将太と裕吾を呼んだ。
「将太、裕吾、ちょっと来い」
 渋々、二人はやってきた。ちらっと視線を合わせて逸らしてしまう。
「マック行くって言ったけどそれなし。先生んとこ行く」
「え?」将太と裕吾の声が揃う。
「考えてみろ。明後日から約一ヶ月半、先生に会えないんだぞ」
「あ……」将太と裕吾の声が揃う。
「ってのもあるけど、お前らがこんな状態になるってことは結構なことなんだろ?先生に聞いてもらうのも悪くないと思うけどな、俺は。もしお前らがどうしても嫌だって言うんなら、先生んとこ行くのはやめてマックにする。俺には話してくれんだろ?どうする、先生んとこでいいか?」
「……俺はいいよ」と将太。
「…………」考え込む裕吾。
 なるほど、そういうことか。
「裕吾、無理することない。じゃあマックに行くか。俺には話せるだろ?それとも、俺にもとやかく言われたくない?」
「凌――」
「お前さ、このことになるとそうやっていつも逃げるよな。もしかしたらお前ん中ではもう結論が出てんのかもしんないけど、解決はしてないだろ。俺らと話して解決することじゃないんだろうけどさ、なんか嫌なんだよ、お前のそういうの。お前が笑ってないと、嫌なんだよ」
 なにか言おうと口を開きかけては閉じる。それを何度か繰り返して、裕吾はようやく口を開いた。
「……べつに話したくねえってことじゃねえよ」
「じゃあ話そう。マックでいいんだな?」
 少しの間迷って、「先生んとこでいいよ」と裕吾が答えた。
「よし、じゃあ行こう」
 三人無言のまま英語準備室に向かい部屋を覗くと、龍河先生は「隣行くぞ」と言って廊下に出た。俺らもそれに続いて視聴覚室に入り、自然とそれぞれがいつもの席に座る。
「お前ら飯は?」
「食ってないです。あ、すいません、先生も俺らがいたら食えないですよね」
「一緒に食えばいいじゃん」
「そうですね。コンビニ行きますか?」
「うーん、めんどくせえ。出前とるか」
 そう言って龍河先生はスマホをポケットから取り出した。
「え?ここにですか?」
「出前なんだから配達してくれるだろ、どこにだって」
「そうですけど」
「なに食いたい?」と指をスマホの上で滑らせる。「へえ、いろいろあんだな」
 なんて感心しながら少しの間スマホを眺め、「ピザ食いてえなあ」と呟いて顔を上げた。
「ピザでいい?」
「はい、好きなんで」
「お前らは?」
「え、あ、はい。大丈夫っす」と裕吾。
「はい、大丈夫です」と将太。
 固い固い、固いよ二人とも。わかるけどさ、しばらくは和やかにいこうよ。
「面倒だから俺がメニュー決めていい?」
「いいですよ」
「お前ら食えないもんある?」
「俺は大丈夫です」と言って、促すように将太と裕吾を見る。
「俺も大丈夫っす」と裕吾。
「俺はパイナップル入ってなければ」と将太。
「ああ、わかる。将太と好みが合うな」
「ですね」
 ああ、やっと笑った。先生、ありがとうございます。
「どうすっかなあ……ん?ハーフアンドハーフ?」
「ああ、一枚のピザを半分ずつ好きな味にできるんです。普段あんまり宅配ピザ食べないですか?」
「食わねえな。ピザ食いたくなったらダチんとこで食ってる」
「お友達?」
「イタリアンの店やってるダチがいんだよ」
「おお。先生のお友達ってみんなすごいですよね」
「やりたいことやってるだけだ」
「それがすごいです」
「宅配ピザすげえな。パスタもあんじゃん。チキンもあんじゃん。ポテトもあんじゃん。デザートもあんじゃん」
「今はいろいろあるんです」
「へえ。これうまいの?」
「まあ、うまいとは思いますけど。なあ?」と将太と裕吾に振ってみる。
「そうですね、普通においしいです」と将太。
「お店と比べちゃうとあれっすけど」と裕吾。
「たしかに。お店のレベルを求めちゃうと、ちょっと残念ってなっちゃうかもしれません」
「ふうん。とりあえず頼んでみるか」ぽちぽちスマホを操作して、龍河先生がスマホを机に置いた。「三十分ぐらいで来るって」
「ありがとうございます」俺と将太と裕吾の声が揃う。
「そういえば先生って、俺らが夏休み中も学校来るんですよね?」
「そうなるな」
「なにするんですか」
「なにすっか」
「やっぱり」笑ってしまう。「映画三昧ですか」
「あれの操作ももう慣れたから見放題だな。お前らはなにすんの、夏休み」
「俺ら三人で集まる約束はしてますけど、それ以外はなんもないです」
「俺もないっすね。メインイベントみたいなやつは」
「俺もないです。暑いから必要以上に出る気になれません」
「こんだけ休みあんだからもっと楽しめよ」
「楽しみたいんですけどねえ。周りの奴らがあんまり誘いに乗ってこないんですよ、一応俺ら受験生なんで」
「そんなに勉強してどうすんだよ」
「先生がそんなこと言っていいんですか」
「なんだってバランスが大事なんだよ。勉強ばっかでも遊んでばっかでも腐るだろ。そういう加減をちゃんと自分でできる奴が一番伸びる」
「へえ、バランスか」
「先生の言うこと、俺わかります」そう言った将太の視線が過去を探るように遠くなる。「俺、そんなに頭の出来がよくないから、ここ入るときも結構頑張んなくちゃいけなかったんです。もう少し下の高校選べばよかったのかもしれないんですけど、なんでかここに入りたいって直感的に思って、でも当時の俺の学力からするとちょっと高望みだったんですよね、ここ。だからって諦めるのも悔しいし、頑張れば入れるかもしれないし、頑張って頑張って、それでダメなら諦めもつくしと思って、とりあえずひたすら勉強したんです」
「うん、あの頃の将太は付き合いが悪かった」
「そうそう、勉強漬けの毎日だったから。でも、ある時から全然頭に入ってこなくなって、逆に勉強すればするほど焦ってきちゃって。そしたら、凌ちゃんが俺に言ったんです」
「俺?」
 うん、と将太は俺を見て笑って頷く。
 ――将太、顔が怖い。勉強もいいけど、たまには俺と遊んでよ。このままじゃその顔になっちゃうよ。
「――って。なんかそれで一気に力が抜けて、やっと自分のことも周りのことも見えるようになったんです」
「……覚えてない」
「だろうね、でも俺は覚えてる。それから凌ちゃんといつも通り遊ぶようになって、そしたら勉強が苦痛じゃなくなって、ここにも入ることができた。だから、先生の言ってること俺すごいわかります。それを教えてくれた凌ちゃんにはすごく感謝してる」
「なんもしてないよ、俺は」
「でも凌ちゃんがああ言ってくれなかったら、俺はここに入れてなかった」
「違うよそれは。将太がここに合格したのは将太が努力したからであって、俺はなんもしてない」
「凌の言う通りだな」と言う龍河先生の声で俺らの言い合いは止まった。
「将太が今ここにいるのは、将太が努力した結果だ。自分を誇っていい」
「そうそう、先生の言う通り」
「凌」
「はい」
「自分が将太の支えになれたことを忘れるな。それを将太が感謝してることも忘れるな」
 将太を見ると、将太は俺に頷いて見せる。俺は龍河先生に視線を戻し、将太と同じように一つ頷いて「はい」と答えた。龍河先生は小さく微笑み、裕吾はいつもの裕吾に戻って表情を和らげていた。
「先生っていつ夏休みなんですか?」
「お盆」
「どこか行くんですか?」
「ダチんとこに行く」
「へえ、どこに住んでるんですか?」
「スペイン」
「え!スペイン?」と俺。
「ヨーロッパ!」と裕吾。
「イベリコ豚!」と将太。
「先生、スペイン語も話せるんですか?」
「ああ」
「マジか」
「すげえ。スペイン語がどんなのかさえ想像つかねえ」
「その友達って日本の方ですか?」
「いろいろ。日本、スペイン、フランス、都合が合えばイギリスも来るかな」
「その場合、何語で話すんですか?」
「英語。たまに母国語が出てごちゃ混ぜになるが」
「え、先生、まさかフランス語もわかるんですか?」
「ああ」
 おいおいおい、聞いてないぞ。
「ちなみに、ほかにはどの言語を話せるんですか?」
「ドイツとポルトガル」
 おいおいおいおい、やっぱり化けもんだぞこいつは。
 将太も裕吾もぽかんとしちゃってるよ。そりゃそうだよ、だって聞いてないもん。内面も外見もかっこよくて、声もよくて、スタイルもよくて、センスもよくて、運動神経もよくて、とんでもなく可愛い恋人がいて、さらに六か国語がぺらぺらだと?
 おいおいおいおいおい、なんかもう恐ろしいよ。
「なんでそんなに喋れるんですか?」
「ガキの頃住んでたから。ヨーロッパを転々としてた」
「へえええええ。あれですか、お父さんのお仕事でってやつですか?」
「そう」
「日本に来たのはいくつのときなんですか?」
「十五」
「へえええええ。帰国子女はじめてです」
 ふっと微かに笑った龍河先生を見て、俺の熱は一気に冷めた。
 ほんの一瞬、瞬きをするほどのわずかな一瞬、龍河先生の目が暗く翳り、それはすぐに消えてしまったけど、たしかにそれは龍河先生を染めて、龍河先生を侵した。俺はその底知れない闇に一瞬で気圧されて、言葉を失った。
「凌、どうした?」
 いつもとなんら変わらない龍河先生が、俺の顔を覗き込むように首を傾げている。目の奥にこびりついた闇を拭って、俺は笑顔を貼り付けた。
「いえ、腹減ったなと思って」
 龍河先生は少しの間なにかを探るようにじっと俺を見て、感じ取ったものを見逃すように笑った。
「もうちょい我慢しろ」
「はい、すいません」
 それからすぐ、机に置かれた龍河先生のスマホが震え、龍河先生はスマホを手に取って耳にあてた。
「はい。ああ、はい」立ち上がってドアのほうへと歩いていく。「少し待っててもらっていいですか。申し訳ないです、すぐ行きます」
 喋りながら龍河先生は視聴覚室から出ていってしまった。
「もしかしてピザ取り行った?」
「たぶん」
「先生に行かせちゃった」
「……」
「……」
「……」
 そうだった、こいつら喧嘩中だった。でも今はまだそのタイミングじゃないし……はああ、まったく。仲直りしたら散々嫌味ぶちかましてやろ。
 気遣って喋るのもしんどいから、そのまま無言を貫き通して約五分。食欲をそそる匂いを両手に持って、龍河先生が戻ってきた。
「すいません、取りに行かせちゃって。ありがとうございます」
 慌てて駆け寄り、両手にある荷物を持とうと手を差し出すが、龍河先生は渡そうとしない。
「いいよ。机くっつけて」
「あ、はい」
 俺と将太と裕吾で机を四つくっつけて、給食のときみたいな形にする。そこに龍河先生が荷物を置き、中身を取り出していった。
 Lサイズのピザが三つ、ポテトフライが二つ、チキンナゲットが二つ、プリンが二つ、フォンダンショコラが二つ、お茶が四つ。
「なかなかの量ですね」
「どんくらいなのかがわかんなかった。だが食えるだろ、お前らなら」
「食えます」
「余裕っす」
「任せてください」
 龍河先生の正面が俺、右隣が裕吾、俺の隣が将太という位置で席につき、みんなで手を合わせて食べはじめる。ピザは三種類。トマトとモッツアレラのシンプルなマルゲリータと、サラミが散りばめられた定番のミックスピザと、イカ、エビ、貝柱がふんだんにのったシーフードピザ。
「ハーフアンドハーフにしなかったんですね」
「うん、面倒だった」
「うんまい。久々食った」ミックスピザを食べて裕吾が言う。
「腹減ってるから余計にうまい」シーフードピザを食べて将太が言う。
「ピザ正解ですね」マルゲリータを食べて俺が言う。
「うまそうに食うな、お前ら」
「うまいんですもん。あんまりですか?」
「ううん、うまい。俺大概なんでもうまいから」
「俺もっす。まずいと思ったのほとんどないっすよ、俺。どれもうまい」
「裕吾らしいな」
「なんでもうまいって幸せっすよね。舌バカでよかったなって思います」
「お前は舌までバカなのか」
「舌までってどういうことだ。舌だけだよ、俺は」
「でも俺もそうかも。値段が高くても低くてもどっちもうまいっていうか、差がよくわかんない。あ、でも将太んちの飯はマジでうまい」
「ああ、飯屋やってるっつってたな」
「はい、ちっちゃい飯屋ですけど。自分で言うのもなんですが、うまいです」
「へえ、人気メニューは?」
「カツカレーですかね。あとレバニラ」
「うわ、最高じゃん。今度行っていい?」
「ぜひ!先生が来てくれたらうちの親すっごいサービスしちゃいますよ。おかずばんばん出てきますよ」
「マジか。行くわ」
「先生、飲み屋にも来てくださいね」
「出汁巻きな、行く行く。昼将太んとこで飯食って、夜凌んとこで酒飲むわ」
「じゃあその間は漫喫で休憩してください」
「それは面倒だな」
「えええ!冷たい!」
「将太んとこも凌んとこも同じ駅だろ?」
「はい」
「裕吾んとこ別の駅だろ?」
「……はい」
「面倒だろ」
「先生、ピザの味がわかんなくなってきました」
「裕吾は俺に付き合えよ」
「え!マジっすか!付き合います!」
「それはずるい!そしたら俺もそれがいい!」
「俺もだよ!独り占めは許されない!」
「先生が言ってんだからいいだろうが!」
「ダメダメ!こんな不公平な話はあり得ない!」
「そうだよ、裕ちゃんだけいい思いするのはおかしい!」
「なんでだよ!お前らんとこに行くんだから同じだろ!」
「違う!ぜんっっっっぜん違う!」
「一緒に行動するのとその時だけ一緒にいるのとじゃ雲泥の差でしょ!」
「将太、その通り!ってことでこの話はなし!」
「賛成!」
「おかしいおかしい!なんでお前らが決めんだよ!これは先生が決めることだろ!ねえ?先生!」
 ポテトを食べながら、他人事のように俺らの戦いを眺めている龍河先生に三人の視線が向く。
「ん?」
「先生、今の話は不公平すぎます。なのでなかったことにしてください」
「一人だけにそんな特権を与えるのは間違ってます。公平性に欠けています」
「いんや!ちゃんと二人んとこにも行くんだから平等です!」
「よくわかんねえが、凌と将太も俺に付き合えばいいんじゃねえの?」
「うん?」
「バイトがなくたって店行けんだろ」
「ああ、そっか」
「たしかに、そうですね」
「なんでそうなる!俺と先生の時間を邪魔するな!」
「裕吾、そもそもお前、先生と二人きりで過ごせんのか?」
 ハッとした顔で胸を押さえる裕吾にとどめを刺す。
「放課後一人で先生んとこに行くこともできないお前が、半年掛かるって言ってるお前が、先生と二人きりになんてなれんのか?」
「……なれない」
「ほらみろ!」
「凌ちゃんの勝利!」
 将太とハイタッチを交わす。ナイス俺!
 戦意喪失中の裕吾に龍河先生の顔が向いた。
「なんで俺と二人きりになれねえの」
「え、だって、二人きりなんて照れるじゃないっすか」
「なんだよそれ、可愛いこと言ってくれんじゃん」
「そうなんです、俺可愛いんすよ」
「自分で言うなよ」
 可笑しそうに龍河先生が笑い、俺も将太もつられて笑う。裕吾の表情も柔らかい。
 ああ、和やだ。幸せな昼下がりだ。
「でも先生、お店に来てくれる約束は守ってください。待ってますから」
「ああ、そのうち行くよ」
「約束ですよ」
「ああ」
「絶対ですよ」
「ああ」
「必ずですよ」
「しつけえよ」
「念には念をと思いまして」
「信用されてねえなあ」
「してますよ」
「へえ」と龍河先生はあの笑みを浮かべ、頬杖ついて俺を見る。「どこをどんな風に」
 あ、これは俺を弄ぶつもりだな。その手には乗らないぞ。
「そこをそんな風にです」
「なんだよ、言えよ。俺を褒めろよ」
 くっ、可愛い。ちきしょう、褒めちぎりたい。
「どこって言われても、全部ですよ」
 少し首を傾げる龍河先生を見ていたら、全部言いたくなった。
「先生がくれた言葉は、全部俺の中に残ってます。ちょっとした一言も全部。先生と出会ってまだ四ヶ月ぐらいですけど、そのたった四ヶ月の間で俺はすごく刺激を受けたし、すごく考えさせられたし、すごく……すごく嬉しかった。いつも真っ正面から接してくれる先生を、俺は信じてます。信用してますし、信頼もしてます。……答えになってますか?」
 真剣な表情で聞いてくれていた龍河先生の顔がゆっくりと綻ぶ。
「答え以上の答えだよ。凌がそう想ってくれてすげえ嬉しい。そんな風に想ってくれてんなら、これからもこうやって飯が一緒に食えるな」
「はい!お願いします!」やったぜ!と思ったけど、言っておきたいことが一つ。「あ、でも先生、俺をいじめるのはやめてくださいね」
「やだ」
「ですよね」
「わかってんなら訊くなよ」
「いや、一縷の望みがあるかと思って」
「微塵もないな」
 俺は下唇を突き出して不貞腐れ、龍河先生は満足げに微笑み、将太と裕吾はピザを食いながら俺と龍河先生のやりとりを可笑しそうに眺めていた。
 ピザは綺麗になくなり、ポテトとナゲットもほとんどなくなって、龍河先生がデザートを見て言った。
「お前らどれ食う?」
「どれでも」と俺。
「俺もどれでも」と裕吾。
「俺も」と将太。
「迷う…………プリンだな」
 そう言ってプリンに手を伸ばし、蓋を外してさっそく食べはじめた。
「うまっ」
「俺も食べよ」と将太が首を伸ばして残りの三つを覗く。「二人はどっちがいい?」
「どっちでもいい。食いたいの取っていいよ」
「うん、どっちでもいい」
「じゃあプリンにする」
 将太がプリンを手に取って、俺と裕吾は残ったフォンダンショコラを手に取った。流れでそのまま蓋を剥がし、口に運ぶ。
「あまっ」
「すげえ濃厚だな」
「これがフォンダンショコラなのか、はじめて食った」
「洒落た名前しやがって」
 俺が知ってるチョコレートケーキとは違う濃厚さと甘さに驚きながら、フォンダンショコラにフォークを入れる。そんな俺と、俺と同じような表情で口をもぐもぐさせる裕吾をきょろきょろ見る龍河先生。
「食いますか?」と俺が訊くと、「食う」と嬉しそうに龍河先生が答えた。
 くっ、可愛い。
 俺が容れ物ごと渡そうとする前に、龍河先生は身を乗り出して口を開けてきた。
 はうっ!そうだった、この人はこれをする人だった。今日はそれほど損傷を負わずに済むと思ったのに。油断した。
 巻き添えを食わないよう、自分のデザートをひたすら食っていやがる将太と裕吾を横目に、俺はドキドキしながら、龍河先生の口にフォンダンショコラを運んだ。
「おお、濃厚だな。うまい」
「よかったら残りもどうぞ。俺にはちょっと甘すぎるんで」今度こそ容れ物ごと渡す。
「マジで。食う食う」
 龍河先生がデザートに夢中なこともあって、ふと沈黙が落ちた。
 よし、話すなら今かな。一つ息を吐き、切り出した。
「それで?お前ら、どうしたんだよ」
 デザートを口に運ぶ二人の手が止まり、ちらっとお互いを見合って視線を落とした。龍河先生はプリンを食いながら静かに成り行きを見守っている。
 まったく、手のかかる子たちだなあ。
「将太、裕吾になに言ったの」
 将太はもう一度裕吾を見て、さっきの俺と同じように息を吐き出した。
「……受験の話になって、そしたら自然と将来の話になって、訊いちゃダメかなって思ったんだけど、医学部に進むつもりは本当にないのかって訊いたらいつも通り完全拒否で、俺もそこで終わらせればよかったんだけど、やっぱり心配だからさ、お父さんは納得してないんでしょ、みたいなこと言ったら、裕ちゃんまたはぐらかして話終わらせようとするから――」
 ――裕ちゃん、いつもそうやって誤魔化すのよくないよ。
 ――べつに誤魔化してねえよ。医者になるつもりはない、はっきりしてんじゃん。
 ――そうじゃなくて、お父さんともちゃんと話さないと。
 ――だからなにを話すんだよ。俺がなに言ったって聞きゃあしねえのに。
 ――聞かせるつもりがないんでしょ。
 ――は?
 ――裕ちゃんとお父さんがどういう話してんのかはわかんないけどさ、裕ちゃんがちゃんと話そうとしないから、お父さんもちゃんと聞いてくれないんじゃないの?
 ――俺が悪いっての?
 ――そうじゃないよ。お父さんの態度にも問題はあるよ。でもさ、どうして医者になりたくないのか、自分はなにをやりたいのか、そういうことをちゃんと伝えないと、お父さんにはただ反抗してるだけに見えるじゃん。
 ――だから、話そうとしても聞こうとしねえの。そんな奴にどう話せってんだよ。
 ――わかってもらうまで話すしかないじゃん。
 ――そんなときは一生こねえよ。
 ――わかんないじゃんそんなこと。
 ――わかんだよ。
 ――でもさ。
 ――うるせえな。ほっとけよ、将太にはわかんねえよ。
 ――わかんないよ!裕ちゃんがなにも言ってくれないんだからわかるわけないじゃん!いつもそうやってはぐらかして誤魔化して、俺と凌ちゃんがどんだけ心配してるかわかってないのは裕ちゃんでしょ!人の気も知らないで、ガキみたいに意固地になって、こういうときの裕ちゃんすごいかっこ悪いよ!
 ――誰が心配してくれなんて頼んだよ!お前らが勝手にいらねえ心配してるだけだろ!こっちは心配されるようなことなんてなんもねえんだよ!俺は医者にはならねえ!これが答えなんだよ!俺の将来に口出しすんじゃねえよ!
 ――最低だよ、裕ちゃん。
「それで、裕ちゃんがお店出てちゃって、今こうなってる」
 ため息しか出ない。売り言葉に買い言葉。でも俺は、将太に一票。
「裕吾、お前なんで医者になりたくないんだ?前に、勝手に敷かれたレールなんて歩きたくねえって言ってたよな。でもそれだけだと、ただの反抗にしか聞こえない。なんか理由があんのか?」
 裕吾は椅子に寄りかかり、じっと机を見つめている。誰もなにも言わない。裕吾の中で整理がつくまで、俺らはじっと裕吾を見守った。
 長い沈黙のあと、裕吾がゆっくりと口を開いた。
「父親みたいになりたくねえんだ。家族を、息子を道具としか思えないような人間になりたくねえんだ」
 また少し沈黙が降り、裕吾から大きなため息が零れる。
「相沢の家は代々医者で、とくに男は医者になるのが当たり前、そういう固定概念がこびりついた、頭の固い連中が集まってる。医者になるために育てられて、医者になるように言い聞かされて、医者以外の職に就くことはご法度。医者になれない奴は無能だと思ってる奴らだから、家族だろうと、無能だと判断されたら切り捨てられて見放される。幸か不幸か、俺は頭の出来は悪くなくて、小さい頃から無駄に期待されて、勝手に医者になるんだと決めつけられて育ってきた。でも俺は、それが苦しかった。期待に応えなきゃっていうプレッシャーと、医者にならなきゃっていう使命感に苛まれて、苦しかった。それでも、自分は医者になるんだって、ずっと言い聞かせてきた。自分は医者になりたいんだって、ずっとそう思うようにしてきた。でも、ちっとも医者になりたいだなんて思えなかった」
 裕吾は背もたれから背を離し、右手を額にあてて頭を支えた。
「父親が俺を褒めるのは結果だけ。その結果を生み出す過程なんて見やしねえ。医者になる道をちゃんと進んでるのか、それを確認して、自分の思い通りに進んでれば『よくやった』の一言で俺を褒める。俺の弟たちは、決して頭の出来が悪いわけじゃねえ。ただ、父親が求めるところに届かねえだけなんだ。それをあの人は無能だと切り捨てた。弟たちがどれだけ努力してるのか見ようともしねえで、蔑んだ目で弟たちをいつも見る。なにかの集まりがあっても連れていくのはいつも俺だけ。自分の息子が優秀だと周りの人間に見せつけたい、優越感に浸りたい、相沢家は安泰だと誇りたい。俺はそのためだけに存在してる」
 頭を支える手が離れ、もう一度背もたれに寄りかかる。
「父親の言う通り医者になったら、俺もああなってしまうんだろうかって、ある日唐突に不安になった。自分が心底嫌ってる人間になってしまうんじゃねえかって、怖くなった。俺は、あんな人間にだけはなりたくねえ」
「……裕ちゃん」
 裕吾は顔をあげ、将太を見て俺を見る。どこかさっぱりした顔をしてた。
「でも、医者になりたくねえってのは、そういう想いだけで言ってんじゃねえよ。ただ単に、医者になりたいとは思えねえだけ。医学に興味もねえし、そもそも俺血苦手だし」そこで言葉を切り、今度は龍河先生に顔を向ける。「だから先生のおでこの傷見たときも、おえええってなってました。直視できなかったっすもん」
「ああ、そうだったかも。俺が脛ぱっくりやったとき、お前顔背けてたな」
「ああいう傷見ると鳥肌立っちゃうんだよ。だからさ、そんな俺が医者に興味持つわけねえの」
「それもそうか」
「中三んとき、父親に医者にはならねえって伝えたんだ。そんときは殴られて蹴られて罵倒されて、それでも俺は医者にはならねえって言い続けた。利用できる唯一の道具がなくなることにあの人は焦ってる。だから事あるごとに俺を説き伏せようとしてくるけど、俺の気持ちは変わらねえ。もしかしたらこれからの人生で、医者になりたいって思う出来事があるかもしんねえけど、今は医者になろうとは思えねえ。そういうのも含めて、俺は自分の想いを伝えてるつもりなんだけど、将太の言う通り伝わってねえのかも」
「裕ちゃん、俺―――」
「この前の傷は、父親から大学の話をされて、俺が医学部には行かないって言ったら殴られた。ここで説得できなきゃ後がないと思ったのか、いつもよりヒートアップしちゃって、母親が止めてくれなかったら病院送りだったかも」
「そんなに?」どうかしてるだろ、親父さん。
「あ、ごめん、ちょっと盛った。病院送りにはならねえな。俺が抵抗したらたぶん、父親のほうが吹っ飛ぶだろうし」
「たしかに。お袋さんはどう思ってんの?お前が医者にならないって言ってること」
「あの家に嫁いでくるぐらいだからね、どっちかと言うと相沢家寄りの考え方かな。まあでも、父親よりかは俺らに愛情あるみたいだから、断固反対って感じではねえな」
「そうか……」
「そっか……」
「だからなんでお前らがそんな顔すんだよ」いつもの裕吾が笑う。
「そりゃするよ。っていうか、ごめん」
「俺も、ごめん。裕ちゃんにひどいこと言った」
「え、なんで謝ってんの。仕方ねえじゃん、俺が話してなかったんだから」
「いや、うん。でも、ごめん」
「うん、ごめん。でも、話してくれてありがとう」
「うん、ありがとう。話してくれて嬉しかった」
「やめろやい。照れるだろ」ぽりぽり頭を掻き、吹っ切るように息を吐き出す。「そういうことだからさ、もう俺んとこのことは気にしなくて大丈夫だから」
「大丈夫じゃねえだろ」
 ずっと黙って聞いていた龍河先生が静かな口調で制した。その声にはどこか責めるような、叱るような色があって、それでいて裕吾を思いやる気持ちが込められている。俺も将太も裕吾も咄嗟に背筋が伸び、龍河先生に目を向けた。
「今の話を聞いてると、俺にはお前が父親のことを心底嫌ってるようには聞こえねえがな」
「そんなことは――」
「ないと言い切れるか?お前がもしほんとに心底父親を嫌ってんなら、なんで殴られても歯向かわねえ。さっき言ってたな、俺が抵抗したら父親のほうが吹っ飛ぶって。嫌いならぶっ飛ばせばいい。自分の私欲を満たすために息子を道具として利用する親なんか、ぶちのめせばいい。そうだろ?」
「それは……」
 自分でも自分の心がわからないのだろう。裕吾の視線があちこちに彷徨う。
「お前がそうしないのは、父親に自分の気持ちを理解してもらいたいと思ってるからじゃねえのか?話を聞いて、理解して、認めてもらいたいからじゃねえのか?心底嫌ってる奴にそんなことは望まねえ。たしかに父親を嫌悪する気持ちはお前ん中にあるんだろう。だがその奥底で、まだ望みを捨てきれずにいるお前がいるんじゃねえのか?俺にはお前が父親を求めてるように見える。俺にはそう見える」
 裕吾が戸惑っている。ずっと嫌ってきた父親に対する隠れた想い。そんなものがあるなんて自分でも気付いてなかったんだろうし、いや、気付かないふりをしてただけなのかもしれない。父親を嫌うことで、自分の内にある切なる願いを隠していたのかもしれない。隠し続けてきたことで、隠していたことさえも忘れてしまって、今ものすごく混乱して、戸惑っている。
 龍河先生はそんな裕吾を気遣うように、穏やかな声で語りかけた。
「裕吾、今無理して自分の想いを探す必要はねえよ。俺にはそう見えるってだけで、お前はお前ん中にあるほんとの想いをゆっくり探せばいい。だが、父親とはもう一度ちゃんと向き合え。今さっきお前が俺らに話してくれたことをそのまま話せばいい。お前が背負わされてきたもの、抱え込んできたもの、父親への絶望、希望、願い。お前はそれを父親に伝えなきゃなんねえ。父親はそれを受け止めなきゃなんねえ。もしお前が真摯に伝えても、父親がそれを跳ね除けるようなら、もう父親のことは諦めろ。お前にとっては酷なことかもしれねえが、お前の父親はそれだけの人間だったってことだ。大事なのは、お前ん中で区切りをつけることだ」
「区切り、っすか?」
「中途半端なままだからお前は迷う。迷うから先が見えねえ。だから大切なダチに自分のことを話せねえ。将太に迷いを指摘されて、迷いが浮き出て苛立って、喧嘩になった。どんな形であれ、お前ん中で区切りをつけなきゃなんも大丈夫になんかならねえよ」
「……そうかもしれません」
「自分と向き合って、それが終わったら今度は父親と向き合ってこい」
 自分自身のこと、父親のこと、龍河先生がくれた言葉。様々なことが裕吾の頭ん中に浮かんでるんだろう。少し遠くを見るように一点を見つめていた裕吾はまだどこか戸惑いながらも、強い意志を宿した目を龍河先生と合わせてしっかりと一つ頷いた。
「はい」
「ああ、あと、次もし殴られたら一発殴り返せ。それで目が覚めるかもしんねえし、殴られても仕方ねえ父親だから殴っとけ」
 あ、怒ってらっしゃる。先生、裕吾の親父さんに腹が立って仕方なかったんですね。俺もです。たぶん将太も。
 裕吾も同じことを思ったのか、硬くしていた表情を笑顔に変えて「吹っ飛ばしてやります」と固く誓った。
「じゃあこれで将太と裕吾は仲直りだな」
 俺が言うと、将太と裕吾はまたちらっとお互いを見て、はにかみながら視線を外して「うん」と呟いた。
「なんかキモいぞ」
「失礼だな!感動の仲直りじゃないか」
「そうだよ、泣くとこだよ」
「泣きたかったわ!朝から険悪な感じぷんぷん出して、あからさまにお互い避け合って、訳わからず俺は一人ぼっち!俺がどんだけお前らのために気遣ったと思ってんだよ!だいだいな――」
「はいはい、すいません。俺が悪かったよ」
「違うよ裕ちゃん、悪かったのは俺だから」
「いや、将太はなんも悪くねえだろ」
「ううん、俺が昨日余計なこと言ったからさ」
「でもそれは俺を心配してのことだろ」
「でもほら、もっと違う言い方もあったしさ」
「なに――」
「あああああああっ!もうやめろ!どっちも悪い!これでいいだろ!」
「まあそうだな」
「うん、そうしよう」
「俺になんか言うことは」
 将太と裕吾が顔を見合ってから俺に向き直り、声を揃えて言う。
「ありがとう」
「よし、これでおしまい」そう言って俺は龍河先生に頭を下げた。「ありがとうございました。先生がいてくれてマジで助かりました」
「なんもしてねえよ俺は。プリン食いながら話聞いてただけだ」
「いえ、ありがとうございました」今度は裕吾が頭を下げる。「まだ戸惑ってますけど、なんかすげえすっきりしました。ほんとにありがとうございました」
「俺も、ありがとうございました」次は将太が頭を下げる。「裕ちゃんと仲直りできましたし、俺もすっきりしました」
「仲直りできたのはお前らがそれを望んだからだろ。俺がいようがいまいが、お前らはちゃんと話し合って、お互いに礼を言い合ってたよ」
「それはわかりませんよ。こいつら頑固だから」
 恨みがましく将太と裕吾を見ると、二人から「お前もな」「凌ちゃんもね」と返された。ついでに裕吾から「この話は終わりなんだろ?」と言われ、俺は黙らざるを得なくなって不貞腐れてたら、ハッと思い出した。脈略のないことを急に思い出すのが俺のあるある。
「あっ!」
「出た。最近流行ってる凌の叫び」
「先生、ピザの代金払います!すいません、気付かず」
「あ!」と将太と裕吾も叫んで、「いくらですか」「レシートどこだ」と騒ぎだした。
「いらねえよ」
「ダメですよ!前に言ったじゃないですか、誘いづらくなるって」
「うーん、じゃあお祝い」
「なんのですか」
「仲直りしたお祝いで俺が奢ってやる」
 そう言われてしまうと……うん?
「仲直りしたの将太と裕吾で、俺はそもそも喧嘩してないんですけど」
「凌、細かい男は嫌われるぞ」
 やだ、嫌わないで。
「すいません」素直に謝り、もう一度龍河先生に頭を下げる。「じゃあ、ありがたくご馳走になります。ありがとうございます」
「ごちそうさまです。ありがとうございます」と将太と裕吾も頭を下げる。
「どういたしまして」
 そこで俺はまたハッとした。
「あっ!」
「また出た。凌ちゃんのあっ!」
「先生、俺たちまだ先生たちの音楽聴けてません」
「あ!」と将太と裕吾も叫んで、「聴かせてくださいよ」「聴きたい聴きたい」と騒ぎだした。
「ああ、そうだったな」
 龍河先生はスマホを手に取り、スマホをタップしてスワイプして、タップしようとしたところでその指を止めた。顔を上げて俺らを見て言う。
「聴きに来るか?」
「え?」
「来月ワンマンやんだよ」
 少々お待ちください。
「ええええええっ!行きます!行くに決まってます!」
「マジっすか!行っていいんすか!」
「え、え!ほんとですか!行きますよ!」
「来月の十八日、金曜の夜、開演が十九時」
「ちょちょちょちょっと待ってください。スマホに登録するんで」
 嬉しすぎて興奮して動揺して、スマホの操作に手間取る。将太はスマホを取り落とし、裕吾はカシャッと写真を撮っていた。
「えっと、八月十八日、夜七時開演、と。あ、場所はどこでやるんですか?」
 龍河先生はライブハウスの名前と最寄り駅を教えてくれた。スマホにすぐ登録して、ついでにライブハウスの名前を検索して地図を見る。行ったことのない街だが、ライブハウスが多い街だということは知っている。
 駅からは歩いて五分ぐらいらしい。たかが五分、されど五分。はじめての街で辿り着けるだろうか。ああ、今から不安だ。
 不安を打ち消すように地図と睨めっこしていたら、目の前から小さく笑う声が聞こえた。龍河先生が俺を見て笑ったようだ。
「凌、スマホ貸して」
「え?あ、はい」
 俺のスマホを受け取った龍河先生はなにやらポチポチして、俺にスマホを返してきた。
「その発信、俺の番号だからなんかあれば連絡しろ」
 ひゅうぅぅぅぅぅ、ぼおーーーーん!
 花火が咲きましたああああ!
 なんとなんと、電話番号ゲットです!めちゃくちゃはちゃめちゃ嬉しい!
「ありがとうございます!道に迷ったら連絡します!」
「いつでもどうぞ」
 やばい、にやにやが止まらない。ねえ俺今、羽はえてない?なんかパタパタ音が聞こえるんだけど。舞い上がりそうなんだけど。天まで羽ばたきそうなんだけど!
 将太と裕吾は羨ましそうに俺をじいいいっと見ている。だが、「俺も」と言う勇気はないようだ。
 ふふふ。将太、裕吾、すまん。この番号は俺だけのものだあ!
 そこで俺はまたハッとした。
「あっ!」
「もう聞き飽きた」
「先生、チケット代!いくらですか」
「あ!」と将太と裕吾も叫んで、「浮かれて忘れてた」「興奮しすぎた」と騒ぎだした。
「いいよ、俺が誘ったんだし」
「そういうわけにはいきませんよ!」
「どんな音楽なのかも聴かせてねえのに金取るわけにはいかねえよ」
 将太と裕吾と目を合わせ、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらそっと訊く。
「……いいんですか、甘えちゃって」
「甘えに入らねえよ、こんくらい」
「じゃあ、今回はお言葉に甘えて、次はちゃんとチケット買います」
「次のライブは海外だぞ」
「へ?」間抜けな声が出てしまった。
「来れんなら、旅行がてら三人で聴きに来い」
「マジか、海外か」
「すげえ」
「なんか緊張しちゃうね」
「でも三人で行く初海外が先生のライブって最高じゃん」
「だな。金溜めないと」
「大学受かったらバイト三昧にする」
「よし、三人でライブ貯金するぞ!」
「おお!」と将太と裕吾から元気な返事が返ってきた。龍河先生はそんな俺らを見て笑ってる。
 いろいろと一段落したところで、将太と裕吾と龍河先生の三人は、途中で食べるのをやめていたデザートを食べはじめた。俺は残ったポテトとナゲットを腹に収めていく。
 裕吾が親父さんとちゃんと話せればいいな。またこうやってみんなで飯食いたいな。ライブが楽しみすぎるな。飲み屋にちゃんと来てくれるかな。
 夏休みを前にして、俺はわくわくとドキドキが止まらない。
 きっとうまくいく、全部叶う。根拠はないけど大丈夫だって、なんとなくそう思った。

≫≫ 八月へつづく


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