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なんとなく vol.13

三月

 おじちゃんとおばちゃんが店を貸し切りにして開いてくれた合格祝いは、俺の誕生日がその数日前だったこと、さらには裕吾の決意表明がされたことで、「おめでとう!」と「がんばれ!」の嵐が巻き起こり、涙を零しながらもみんな笑い合って、最後はなんでも可笑しくなって笑いまくって、どんちゃん騒ぎの大盛り上がりだった。母さんも将太も腹を抱えて笑ってたはずだ。でも残念なことが一つ。忙しいのだろう、龍河先生は現れなかった。
 次の日の土曜日、午前八時。
 酒を飲みまくった父さんと姉ちゃんはまだ寝てる。あんだけ飲めばそりゃそうなるわ。ゆっくり眠ってください、と思いながら歯を磨いて顔を洗って、牛乳をコップに注いでごくごく飲む。トースターでパンを焼いてマーマレードを塗って、食い終わってから牛乳をもう一杯ごくごく飲む。もう一枚焼こうかなって思ってるとこに父さんが起きてきた。
「おはよう」
「寝すぎた」
「いいんじゃんたまには。姉ちゃんはまだ寝てるよ」
「奏も相当飲んでたからな。パンだけか?なんか作ろうか?」
「ううん、いいよ。もう一枚食えば足りる」
「そうか。お父さんのも一枚焼いてくれ。その間に顔洗ってくる」
「はいよ」
 父さんとパンを食ってると姉ちゃんが起きてきた。「ごはんはいい」と言って、姉ちゃんは牛乳だけ飲んでソファに寝っ転がった。
「飲み過ぎたあ」
「もう少し寝てればよかったのに」
「夜寝れなくなる」
「そっか」
 午前十時過ぎ。家族三人ソファで寛いでると、テーブルに置いた俺のスマホが震えた。手に取って画面を見た途端、驚きのあまりスマホを取り落としそうになる。父さんと姉ちゃんが何事かと俺を見た。
「はいっ!」
『今なにしてんの』
「家で、なんもしてません」これはまさか……。
『なんか予定ある?』
「ありません」まさかまさか!
『じゃあ一時間後に駅にいて』
「はい!わかりました!」よっしゃああああっ!
『じゃあな』
 電話が切れた。
 うおおおおおおおっ!
 マジか!どうしよう!一時間後?時間がない!急がねば!
 ああどうしよう、なに着てこうか、どうしよう、ああどうしよう!
「奏、弟の様子がおかしいぞ」
「お父さん、息子の様子がおかしいよ」
「父さん、出かけてくる!」
「いってらっしゃい」
「姉ちゃん、なに着てこう!」
「おや、デート?」
「女の子じゃないけど、気分はデート」
「なるほど、龍河先生か」
「龍河先生?」
「そうか、奏は知らないのか。この世のものとは思えないぐらいかっこいい人なんだよ」
「なにその表現」
「とにかく、凌はその先生が大好きなんだよ」
「ふうん。だからデート気分ってことね」
「ちょっと姉ちゃん、来て」
「はいはい」
 それから一時間後、ああだこうだ言いながら姉ちゃんに服を選んでもらった俺は、って言ってもいつもとほとんど変わらないが、駅の改札前で龍河先生を待っている。からくり時計のごとく一秒ごとに首を左右に振り、今か今かと待ち構えている。ドキドキわくわくが止まらない。スマホが震えた。
「はい!」
『ロータリーにいる』
「え?あ、はい」
 電話が切れた。タクシー乗り場とバス乗り場があるロータリーに出ると、小さくクラクションが鳴らされた。顔を向けた先には一度だけ見た龍河先生の車があって、運転席にはもちろん龍河先生。
 ぼふうううううんっ!
 ドライブデート!なんてこったい!
 これはやばい、俺の身体は持つだろうか。がんばれ心臓兵!君たちならできる!
 車に駆け寄り助手席のドアを開ける。
「おはようございます」
「おはよ」
「乗っていいんですか?」
 玉座に座らせてもらうような気分で言うと、龍河先生は可笑しそうに笑った。
「乗らなきゃどこにも行けねえよ」
「そうですよね。お邪魔します」
 助手席のドアを閉めると車が走り出した。ハンドルを握る龍河先生がかっこよすぎて、気付くと見惚れてしまう。ああ、なんてかっこいいんだ。
 今日の龍河先生は、少し起毛した生地のグリーンチェックシャツにグレーのチノパン。座席の後ろには黒いダウンが放ってあった。
 チェックシャツか、持ってないなあ。この前シャツ買ったばっかだけど、よし、買おう。
「どっか行きたいとこあるか?」
「え?行きたいとこですか?」うーんと悩み、龍河先生を眺めて思いついた。「先生がよく行くとこに行きたいです」
「ん?」
 困惑したような笑みを浮かべ、運転しながらちらっと俺を見る。その仕草さえもかっこいい。ああ、すべてがかっこいい。
「普段の先生を知らないなと思って。せっかくなら先生がよく行くとこに連れてってほしいです」
「よく行くとこ」と復唱してハンドルを右に回す。
「行きたくなる場所というか、好きな場所というか」
「そこでいいのか?」
「はい、そこがいいです」
「とりあえず飯食うか」
「はい」
 目的地が決まったのか龍河先生の運転に迷いはなく、華麗なハンドル捌きで車を進めていく。ああ、信じられないぐらいかっこいい。
 運転する龍河先生のかっこよさにも少しずつ慣れ、心に余裕ができてきた俺はきょろきょろと車の中を見てしまう。
 まず、なぜかいい匂いがする。車独特のあの嫌な臭いがせず、龍河先生と同じぐらいいい匂いがする。芳香剤のようなものを置いてる気配もないのにいい匂い。なんでだろう、これも龍河マジックなんだろうか。
 次に、余計なものがない。小物を置いてたり、変な装飾をしてたり、そんなことは一切してない。ただ一つ、バックミラーのところに茶色い革を編んだブレスレットのようなものがぶら下がってた。大きさからしてもたぶんブレスレットなんだろうが、留め具はなく、二本の革をただ編んだだけのシンプルなものだった。
「これ、ブレスレットですか?」
「ん?ああ、そう。だいぶ前に行った旅先で現地の子と仲良くなって、その子がくれたんだよ。一生懸命編んでくれて、俺の腕に結んでくれたんだ」
「なんて可愛い子」
「すげえ可愛かった。そんとき六歳かそんくらいの歳だったと思うが、懐っこくて、当時やっとできた学校に通うのが楽しくて仕方ねえみたいで、学校終わると走って俺んとこ来て、今日はこれを習った、これを覚えたって教えてくれんだよ」
「可愛すぎるじゃないですか」
「素直で明るくて、いつも笑顔で、あの子には元気をすげえもらった。お返しになんてならねえが、少しでもありがとうって伝えたくてその子のために歌を歌ったら、そのお礼だってそれを編んでくれたんだ。腕につけてると切れちまうからここにぶらさげてる」
「なんですか、その泣きそうになるエピソードは」
「そういう出会いがあるから面白えんだよ、世界は」
 六歳ぐらいの小さな子と龍河先生。楽しそうに笑い合うその子と龍河先生。一生懸命話すその子とその子のために歌う龍河先生。
 素敵だ。なんて素敵なんだ。アホみたいに戦争してる奴らに見せてやりたい。あんたらにこんな幸せはあるのかと言ってやりたい。ああ、なんて眩しい光景だろう。きっとその子もいっぱい元気もらったんだろうなあ。
 大切にしたいから腕にはつけない。先生、かっこよすぎです。
 車内にはほどよいボリュームで音楽が流れている。聴いたことのない曲だったけど、ドラム、ベース、ギターの音が一つの流れにまとまり、でもそれぞれの音がちゃんと主張されていて、リズムもメロディもかっこいい。龍河先生たちの音に似てるからか、聴いていてすごく心地よかった。
「この音楽好きです。音がかっこいい」俺がそう言うと、龍河先生はなぜか笑う。「なんですか」
「俺らの曲だよ」
「え?でも、聴いたことないですよ」
「そりゃあな。外に出してねえから」
「ええ?なんですかそれ、ずるいですよ」
「なんでだよ」
「だって全部聴きたいじゃないですか。ずるいですよ」
「そう言われてもな」
「ずるいですよ。先生たちの音楽は全部聴かなきゃ気がすみません。ずるいですよ」
「わかったよ」と笑う。「あとでやる」
「はい!お願いします!」心の中でガッツポーズしたところで、ふと気が付いた。「先生、今日土曜日ですけど、学校は?」
「特別休暇」
「そんなのあるんですか?」
「俺にはあんの」
「校長ってすごいですね」
 車は一時間ほど走り続け、住宅街にあるコインパーキングに入った。車を降り、さっさと歩き出した龍河先生についていく。歩いて数分、こじんまりとした一軒の平屋に辿り着いた。手のひらぐらいの看板が扉横の壁にあるだけで、ほかは一切装飾のないコンクリート壁。細い竹で組まれた扉を開けて、龍河先生は慣れた足取りで入っていく。
 中に入るとほのかな木の香りに包まれた。店の中は六人が座れるカウンター席と、右側の壁に四人席が三つ。内壁は外壁と同じコンクリート壁で、外観と同じく内装も至ってシンプルだった。今店内には、カウンター席に三人おり、テーブル席は埋まっている。
「おお、大。いらっしゃい」
 カウンターの中から、坊主頭の大柄な男の人が笑顔で迎えてくれる。目尻を下げたその顔は優しそうな雰囲気だが、どこか芯が通ったような、仕事に対して、自分に対しては厳しい人なんだろうな、というのが伝わってくるような人だった。でもそれ以上にすごくあたたかいものを感じる。
「ん?弟さん?」
「うん、そんなもん」
 え、嬉しい。弟だって。全然似てないけど。月とすっぽんぐらい違うけど。
「へえ。大切な存在ってわけだ」
「そういうこと」
 え、照れちゃう。そういうことだって。泣いちゃいそう。
「カウンターでいいか?」
「うん」
「可愛い弟さんもどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 カウンターの一番端っこ、壁側に並んで座る。こんな大人な雰囲気の店は入ったことないから緊張してしまう。
 そわそわドキドキ、きょろきょろちらちら。
「なににする?」
「任せる」
「はいよ」
 なにそれ。任せるって、それで通っちゃうの?大人ってそういう感じなの?
 大人の世界ってすごいな、俺はこの先そんな世界でちゃんと生きていけるんだろうか。なんて勝手に不安がってると、龍河先生の顔が俺に向いた。
「そうだ、昨日行けなくて悪かった」
「いえ、いいんです。先生も今忙しいでしょうし」
「先生?」と店主さんが俺を見る。「ああ、大が今行ってる高校の生徒さん?」
「はい、そうです。風丘っていいます。風丘凌です」
「凌君ね」納得顔で何度か頷き、今度は龍河先生を見る。「なるほどな」
 ん?なにがなるほどなんだろうか。
「手が止まってる。早く作ってくれ」
「はいはい」
 店に入ったときから食欲をそそるいい匂いが俺の腹を刺激し続けている。俺らのために作ってくれてる料理が出来上がるにつれ、その匂いは濃くなり、俺の腹はぐるるるぐると鳴り、少しして目の前に料理が並んだ。
 ほかほかの白飯、なすとお麩が入った味噌汁、白身魚の天ぷら、里芋の煮っ転がし、とうふのそぼろ煮、大根と野沢菜の漬物。
「うまそ~」と思わず声が出てしまう。いただきますと手合わせて、まず味噌汁。「うまあ~」とまた思わず声が出てしまう。出汁の香りが広がり、味噌の甘みと塩味がちょうどいい。次に白身魚の天ぷらを箸に取る。さくっと揚がった天ぷらに、細かく刻んだ玉ねぎとかぼちゃが入った餡がかかり、彩りで三つ葉が添えられていた。白身魚はふんわりしてて、餡はあっさりしてるけど少し甘みがある。さくっ、ふわっ、とろっ。絶妙なバランスで口の中に広がりほどけていく。
「これめちゃくちゃうまいですね」
「どうもありがとう」店主さんが嬉しそうに顔を綻ばせる。
「将太んとこと同じでなんでもうまいよ、ここは」
「大がいつもそうやって言ってくれるから腕が上がったよ。がっかりさせらんないからな」
 龍河先生の言う通り、里芋の煮っ転がしも、とうふのそぼろ煮も、漬物も、もちろん白飯も全部うまかった。濃すぎず薄すぎずの味付けが舌を飽きさせず、箸が進んで進んでぺろりと平らげた。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして。凌君は綺麗に食べるね」
「そうですか?」
「うん、食べ方もそうだけど、茶碗にご飯粒も残ってないし、ほかのお皿も綺麗に食べてくれてる。料理人として、そうやって綺麗に食べてもらえるのが一番嬉しいからね」
「いや、ただうまかっただけです。少しも残したくないって思うぐらいうまかったんで」
「うわあ、嬉しいなあ」
「いえいえ、ほんとのことなんで。あの、お二人はどういったお知り合いなんですか?って訊いてもいいですか?」
「もちろんいいよ」と笑みを広げる。「大とはメキシコで知り合ったんだ」
「え?」
「ゴンは財布掏られて途方に暮れてた」
「そうそう」とさらに笑う。「有り金全部持ってかれちゃってね、困ってたら大が助けてくれたの。それがはじまり」
「はあ、メキシコですか……」
「そのとき僕は世界の料理を食べ歩くっていう楽しいことしてて。十年前ぐらいかな?」
「うん、だな」
「ちょっと待ってください。十年前って、先生十八ですよね?」
「ああ」
「今の俺ぐらいのときから旅してるんですか?」
「学校もあって頻繁には行けなかったが、長期の休みがあれば行ってた」
「いくつのときから」
「十六かな。日本よりも海外のほうが慣れてたし」
「ああ、そうか。でも、一人で?」
「ああ」
「やっぱりとんでもない人ですね」
「あ?」
「あははは!」
「先生は昔からこんな感じなんですか?」
「うん、そうだね、大は変わらない。助けてもらったときも見ず知らずの俺のために警察に付き添ってくれて、僕は英語は話せるんだけどスペイン語はカタコトでね、だから大がいろいろ説明して手続きしてくれて、そのあとも面倒見てくれてさ。十八だってのにすごい落ち着いてるし、動じないし。なんだろうね、自分がすることに迷いがないって言うのかな」
「ああ、わかります。すごいわかります」
「ほとんどの人が躊躇してしまうようなことを、それが正しいと思えば迷わずやるし言う。そのまっすぐさが羨ましいとも思うし、危なっかしいとも思う。でも、大のまっすぐさは正しい。大は面白い男だよ」
「それ褒めてる?」
「九割褒めてる」
「残りの一割は?」
「呆れてる」
 吹き出してしまった。でもって龍河先生に睨まれた。
「すいません」と謝ってみたけど、どうにも可笑しい。ゴンさんの言ってることが的を得て過ぎて笑えてくる。
「凌」
「すいません」
「堪えきれてねえよ」
「だって、その通り過ぎて」
「あ?」
「あははは!まあまあ、九割褒めてるんだからいいじゃないの」
「よくねえよ。十割褒めろよ」
「それは、ねえ?」とゴンさんに訊かれる。
「はい、お応えできかねますね」
「おい」
 俺もゴンさんも大笑いし、龍河先生もなんだかんだ笑ってた。
 昨日行けなかった詫びだと言って龍河先生が全部払ってくれた。お言葉に甘えてごちそうになり、ゴンさんにもお礼を言って店を出る。コインパーキングに戻って車に乗り込むと、龍河先生はまたどこかに向かって車を走らせた。どこに行くのか気になったけど、あえて訊かなかった。龍河先生が連れてってくれるところならどんなところでも嬉しい。
 会話はあったりなかったり。でも無言の時間さえ心地がいい。この空間と時間がずっと続けばいいのに。そう思いながら窓の外を眺めていると、龍河先生の優しい声がした。
「眠かったら寝てていいぞ」
「いえ、眠くないです。なんか気持ちよくて。先生とこうして一緒にいる時間が、すごく心地いいんです」
 前を向いたまま微笑む龍河先生。出会った頃はそうやって少し微笑んだだけでもドキドキしてたけど、今もするけど、でも今はこの微笑みが俺の心を凪いでくれる。龍河先生の笑顔はほっとする。
 緑に囲まれてきた。カーブを繰り返しながら、緑が濃いほうへ濃いほうへと進んでいく。これは、山だな。え、どこの山?なんて迷子気分になってると、左側に広がる平地に龍河先生は車を停めた。ほかに停まってる車はなく、ここに停めちゃっていいのかなって思ったけど、土の地面にビニール紐で区分けされてるから一応ここが駐車場なんだろう。
「凌、行くぞ」
「あ、はい」
 龍河先生はゆっくりと歩いていく。
 景色を楽しむように少し上を見上げながら、風を感じるように少し首を傾げながら、土の感触を愛でるように一歩一歩大切にしながら、自然が生み出した香りを味わうように大きく胸を膨らませながら。
 二十分ぐらい歩き、龍河先生は左に伸びる小道に入っていった。さらに五分ほど歩くと少し拓けた場所に出た。自然とできた場所なのか、それとも人工的に作られた場所なのかはわからないが、そこだけぽっかりと視界が開けて目の前に緑が広がった。
 空と木々。鳥の声と葉擦れの音。風が吹けば緑の濃淡が変わる。なにもない場所。すべてがある場所。
 いつもそうしてるのか、龍河先生は倒れた幹に腰かけた。俺は溢れんばかりの木々に目を奪われながら、龍河先生の隣に尻を落とす。
「俺がよく来る場所」
 目の前の自然に圧倒されたのもあるが、言葉が出なかった。龍河先生がここに連れてきてくれたことが無性に嬉しかった。
「美しいですね」
「ああ」
 ただの空、ただの木々、ただの風。いつも見て感じてるはずなのに、それだけになるとすごく特別なものに変わる。違う、特別なものなのに、それを忘れてる。当たり前じゃないものを当たり前だと思って、大切なものを見逃して、気付けば手が届かなくなってしまう。
 今は今しかない。だから精一杯できることをしなくちゃいけない。特別ななにかを、大切ななにかを、零してしまわないように。
 いろんな出来事が頭の中を駆け巡る。
 いろんな言葉が耳に蘇る。
 顔を空に向けて自然の香りを大きく吸い込むと、瞼は勝手に閉じ、はみ出た涙がこめかみを濡らした。
 俺も龍河先生も一言も話さなかった。目に映るものを眺め、耳に聴こえる音を聴く。ただそれだけ。それだけで十分だった。
 どのくらいの時間そうしてたのか。空が少しずつ赤みを帯びはじめ、目の前の景色も少しずつ色を変えていく。ほんとに美しいな、と思ってるとくしゃみが出てしまった。それを合図とするように龍河先生が立ち上がる。
「帰るか」
「あ、はい」
 そう答えた俺の声に名残惜しい音を感じたのか、龍河先生は俺の頭にぽんっと手を乗せた。
「風邪ひかせたくねえんだよ」
「はい。それは俺もです」
「寒かっただろ、悪い」
「大丈夫です。嬉しかったから気になりませんでした」
 とはいえ身体が冷えたことに間違いはなく、寒さで固まった手足を動かしながら駐車場まで歩いて戻る。車の暖房で指先をあっためてる俺に、龍河先生は着ていたダウンを脱いで差し出した。
「あったまるまで着てろ」
「先生が寒いじゃないですか」
「俺は寒くねえんだよ、いいから着てろ」
「はい」
 まだ龍河先生の温もりが残ってるダウンに腕を通す。
 すごいあったかい。ああ、ぬくぬくだ。先生の温もりも重なってさらにぬくぬく。いい匂いもするし、このまま寝れる。絶対いい夢見れる。だって先生がここにいる。ああ、あったかい。
 空はもう夕暮れだ。暗くはないけど日が落ちはじめてる。今日が終わってしまう。もう少し一緒にいたかったな。
 小さく息を吐いたとき、龍河先生の指先が頬にあたった。
「少しはあったかくなったか?」
「はい、すごいあったかいです」
「晩飯はなに食いたい?」
「え?」
「ん?」
「いや……」そっか。まだいてくれるんだ。頬がじんわりと緩んでいく。「うーん、昼間が和食だったから、洋か中がいいですね。でもどっちかというと洋の気分です」
「ん、わかった」
 車が動き出してすぐ、運転席と助手席の間のスペースに置いてある龍河先生のスマホが震えた。
「誰?」
「え?あ、えっと」スマホを手に取って画面を見る。「太一、さんです」
「ああ」と言って車を停めた。「悪い、出るわ」
「はい」
 スマホを渡し、龍河先生が耳にあてる。
「どうした。ああ、出かけてる。山。うん、なんで。無理、今デート中」
 え、デート?マジで?先生もそんな風に思ってくれてたの?俺だけじゃなかったの?うわおわお!
「ああ、そうだよ。ああ、あ?やだよ」
 俺の位置からでもなにやら騒いでるのが聞こえる。龍河先生はスマホを耳から少し離して眉間にしわを寄せている。太一さん、もう少しお静かに。
「うるせえな、邪魔すんじゃねえ。なんだよ。はあ?」
 そこでなぜか俺を見る。なんですか、俺がなにかしましたか。
 視線を戻した龍河先生は窓枠に肘を掛けて頭を抱えてしまう。おいおい太一さん、何事ですか。
「ったく、なんなんだよお前ら。はいはい、わかったから。ちょっと待て」
 もう一度俺を見る。なんだか恐ろしく、ドアに背中をつけて身を引いた。
「なんですか」
 渋い顔をした龍河先生はため息をついてから俺に言った。
「バンドの連中が飲みに行きたがってる。凌に会いたいんだと」
「へ?」
「凌がいいなら合流するが、嫌ならこのまま飯に行く。どっちがいい?」
「えええええ?究極の選択ですね」
「俺をとるか、バンドの連中をとるか」
「なんですか、その良心を抉るような訊き方は」
「なんで?俺は凌と飯食いたい」
「それは俺もそうですけど……バンドの方たちにもお会いしたいという気持ちも――」じっと見つめられ、尻すぼみになる。「……あり、ま、す」
 さらに俺をじっと見つめる龍河先生。
 え、その目はなんですか。なんでそんなに見るんですか。
 もう一度ため息をついて、龍河先生はスマホを耳にあてた。
「行くって」
 その声が投げやりなもんだから、少し怒ってるように聞こえるもんだから俺はハラハラしてしまう。
 怒らせたかな。せっかく俺と飯食いたいって言ってくれたのに、それを拒んだみたいに聞こえちゃったかな。違うんです、先生。ちょっとした出来心なんです。なんだろう、浮気する奴はこんな気分なんだろうか。
「二時間ぐらいだな。うん、ああ、あそこか。車置いてから行くわ。ああ、じゃあな」
 電話を切り、スマホを放るように置く。やばい、どうしよう。
「先生」
「ん?」
「すいません」
「なにが」
「断るべきでしたよね」
 やっぱり怒ってる。
 龍河先生は俺から視線を外して三度目のため息を吐き出すと、少し自分を責めるような表情を浮かべながらシートに寄りかかった。
「凌があいつらに会いたいならいいよ、べつに」
「いや、その、会いたいっていうか……いや、会ってみたいとは思うんですけど、そう思ったのはバンドの皆さんと一緒にいる先生を見てみたかったっていうか、俺の知らない先生を見てみたかったっていうか。だからバントの皆さんを優先したわけじゃなくて、その……すいません」
 喧嘩したカップルみたいだ。なんでこうなった?あ、俺のせいか。
 四度目のため息。そっと窺うと、龍河先生は上を向いてヘッドレストに頭を預け、両手の指で目元を押さえていた。
「悪い、大人げなかった」
「え?」
 俺に向けられた顔にはもう怒りはなく、あるのは自分に対する呆れのような笑み。
「よく言われるんだ。独占欲が強すぎるって。ほんとに大事なもんは自分だけのもんにしたくなる。誰にも会わせたくねえし、触れさせたくねえ。そんなガキくせえこといつまでも言ってらんねえからなるべく抑えるようにはしてるんだが、凌のことは会わせたくねえって思っちまった」恥じるような笑みに変わる。「俺のわがままで嫌な気分にさせた、悪い」
 悪いっていうか、嬉しすぎるんですけど。なんですか、その駆け回って叫びたくなるような可愛い理由は。なんなら今飛び出して叫んでもいいですか。一山超えちゃってもいいですか。ああ、嬉しすぎて思考が停止しそうです!
 でもね、先生。大切なこと忘れてますよ。
「謝らなくていいです。先生がそう想ってくれるのは、すごくすごく嬉しいので。でも先生、忘れてませんか?」
「ん?」
「だいぶ前ですけど、俺が先生を独占したくなって、将太と裕吾に対して申し訳なくなってもやもやしてるとき、言ってくれたじゃないですか」
 ――俺が凌を好きなことに変わりはねえし、凌が俺を慕ってくれることに変わりはねえ。
「同じです。この先どれだけの人と出会おうと、俺にとって先生が特別なことは変わらないし、俺が一番好きなのは先生です。いつか結婚したいと想えるような人と出会ったとしても、ものすごく尊敬できる人と出会ったとしても、俺の一番は先生です。そばにいたいと想うのも、会いたいと想うのも、恋しいと想うのも、愛おしいと想うのも、全部先生が一番です。断言できます。それぐらい、先生は俺にとって特別なんです。だから、大丈夫です」
 龍河先生の顔がゆっくりと綻んでいく。その笑顔を前に向けて俯くと、一つ息を吐き、また前を向いてから俺を見る。笑顔を残したまま「行くか」と言って、俺も笑顔で「はい」と答えた。
 来た道を戻って車は住宅街を走っている。通い慣れた道を進むように龍河先生はすいすい運転し、最終的にとあるマンションの地下駐車場に辿り着いた。
「飲み屋さんに行くんじゃ?」
「うちから近いから歩いてく」
「え!先生ここに住んでるんですか?」
「ああ」
「ええ!ここが……」
 駐車場内をきょろきょろ見渡してしまう。駐車場から外に出ると振り返ってマンションを仰ぎ見た。
 不思議な建物だ。レトロな感じがあるのにデザインは新しくて、高級マンションって感じはしないのに高そうな雰囲気を纏ってる。なにもかも先生にぴったりじゃないか。なんだこのマンションは。どこに行ったら借りられるんだ。先生、あなたは一体何者ですか。どこまでおしゃれなんだこんちくしょう!
「ほら、行くぞ」
「あ、すいません」
 てけてけ後を追って並んで歩く。龍河先生の言った通り目的の店はすぐだった。赤提灯がぶらさがった飲み屋さん。開いた窓から醤油が焦げる匂いと煙がもくもく立ち上っている。
「見た目はこんな感じだが、オムライスうまいぞ」
「ええ?ここでですか?」
「食ってみろ」
「はい」
 ドアを開けると、思わず「おお!」とのけ反ってしまうほど人が溢れてた。四人掛けのテーブルが十一台、奥に座敷が三つ。席は満席で、テーブル同士も近いからお客さんの距離も近い。どの人がどの人と飲んでるのかよくわからないぐらいだ。人の熱気がすごくて呆気に取られていると、龍河先生は常連なんだろう、お店の人に「奥の座敷ですよ」と言われて奥に進み、俺も狭い通路を恐る恐る通りながら奥に進んでいった。
「大!来た!」
「ようよう!」
「待ってたよ!」
 うお、見たことある。ライブでステージにいたぞ。
 左奥の坊主頭の人はたしかベースだ。左手前の耳にかかるぐらいの髪の人はドラムで、右奥のニット帽を被ってる人はもう一人のギター、愛想の欠片もない人だ。
「もうできあがってな」
「だって大が遅えんだもん」とベース。
「そんなことよりお連れさん紹介してよ」とドラム。
「おいで。こっちにおいで」ともう一人のギター。
「お前の隣は俺が座る」
「なんでだよ!お前は端っこだろ!」龍河先生を押しのけ、満面の笑みで俺を手招きする。「ほらほら、早くおいで」
「あ、はい」
 愛想めちゃくちゃいいじゃん!まるで別人じゃん!そうか、ステージ上じゃ恥ずかしがり屋さんなんだな。なんだよ、可愛いじゃないか。
 なんて思えるのは心の中だけ。実際は憧れとも呼べる人たちを目の前にして舞い上がり、俺はどうしたらいいのかわからない。龍河先生が腰を下ろしたのを見て、少し龍河先生寄りに座った。
 龍河先生は注文を取りに来た店員さんにウーロン茶二つと、オムライス一つと、焼き鳥盛り合わせと、枝豆と、梅水晶をお願いする。
「大、飲まねえの?」
「車で送ってくから」
「ああ、そうか」
「俺電車で帰るから飲んでくださいよ」
「いいんだよ、気にすんな」
「そうそう、甘えちゃいな」
「で?」
「ん?」
「紹介しろよ」
 龍河先生はちらっと俺を見ると、俺の勘違いでなければ、言いたくなさそうに俺を紹介した。
「凌」
「風丘凌です。はじめまして」
「知ってる」とドラムがにやにや。
「え?」
「この子が凌君か」とベースがにやにや。
「え?」
「なるほどねえ」ともう一人のギターがにやにや。
「え?」
 なぜか三人がにやにやする。そのにやにやになぜか照れちゃうのは俺だけだろうか。
「え、あの――」
「凌君ライブ聴きに来てくれたでしょ?」
「あ、はい。行きました。すんごいかっこよくて一瞬で惹き込まれちゃいました。すぐにCDも全部買って、毎日聴いてます」
「わお!嬉しいなあ!」
「あんとき大が凌君に会いに行っただろ?」
「はい、来てくれました」
「珍しく外出たから何事かと思ったんだよ」
「そうなんですか?」
「下手に出るとやかましい奴らに囲まれちゃうから」
「ああ、なるほど」
「大はどうなの?学校で」
 注文したウーロン茶と枝豆と梅水晶が運ばれてきた。店員さんに会釈して受け取り、龍河先生は割り箸を割ってさっそく梅水晶を食べはじめた。
「大人気です。みんな先生と仲良くなりたいって思ってます。それに、授業は丁寧でわかりやすいですし、教え方もうまいですし、一人一人に対していつも真摯に向き合ってくれるんです。だから俺は先生のおかげで英語の成績上がりました」
「へえ、やるじゃん」
「べた褒めじゃん」
「大はね、こう見えて真面目だから。やるときゃやる男だから」
「うるせえな」
「大のおもしろエピソードないの?」
「……ないです」
「嘘だよ、今のは嘘」
「よくないよ凌君。素直に白状しな」
「大丈夫、凌君のことは俺らが守るから」
「おい、酔っ払い。凌を困らせんな」
「うわ、ずるい。一人だけ凌君のこと呼び捨て」
「俺も凌って呼んじゃう」
「そしたら俺だって呼んじゃうよ」
「俺も呼ぶ」
 呆れてなんも言えません、てな顔で龍河先生は相変わらず梅水晶を食べている。俺も食べたくなってきて割り箸を割ると、龍河先生が気付いてくれた。
「食う?」
「はい」
「好きなもん頼めよ。ここもうまいから」
「はい、ありがとうございます」
 そんな些細なやりとりを三人に見つめられていた。にやにやしながら。
「仲いいな」
「羨ましいな」
「ずるいよな」
「一緒に出掛けちゃうんだもんな」
「一日一緒にいれちゃうんだもんな」
「車で送り迎えしちゃうんだもんな」
「はいはい、勝手に言ってろ」
「なんだよ~相手してくれよ~」
「酒入ってねえかんな」
「一人だけ素面ってやっぱつまんねえな」
「あの、先生って酔っ払うんですか?」
「酔っ払うけどベロベロにはならねえな。大は酒強いんだよ」
「へえ」お酒強いってことは好きってことだよな。「先生、ほんと飲んでいいですよ。電車で帰れますから」
「いいんだよ、俺が送ってやりたいの」
「……はい」そんな嬉しいこと言わないで。
「帰んなきゃいいじゃん。大んち泊めてやれば?」
「え?」なんだって?
「そうだよ。そうすりゃ凌君だってゆっくりできるし、大も酒飲めんじゃん」
「ああ、そうだな。うち泊まるか?」
「ええ?」なにこの急展開。
「はい、決まり~。すいませーん!ビール四つ!」
「えええ?」いいの?え?いいの?
「明日なんかあんのか?」
「ないですけど」マジか!マジでか!
「じゃあいいじゃん」
「……はい」なんてこったい!
 初デートでお泊り。ドキドキしちゃう。なんて恥じらってる場合じゃない。
 それからがすごかった。四人が飲む飲む。龍河先生だけじゃなくてみんな酒に強かった。酒を水のように飲む。がぶがぶ飲む。心配になるぐらい飲む。でもたぶん、龍河先生は少し抑えて飲んでいた。俺が家に泊まらせてもらうからだろう。それでも相当飲んでる。
 ベースはコウキさん、ドラムはハルさん、もう一人のギターは太一さん。飲みはじめてすぐ龍河先生が紹介してくれた。コウキさんとハルさんはだいぶ酔っ払ってる。太一さんはそこそこ、龍河先生は酒がほどよく回ってる感じ。
 太一さんが俺の肩に手を回した。
「凌はさ――」
「おい、凌の肩に手回すんじゃねえ。あと呼び捨てにすんじゃねえ」
「なんでよ。お前のもんじゃねえだろ」
「俺のもんなの」
「いや違う!凌はみんなの凌だ!」
「そうだそうだ!」
「独り占め禁止令を発令します!賛成!」
「賛成!」
「反対」
「賛成!」
「凌君は?」
「え?反対です」
「なんで!」
「俺は先生のものなんで」
「おいおいおいおいおいおいおい!」
「凌」ぎゅっと肩を抱き寄せられる。「そうだよな。凌は俺のもん」
 ぼふうううううんっ!
 なんだ?俺は今口説かれたのか?心臓がきゅうううってなるぞ。ドキドキしちゃうぞ。たまらんぞこんちくしょう!
「いいなあ、俺も凌に抱きつきたい。だってすげえ可愛いじゃん。イケメンだし」
「おい、呼び捨てにすんなっつってんだろ」
「俺も抱きつきたい!」
「凌君、ちょっとこっちおいで。なんでずっとそっちにいんの。俺とハルの間に座りなさい」
「うるせえ、誰にも渡さねえ」
「俺は隣にいるからいいや」
「なんだよずりいよ!」
「じゃあさ、わかった。大が凌君の隣は仕方ないと思う。だからさ、太一の席を変わればいいんじゃないの?」
「断固拒否!」
「拒否権はございません」
「ほら、こっちこい。俺と変われ」
「やだ!絶対やだ!」
「俺を取り合ってくれるなんて幸せです」
「凌君!なんて可愛いんだ!」
「ちょっとだけでいいからこっちおいで」
「ダメダメ、あっちに行ったら大変なことになるぞ。なあ?大」
「うん、ここにいろ」
「でもあんなに言ってくれてるんで、ちょっと行ってきます」
 腰を浮かしかけた俺の腕を龍河先生はぐいっと掴んで座らせる。
「ダメ。凌は俺のそばにいるんだろ?」
「はい、いますよ」
「だったら行くな」俺の肩に頭を乗せる。「俺のそばにいろ」
 どふわばああああああんっ!
 ちょっとやめてよ。急にやめてよ。不意打ちはダメージでかいんだって。もういい加減にしてくれよ……ああもう!可愛いったらありゃしない!
「……はい、じゃあ行きません」
「なんだよ!おいおいおいおい!」
「大ばっかずるいぞ!」
 コウキさんとハルさんの野次に対して、「ふふん」と勝ち誇った顔を見せる龍河先生。
 先生のこんな顔、はじめて見た。酔っ払ってるようには見えないけどかなり飲んでるし、やっぱり酔っ払ってるのかな?このくらいの酔いでこんなに可愛いなら、もっと酔っ払ったらどうなるんだろうか……ああ、自制をとっぱらってしまえばいいのに。ああ、もっと可愛い先生を見てみたい。
 酔っぱらいの中に一人素面でいる俺はもうずっと笑いっぱなし。ステージで見せる表情はとにかくかっこいいのに、今は笑ったり喜んだりおどけたり怒ったり、いろんな表情を見せてくれる。十九のときにバンドを組んだと言っていたから、龍河先生たちは十年近い付き合いだってことだ。四人の仲の良さがばんばん伝わってくるのも嬉しいし、いつも落ち着き払った龍河先生から少年に戻ったような無邪気さが窺えて、彼らといるからこそ出てくる自然体な姿に微笑ましさを感じてしまう。
 楽しいなあ。最高の一日だなあ。
「便所」と言って龍河先生は立ち上がると、すぐに振り返った。「凌に手出すなよ」
 龍河先生の姿が見えなくなった途端、コウキさんとハルさんがさっそくやってきた。三人の幅に四人座るから窮屈だ。
「ねえ、大の話聞かせてよ」
「話すことはないですよ。学校ではほんとに真面目一本なんで」
「ほんとかよ」
「ほんとです」
「凌は大にすげえ愛されてんな」
 太一さんが唐突にそう言った。
「え?」
「うん、見てりゃわかる」
「愛しかねえ」
「凌は大がこっちに帰ってきた理由知ってる?」
「……はい」どうしたんだろう、急に。
「あいつはさ、突然愛する人を三人喪ってるだろ?だから愛情表現が極端なんだよ。自分にとって大切だって感じた人のことはとことん愛する。男でも女でも、動物でも自然でも。あいつはさ、また突然いなくなっちまうんじゃねえかって恐れてる。だから目一杯愛するんだよ。これでもかってぐらい愛するんだよ。いなくなっちまったときのために、心底愛するんだ。その分、あいつ自身も誰よりも愛してほしいって思ってる。だからまっすぐ愛する。もちろん無意識だよ。意識的な愛情はニセもんだろ?大の愛情は本気の本気。だから心配になる」
 酔っ払ってても太一さんの想いはちゃんと伝わる。それを静かに聴くコウキさんとハルさんの想いも同じぐらい伝わる。龍河先生をものすごく大切に想ってる。
「凌のことはことさら大切に想ってる。俺らも愛されてるが、それとは違う。だから凌、あいつのこと、大のこと――」
 つと口を噤み、太一さんの瞳に強い想いが宿る。
「凌、大のこと愛してるか?」
 澄んだ瞳が俺だけを見る。ただまっすぐ、純粋に。
 そんな太一さんを見つめ返せば、俺の純粋な想いは自然と零れた。
「はい、誰よりも」
 太一さんの頬が優しい線を描き、小さく一つ頷いた。
「そうか。ならいい」
 心底安堵した顔に嬉しさと喜びが滲んでる。コウキさんも、ハルさんも。
 あったかい気持ちに満たされたところに龍河先生が戻ってきた。
「おい、お前らなにしてる」
 ハルさんが俺に抱きつく。
「凌君が俺のこと愛してくれるって」
「あ?」
 コウキさんも俺に抱きつく。
「俺のことも」
「あ?」
 最後は太一さん。抱きついてきて、頬にちゅうされた。
 なんだろう、ハグとかちゅうとか、この人たちにとってこれが当たり前なんだろうか。なんか俺も感覚がおかしくなってきた。
 サンダルを脱いで座敷に上がってきた龍河先生は俺から三人を引き剥がし、太一さんの頭を結構な力で殴った。
「いって!」
「ふざけんなよ。凌にちゅうしていいのは俺だけなんだよ」
「いいじゃん!ほっぺだぜ?」
「ほっぺだろうが頭だろうが指先だろうが許さねえ」
「あんまり縛り付けると凌に嫌われるぞ」
「あ?」と言って、不安そうに俺を見る。もう、可愛い。
「なりません。好きになる一方です」
「だよな。ほら見ろ」
「崩れねえな」
「コウキ、ハル、早くあっち行け」
「やだ!凌君のそばにいる!」
「そうだ!俺らは凌君から離れないぞ!」
「邪魔だ、どけ」
 もう一度俺から二人を引き剥がした龍河先生は、気付くと俺の後ろに座っていた。え?と思う間にあれよあれよと龍河先生の腕は俺の腹に回って、ぎゅうっと抱きしめられている。ぽふんと肩に顎が乗っかった。
 どふわばあああああああああああんっ!
 ちょっとおおお!やめてええ!すごい密着してるから!心臓マジでぶっ壊れるから! 俺を殺すつもりですか!
 龍河先生の頬が首筋に当たってる。どうしよう、ドキドキしすぎて変な汗出てきた。って思ってたら頬が離れて、代わりに柔らかい感触が押し当てられた。耳元で甘い声が囁かれる。
「凌は俺のもん」
 どふわばあああああああああああああああんっ!
 失神寸前。
 なんてことを。そんな声で、しかも首筋にそんな。いけません、いけませんよ。それはお付き合いしてないといけません!
 でも頭をくらくらさせてるのは俺だけのようで、太一さんもコウキさんもハルさんも、面白くなさそうに「ちぇ」と言うだけ。顔が見えないからあれだけど、龍河先生はたぶん、いや、絶対満足げに笑ってる。
 酔っ払ってるからなのか?それともやっぱりこれがふつうなのか?ああ、俺にはわからない。ミュージシャンが恐ろしい。
 それからも龍河先生以外の三人は飲み続け、龍河先生は途中でウーロン茶に切り替えて酔いを醒まし、夜十一時を回って解散となった。そのころには龍河先生はいつも通りの龍河先生に戻っていて、タクシーで帰る三人を介抱していた。
 そしてついに、龍河先生のご自宅にお邪魔するときがきた。この緊張感はなんだろうか。憧れの人の私生活を覗こうとしてるこの感じ。
 ドアが開いて玄関。広い沓脱に靴が四足、ちゃんと揃えて置いてある。全部スニーカーだ。「お邪魔します」と靴を脱いで端っこに寄せた。すたすた進む龍河先生に続いて廊下を歩いていくと、右側にドアが二つ、左側にドアが一つ、それを過ぎると広々とした部屋がどーん!と広がった。どのくらいの広さだろう、正方形に近い形で、教室二つ分ちょいぐらい。ものすごく広いワンルームだ。昼に行った和食屋さんと同じく、部屋の壁はコンクリート壁、床は無垢材、経年によってアンティーク調の自然な色合いとなっている。
 左手奥はオープンキッチン。そのキッチン前に座ろうと思えば四人は座れるであろう、そしてふかふかであろうチャコールグレーのソファとウォールナットのテーブルが置いてある。
 部屋の中央から少し右にずれた位置に、床材と同じ無垢材が床から天井まで斜めに数十本立っていて、それが部屋の仕切りとなっていた。その仕切りの向こうは寝室。シンプルなダブルベッドが真ん中にあり、そのベッド横に木製の丸椅子を置いてサイドテーブルとして使っているようだった。
 俺が一番目を惹かれたのは部屋に入ってすぐの左の壁。壁一面にオーディオ機器と本棚がずらりと並んでいて、そりゃもう圧巻。これはすごい。
 パッと見、家具はソファとテーブルと本棚とベッドと丸椅子。それだけ。
 ここでも無駄がない。余計なものがない。部屋自体も家具もシンプルでおしゃれである。家具が少ないからこそ家具が目立つが、家具が浮いてることもなく部屋との調和がとれていて、ここでも絶妙なバランスが生まれていた。バランス星のバランス王子なのかな、と思ってしまう。
 なんかもういろんなことがすごすぎて、なんだこりゃって気分で部屋を眺めてると、龍河先生が俺の尻を軽く叩いた。
「なに突っ立ってんの。座んなよ」
「あ、はい」
「水でいい?」
「はい、なんでも大丈夫です」
 ねこバスに座る気分でソファに座る。思った通り、ふかふかです。
 さつきちゃんの気分を味わえた気がしてウキウキしてたら、ペットボトルの水を持って龍河先生が俺の隣に腰かけた。
「はい」
「ありがとうございます。先生、テレビがないんですが」
「見ねえから置いてねえ」
「ほうほう」
「風呂入るだろ?」
「あ、はい。できれば」
 ちょっと待ってろと言って、龍河先生は寝室のほうへと足を向けた。気になって首を伸ばすと、なんと龍河先生が壁の中に消えていった。すぐに戻ってきた龍河先生の手にはTシャツとスウェットパンツと下着。なるほど、あの奥にも部屋があって、そこに洋服類をしまってるんだなと推測できた。どんな服がしまわれてるのかあの部屋に入って確かめたい、という衝動をぐっと堪え、着替え一式を受け取った。
「俺と体形似てるから大丈夫だろ」
 え、そうなの?じゃあ俺もあんな風に絶妙バランスで洋服着れるの?どうしよう、あの部屋に入りたい。
「たぶん大丈夫だと思います」
「下着は新しいやつだから」
「いいんですか?」
「気持ち悪いだろ?」
「……そうですね。じゃあ遠慮なく。ありがとうございます」
「風呂こっち」
 案内され、玄関から見ると右側奥のドアを開けて中に入る。
 洗面所と風呂場。どっちももちろん綺麗。でもなんだかドキドキしてしまった。明らかに女性ものの化粧水とかが置いてあり、歯ブラシもコップに二本入ってる。あのとんでもなく可愛い彼女さんのものだなこれは、と察しをつけ、目を逸らした。恋人同士なんだから当たり前だけど、龍河先生と彼女さんの私生活を見てしまった気がして、なんだか照れちゃう。
「バスタオルはここ。風呂場にあるやつは勝手に使っていいから」
「はい、ありがとうございます」
「ああ、あと――」洗面台の棚からなにかを取り出す。「歯ブラシこれ使って」
「すいません、なにからなにまで」
「俺が泊まれって言ったんだから遠慮すんな」
「はい、ありがとうございます」
 風呂に入って、いい匂いがするバスタオルで身体を拭いて、新しい下着と、龍河先生のTシャツとスウェットパンツに着替える。歯を磨いてから部屋に戻ると龍河先生はソファで本を読んでいた。
「さっぱりしたか」
「はい、綺麗さっぱりです」
「俺も入ってくる」
 そして風呂から上がってきた龍河先生はまたかっこよかった。水も滴るいい女とはよく聞くが、風呂上がりの龍河先生のいい男っぷりは例えようがない。
 俺と同じようなTシャツとスウェットパンツのはずなのになんか違う。この格好でかっこいいっておかしくない?みんな同じじゃないの?ねえ、なんでそんなにかっこいいの?
「寝るか」
「あ、はい」
 俺はソファから、龍河先生は立った位置から、お互いを見る。
 うん?なんでしょう?
「なにしてんの」
「え?なにって、寝るんですよね?」さっき先生が言ったんですよ。
「ベッドこっち」
「え?」はい、そうですね。
「ん?」
「いや、俺ソファでいいですよ」ねこバスだから寝れますよ。
「なんで」
「なんでって、え?」そりゃあね。
「ダブルだから狭くねえよ」
「そうかもしんないですけど」同じベッドだなんて。
「ほら、寝るぞ」
「……はい」ドキドキして眠れません。
 抗えるわけもなく大人しくついていき、横になった龍河先生の隣にお邪魔する。ダブルベッドだからたしかにだいぶ余裕はあるが、それでも隣で龍河先生が眠ってると思うと落ち着かない。それに――。
「このベッドって、あのとんでもなく可愛い――」
「殺すぞ」
「すいません」
 ごろんと身体を動かす気配がして、案の定、龍河先生から声が掛かった。
「凌」
「はい」
「なんでそんな端っこにいんの」
「端っこが好きなんです」
「俺がそっち行くか、凌がもっとこっちに来るか、どっちがいい」
 くそっ。またそういうどっちも選べない選択肢を出しやがって。
 仕方ないから身体をもぞもぞ動かして、少しだけ真ん中に寄ってみた。
「もっと」
 もぞもぞ。
「もっと」
 もぞもぞ。
「もっと」
「いや、けっこう来ましたけど」
 ぱっと横を向くと、枕の上で頬杖ついてる龍河先生と目が合った。すぐそこにいて、あの笑顔。
 くそっ、やられた。
「近すぎません?」
「こんくらいでいい」
 結局いつも龍河先生の思い通りになっちゃうけど、まいっかと思ってしまうのもいつものこと。
「今日楽しかったです、すごく」
「ああ、俺も楽しかった」
「先生が酔っ払った姿も見れましたし」
「あんなの酔っ払ったうちに入んねえよ」
「え?そうなんですか?」
「酒は回ってたが、自制が効いてた」
「なんだ、つまんないの」
 でこぴんされた。
「いてっ」
「凌を預かってんだから酔っ払うわけいかねえだろ」
「そうですけど……じゃあ、俺が酒飲めるようになったら潰れるまで飲んでくださいね」
 俺のお願いに、龍河先生はただ小さく笑った。薄暗い灯りの中でも龍河先生の表情は見えるし、そばにいるから体温も感じる。ドキドキして眠れないかもって思ったけど、安心してぐっすり眠れそうな気がする。
 龍河先生は変わらず頬杖をつき、俺を見てる。俺は両腕を布団から出し、仰向けになって天井を見てる。部屋はとても静かで、この世界に龍河先生と二人きりなんじゃないかって思えてくる。
「先生、そんなに見られると眠れません」
「目瞑りゃわかんねえよ」
「先生が起きてるなら起きてたいんです。だから先に寝てください」
 そっと微笑んで、俺の腹に手を乗せる。小さい子供を寝かしつけるように、その手はぽんぽんと優しくリズムを打ちはじめた。
「なあ凌」
「はい」
「俺は、凌が好きだ」
「はい」
「できることならずっと隣にいてやりたいし、凌にも隣にいてほしい」
「はい」
「だが――」少しだけ言い淀む。「俺はもうすぐ日本を出る」
「はい」
「凌、なにを抱えてる?」
「え?」
「裕吾から世界を回るって聞いたときから、いや、もっと前からか。ずっと置いてけぼりをくらった子供みたいな顔してる」
「そう、ですか?」
「将太を喪ってまだ二ヶ月だ。凌の母さんが亡くなってからも、まだ三ヶ月しか経ってねえ。凌がちゃんと受け入れて、前に進もうとしてるのはたしかだが、凌の心はまだ少し混乱してるはずだ。大切な人を喪う痛みはどうやったって忘れらんねえからな」
「……はい」
「凌、押し潰されそうな想いを無理して隠す必要はねえんだよ。素直に弱さを吐き出すことも、これからは大事になってくる」
「……はい」
 ぽん、ぽん。
「どうした?」
 ぽんぽんされてるせいか、ほんとに子供に戻ったような気分になる。俺が小さい頃、母さんもよくこうして俺の隣に寝転がって、俺が眠るまでぽんぽんしてくれた。甘えたい気持ちが湧き上がり、ゆるゆるとほどけてく。龍河先生の想いがあったかい。見えないところに隠した、ずっと疼いたままの不安と恐怖が、そろりそろりと姿を見せはじめた。
「……俺、怖いんです」
「うん」
「母さんがあっという間にいなくなっちゃって、将太は突然いなくなっちゃって、あと三日で、先生もいなくなっちゃう。それだけでもすごく不安だったのに、裕吾もいなくなるってわかって、なんか、ほんとに一人ぼっちになっちゃうって思って、俺、一人ぼっちになるのが怖いんです」
「うん」
「先生と裕吾はどこかにいて、ちゃんと繋がってるってことも、二人の想いが変わらないってこともわかってるんですけど、急にみんなどっかに行っちゃうから、ほんとは、ほんとにいなくなっちゃうんじゃないかって。母さんと将太みたいに、いくら願っても会えなくなっちゃうんじゃないかって、それが怖いんです」
「うん」
「頭ではわかってるんですけど、どうしても考えちゃうんです。母さんと将太が死んだのは、俺がそばにいたからなのかなって。先生と裕吾がどっかに行っちゃうのは、俺がそばにいるからなのかなって。みんなが俺の前からいなくなっちゃうのはなんでなんだろうって、俺が悪いのかなって、ずっと、ずっと不安なんです。俺はみんなと一緒にいたいのに、それがどんどん、一人いなくなって、また一人いなくなって、みんな、俺の前からいなくなっちゃう。先生も裕吾も、ほんとはほんとにいなくなっちゃうのかもしれない」
 右腕で目元を覆っても涙が零れ落ちた。
「そんなのやだ。もうやなんだ。誰かを喪うのは」
 ぽん、ぽん、ぽん、ぽん。
「凌、腕どけて俺を見ろ」
 口元のほうに腕をずらして、龍河先生と視線を合わせる。
「凌、母さんが死んだのも、将太が死んだのも、凌がそばにいたからじゃねえ。それはわかってるな?」
「……はい」
「俺がいなくなるのも、裕吾がいなくなるのも、凌がそばにいるからじゃねえ。凌がそばにいてくれるから、いなくなれるんだ。わかるか?」
 甘えが出て、首を横に振った。わかりたくない。
「急にバカになったな」からかうように笑う。「誰だって一人じゃなんもできねえだろ?裕吾のように一人で旅に出る奴にも、そのそばにはたくさんの人がいる。ほんとに一人ぼっちの奴にはそんなことできねえよ。裕吾は、凌がそばにいてくれるから前に進める。そばに信頼できる人がいるから、迷わず踏み出すことができるんだ。わかるな?」
「……先生は?」
「俺も同じだ。そばに仲間がいて、凌がいて、だから前に進める」
「でも先生は、俺と会う前から日本を出るって決めてましたよね?」
「それを言うなよ」今度は顔をしかめて笑う。「たしかにそうだが、信頼できる奴が多ければ多いほど、前に進む力は強くなる。凌は、俺にその力を与えてくれてる」
「俺が?」
「俺は凌のことを心底大切に想ってる。たまらなく愛おしい。そんな凌が、俺の力にならねえわけがねえだろ。凌がそばにいてくれるから、俺はまた一歩前に進める。これもわかるな?」
 一つ頷く。少しずつ俺を襲うものが薄くなっていく。
「凌は大切なもんを喪ったばかりだ。だから俺と裕吾がいなくなることが、不安と恐怖に直結しちまってる。だが、その不安と恐怖はこの先も居座り続ける。どうやったって忘れらんねえ」
「……先生もしんどいですか?」
 わずかに視線を宙に彷徨わせ、俺に戻す。
「あの頃みたいに訳わかんなくなることはもうねえが、思い出すよ、今でも。あんときの光景、音、声、温度。忘れられるわけがねえ。正直言えば、俺だって不安だ。また同じように突然大切な人を喪ったらって思うと、怖くて仕方がねえ。だが、怯えててもしょうがねえだろ。人は必ず死ぬ。いつ死ぬかはわかんねえ。だったら怯えて生きるより、今を精一杯生きて、大切に想う人を目一杯愛したほうが断然楽しいじゃねえか。だろ?」
「はい」
「死なねえとは約束できねえが、生きてる限り、俺は凌のそばにいる。それは約束できる。だから凌、凌は一人になんかならねえよ。俺だけは、必ず凌のそばにいる」
 声が出ない。また右腕で目元を覆って、左手で掛け布団を引き上げる。
 俺を襲うものはもうほとんど見えなくなった。砂粒が風に吹かれていくように、さらさらとどこかへ行ってしまった。あの砂粒がまた形を造るにはだいぶ時間がかかるはずだ。でももしまた襲ってきたとしても、もう大丈夫。退治方法はわかったから。
「凌?わかったか?」
 掛け布団の下で大きく頷く。だけどその掛け布団は龍河先生によってめくられてしまった。
「わかったか?」
「……はい」
「凌も生きてる限り、俺のそばにいてくれんだろ?」
「はい、ずっとそばにいます」
 見惚れてしまう優しい笑顔がそこにあって、柔らかい涙が零れていく。
 あたたかい手が頬を包み、涙が拭われて包まれて、額に唇が触れる。
「俺はここにいる」
「はい」
 もう一度同じ場所にキス。
「おやすみ」
 自然と瞼が落ちてきた。腹にぽんぽん。伝わる温もりが心地よくて、俺はいつの間にか眠っていた。

 起きてびっくり。
 すぐ目の前に、ほんとにすぐ目の前に龍河先生の寝顔がある。俺の願望が寝相に反映されたのか、龍河先生のほうに身体が向いてしまっていたようだ。
 が、しか~し!
 俺が驚いたのはそれだけじゃない。先生の左腕がなんと俺の腰に回されていて、まるで抱きしめられているような体勢になっているではないか!なんじゃこりゃあああああっ!
 が、しか~し!
 問題が一つ。この体勢だと、俺が起きれば先生も起きてしまう。動けない。どうしよう。こんな間近に先生の顔がある。しかも寝顔。どうしよう。起きてすぐこんなに心拍数が上がって大丈夫なんでしょうか、とお医者さんに訊きたい気分だ。
 それにしてもかっこいい。熟睡してるときもかっこいい。ほんの少しだけ口を開けてすやすや眠ってる。可愛い。でもかっこいい。でも可愛い。ああ、感情が忙しい。
 熟睡してるし、そっと起きれば大丈夫だろう。そおっとそおっと身体を反転させてするりとベッドから抜け出す、はずだったのに、身体を反転させたところで捕まった。腰に回された腕がきつくなり、俺の背中と龍河先生の胸がぴったりとくっつく。
「どこ行くの」
「いや、目覚めたんで、あっちに行こうかなって」
「なんで」
「なんで?え、起きたからです」
「ダメ。こうしてて」
 ぼふうううううんっ!
 そんな掠れた甘えた声で言わないで。女の子に言われるよりドキドキするってどういうことだよ。朝からやめてよ。
 寝起きで身体がぽかぽかしてる。首元にあたる龍河先生の頬も、腰に回された腕も、背中と密着する胸も、絡められた脚も、全部あったかい。
「……はい」
 はい、じゃないよ。風丘君、どういう状況かわかってますか?心臓破裂しそうですよ?匂いとか大丈夫?昨日風呂入ったけど寝汗で臭くない?先生はいい匂いだけど俺は大丈夫なの?ああ、心配だ。お願いだからそんなに密着しないで。
 とにかくこの腕をほどかねば俺の心臓が持たない。と思うが、龍河先生はまたすやすやと眠ってしまっている。いや、今がチャンスだ!と、またしてもそうっとそうっと龍河先生の腕を持ち上げてみるけど、気付かれた。
 寝起きの、半分まだ眠ってるような声が耳元で呟かれる。
「なんだよ」
「あの、仰向けになりたいなと思って」
「やだ」
「ええ?」
「なんで?やだ?」
「そんなわけないです」
「じゃあいいじゃん」と言って顔をうずめる。「ほっとする」
 そう言われてしまうともう動けない。少しして静かな寝息が聞こえてきた。
 いつもは冷静沈着で、どんなことにも動じない、超絶かっこいい龍河先生。だけどたまにこうやって甘えてくれる。まるで子供みたいに、これでもかってぐらい甘えてくれる。この龍河先生を知ってるのは限られた人だけだ。その中に自分がいることが嬉しいし、龍河先生への愛しさが膨らんでいく。
 時間が経つにつれ緊張は解けていった。龍河先生の体温が伝わってきて、すごくあったかくて、すごく心地いい。そこにいることを感じられるから、すごくほっとする。瞼は次第に重くなり、俺は龍河先生に包まれながらまた眠りの世界に落ちていった。
 自然と目が覚め、自分が寝てしまったことに気が付いた。隣を見ると誰もいない。ハッとして、少しだけ身体を起こして周りを見渡したとき、顔を洗ってきたのか、タオルで顔を押さえながら龍河先生がベッドに近づいてきた。
「起きたか」
「すいません、寝すぎました」
 上半身を完全に起こすと、龍河先生は俺のそばまできてベッドに尻を乗せた。
「俺もさっき起きた。それに休みなんだから寝てたきゃ寝てろ」
「いえ、起きます。洗面所お借りします」
 寝すぎた寝すぎた。慌ててベットから出て、洗面所で歯を磨いて顔を洗う。気分もさっぱりして寝室に戻ると、龍河先生はまだベッドに腰かけていた。膝に肘を乗せ、前屈みになりながらどこでもないとこを見てる。なにかを思い悩むような姿に、少し胸がざわついた。
 ベッドに近づき「洗面所ありがとうございました」と声を掛けると、物思いから覚めたように龍河先生は顔を上げた。なんだかいつもと様子が違くて、俺は覗き込むようにしながら隣に尻を下した。
「大丈夫ですか?」
「ん?」
 俺に向けた顔はいつもの龍河先生。勘違いだったかなと思いつつ、でもちょっと不安なまま「いえ」と笑いかける。
「なんか、自分のベッドよりぐっすり眠れました。先生んちなのに」
「俺もよく寝た。凌がいたからすげえ気持ちよかった」
 だからさ、そういうことさらっと言わないで。踊りたくなっちゃうから。
「俺も安心してました。先生の体温が心地よくて」
「ふうん。じゃあもう一回寝るか」
「さすがにもう――」
 はっ!朝からあの笑顔。いつでもどこでも出てくんな。
「寝ようぜ」
 ほら、スイッチ入っちゃったから。
「いやいや、寝ませんって」
「俺は寝たい」
 逃れようとする俺の腕を掴んで引き寄せて、そのままごろんとベッドに倒れ込んだ。今度は正面ハグの状態。ちょっと顔を上げればすぐそこに龍河先生の顔がある。だから顔は上げられない。首の下から伸びた左腕で肩を抱かれ、さらに右腕で腰を抱きしめられ、脚を脚で掴むように絡められている。
 おいいいいいっ!ちょっと!いや、あの、これはちょっと、くっつきすぎですって!これはダメだって!ダメなんだって!
 ああもう、これじゃ心臓暴れまくってんのバレバレだし、変な汗も出てきたし、え、俺臭くない?大丈夫?
「先生」
「ん?」
「これはさすがに眠れません」
「いいんだ。俺がこうしてたいだけ」
 きゅん。っていつもならするところ。でも龍河先生の声音が、纏う空気が変わった。なんでかわかんないけど、こうなると俺のドキドキは治まっていく。龍河先生のすべてを受け入れたくて、なにかが切り替わる。
 左腕をそっと伸ばして龍河先生の背中に回すと、それに応えるように龍河先生の腕に力がこもる。
「凌と離れたくねえ」
「え?」
「だが、離れなきゃなんねえ」
「……はい」
「欲張りだな、俺は」
「そんなことないですよ。俺も本音を言えば、先生にはどこにも行ってほしくないです。でも、先生が未来のために日本を離れることを選んだなら、俺はそれを誰よりも応援したいです」あ、と思って一番知りたかったことを訊く。「日本はどのくらい離れる予定なんですか?」
 なぜか少しの間があり、そのわずかな間に龍河先生から躊躇いを感じた。なにかを言おうとして、口を噤む感じ。
「凌」
「はい」
「戻る予定はねえんだ」
「え?」思わず顔を上げると、視線を下げた龍河先生の瞳とぶつかった。
「俺もあいつらも、それを望んでる」
 え?え?どういうこと?
「それは――」
「言い訳にしかならねえが、伝わってると思ってた。凌の母さんに会ったとき、凌が勘違いしてるって気が付いた。だが言えなかった。言い出せなかった」
 龍河先生は自分を責めるように、小さく息を吐き出した。
 記憶を辿る。
 そうだ、たしかにあのとき、先生は戸惑う表情を見せていた。そうか、あれはそういうことだったのか。それにあのときも、先生は俺に「日本からいなくなる」って言ったんだ。今思えば、先生は一度だって帰ってくるとは口にしていない。俺がいつか帰ってきてほしいと願うばっかりに、勝手に勘違いしてたんだ。
 バカだな、俺。最低だな、俺。先生が苦しんでくれてることにも気付かないなんて。
「気付いたときに言うべきだった。時間が経てば経つほど凌を傷つけることになるってわかってたのに、言えなかった。日本に戻らねえっていう気持ちは今も変わらねえが、凌と離れたくねえって気持ちが凌にほんとのことを伝えるのを躊躇わせた。俺の勝手で凌を傷つけた。すまない」
 苦しそうな声が耳に響く。
 その苦しみは、俺を想ってくれてるからだ。俺はこんなにも先生に想われてる。もうそれだけでいい。俺は最高に幸せだ。だから、先生が戻ってこないことを知ってショックだし、寂しいけど、それを嘆くことはない。
「謝んなきゃなんないのは俺のほうです」少しだけ身体を離し、しっかりと龍河先生の顔を見て続けた。「俺が勘違いしたせいで先生を苦しめちゃってすいません。俺を想って悩んでくれてたのに、気付かなくてすいません」
「凌――」
「それに俺、傷ついてないですよ。そりゃあ、驚いたし、寂しいし、泣きそうですけど、傷ついてはいません。だって、一生会えないわけじゃないじゃないですか。先生が日本に帰ってこないなら、俺が会いに行けばいいだけです。それに、前に先生が言ってたみたいに、未来はわからないですから。どこかで偶然会えるかもしれないし、もしかしたら先生が日本に帰ってきたいって思うようなことが起こるかもしれないし」
 想いがちゃんと伝わりますように。
「たとえこの先、もう二度と先生に会えないとしても、先生がどこにいようとも、俺は先生を思い出して、先生を想います。隣にいられないとしても、俺は、どんなときも先生のそばにいます」
 泣きたくなかったのに、どうしても溢れてしまう。
「これ、先生が俺にくれた言葉です。先生が俺のことをそう想ってくれるように、俺も先生を想ってるんです」
 涙はいらないから、手で拭う。
「先生は、すごくかっこよくて、すごく優しくて、すごく一生懸命で、すごく勉強を教えるのがうまくて、たまにすごく怖くて、すごくセンスがよくて、すごく愛情深くて、先生たちの音楽はすごくかっこよくて、たまにすごくいじわるで、すごくまっすぐで、笑顔がすごく可愛くて、すごくすごく、俺を想ってくれる」
 涙はいらないのに、間に合わない。
「俺はそんな先生が、大好きで大好きで、本当に大好きで、どうしようもなく大好きで、こんなに誰かを想うことなんてないってぐらい大好きなんです。愛してるっていう感情なんて知らなかったのに、勝手に溢れてくるんです。俺は先生が大好きで、愛してる。だから、俺は傷ついてません」
 俺を見つめる龍河先生の瞳から、涙が落ちる。はじめて見る涙。それはとてもあたたかく、優しい涙。
 もうひと雫。龍河先生は頬を緩めて、俺を抱きしめた。ぎゅうっときつく、苦しいぐらいに抱きしめた。俺の髪に顔をうずめて、頬を摺り寄せて、溢れる想いを伝えてくれる。
「凌、ありがとな」髪に口づけ。「愛してる、心から」
 もう一度口づけて、きつくきつく抱きしめる。龍河先生の鼓動が、静かに穏やかに、俺の鼓動と重なった。
 抱きしめ合ったままなにも言葉は交わさず、俺と龍河先生はただお互いの温もりに包まれ続けた。
 ずっと不思議に思ってる。自分のこの感情はなんなんだろうって。友達、先生、憧れの人、恋人、どれでもあってどれでもない。ただ一緒にいたくて、ただ愛おしい。龍河大という存在が俺にすべてを与えてくれる。俺を満たしてくれる。
 満たされれば満たされるほど、離れたくないと思ってしまう。離れなきゃならないことはわかってるし、それが必要なことだってこともわかってる。だけど離れたくない。さよならの時間は刻々と近づいてきていて、もしかしたら本当に最後の最後になるのかもしれない。そう思うと、この時間に縋りつきたくなる。
 縋るように、しがみつくように、腕に力を込める。俺の想いを刻み込むように、俺を押し付ける。もう少し、もう少しだけこうしていたい。離れてしまうなら、少しでも長く、満たしてほしい。
 俺を包む力も強くなって、愛撫するように頬が髪を撫でる。微笑んでいるのを感じた。
「泣いてんのか?」
「泣いてません。先生を充電してるんです」
「じゃあ俺も」とさらにぎゅうっと抱きしめる。
「う、くるしい……」
 龍河先生は小さく笑い、ほんの少しだけ腕を緩めた。
「なあ凌」
「はい」
「……」
「なんですか?」
「いや、なんでもねえ」
「え、気になるんですけど」
「なんでもねえよ」
「……はい」
「不満そうだな」
「そりゃそうですよ」
 また小さく笑い、何度目になるかわからない口づけをする。
「凌」
「はい」
「ありがとな」
「……やめてください。これが最後みたいに聞こえます」
「最後かもしんねえじゃん」
 龍河先生の脇腹を殴る。
「怒りますよ」
「冗談だよ」
「冗談じゃなきゃ困ります」と言ったとき、俺の腹が鳴った。
「飯食ってなかったな、悪い」
「いえ、飯よりこうしてたいから大丈夫です」
 抱きしめる腕が緩んで身体に隙間ができる。あやすように笑う瞳が俺の顔を覗いた。
「飯食いに行くか」
「……はい」
「不満そうだな」
「はい」
「俺も腹減ったんだよ」
「はい、俺も減りました」
 龍河先生の体温が遠のいて、身体のどこも触れ合わなくなった。その途端、ものすんごく恥ずかしくなってきた。今さらかよ!と自分に突っ込みながら、顔が赤くなるのを感じる。
 あああああっ!俺はなにをしてるんだ!あんな風に抱きしめられて、抱きしめて、よくも平然としていやがったな!ああ、熱い。全身が熱い。暖房が効きすぎなんじゃないか?ああ、熱い!
「凌」
 そう呼ばれて我に返って振り返ると、龍河先生が俺の服を差し出していた。
「あ、すいません」
 近寄って服を受け取る。Tシャツとトレーナーとチノパン。ふと気になってTシャツをくんくん嗅いでると、また「凌」と呼ばれた。顔を上げると龍河先生は可笑しそうに笑っていて、俺になにかを放ってきた。Tシャツだった。
「それ着ろ」
「え、いいんですか?」
「ああ」
「すいません、ありがとうございます。ちゃんと洗濯して返します」
「いいよ、やる」
「え?」
「返すのめんどくせえだろ。Tシャツはやたらあるから構わねえし」
「……じゃあ、貰っちゃいます」ぐふふ。やった。
 自分が着る服をベッドに放り投げ、龍河先生は着ていたTシャツを脱いだ。
 はうっ!眩しい!
 やっぱりね。わかってた。うん、だろうと思った。その見事に鍛えられた肉体美。上腕二頭筋、胸筋、腹筋、背筋、引き締まった筋肉はそりゃもう見惚れるほどですよ。さすが筋トレマニア。肉食動物たちが見たら鼻血を垂れ流しながら突進してくるに違いない。
 上半身だけ裸になり、龍河先生はベッド横の丸椅子に手を伸ばした。手に取ったのはネックレス。そういえばいつも首元からチェーンが見えていた。
 俺の視線に気付いたのか、龍河先生はネックレスを持ったまま俺を振り返った。
「ん?」
「あ、いや。いつもネックレスつけてるなと思って」
「ああ、これか。これも貰いもんだ」
「へえ」
「旅先で出会った爺さんがくれたんだよ。今はもう使われてねえ古いコインなんだが、昔、爺さんを大切に想う人が、爺さんの幸せを願って贈ったコインなんだ。爺さんにとってもその人は大切な人で、だからずっと大切にしてきた。それを俺にくれた」
「そんなに大切なものを」
「自分が死んだらこのコインは消えてしまう。だから貰ってほしい。宝物は大切に想える誰かの手に渡ることで、また宝物になる。そう言ってた」
「すごくあったかい言葉ですね」
「ここに文字が書いてあるんだが――」
 龍河先生のそばに近づき、手元を覗き込む。コインは日本の一円玉より一回り小さいぐらいの大きさで、銀灰色となった色は長い年月を誰かと過ごしてきた証だろう。細かい装飾はなく、コインの真ん中に炎が燃え上がるような、光が溢れ出ているような、幾重にも重なる線が浮き上がっていた。その下に龍河先生が言う文字がある。だけど見たこともない文字で、文字だよって言われても文字には見えない。
「これですか?」
「希望を光に」
「え?」
「そう書いてあるんだ」
「読めるんですか?」
「まさか。爺さんが教えてくれたんだよ」
 コインに視線を落とす。
「……希望を光に」
「いい言葉だろ」
「はい、すごく」
「日本に帰って来て、知り合いに頼んでネックレスにしてもらった。ずっと身につけていられるように」
「先生にとっても大切なものになりましたね」
「ああ」
 龍河先生は手の中にあるコインを愛でるように見つめ、想いを込めるようにぎゅっと握りしめた。そしてチェーンの留め具を外し、俺の首に回した。
「え?」
「やる」
「えっ!いやいや!これは貰えませんよ!こんな大切なもの!」
「大切だから、凌にやる」
「ええ?だって、これ、お爺さんの大切なものでもあるのに」
「宝物は大切に想う人に渡すことで、また宝物になる」
「……先生」喉が締め付けられる。「どうして」
「爺さんにこれを贈った人と同じように、俺は凌の幸せを願ってる」
「だからって、こんなに大切なもの……」
「これからは凌に大切にしてもらいたいんだよ。凌が俺を大切に想ってくれるように、大切にしてほしい。俺が凌を想う気持ちを受け取ってほしい」
 感情が抑えられなくなって俯いた。ぽたぽたと涙が落ちる。
 幸せ、喜び、それが満たされて溢れ出て、おかしくなりそうだ。
「俺はどうしたらいいですか。いつも貰ってばっかで、先生はこんなにいっぱい幸せをくれるのに、俺はなにも、なんの幸せもあげられてない」
 龍河先生の手が頬に伸び、俺の顔を少し持ち上げるようにする。指が頬を撫でた。
「貰ってるよ。凌はいつも、自分の想いを言葉にしてくれる。その言葉一つ一つが、俺を幸せにしてくれるんだ。凌の言葉に救われてるんだ」
 俺の大好きな茶色がかった瞳に俺が映ってる。
「たとえ言葉なんてなくても、凌という存在が俺の幸せなんだよ。だから俺は今、すげえ幸せだ」
 泣きっ面を晒しながら龍河先生に抱きつく。まるで子供が親に抱きつくようにしがみつく。龍河先生の肩に頭を預けて、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。
 俺の背中と頭は大きな手に包まれてあったかい。ぎゅうってしてくれて、髪にキスしてくれる。俺が泣き止むまでずっとそうしてくれた。
 涙が零れることはなくなって、しゃっくりは止まらないけどやっと話せるようになってきた。
「先生」
「ん?」
「俺も、すごく幸せです。だから、大切にします」
 俺の耳に小さく笑う声が届く。
「凌」
「はい」
「キスしていいか」
「はい」
 龍河先生は身体を少し離すと、抱きしめていた左手で俺の右手を握り、頭を包んでいた右手で俺の左頬に触れた。傾けた顔が近づいて俺は瞼を閉じる。からかわれて、はじめてキスしたときと同じキス。優しいキスは心臓が鼓動を五回打って、そっと離れた。それと同時に俺も瞼を上げる。まだ顔を傾けたままの龍河先生の瞳に捕まり、その瞳はキスと同じぐらい優しいもんだから見惚れていると、龍河先生はもう一度短いキスをした。
 俺の瞳を覗き込むように見て微笑む。
「飯食いに行くか」
「はい」
 俺は照れて、はにかんだ。
 昨日の夜連れていってくれようとしていたイタリアンレストラン。ここも龍河先生の友達がやってる店だった。朝飯兼昼飯を食べ終わって店を出たのが昼の十二時前。ちなみに、この店も昨日の和食屋さん同様めちゃくちゃうまかった。車を停めてる駐車場まで歩きながら龍河先生が俺に訊く。
「今日はどうする?何時頃に帰りたい?」
「そんな風に訊かれると、帰りたくないっていう答えになります」
「あはは!それは凌の父さんに叱られるな、俺が」
「叱られないですよ、大丈夫です。でも先生は明日学校なんで、先生がしんどくない時間までは一緒にいたいです」
「しんどくならねえよ、凌が一緒なら」
「泣きますよ、また」
 口をへの字にして睨むと、龍河先生はにやりと笑う。
「泣き虫凌ちゃん」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「お、反抗的だな」
「うるさいな」
「可愛いなあ、凌は」
「先生だけですよ、そんなこと思ってるの」
「いいんだよ、俺だけで」そう言って俺の肩に腕を回す。「俺だけでいい」
 どうしたって頬が緩んでしまう。嬉しいくせに言ってみる。
「……先生、歩きづらいです」
「いいんだよ、これで」
 寄りかかられながら歩いて駐車場に辿り着く。
 今日の龍河先生は、丸首の黒いニットセーターにストレートのブルーデニム。上着は黒いマウンテンパーカーだ。
 ああ、やっぱりすべてが絶妙だ。かっこよすぎる。そしてなんと今日は二度目の眼鏡男子。眼鏡なしの龍河先生にはだいぶ慣れたとはいえ、それでもきゅんきゅんドキドキさせられるってのに、見慣れないその眼鏡姿はもうご勘弁。三秒以上、顔を直視できません。
 ああ、かっこいい。こんなかっこいい人に俺は昨日から何度も抱きしめられて、からかいなしのキスされて……ああっ!ダメだ、思い出すな!嬉しいんだけど恥ずかしすぎる。北極に行ったら氷を全部溶かしてしまうぐらい発熱しそうだ。環境破壊はしたくない。だから思い出すな。
「凌?早く乗れ」
「あ、はい!」
 慌てて乗って、シートベルトを締める。
「行きたいとこは?」
「先生はないんですか?昨日は俺の行きたいとこに連れてってくれたんで、今日は先生の行きたいとこに行きたいです」
「行きたいとこか」
 窓枠に肘を掛け、手で口元を覆うようにしながら考え込む龍河先生。なんか色っぽい。とにかくかっこいい。なんて思ってると、俺の熱視線に気付いた龍河先生がこっちを向く、と同時に俺はぱっと前を向いた。
「ん?」
「いえ」
「なんだよ」
 ちらっと見て、また前を見る。
「……かっこいいなと思って」
 ああ、わかる。絶対あの笑顔。墓穴を掘ったとはこのことですね。
「違うんです。今日は眼鏡だし、いつもとちょっと雰囲気が違うから」
「眼鏡してねえときはかっこ悪いのか」
「そん!なわけ、ないじゃないですか。いつもかっこいいですよ。腹立つぐらいかっこいいです」
「ふふん」
 ああ、絶対見られてる。満面の笑みが俺を見つめてる。
「行きたいとこ見つかりましたか?」
「凌」
「はい」
「俺のこと大好きだろ?」
「うるさいな。ほら、早く行きますよ」
「答えるまで行かねえ」
 くそっ。なんなんだこの人は。散々伝えただろうがこんちくしょう!って気持ちを込めて睨むと、そりゃもう心底楽しそうな笑顔がありました。
 ぷいっと前を向き、いじけた口調でさっさと答える。
「大好きですよ」
「ふふん」
「ほら、行きますよ。運転お願いします」
「可愛いなあ、凌は」
 エンジンが掛かって、車は出発した。
 それから走り続けること約二時間、とんでもないところに到着した。
「……ここは?」
「温泉入りてえなあと思って」
 やってきたのは誰もが知っている有名な温泉街。雰囲気ある街並みに雪が積もり、昔ながらの家屋や旅館、飯屋、土産物屋などが石畳の道筋に並び、観光客がそれらの店を賑やかせている。軒先にぶら下げた看板に書かれたまんじゅうという文字。その店から立ち上る湯気の白、俺らが吐く息の白、屋根や道の端に積もる雪の白。ああ、綺麗だなあ。なんて浮かれてる場合じゃない。
 おい、温泉って。そりゃ俺も温泉は好きだけど、今日は寒いから気持ちいいだろうけど、温泉なんて、ドキドキしちゃうじゃないか!
「凌、行くぞ」
「あ、はい!」
 温泉街をぐるっとして、龍河先生のイケメンっぷりに頬染めながら、やたらまんじゅうを試食させてくれたおばちゃんに日帰り温泉できるおすすめ旅館を教えてもらった。ここから車で二十分。俺らは駐車場へ戻り、旅館に向けてまた車を走らせた。
 そんなこんなで、気付けば歴史ある立派な旅館の中に俺はいる。
 ほあ~と、口を半開きにしてきょろきょろしてしまう。柱のテカり具合といい、絨毯のふわふわ具合といい、ちょっとロマンチックな照明具合といい、とにかくすべてがどーん!としてる。微かに漂うお香の香りもいい匂いだし、スタッフさんはこんな俺にもすごく丁寧に接してくれるし、ふつうに泊まったら高いんだろうな、なんてみみっちいことを考えてしまう。大人になってお金を稼げるようになったら、いつかこんなとこに泊まってみたいもんだ。
 俺が夢想してる間にも、受付のお姉さんの説明は続いている。目の前で頬杖ついて説明を聞く、とんでもなくかっこいい客にどきまぎしながら、お姉さんは料金表の内容を説明してくれている。お姉さん、すごーく丁寧なその対応はいつも通りですか?と勘ぐってしまうのは俺だけだろうか。
「入浴だけでも構いませんし、少しお休みになられたいようでしたらお部屋をご用意することも可能です。こちらの場合は時間制になってしまいますが、個室ですのでごゆっくりできますし、私どもから甘味のサービスもございます。いかがされますか?」
「時間制ってのは何時間なんですか?」
「料金によって異なるのですが、入浴時間も含めましてこちらの二時間プランと三時間プランがございます」
「ふうん」
「あともう一つ、十五時以降のチェックインで二十一時までご利用いただけるプレミアムプランもございます。本来はご予約制となっているのですが、今しがたキャンセルになってしまったお部屋が一部屋ございまして、もしご希望でしたらプレミアムプランもご利用可能です。こちらはお夕食付のプランなのですが、お部屋には露天風呂がございますし、お夕食もお部屋でお召し上がりいただけますので、のんびりお寛ぎいただけるかと思います。十五時まであと二十分ほどございますが、そのぐらいは問題ございませんので」
「いいんですか?」
「ええ、たった二十分ですので」
 え、ほんとに?それはお姉さんの個人的ななにかがそうさせてませんか?大丈夫ですか?怒られませんか?支配人さーん!
「そしたらそれにします」
「ありがとうございます。それではお先にお支払いをよろしいでしょうか」
「はい」
「お会計はご一緒でよろしいですか?」
「はい」
「え、ちょっと待ってください」
「ん?」
「ずっと払ってもらってばっかなんでちゃんと払います」
「いいよ」
「ダメですって!」
「じゃあ、誕生日祝い」
「いやいやいやいやいやいや!」
「じゃあ、卒業祝い」
「いやいやいやいやいやいや!」
「凌、うるせえ。すいません」
「いえ」とお姉さんは微笑ましく俺らを見つめてる。「それではお代金が三万二千円でございます」
 ちょっと待ったああああああっ!
 ええ?ええ?高すぎない?そんなすんの?夕飯食えるとはいえ、日帰りでその値段ってことは宿泊は一体いくらすんだよ。おいおいおい、由緒正しき旅館ってのは恐ろしいな。っていうか先生、料金表見てましたよね?なんでそんなにあっさり決めちゃってんの。お姉さんもなんでそんな平然と「ございます」なんて言っちゃってんの。もしや、お姉さん策士だな?俺は騙されてたな?これが大人の世界なのか。ああ、大人になるのが怖くなってきた。
 なんて俺が恐れ戦いているうちに支払いは終わってしまっていた。策士から受け取ったお釣りを龍河先生は財布にしまい、それを確認した策士が笑顔で言う。
「それでは仲居がご案内いたします。どうぞごゆっくりお過ごしください」
 いつの間にそこにいたのか、こちらもお姉さんが笑顔で迎えてくれた。
「ご案内いたします。こちらへどうぞ」
 仲居さんのあとをふわふわの絨毯を踏み締めながら歩いてく。ほんとにふわふわしてる。ああ、この一歩が一体いくらなんだろう。
 部屋に入ると思わず「うわあ」と嘆声が漏れた。こりゃすごい。
 広々とした和室が広がり、部屋には木目が美しいテーブルと座椅子が二つ。右手の床の間に飾られた一輪挿しの花瓶には紫色の花が飾られている。その奥にもスペースがあり、座り心地のよさそうなソファとテーブル、その向かいに大きなテレビが壁に掛かっていた。隣接した隣の部屋にはセミダブルベッドが二つ並び、見ただけでふっかふかだとわかる。
 豪華な部屋に畏れながら部屋の奥に進んでいくと、これまたびっくり一面ガラス張り。ガラスの向こうはテラスになっており、お湯と白い湯気が溢れ出るヒノキの露天風呂があった。長方形の形をしたその露天風呂は、四人ぐらいなら余裕で入れる広さがある。目の前は雪を被った山々がどこまでも続いて、どこまでも美しい。
「すごいですね」
「最高だな」
 お客様、と声が掛かり、俺と龍河先生は部屋に戻る。案内してくれた仲居さんが和室にあるテーブル付近で正座していた。
「お部屋のカギになります。こちらに置いておきますので」
「ありがとうございます」
「今日は晴天ですので、夜は星が綺麗に見えると思いますよ」
「へえ。楽しみですね」
「ああ」
「お夕食は何時になさいますか?六時、六時半、七時、七時半となりますが」
「七時でお願いします」
「かしこまりました。冷蔵庫の中のお飲み物と、テレビ横の棚に入っておりますお茶類などはご自由にお飲み下さい。浴衣とバスタオルは寝室のほうにご用意しております」
「はい、ありがとうございます」
「なにかご不明な点やご用がございましたら、フロント九番までご連絡ください」
「わかりました」
「それではごゆっくりお過ごしください。失礼いたします」
 一礼して仲居さんが部屋から出ていった。
「先生」
「ん?」
「すごい豪華ですね」
「ああ、いい部屋だな」
「先生、ほんとにいいんですか?」
「なにが?」と言いながら座椅子に腰かけ、テーブルに置いてある和菓子に手を伸ばす。「あ、凌、あったかいお茶飲みたい」
「ああ、はい。ちょっと待ってください」
 仲居さんが言っていたテレビ横の棚を覗き、お茶セットを取り出した。
「緑茶と、ほうじ茶と、玄米茶があります。紅茶とコーヒーもありますよ」
「緑茶」
「はい」
 二人分のお茶を淹れて龍河先生の前に湯呑の一つを置く。向かいの座椅子に俺は座り、和菓子の包装を?がしてる龍河先生に声を掛けた。
「先生、代金――」
「しつこい。いいって言ったろ」
「そうですけど」
「俺が凌といたいだけ」
「そういう言い方はずるいです。俺だって先生といたいのに」
 龍河先生は嬉しそうに笑って、包装が取れたどら焼きみたいなのを手で割る。
「のんびり温泉入って、うまいもん食おう」
「……はい。ありがとうございます」
「風呂入るか、さっそく」
「そうですね、せっかくですから満喫します!」
 とは言ったものの、ドキドキが止まらない。将太と裕吾と銭湯行ったときは全然平気だったのに。むしろひゃっほーい!って感じだったのに。ああ、なぜか緊張する。
 龍河先生は口をもぐもぐさせながら寝室に入り、浴衣とバスタオルを手に戻ってきた。
「はい」
「ありがとうございます」
 そのままテラスのほうへ。ガラスの扉を開けると脱衣所があり、その奥にまたガラスの扉がある。その先はもう外だ。
 龍河先生はさっさと服を脱いで引き締まった裸になると、ガラスの扉を開けてテラスに出た。扉が閉まる隙間から「さむっ」と言う声が聞こえて、俺も服を脱いであとに続くと、同じく「さむっ」と声が出た。龍河先生はすでに首まで温泉に浸かり、風呂のふちに頭を預けて目を瞑っている。俺は掛け湯をして、龍河先生の隣に並んで温泉に浸かった。
「うおお、沁みる」
「最高だな」
「はい。お湯の温度もちょうどいいですね」
「うん、気持ちいい」
「昨日からずっと運転しっぱなしで疲れたんじゃないですか?」
「ん?いや、そうでもねえよ」
「ならいいんですけど。でも疲れも吹っ飛びますね、この景色は」
「ああ。美しいな」
 なにも喋らず、しばらく目の前に広がる景色を楽しんだ。夜になったら星が見えるのか。すごく綺麗なんだろうな、と思って小さく笑ってしまった。
「ん?」
「いや、ほんとは恋人同士で来るんだろうなと思って、こういうとこは」
「なんだ、俺じゃ不満か」
「違いますよ」不貞腐れた口調に笑ってしまう。「先生と来れて嬉しいです」
「俺と凌は恋人みたいなもんだろ」
「え?」
「ん?」
「恋人ではないと思いますけど」
「なんで。あんだけ抱き合ってキスしてんじゃん」
 はっ!そろりそろり。ああ、やっぱり。温泉入っててもあの笑顔。
「……あれは、そういうんじゃなくないですか?」
「ふうん。じゃあどういうの?」
「どういうって……」うーん、なんだ?
「俺は凌が愛おしいから抱きしめるし、キスしてる」
 ぼふうううううんっ!
 どうしてそういうことを言うのかな。そう想ってくれてるのは知ってるし嬉しいけど、今そんなこと言われたらすぐにのぼせちゃうじゃないか。ああ、暑い!風よ吹け、俺の顔を冷やしてくれ。
「先生ってずるいですよね」
「なにが」
 ほうらほら、楽しそう。くそっ、自分だけ楽しみやがって。
「そうやってからかって、いじめて、俺を弄んで」
「だって凌が可愛いんだもん」
 出た、だもん。くそっ、やっぱり可愛いじゃないか。でもここで黙っちゃあ男が廃る。
「先生」
「ん?」
「俺がもし、本気で告白したらどうしますか?恋人にしてほしいって言ったら、どうしますか?」
 どうだ!これには困るだろ!へっへ~ん!
 俺の思惑通り、龍河先生は口を閉ざして少しの間俺を見つめると、その視線を目の前の景色に戻した。そして徐に口を開く。
「今はなれねえが、凌が本気でそう想ってくれてんなら時期を見て迎えに行く」
「……え?」
 うん?どういうこと?っていうか、全然困ってないじゃん!っていうか、どういうこと?
「いつになるかわかんねえがな」
「え、ど、どういうことですか。彼女さんと別れたらってことですか?」
「違えよ。つーか、あいつとはもう恋人じゃねえし」
 少々お待ちください。一秒、二秒、三秒、四秒。
「えええええっ!なんでですか!えええええ?」
「俺はこれから音楽に集中する。ゼロからのスタートになるんだ。なりふりかまってらんなくなる」
「え、それで、別れちゃったんですか?だって、十年も一緒にいたのに」
「俺もあいつも、今までお互いの人生を尊重してきたし、お互い自由にやってきた。だが、それでもどっかに恋人っていう縛りが生まれちまうんだよ。その無意識の縛りがあると俺は集中できなくなる。日本を拠点にしてるあいつにとっても、これからはその縛りが負担になる。あいつも忙しいし、負担かけたくねえんだよ」
「でも、え?好きなんですよね?」
「ああ。今でも愛してるし、あいつも俺を愛してくれてる」
「そんなに愛し合ってるのに……じゃあ、彼女さんとももう会えなくなっちゃうんですか?」
「いや、あいつも仕事でよく海外に出るし、俺らが拠点にする国にもよく行ってるから、そんときに会える」
「そっか……でも、なんか切ないって思っちゃうのは、おかしいですか?」
「んー、どうだろうな。俺らはそう思ってねえから」
「そうなんですか……」そこで思い出した。「え、でも、先生んちに彼女さんのものありましたよね?洗面台に」
「ああ、泊まりにくるからな」
「え?」なに言ってんだ?
「恋人じゃなくなっただけで俺らの関係は変わらねえよ。会いたきゃ会いに行くし、会いに来るし、愛しいと想えばキスするし、愛したいと想えばセックスするし」
「え、それを恋人と言うのでは……」
「愛し合ってるだけだ。恋人ではねえ」
「……すいません。俺の頭では追いつけません」
「なんで」
「俺の中では、想い合ってる二人がキスしたりセックスしたりするのは、それはもう恋人同士っていう固定概念が」
「恋人じゃなくても愛し合うことはできるだろ。俺とあいつは恋人っていう縛りを取っ払っただけだ。だが、愛してるから愛し合う」
「先生の言ってることはわからなくはないんですが、俺はまだその境地に達せてません」
「ああ、そういうことか」と合点のいった顔になる。「俺かあいつ、どちらかに恋人がいたらそんなことはしねえよ」
 なんか勝手に理解して、またよくわかんないことを言い出した。
「はい?」
「あいつのことを愛する気持ちはこの先も変わらねえが、もしどちらかに恋人ができたら愛し合うことはねえってこと」
「……なるほど」
 なるほど?なにがなるほど?うん?
 ……あれ?なんか大事なこと忘れてないか?
 ……え?
「先生」
「ん?」
「さっきの、迎えに行くってどういうことですか?」
「そのまんまの意味だよ。俺らはこれからがむしゃらに突っ走る。音楽のことしか考えらんねえから、今は恋人にはなれねえ。だが、俺らが目指す最初の場所に辿りついたとき、そんときもまだ凌が本気でそう想ってくれてんなら、俺は凌を迎えに行く」
 え?え?
 ちょっと待って。それって、俺の未来に先生がいるかもしれないってこと?先生の隣にいる未来もあるってこと?
 なにをどう言葉にすればいいのかわからず、俺は龍河先生をじっと見つめてしまう。龍河先生が首を傾げた。ごくりと喉が動く。
「そんなこと言ったら、俺、本気で望んじゃいますよ?」
「ああ、構わねえよ」
「でも、彼女さんがまた恋人になることはないんですか?」
「……どうだろうな」そう言って口を噤み、わずかに言い淀む。「だが、凌が俺を待っててくれんなら、いつになるかわかんねえが、それでも俺を待っててくれんなら、凌が本気で望んでるなら、俺は迷わず凌を求める」
 本当にふわふわする。龍河先生が思い描く未来に俺はいないと思ってた。想いがあるだけで、俺は存在しないと思ってた。
 でもちゃんとわかってるんだ。そんなことにはならないって。だって俺が彼女さん以上の存在になれるわけがない。ふわふわしてるけどちゃんとわかってる。それでも先生がそう言ってくれたことが嬉しくて、今は夢を見て、そんな未来に浸りたい。最後なんだからそんくらいいいだろ。
 風に揺れる木々を眺め、俺はお湯を押しのけて外側のふちに移動した。お湯で顔を濡らして両腕をふちに乗せる。顔を濡らす水滴は風に吹かれて乾いたけど、瞳を濡らしたものはわずかに残った。
「凌」
「はい」
「なんで離れんの」
「もっと近くで景色を見たいなと思って」
「ふうん」
 ちゃぽんと音がして、お湯の波が身体にぶつかる。肩が触れ合うぐらい近くに龍河先生が寄ってきて、俺と同じように風呂のふちに両腕を乗せると、そこに頭を預けて下から俺を覗き込んだ。右手を伸ばし、俺の目尻を親指で拭う。
「ただの冗談だった?」
「いえ、冗談ではないです。先生を困らせたいなと思って言ったのはたしかですけど、たぶん、本気です」
「たぶん?」
「自分でもまだよくわかりません。先生のそばにいたいのも、先生が愛おしいのも、先生を愛してるのも、全部本気です。でも恋人になりたいのかってなると、よくわかりません。この想いがなんなのかよくわからないんです。恋のようでもあり、恋以上のなにかのようでもあり――」
 なぜか笑みが零れた。
「先生への想いが強すぎて、よくわからないんです。でも、すごく嬉しいんです。先生が迎えに行くって言ってくれたことも、先生の恋人になれる未来があることも、先生の未来に俺がいたことも」
 どこかで鳥が鳴いて、風が吹いた。
「凌」
「はい」
 横を向くと、龍河先生は頬杖つきながら俺を見つめていた。少しの間見つめ合い、言葉を零す。
「愛してる」
「俺もです」
 柔らかく微笑んで、右手が添えられた。
「今はそれだけでいい」
「はい」
 俺も微笑み返すと、途端に笑顔が変わった。勝ち目のないあの笑顔。
 え、なんで?ここで登場っておかしくない?そんな雰囲気じゃなかったよね?すごくいい雰囲気だったよね?え、なんで?おかしくない?
「……なんですか」
「フラれちまったなあと思って」
「どこがですか。フラれたのむしろ俺じゃないですか。今はなれないって言われたの俺ですよ」
「ん?じゃあ恋人になるか?俺が日本出るまで」
「え?いや、それはちょっと」
「ほら、フラれた」
「そうじゃなくて、そんなちょっとだけの間なんて寂しいじゃないですか」
「一ヶ月半ぐらいはある」
「短いですよ」
「ふうん。凌はそんなに俺と一緒にいたいのか」
 くそっ、腹立つ。腹立つけど可愛いんだよこんちくしょう!
「何度も答えてることを何度も訊かないでください。あんまりしつこいと嫌われますよ」
「俺のこと嫌いになんの?」
「はい。あんまりからかうなら嫌いになります」
 その言葉に不安げな表情を浮かべた龍河先生は、風呂のふちに置いた腕に頬を乗せて俺を見上げた。
 え、なに。その可愛いやつ。やめてよ、たまらないじゃん。抱きしめたくなるじゃん。その顔は反則だってば。
 なんてきゅんきゅんしてると、龍河先生は顔を反対に向けて右の頬を下にしてしまった。
 え、拗ねた?怒った?え、なに。可愛すぎるじゃん。ちょっとやめてよ。
「先生?」肩をつんつんしてみる。
「ん?」不貞腐れた声。
「冗談ですよ。嫌いになんてなりません」
「……」
「先生、こっち向いてください」
「……」
 こりゃ困った。すうっと龍河先生の左側に移動して顔を覗き込むようにすると、龍河先生は俺にちらっと視線を合わせたかと思えば、すぐに視線を下げてしまった。
 やばい、これはマジ拗ねだ。どうしよう。よく考えろ。好きな子が拗ねたらいつもどうしてる?相手が先生だと思うな、付き合ってる子だと思え。さあ、どうする俺。
 少し考えて、少し身を乗り出した。
 うなじにキス。龍河先生の視線が上がる。耳元にキス。龍河先生の頬が微かに緩む。肩に頭を預けて訊く。
「怒りました?」
「怒ってねえよ」
「冗談でも言い過ぎました。すいません」
「もう言うな。嫌いになるなんて、もう言わないでくれ」
 その声があまりにも切実だったから俺は肩から頭を上げ、視線を合わせるために顔を傾けた。
「はい、言いません。もう二度と言いません」
 もう一度耳元にキスをする。そのまま、いつも龍河先生がそうしてくれるように、唇を寄せたまま囁いた。
「大好きです」
 安堵した表情を見せる龍河先生にほっとして、幸せな気持ちのまま空を見上げた。少しずつ夕暮れが近づいている。
「なあ凌」
「はい」
「今日ここに泊まんねえか?」
「ええ?」場の雰囲気をぶち壊すような声が出てしまった。
「やだ?」
「やだっていうか、先生明日学校じゃないですか」
「いいよべつに。明日授業ねえし、行ってもやることねえし」
「休んで大丈夫なんですか?」
「うん」
「校長パワー炸裂ですね」
「凌は明日なんかあんの?」
「ないですけど」
「帰んなきゃ叱られる?」
「連絡すれば大丈夫です」
「じゃあ泊まろ」
「……」
 どう答えたもんだろうか。先生とは一緒にいたいから心は即イエス!なんだけど、泊まるってなったらまた金かかるよな?絶対俺には払わせないよな?っていうか、俺の所持金じゃ絶対足りないし。日帰りであんだけ取るんだから、泊まるってなったらいくらになんだよ。皿洗いでもして自分の分だけでもまけてもらうか?いやいやいや、そんな昔話みたいなことできるわけないだろ。いつの時代だよ。ここは心を鬼にして断るべきだよな……ううううう、でも一緒にいたい。いや、いかんいかん!鬼になれ!風丘凌!
「余計なこと考えてんだろ」
「はっ!なぜ!」エスパー!
「俺が凌と一緒にいたいんだよ。ギリギリまで一緒にいたい」
 どふわばああああああんっ!
 甘えん坊全開じゃないか!くっそおお!俺だってそうだよ!一緒にいたいよ!ダメだあああ!鬼になれない!
「……俺も、一緒にいたいです」
「決まりだな」顔を上げて立ち上がる。「フロントに訊いてくる」
「え、あ、俺も上がります」
「のぼせねえなら入ってていいよ。電話したら戻ってくる」
「じゃあここにいます」
 のぼせないよう風呂のふちに尻を乗せて、火照った身体の熱を逃がす。冷たい風が気持ちいい。
 少しして龍河先生が戻ってきた。俺と同じように風呂のふちに尻を置く。
「大丈夫でした?」
「ああ、どうぞごゆっくりって言われた」
「この旅館の策略なんでしょうか。だってこんなん絶対泊まりたくなるじゃないですか」
「だろうな」
「うまいこと考えましたね。まんまとハマってますけど」
 返事がない。気になって横を見れば、龍河先生は広がる自然を眺めていた。その横顔は相も変わらず美しい。ぽうっと見惚れていると、龍河先生がゆっくり口を開いた。
「俺はハマってねえよ。ここじゃなくたって、俺は凌と一緒にいたいって思う」
 嬉しいはずなのに、どこか悲しい。寂しい。
「……なんか、この二日間、すごく愛情を貰ってます。最後だからですか?」
 でこぴんされた。
「いてっ」
「ただ伝えたいだけだ。伝えたいときに伝えなきゃ後悔するだろ。凌に伝えたい想いはすげえある。それともいらねえ?」
「いります」
「だったら全部、受け取ってくれ」
「はい」
 それから三十分ぐらい露天風呂を満喫し、浴衣に着替えて和室に戻った。
 そう、浴衣。それは魔性の衣。
 くわあっ!たまんない!くわあっ!かっこいい!どうしてくれんだこんちくしょう!ああ、この一年で何回かっこいいって思ったんだろう。来世の分まで思ってる気がするわ。
 そのたまらなくかっこいい龍河先生はソファに寝っ転がってる。
「先生、水飲みますか?」
「飲む」
 身体を起こして、ソファの上で胡坐をかいた龍河先生にペットボトルを手渡し、俺はその隣に座った。水をごくごく飲むと、龍河先生はまた寝っ転がる。俺の膝に頭を乗せて。驚いたけど、笑ってしまう。
「ん?」
「いえ、なんでもないです」
「なんだよ」
「可愛いなあと思って。昨日からいつも以上に甘えてくれるんで」
「俺は好きな子には甘えたくなんの。まだまだ甘え足りねえが」
 俺を見上げる龍河先生の瞳になにかを期待するような色が見えるけど、見えないことにする。なぜなら、嫌な予感しかしないから。なぜなら、俺の心臓が跡形もなく弾け飛んじゃうから!
「凌」
「はい」
「甘え足りねえ」
「……嫌です」
「なんで」
 これはちゃんと言うべきだな、うん。
「あのですね、何度も言いますけど、俺は先生のことが大好きなんです。だいぶ慣れたとはいえ、今でも先生のそばにいるだけでドキドキするんです。この一年間先生にドキドキされっぱなしで、俺の心臓は大変なことになってるんです。甘えてくれるのは嬉しいんですけど、これ以上甘えられると俺がおかしくなります」
 え、なんであの笑顔?
 ……ああああああっ!そりゃそうだ……俺はバカか!
「ふうん」
「先生、嫌いにはならないですけど、からかうなら怒りますよ」
「甘えんのはからいじゃねえだろ」
「う……たしかに」
「凌、甘え足りねえ」
「……なにしてほしいですか」
 あの笑みをただの笑みに変え、軽く右手を持ち上げる。
「手握って」
 その甘えに拍子抜けしながら、俺は持ち上げられた手を握った。龍河先生はその手をそのまま胸に落として目を瞑る。
「先生、眠るならベッドのほうが」
「眠らねえよ。ほっとするんだ、こうしてると。幸せな気分になる」
「はい、俺もです」
 いつかの日と同じように、俺は自然と龍河先生の髪を撫でていた。愛おしい気持ちが溢れてくる。龍河先生が言っていた、「愛しいと想えばキスをする」という気持ちが今ならわかる。
 たまらなく、愛おしい。
 身体を折り、龍河先生の唇にそっと触れた。龍河先生の瞼が持ち上がってその瞳が俺を見る。
「もう一回」
 もう一度触れ合わせて身体を起こす。目を瞑った龍河先生は幸せそうに微笑んでいた。
 夕飯時間の七時になると部屋に仲居さんがやってきた。先付からデザートまでが運び込まれて、鍋に火をつけると仲居さんは丁寧に一礼して部屋から出ていった。泊まることになったから龍河先生はビールを飲んでる。俺はウーロン茶。どれもこれも見事なもんで、肉はサシが入ってて焼く前からうまそうだし、お造りは綺麗に盛り付けられてて豪華だし、小鉢はどれも手が込んでるし、とにかく全部うまそうで、あの金額にも納得するしかなかった。
 少し早めの昼飯から、ちょびっと和菓子をつまんだぐらいでなにも食ってなかった俺らは、「うまっ」「うまい」と言いながら笑いながら、テーブルいっぱいに広がった皿を平らげていった。さすがは老舗旅館、ちょうどいい頃合いに仲居さんは部屋にやって来て、「お食事はいかがでしたか」なんて言いながら空になった皿を片付けて、「ごゆっくりお休みください」と一礼してあっという間にいなくなった。ちゃんと気遣いをしつつ無駄な干渉はしない。夕飯同様、接客も素晴らしい。
 腹を少し休めたあと、また露天風呂に入った。仲居さんが言っていた通り満天の星空が広がっていて、俺も龍河先生も言葉を失くし、きらきら瞬く光を静かに見上げていた。身体を休めながら、手のひらがしわしわになるまで温泉に浸かり、ぽかぽかになって部屋に戻ったのが十時半頃。水を飲み、火照った身体を少し休ませ、歯を磨いて十一時過ぎ。なぜか俺は歯を磨くと寝る気分になってしまう。
「先生はまだ起きてますか?」
「ん?寝る?」
「なんか、歯磨くと寝なきゃって気分になるんです」
「わからなくはねえな」
「先にベッド入っちゃいますけど、気にしないでのんびりしててください」
「凌が寝るなら俺も寝る」
 そう言ってソファから立ち上がり、龍河先生も寝室へやってくる。俺はベッドの端に尻を乗せてぼわんぼわん跳ねていた。
「すごいふかふかです。なんですかこれは」
「可愛いことしてんな」
「だってすごいんですもん」ぼわんぼわんしながら気付く。「あ、ベッドそっち側でよかったですか?」
「凌と一緒がいい」
「え?」そんな可愛く言わないで。
「凌と一緒に寝る」
「いや、ベッド二つありますし」広いから二人でも寝れるけど。
「やだ?」
 それずるい。何度もあったけど、「やだ?」は断れない。まあ、嫌じゃないんだけど。
「やじゃないです。ちょっと恥ずかしいだけで」
 嬉しそうに笑うと、龍河先生はさっさとベッドに入って横になった。おずおずと俺もその隣に並ぶ。うお、ふかふかだ。
「凌、こっち向いて」
 もぞもぞ動いて素直に向き合う。するとやっぱり、というか期待していた俺もいるが、龍河先生は右腕を俺の腰に回して脚と脚を絡めた。少しだけ首を伸ばすと、俺の額に唇を押し当てながら大きく息を吸い込み、安堵するように息を吐き出した。
「しんどくなったら体勢変えていいから」
「はい、先生も」
「俺はこれがいい」
 顎を少し持ち上げれば、すぐそこに龍河先生の瞳がある。こんなに近くに龍河先生がいて、ましてや抱きしめられている。なんだか不思議だ。
 そんなつもりはなかったのに、口元を緩めていたらしい。
「どうした?」
「え?」
「笑ってる」
「え、笑ってました?」
「なに考えてた?」
「いや、なんか、不思議だなと思って。一年前先生と出会って、あのときは先生とこんな風に、一つのベッドで一緒に眠ることになるなんて思ってもなかったから。でも今思えば、先生を始業式で見たときから俺は先生に惹かれてたんです。はじめての授業でさらに惹かれて、先生との距離が少しずつ縮まってさらに惹かれて、気付いたら俺は先生でいっぱいになってました。たった一年なのに、すごいなあと思って」
「ずかずか俺のテリトリーに入ってきたからな、凌は」
「ええ?ずかずかって……」
「土足でを足したほうがいいか」
「なんですか、そのデリカシーがないみたいな言い方は」
「冗談だよ。凌ははじめからいた」
「はじめから?」
「一番最初の授業んとき、なぜか凌が目に留まった。それから少しして凌が授業で質問してきて、そんとき、はじめて凌と目を合わせたとき、なぜか目が離せなくなった。視聴覚室で凌と偶然出くわして、凌と過ごす時間が増えていって、いつの間にか、凌のことばかり考えるようになってた。どうして最初の授業で凌のことが目に留まったのか、あんときはわかんなかったが、今ならわかる」
「……なんでだったんですか?」
「かけがえのない存在。俺のための存在。なによりも大切な存在。誰よりも愛する存在。だから自然と心が反応したんだ」
 喉が熱い。何度も押し戻し、あえておどけるように明るく言った。
「すごいですね、俺」
 龍河先生が可笑しそうに笑う。
「ああ、凌はすげえよ。だから手放したくねえ」
「でも手放しちゃうんですね」
「……」
「すいません。今のはよくないですね」
「いや、その通りだからな。俺の身勝手だ」
「違います」咄嗟に顔が上がった。「それだけは違います。先生はもっと前に進むために、夢を叶えるために、なりたい自分になるために、ずっと大切にしてきたものを手放すんです。それはすごく苦しくて、すごく勇気がいることのはずです。そうしなきゃならないぐらいの道を歩もうとしてる先生を、音楽と真っ向から向き合おうとしてる先生を、俺は身勝手だなんて思わない。強くて、優しいと思う」
 俺をじっと見つめていた視線が下がり、ふううっと長く息が吐き出される。
「泊まんじゃなかったな」
「え?」
「マジで離れたくねえ」苦しそうな声で言うと、ぎゅうううっと、これまでで一番強く抱きしめられる。「悪い。困るよな、こんなこと言われても」
 俺も腕を回す。
「困りませんよ。離れてしまっても、そう想ってくれてるって知ってれば、俺は幸せです。それだけで十分です。これ以上の幸せを望んだからバチがあたりそうです」
 伝わるように笑って見せる。龍河先生は少しだけ泣き出しそうな表情になって目を伏せ、視線を上げて俺の頬に手を添えた。
「凌」と俺の名前を呼ぶと、龍河先生は俺の顎を持ち上げてキスをした。いつものキスじゃなく、愛しい想いをぶつけるようなキス。俺は戸惑いながらもそれを受け入れて、気付けばそのキスに夢中になって、龍河先生はさらにキスを深くする。いつの間にか俺に覆い被さるような体勢になっていた。
 唇が離れて、熱を帯びた瞳に見つめられて、掠れた甘い声が耳に届く。
「凌を愛したい」
「……でも、俺、どうしたらいいか」
「俺にすべてを委ねればいい」
「……」
「凌が嫌ならしねえよ。キスで我慢する」
「……」
「嫌か?」
「……先生なら、嫌じゃないです」
 優しく微笑んで、また深くキスをする。耳元に、首筋に、柔らかいキスが降り、浴衣の帯がほどかれる。全身が痺れるような感覚に襲われ、触れられた場所が熱くなる。熱を帯びた二人の身体は重なって、一つになった。
 怖いとは思わなかった。すべてが優しくて、あたたかい。二人の想いを確かめ合うように何度も愛し合い、今まで感じたことのない幸せが何度も俺らを包み込んだ。
 俺は龍河先生の腕の中、龍河先生は俺の腕の中。ベッドに入ったときと同じように向き合って横になっている。龍河先生は愛おしそうに、俺の髪を撫でてくれる。
「凌」
「はい」
「俺の恋人になりたいかどうか、まだわかんねえか?」
「……なりたいです。先生の隣にいたいです。隣にいてほしいです」
 俺を見つめる目が優しい。目元にキスを落とす。
「いつになるかはマジでわかんねえが、必ず迎えに行く」
「はい」
「ただ、俺に縛られる必要はねえから」
「え?」
「凌はモテんだろ?」いじけたように言うのが可愛い。
「モテませんってば」だから笑ってしまう。
 龍河先生はわずかに口元を緩めたあと、真剣な眼差しに戻って続けた。
「俺が迎えに行くと約束したからって、俺に気を遣う必要はねえ。愛する人ができたなら、その人と愛し合ったっていい。俺よりも大切に想える人が現れたなら、そんときはその人を大切にしろ」
「そんな人現れませんよ。先生以上に想える人なんていません。こんな気持ちになれるのは先生だけです。わかるんです、なんとなく」
 髪を撫でていた手が頬に下がり、指で優しく撫でてくれる。それだけで俺を想う気持ちが伝わってきて、幸せに満たされて、俺はその手に頬を摺り寄せた。
「凌」
「はい」
「愛してる、誰よりも」
「先生」
「ん?」
「愛してます、誰よりも」
 見惚れてしまう微笑みが近づいて唇が重なる。それは深く深く重なり、また求め合う。一度溢れた想いは止まらなくて、また何度もお互いの熱を感じ合った。

 今日も朝起きてびっくり。
 アラームが鳴っても起きない龍河先生は、すやすやと俺の隣で眠ってる。昨日の朝と同じように、俺の腰に腕を回して眠ってる。しかし違うことが一つだけ。そう、俺も龍河先生も裸ん坊。昨日のあんなことやそんなことを思い出して、もう顔から火が吹きそう。
 俺、先生と……。
 ぐわあああああっ!マジかあ!嬉しいけど、嬉しいけど、ぐわあああああっ!マジかあ!
 ああ、先生が起きたらどんな顔すればいいんだ?恥ずかしくて見れないよ。もじもじしちゃうよ。
 なんて脳内で悶えてるうちに、目の前にいる愛しくてたまらない人が目を覚ました。ゆっくりと瞼が上がって俺と目が合うと、ほっとしたような笑みを浮かべて抱きついてきた。
「凌がいる」
 どふわばああああああんっ!
 やばい、朝から可愛すぎる。心臓が、心臓が抉られる。甘えからはじまるなんて、ずるいよ先生。
「はい、いますよちゃんと」
「うん」
 半分眠ってるような声も可愛い。ああ、もうダメだ。好きすぎる。
「先生、そろそろ起きないと」
「んん、もう少し」
「朝風呂入るんじゃないんですか?」
「うん、入る」
「じゃあ起きましょ?」
「ぎゅってして。そしたら起きる」
 どふわばああああああんっ!
 やばい、マジで可愛すぎる。なんだこれは、拷問か?理性をぶっ壊すための拷問だな?そうだよな?
 リクエストにお応えしてぎゅうううううって抱きしめる。理性がぶっ壊れた俺は、勢い余ってキスもしちゃう。
「はい、起きましょ?」
「もう一回」
 も~~しょうがないなあ!まったく、可愛いんだから!
 リクエストにもう一度お応えしてぎゅうううううって抱きしめる。
「はい、もう起きましょ?」
「キスは?」
 どふわばああああああんっ!
 やばい、もろくそ可愛いすぎる。いつもより甘えられてるぞ。たまらんぞ。好きが止まらんぞこんちくしょう!
 リクエストに再度お応えしてちゅってする。
「もう起きましょ。身体べとべとですよ」
「ふうん。なんで」
 はっ!みるみるうちにあの笑顔。やっちまった!
「……寝汗を」
「それだけ?」
 両腕を突っ張って身体を引き剥がす。
「うるさいな。風呂入る前に歯磨いてきます」
 ベッドから出ようとする腕を掴まれ引き倒されて、今度は後ろから抱きしめられた。首筋にキスをして甘えるように囁く。
「凌は俺のもん」
 首を捻って龍河先生と目を合わせる。
「そうですよ。これからもずっと」
 そのまま口づけされ、熱を持ちはじめた唇に慌てて身を引いた。
「先生!」
「ん?」物足りなさそうな顔で首を傾げる。
「風呂!入りますよ!」
「風呂でする?」
「な!にを、言ってるんですか。しませんよ」
「なんで」
「なんでって」明るくて恥ずかしいじゃないですか。
「気持ちよくなかった?」
 そういうことを今訊くんですか?朝っぱらから初夜のことを……。
「……気持ちよかったです。すごく」
「俺も」
「それは、よかったです。でも、とりあえず、一旦ベッドから出ましょう」
 さささっとベッドから抜け出し、床に落ちてる売店で買ったパンツを履く。ちなみに龍河先生と色違いのお揃いパンツ。ぐふふ。
 洗面所で歯を磨いてると龍河先生もやってきて、当たり前のように俺を後ろからぎゅってする。そのまま歯を磨く龍河先生。ほんとに甘えん坊だな、と俺は笑いを噛み殺した。
 朝日に光る木々を眺めながら温泉を味わい、身体も心もさっぱりして気分爽快。風呂から上がってほっとひと息ついてると、仲居さんが朝飯を運んできてくれた。「ゆっくりお休みになれましたか」と訊かれ、あんなことやそんなことをまた思い出してしまった俺は、しばらく龍河先生を直視できなかった。
 朝飯を食い終わったのが九時前。チェックアウトは十一時だというからだいぶのんびりできそうだ。
 朝のニュースを見ながら龍河先生とソファで寛いでいると、またまた甘えるように龍河先生が俺に寄りかかってきた。
「先生って、くっつくの好きですね」
「そりゃそうだろ、好きなんだから。凌はあんまりくっついてこねえな」
「そんなことないですよ。好きな人と二人になれば触れていたいって思いますよ」
「俺には触れてこねえじゃん」
「いや、なんか、まだ照れがありまして。ほんとはすごい触れたいし、くっついてたいんですけど、躊躇いが……」
「凌に触れられたら嬉しいよ」
「それはわかってるんですけど、なんて言うか、好きすぎて、触れたら止まらなくなりそうで」
「止める必要ねえだろ」
 ちらっと見る。触れたい。今だってすごく触れたい。昨日のあんなことやそんなことで、ずっと抱えていた感情を食い止めてたもんがぶち壊されてる。
 自分の想いがなんなのか、正直言えばまだわからない。今まで誰にも抱いたことのない、大きくて深い想いがここにある。俺は先生に恋してる、俺は先生を愛してる。そんなことはもうわかってる。でも、もっともっと深い想いなんだ。だから俺は自分の想いがなんなのか、ずっとわからない。
 あのとき、先生に「嫌か?」と訊かれたとき、愛されたいと心から願った。叶わぬことだと分かっていても、先生の恋人になりたいと心から願った。あの瞬間、その想いだけはちゃんと知ることができた。
 だからもう、触れたくて仕方がない。触れられたくて仕方がない。
 でもそうだよな、我慢する必要はないんだよな。それに、今日が一緒にいられる最後の日だ。
 身体を捩って口づける。心臓が暴れて、鼓動が耳に響く。
「じゃあ、我慢しません」もう一度口づけ。「キスしたいです」
 唇が塞がれる。どこまでも深く繋がろうと、どんどん熱が生まれる。ようやく唇が離れ、今度は熱っぽい瞳に捕まった。
「キスだけじゃ足りねえ」
「はい」
 手を引かれてベッドに移動する。昨日よりも濃厚に重なり合い、昨日よりも深く求め合い、昨日よりも熱く感じ合う。
 幸せが身体を貫くたびに、龍河先生が少しずつ遠のいていく感覚に襲われる。心は満たされているはずなのに俺は泣いていた。そんな俺の頬を両手で包んで、涙を拭ってくれる。
「凌、泣くな」
「はい」
「必ず凌を迎えに行く」
「はい」
「どこにいても凌を想ってる」
「はい」
「凌、愛してる」
「俺も、愛してます」
 昨日から何度目になるのかわからない。それでもまだ足りないと感じてしまう。もっと欲しい。ずっと欲しい。永遠に愛してほしい。
 縋るように、貪るように、愛し合う。時間が許す限り、何度も何度も。温もりを忘れないように、沁み込ませるように、未来を夢見るように。
 チェックアウト三十分前に俺と龍河先生はもう一度温泉に浸かり、十一時ぴったりにチェックアウトした。仲居さんたちに笑顔で見送られて、車に乗り込む。
「どうする?」
「一ヶ所行きたいとこがあるんですけど」
「どこ?」
「さっき調べたら近くに神社があるみたいで、そこに行きたいです」
「道案内して」
「はい」と答えた俺を龍河先生がじっと見つめる。
 え、どうしたの?なんかついてる?あんなことやそんなことしても、いや、したからこそ見つめられると照れるんだって。だからあんまり見ないで。
「どうしたんですか?」
「今日が終わるまで一緒にいられる?」
「はい、もちろん」
 嬉しそうに頬を緩め、エンジンを掛ける。
 ちょっと、それを訊きたかったの?だから見つめてたの?なんでそんなに可愛いことすんの?ああ、止まらない!愛しさが止まらない!
 それにしても、先生はほんとに愛情深い。太一さんが言ってたように、ほんとにとことん愛してくれる。愛してることをすべてで伝えてくれる。先生の恋人になれたらすごく幸せだろうなって、心底思う。
 先生の言葉も想いも信じてる。でもやっぱり俺にとってそれは夢物語だ。俺はこの先先生のそばにはいられない。音楽の道を貫こうと突き進む先生を、ほんとの意味でそばで支えられるのは俺じゃない。先生が求めるのはきっと、彼女さんだ。
 でもそれでいいと思う。俺は先生を愛してる。先生が俺にコインを贈ってくれたように、俺も先生の幸せを心から願ってる。それでいい。どこかで俺を想ってくれてるなら、それでいい。そう、それでいいんだ。
「凌?」
「はっ!」
「なに考えてんの」
「え?なにも」
「嘘は嫌い」
「いや、ちょっと、未来のことを。明日卒業式だと思ったら、なんかいろいろ考えちゃいました」
「今は俺のことだけにして」
「はい」
 あなたのことしか考えてませんでした!とは言えない。俺が考えてたことを伝えたら、龍河先生をほんとに困らせてしまうから。
 俺の頼りないナビで車は目的地に着いた。大きな神社ではないがこの辺では有名な神社のようで、観光客にも人気のようだ。駐車場に車を停め、鳥居をくぐって短い参道を歩く。
「縁結びにご利益があるみたいですよ」
 なにか言いたげな視線が注がれる。いじけるような、寂しそうな。
「あ、違いますよ。俺じゃないです。裕吾にお守りを渡したくて。旅先でいろんな人と縁が持てるように」
「ふうん」とほっと笑顔になる。可愛くて嬉しくて俺も笑顔になった。
 手水で清めてから、授与所でお守りを選ぶ。交通安全とか縁結びとかいろいろ種類があったけど、『御守』にした。なによりも裕吾を守って欲しかったからこれにした。
 参拝するために龍河先生と二人で神前へと進み、目を瞑り、心を込めて願う。目を開くと、ちょうど龍河先生も顔を上げたところだった。
 また短い参道を歩いて駐車場に戻る。滞在時間は十分もなかったが、俺としては大満足。車に乗ってシートベルトを締めると、自然と安堵の息が漏れた。
「これで安心です。裕吾はでっかくなって帰ってくるし、先生はこれから病気には罹らないし怪我もしません」
「ん?」
「先生たちの音楽が世界の人を魅了することは俺が願わなくたって実現するんで、先生の健康を願いました。なにするにも健康第一ですから」
 嬉しさ半分、困惑半分、てな顔で龍河先生はこめかみを掻く。
「なんですか?おかしいですか?健康は大切ですよ?」
 龍河先生は声を上げて笑うと、俺の頬に手を伸ばして愛でるように触れた。
「違えよ、可愛すぎてやべえなと思って」
 どこが、と俺が言う前に龍河先生は身を乗り出してちゅってする。
 顔が熱い。不意打ちはよくないです。心の準備をさせてください。
「なんか、あれですね。もうほんとに我慢しないんですね」
「凌は俺のもんだろ?」
 ぞわぞわと動き出す。握り潰した欲が指の隙間から這い出てきて、訊いちゃいけないと止める心に群がってくる。
「……先生、訊いてもいいですか」
「ん?」
「俺がほかの人とセックスしたら、その、やきもちっていうか、そういうの感じるんですか?」
 一瞬にして不機嫌な顔になる。
「当たり前だろ。なんでそんなこと訊くの?」
「あの、違うんです。すいません」まずいまずい、なに言ってんだ俺は。もうこれ以上訊くな。「いや、ほら、昨日言ってたじゃないですか。縛られなくていいって。だから、俺がほかの人とそういう関係になっても気にならないのかなと思って」
「それとこれとは別だろ。いつになるかわかんねえのにずっと一人で待ってろなんて、そんな俺のわがまま言えるわけねえだろ。忘れて欲しくはねえが、凌には凌の想いがある。凌は昨日、俺以上に想える人はいねえって言ってくれたが、離れてる間に、俺が迎えに行くまでに、俺以上に想う人と出会うかもしれねえ。昨日も伝えたが、もしそういう人と出会ったなら、想いのままその人を大切にしてほしい。俺はそれを祝福する」
 それは、俺にもそうしろってことだよな。そういうことだよな。
 ずっとこれは夢だって思うようにして、ついさっきも「それでいい」なんて思ってたのに、俺って奴は情けないほどコロコロ気持ちが変わる。違うな、自分を傷つけないために本心を隠してるだけだ。好きな人のそばにいたいって想うのは当たり前じゃないか。夢だと思って、「それでいい」なんていう綺麗事で済むわけがない。
 だからってこの想いを先生に伝えていいのだろうか。先生の幸せを心から願ってるのに、余計なことを言って縛り付けたくない。先生が「俺に縛られなくていい」って言ってるのは、俺の幸せを願ってるからだ。
 そう、先生の幸せを願うなら、「それでいい」んだ。
「凌?」
 唾と一緒に呑み下す。本心が見えないように、笑顔を貼り付けた。
「すいません。ちゃんとやきもち妬いてくれるならいいんです。なんも気になんないなら寂しいなって思っただけなんで」
「凌、思ってることがあんなら言って」
「なんもないですよ」笑って誤魔化す。「まあ、あるとすれば、先生ほど好きにはならなくても、誰かを好きになることはあるのかなあって。そしたらお付き合いしてみるのもありかなあって思っちゃいました」
「ほんとにそれだけか?」
「はい、それだけですよ」
「なんか言いたいことがあんじゃねえの?」
「ないですよ」
 探るように俺を見る。
「凌」
「はい」
「俺はこれから凌にしんどい思いをさせることになる。どんくらいかわかんねえが、俺と凌は離れ離れになる。隣にいてやれないからこそ、今凌が抱えてるもんはちゃんと俺がなくしてやりたい。だからちゃんと言って。なにを不安に思ってんのか、なにが怖いのか」
 揺れる。伝えてしまいたい。でも伝えてしまったら――。
 もう一度笑顔を貼り付けた。うまく笑えたかはわからない。
「なんもないですよ。ほんとにさっき言ったことだけです」
「凌――」
「ほんとに大丈夫ですって」
「嘘は嫌いだっつったよな?」
「嘘なんてついてません」
 釈然としない様子で俺を見つめていた龍河先生は視線を逸らすと、落胆と苛立ちを滲ませたため息を吐き出し、なにも言わずに車を発進させた。
 帰路の約二時間、無言だった。俺は窓の外を眺めながら内心焦りまくり。
 どうしよう。マジで怒らせた。
 先生なら俺がなんか考えてることなんてお見通しに決まってる。それに冷静に考えれば、俺は勝手に先生の想いを決めつけてる。それって、先生が一番嫌いなやつ。
 でもどうすりゃいいんだよ。決めつけてるかもしんないけど、どうしたって考えちゃうよ。先生は俺のために縛られなくていいって言ってくれてんのに、この想いを伝えてしまったら、俺は自分の欲を叶えるために先生を縛り付けることになる。先生が彼女さんを必要としたとき、自分にとって本当に大切な存在が彼女さんだって気付いたとき、先生は俺の想いに苦しむことになる。そんな想いさせたくないんだ。先生には幸せになってもらいたいんだ。どうすりゃいいんだよ。
 こんなに気まずい空気ははじめてだ。最後だってのに、最後の最後でこんなん最悪だ。余計なこと考えた俺が悪いけど、こんな最後は絶対にやだ。でも、じゃあどうすれば――。
 前の車がスピードを落とし、龍河先生の車もゆっくりと止まった。
「帰るか?」
 二時間ぶりに聞こえた言葉がそれだった。まだ二時前。今日が終わるまで一緒にいられるはずなのに、そんなことを訊く。
「え?」
「帰るなら次で下りる」
 どうしてそんな。泣きそうだ。
「……帰りたくないです」
「あそう」
 素っ気ない口調。マジで泣く。喉が熱い。もうダメだ、こんなのやだ。
 でも言えない。それともこのままのほうが先生のためなのかな。最後の最後で険悪になって、そうすればきっと、先生は俺を置いていく。俺という約束がなくなったほうが先生のためになるなら、このままでも――。
 焦りすぎて、自分でもどうしたらいいのか、どうしたいのかわかんなくなって、一番よくない思考回路になっていた。間違ってるってわかってるのに、その思考回路のまま言ってしまった。
「帰ったほうがいいなら、帰ります。そのほうがいいのかも」
 もう遅い。言ってしまったことは取り消せない。案の定、怒ってるようにしか聞こえない声が車内に響く。
「マジで言ってんの?」
 さっきまであんなに幸せだったのに。俺の身勝手な願いがすべてをぶち壊してしまった。ただ、愛する人と一緒にいたいという願いなのに。
 龍河先生の顔が見れない。だから前を見る。少しでも視線を動かせば俺は崩壊する。
 大きなため息が聞こえた。投げ出すような、疲れたような、諦めたような。
 車が流れ出して、車が進む。スピードに乗って走り出した車は龍河先生が口にした出口を通り過ぎ、次の出口で下りた。一度見ている街並みを抜けて辿り着いたのは、龍河先生が住むマンション。龍河先生が運転席から降り、俺も助手席から降り、少し後ろを歩いてついていく。部屋のドアが開けられ、龍河先生はさっさと中に入っていった。今はもう後悔しかない。重い足取りで廊下を進み部屋に入ると、龍河先生は前屈みになってソファに座り、右手で額を押さえていた。顔を上げて俺を見る。
「来い」
「はい」
 上着を床に置いて、少し離れてソファに座る。龍河先生は前屈みの姿勢のまま俺に目を向けた。そこには怒りがあると思ったのに、俺に向けられたのは寂しい色。
「俺には言いたくねえの?」
「……」
「俺には言えねえの?」
「……」
「俺に腹立ててんの?」
「……」
 ため息が一つ。
「黙ったまんまじゃなんもわかんねえだろ」
 声を出そうと口を開くけど、唇だけが動く。こうなってしまったらちゃんと言わなきゃいけないことはわかってる。口にしたら壊れてしまうかもしれないのに。心臓の音がどんどん早くなる。
 膝に肘をつき、両手で目元を押さえて頭を支えた。声、出て。
「……すいません」
 出た。あとは言うだけ。言うってなにを?どうやって?と戸惑いながら、震える息を吐き出して、思いついたことから口にした。
「俺は、先生のようには思えません」
 顔を見ずとも、龍河先生が眉をひそめたのがわかる。
「先生の言葉と想いに、嘘があるなんて思ってません。信じてます。でも先生には、もっと大切に想う人がいるじゃないですか。俺は、先生の隣にいられない。遠くから想うことしかできない。この先、先生が苦しいときに、誰かに寄りかかりたいときに、俺は隣にいられないんです。先生の隣にいるのは――」
 これはただの嫉妬じゃないか。なんてくだらなくて幼稚なんだ。でももう、言うしかない。
「先生の隣にいるのは、彼女さんです。先生も彼女さんもお互いを愛していて、今はただ、音楽のために恋人じゃなくなっただけです。愛する人が隣にいれば、その人を求めるのは自然なことじゃないですか。それがずっと大切に想ってきた人なら尚更じゃないですか。そこに俺が入る余地なんてないんです。だから俺は、どうしても、先生のようには思えないんです」
 ソファが少し揺れて、目の端に胡坐をかく足が見えた。龍河先生がすぐそばに来てくれても俺は顔を上げられない。
「凌――」
「俺と先生は恋人でもなんでもないから、先生が誰を想おうが、誰と愛し合おうが、俺がとやかく言う資格はありません。だからこれから先、先生と彼女さんが一緒の時間を過ごすことも、愛し合ってるんだからしょうがないって思ってます。でもそうしてるうちに、先生は俺からどんどん離れてくでしょ。そうなるのが自然でしょ。でも、そんなの嫌なんです。先生の想いを手放したくない。恋人でもないのにそう思って縛り付けたくなる。でもそんなことはしたくないんだ。俺は先生に幸せになってもらいたい。彼女さんがもう一度先生の恋人になったとき、俺はそれを祝福したい。だってそのときは必ず来るから」
「凌」肩に手が掛かる。「凌、こっちを見ろ」
 見れるわけない。こんなくそみたいなこと言ってんのに。
「先生が迎えに行くって言ってくれて、すごく嬉しかったです。でも、先生にとってその約束はいつか重荷になるんです。俺は重荷になりたくない。わかってるのに、これは夢だ、最後に先生が見せてくれた夢だって思っても、どっかでその夢が現実になるんじゃないかって期待して、先生との未来を望んでしまうんです。頭ではわかってるのに、心がそれを望んでしまうんです。でも先生の未来に俺はいないんです。わかってるんです。だって先生には愛する人がいるから。でも俺が愛する人は先生しかいないんです」
「凌、いいからこっち見ろ。ちゃんと話そう」
 肩に掛かった手に力がこもり、揺さぶられる。
 頭を支える手は膝に落ちたけど顔は上げられない。俯いたまま首を振る。自分がかっこ悪くて情けない。こうなったらとことん情けなくなってしまえ。
「昨日先生が迎えに行くって言ってくれたとき、嬉しくて、本当に嬉しくて、でもそんなこと起こるわけないって思いました。先生が本気で言ってくれてるってわかってます。でもそんな夢みたいなことあるわけないって。先生が必要とするのは俺じゃないって。でもそれでいいって思ったんです。自分が傷つきたくないから、そう思うようにしたんです。なのに、神社のとこで頭と心がちぐはぐになって、でもこんなこと言ったら先生を困らせると思って、自分が情けなくなってなにも言えなかった」
 頭が重くて、もう一度両手で支える。
「先生がそういうの嫌いなのもわかってたし、怒ってるのもわかってたけど、どうしたらいいかわかんなくて、先生は俺のために俺を縛らないのに、俺は自分のために先生を縛ろうとしてて、でもそれをしなきゃ先生は遠くに行っちゃうから、でも先生が誰を想うのかは先生の自由だから、先生が愛するのは俺じゃないから、だから俺が俺の想いを伝えるのはただの迷惑でしかないって思って、でも先生のそばにいたくて、どうしたらいいのかわかんなくなっちゃたんです。こうやって喧嘩みたいな状態でさよならすれば、先生は余計なこと考えずに俺を置いていけると思ったんです。それが先生のためになるなら、このままでもいいのかなって。だから、あれは本気で言ったわけじゃないです」
 支えきれなくて、身体を折って頭を抱えた。
「俺は先生と一緒にいたい。好きな人と、愛する人と一緒にいたい。ただそれだけなんです。なんでこんな、最後なのに。ほんとにすいません」
 頭を抱える腕に手が掛かって上半身を起こされる。それでもまだ顔は上げられない。情けない泣きっ面だから。
「凌、俺を見ろ」
 今は無理。と思っても通用しない。頬を包まれて強制的に目を合わせられる。
 怒ってると思った。だけど怒ってなかった。呆れてもなかった。困ってもなかった。そこには愛情と、自分自身を責める色があった。
「悪かった。凌がこんなに思い詰めるとは思ってなかった。凌のことを想えばそんぐらいわかって当然だったのに、すまない」
 零れた涙が優しい指で拭われる。
「凌、俺が言った言葉思い出せるか?」
「言葉?」
「露天風呂に浸かってるとき、凌が訊いただろ。あいつがまた恋人になるんじゃねえかって。そんとき俺がなんて答えたか覚えてるか?」
「……はい」
 ――どうだろうな。だが、凌が俺を待っててくれんなら、いつになるかわかんねえが、それでも俺を待っててくれんなら、凌が本気で望んでるなら、俺は迷わず凌を求める。
「伝わったと思ってた」
「え?」
「だが正直言えば、まだ俺ん中にも迷いがあった」
 なに言ってんだろう。
「凌はこれからいろんなもんと出会う。凌の生きる道はこれから決まるんだ。前に話した夢とか一生もんの仕事とか、そういうのが見つかんのはこれからだろ。俺が自分の想いを伝えたことで、あるはずだった凌の未来がなくなっちまうかもって、だから迷ってた。それでも凌に知っておいてほしかったから、迷いがあんのに伝えちまった。それがいけなかったな」
 先生の言いたいことがよくわからない。いつもはわかるのに。
 困惑する俺の目をしっかりと捉えたまま、龍河先生は続ける。
「だが今はもう、迷いはねえ。凌が望むなら、俺は迷わず凌を求める。わかるか?」
「……いえ」
 その答えに龍河先生は困ったように笑い、その笑顔を引っ込めると真剣な眼差しを俺に向けた。
「あいつのことはすげえ愛してる。その想いはこれからも変わらねえ。だが、俺らが最初に目指してる場所に辿り着いたとき、凌が俺を今と変わらず想ってくれてんなら、あいつがそばにいてくれようと、どれだけ支えてくれてようと、どれだけ愛し合ってようと、俺は凌を迎えに行く」
 龍河先生は微笑みながらぽんぽんとソファを叩く。その意を察して俺がソファの上で胡坐をかくと、龍河先生は俺の両手を両手で握って優しく包んだ。
「それは、誰よりも凌を愛してるから。ほかの誰でもねえ、一生懸命で、バカ正直で、可愛くて、泣き虫で、意地っ張りで、どこまでもまっすぐで、思いやりに溢れてて、俺のことが大好きな凌のことを、俺は心から愛してる」
 あたたかい手のひら。優しい眼差し。すべてが愛に溢れてる。
「それに、あいつも知ってる」
「え?」
「凌とあいつを比べるようなことはしたくねえし、するつもりもねえ。だが、俺ん中で凌の存在がどんどんでかくなってることに、あいつは気付いてた。恋人じゃなくなってすぐに言われたんだ」
 ――私はこれからも大のことを愛してる。大も私のことをこれからも愛してくれる。でも、大には私以上に愛さなきゃいけない人がいると思うよ。本当に本当に、心底大切に想える人に愛してもらえるなんて、そんな幸せなことないじゃない。だから大は、その人を愛してあげて。
「……彼女さんが?」
「そういう奴なんだよ。愛する人の幸せを想うことができる。そういう奴だから、俺はあいつを愛してる。これからも愛してる」
 なにも言えなくて、一つだけ頷いた。
 彼女さん、すごいな。先生が心底惚れるわけだ。自分の幸せよりも愛する人の幸せを考えられる。俺だったらほかの人を愛してなんて言えない。ほんとにすごい。先生と同じ、愛情深くて強い人だ。
「凌」
「はい」
「俺はどうしようもなく凌を愛してる。だが、俺はこれから音楽のために生きていく」
「はい」
「凌はこれから、自分の生きる道を見つけていく。そう簡単には見つからねえだろうし、迷って悩んで、挫折するようなこともあるかもしれねえ。それでも、凌が正しいと思える道を進んで行ってほしい。凌がよく言う『なんとなく』でいい。自分を信じて、歩き続けてくれ」
 なんで。どうしてお別れみたいなこと言うの。さっき迎えに行くって言ってくれたのに。俺らの進む道が交わることはやっぱりないってこと?
 悲しくて、寂しくて、悔しくて、涙が溢れる。
「……これで、お別れですか?」
「ん?」
「先生は音楽のために生きるから、俺はちゃんと、自分の生きる道を見つけろってことですよね。もう、さよならだから」
 でこぴんされた。
「いてっ」
「俺の言ったこと聞いてたか?」
「え?」
「少しでも早く凌を迎えに行けるように、俺は全力で突き進む。だから凌も全力で生きろ。俺が凌を迎えに行ったとき、凌が全力で生きた道を俺に見せてくれ。そこからは一緒に歩いていこう」
 え?え?
「……それって」
「俺は凌と生きていきたい」
 目の前で微笑む龍河先生を呆然と見つめる。紡がれた言葉が少しずつ浸透していき、最後の一音が吸い込まれた。
 それと同時に身体の内から喜びが溢れ出て、俺は両手で顔を覆い、前屈みになって震える身体を支えた。
 こんなことがあっていいんだろうか。こんなにも幸せを感じていいんだろうか。これだけの愛を貰っていいんだろうか。
 もうなにもいらない。もうなにも必要ない。龍河大がいれば、もうなにも望まない。
「俺の想い、伝わったか?」
 大きく頷く。
 喜びが、嬉しさが、幸せが渋滞して、声にならない。
「凌、キスしたい」
 手の甲で涙を拭い、瞳を濡らしたまま顔を上げる。
 お互いが顔を近づけて唇を触れ合わせようとした瞬間――。
 ぐううぅぅぅぅぅ。
 俺の腹が鳴った。唇は触れる寸前で止まり、龍河先生はきょとんとする。ふっと小さく吹き出したあと、下を向いて肩を震わせはじめた。
 おいいいいっ!なんでこんなときに!ぶち壊しじゃないか!バカバカバカ!俺のバカ!
「すいません。安心したら……」
「朝食ったっきりだもんな」堪えきれずに笑いながら言って、俺の頭にぽんっと手を乗せる。「なんか食いに行くか」
 立ち上がろうとした龍河先生の腕を咄嗟に掴む。浮いた尻がソファに落ちた。
「どうした?」
「……キス、したい」
 柔らかく微笑み、唇を重ねる。そっと触れた唇はそっと離れて、すぐにまた重ねられる。重なるたびに深くなり、もっともっとと求めてしまう。
 低く掠れた声が囁かれる。
「我慢できねえ。飯あとででいい?」
「はい」
 昨日と今朝は抱きしめ合っただけのベッドの上で、今は抱きしめ合って愛し合う。溢れ出る愛情を注いで伝え合う。
 龍河先生の柔らかい唇が、優しい手が俺を愛撫し、身体の中が熱で満たされる。さらに深く繋がって、快楽に呑み込まれる。幸せが弾けても愛は止まらない。何度も何度も、俺を貪るように愛を注ぎ、俺を求めてくる。俺はそれが嬉しくて、俺も愛を注ぎたくて、求めたくて、手を伸ばす。
 もっと愛して。もっと深く。もっともっと。
 窓の外はほとんど夜。わずかに残る茜色が美しく光を放っていた。
 枕を抱くようにしながらうつ伏せになり、俺のほうに顔を向けて龍河先生は眠っている。俺もさっきまで疲れ果てて眠っていた。隣に愛しい人がいる。それがどんなに幸せなことなのか、今の俺は苦しいほどに感じてる。
 今度こそ起こさないようにそろりそろりとベッドから抜け出し、今回は見事成功。勝手にすいません、と思いながら冷蔵庫を開け、勝手にすいません、と思いながら水のペットボトルを取り出してごくごく飲んだ。
 今何時だろ、と思って上着のポケットからスマホを取り出す。
 五時二十二分。ここに着いたのが二時過ぎだから……。
 恥ずかしさと呆れとで一人小さく笑ってると、寝室のほうから声が聞こえた。
「凌?」
 戸惑ってるような、不安そうな声。慌てて立ち上がり、水のペットボトルを持ったまま寝室に入る。上半身をわずかに起こして、寂し気な目を彷徨わせてる龍河先生は俺を見つけると、ほっとした表情を浮かべた。
「こっち来て」
 ベッドに上がって龍河先生の隣に座る。
「水勝手に貰っちゃいました。飲みますか?」
「うん」
 俺と同様ごくごく飲む。そりゃそうですよね、と笑ってしまう。龍河先生は水を全部飲み干し、ぽふんっと横になると両腕を広げた。
「ぎゅってして」
 ぼふうううううんっ!
 ああもう!寝起きはいつもこんなに可愛いんだろうか。たまらんたまらん!なんでもしてあげるって!
 ぎゅうううううって抱きしめる。
「キスも」
 ちゅうってする。
「俺のこと好き?」
「大好きです」
「ふふん。俺も」
 どふわばああああああんっ!
 三時間前はそりゃもう恐ろしかったのに。あの車内の空気。思い出しただけでも背筋が凍るのに。なに、この豹変ぶりは。まったく、可愛すぎるだろ!
 とめどなく溢れる感情を押し殺しながら、寝っ転がる龍河先生のすぐそばで胡坐をかいた。
「先生、さすがに腹が減りました」
「だな。なに食う?この近くだと、寿司、焼き肉、イタリアンがある。車でどっか行ってもいいし」
 横を向いて寝っ転がる龍河先生。俺を見上げる茶色がかった瞳。無造作に投げ出された手。その手を取って、胡坐をかいた脚に乗っける。
「出かけたくないです。今日は最後まで先生と二人でいたい。だから、なんか取りませんか?」
「そんな可愛いこと言われるとまたしたくなる」
「な!にを、言い出すんですか」
「なんで。凌はしたくねえの?」
「……したい、ですけど、今は飯食いましょ」
「ふふん」
「楽しそうですね」
「楽しくて嬉しい。凌がここにいることが幸せなんだ」
 本当に幸せそうに頬を緩める。龍河先生はいつもこうやって純粋な想いを素直に伝えてくれる。こっちが照れちゃうようなことを、当たり前のようにさらりと言ってくれる。本当に愛おしい。
 ああもう、そんな顔されたら俺だって。
「……そんなこと言われるとしたくなります。でも、まずは飯です」
「はいはい」と言って起き上がる。「寿司は?好き?」
「はい、大好きです」
「俺とどっちが好き?」
「なんですか、その比べっこは。食べ物と比べることじゃないですよ」
 身体を前に倒し、こつんと俺の肩に頭を乗せる。
「答えて」
 ああ、可愛すぎる。このまま抱きしめてしまいたい。でもダメダメ。なんか食わないと先生が倒れちゃう。
「先生に決まってるじゃないですか。先生より好きなものはありません」
 顔を上げた龍河先生はまた幸せそうな表情を浮かべると、俺にちゅっとしてからベッドから抜け出した。
 その背中を見ながら太一さんの言葉を思い出す。
 ――自分にとって大切だって感じた人のことはとことん愛する。
 ――あいつ自身も誰よりも愛してほしいって思ってる。だからまっすぐ愛する。
 ――凌、大のこと愛してるか?
 ――そうか。ならいい。
 太一さんも気付いてたんだろうか、彼女さんと同じように。先生はすごく愛されてる。でもその分、みんなを愛してる。俺も目一杯愛したい。すべてを捧げて愛したい。そう想わせてくれる先生を、俺はたまらなく愛してる。
 頼んだ寿司が届いて二人でいただきます。俺も龍河先生も腹ぺこだったから三人前の寿司はあっという間になくなり、龍河先生が冷凍庫から出してくれたアイスもぺろりと平らげた。
 ソファで寛ぎながら他愛もない話をして、笑って、たまにキスをして、最後の時間を二人で過ごす。優しくて、あったかくて、幸せな時間。でも、終わってしまう時間。
 時間が進むにつれ、俺も龍河先生も言葉数が少なくなってきた。帰りたくない、帰したくない、離れたくない、離したくない。なにも言わなくても感じる想いが、そこかしこに浮かんでる。
 夜九時を回り、龍河先生がぽつりと言った。
「そろそろ帰るか?」
「……」
 あやすように笑い、「凌?」と頭に手を乗せる。
「……今日が終わるまで、まだ時間あります」
 いじけた口調になってしまった。それでも龍河先生は嬉しそうに笑ってくれて、俺に寄りかかってきた。
「そうだな。だがもう二日間帰してねえから、あんまり遅くなると俺が凌の父さんに叱られる」
「大丈夫です。大丈夫なんです」
「じゃあ、十一時にここを出る。凌んちに着くころ、ちょうど今日が終わるから」
「……はい」
 あと二時間ぐらいは一緒にいられる。少しだけほっとして、寂しくなった。まだ二時間ある。あと二時間しかない。チクタクと、どんどん針が進んでしまう。
 触れたい。触れられたい。俺から求めていいだろうか。決して今日が最後じゃない。でも最後にもう一度だけ、先生を感じたい。
 心臓の音が耳に響いて、胸がどくどくと波を打つ。俺に寄りかかる龍河先生に届いてしまいそうだ。気付けば縋るように、すぐそこにある腕を掴んでいた。
「先生」
 寄りかかっていた身体を離して、龍河先生はわずかに首を傾げた。
「ん?」
「……最後じゃないけど、最後に、先生に愛してほしい」
 龍河先生の目元が和らぐ。そっと口づけて、その距離で俺を見つめる。
「俺も凌を愛したい」
 この二日間、何度こうして愛に包まれたんだろう。愛されるたびに想いは募る。何度もキスをして、何度も重なり合って、何度も愛し合う。愛しくて愛しくて、おかしくなる。
 いつか訪れるその日はもう夢じゃない。まだまだ遠いけど、それはたしかに俺が進む道の先にある。でもそのいつかは一年後二年後の話じゃない。そのぐらいで到達できる目標なら、先生はすべてを置いていったりしない。いつになるかわかんないなんて言わない。いつかはずっとずっと先のこと。だからどうしても、最後じゃないのに今日が最後に思えてしまうんだ。みっともないぐらいに縋ってしまうんだ。
 いくら愛し合っても愛し足りない。もっと愛してほしい、愛したい。もっと満たしてほしい、満たしたい。でももう、タイムオーバー。
 車は腹立つぐらいスムーズに進んでいく。信号もほとんど止まらない。ストレスフリーなはずなのに、ストレスしか溜まらない。
 くそっ、誰か操作してんだろ。俺らのラブラブっぷりに妬いてんだろ。そんなんじゃ誰ともラブラブになれないぞ。人には優しくだこんちくしょう!
 なんていもしない敵に暴言を吐いてるうちに、車は俺んちの前に着いてしまった。
 動けない。龍河先生も動かない。カチカチとハザードランプの音だけが車内に響く。ふっと小さく笑う声が聞こえて運転席を見ると、龍河先生はシートに身体を預け、懐かしむような表情を浮かべていた。
「最高の三日間だったな」
「はい。すっごく楽しくて、すっごく幸せな、最高の三日間でした」
 幸せを噛み締めるような沈黙があり、龍河先生は俺を見て、俺の名を呼ぶ。
「凌」
「はい」
「もう一度言う。必ず迎えに行く」
「はい」
「何度も言う。俺は凌を愛してる」
「はい」と笑顔を見せて、俺も伝える。「先生」
「ん?」
「待ってます。全力で生きながら」
「ああ」
「誰よりも、俺は先生を愛してます」
「ああ」
 もう言葉はいらない。もう大丈夫。
 震える唇を噛み締めて、溢れる涙を堪えて、もう一度笑顔を見せる。
「先生、また明日」
「ああ、また明日」
 シートベルトを外してドアノブに手を掛ける。引きかけた手を止め、俺は運転席へ身を乗り出した。目を閉じると、涙が零れ落ちた。
 イチ、ニ、サン。
 茶色がかった、俺の大好きな瞳。
「先生、ありがとう」
 身を引いてドアを開け、振り返らずに家の中に入った。その場で蹲り、声を押し殺して泣いた。

 おお、懐かしい。
 教室に誰かが入ってくるたびにそう思う。二ヶ月ちょっと顔を合わせてなかったんだからそりゃそうか。ほんとに今日で卒業なんだなあと、少しだけ感傷に浸ってると裕吾がやってきた。
「おはよう」
「おう、おはよう!」
「元気だな」
「当たり前だろ。今日で高校生ともおさらばだからな!」
「嬉しそうだな」
「寂しいけど嬉しいよ。それにお別れは笑顔じゃなきゃダメだろ」
 笑顔で。そう、その通り。ちゃんと笑顔で。
「あ、そうだ」とリュックの中に手を突っ込む。「これ」
「なんだ?」
「縁結びにご利益がある神社のお守り。旅先でいろんな人と出会って、その出会いがいい出会いであるようにと思って。お前がでっかくなって帰ってこられるようにって願ったから、お前はもう大丈夫だ」
 突然裕吾がぼろぼろ泣き出した。顔を隠すこともなく、顔をくしゃくしゃにして泣いている。子供みたいな泣き方に笑ってしまう。
「なんで泣くんだよ」
「だってよお、こんなん……嬉しすぎるじゃねえか!」
「あはは!喜んでくれたならよかった」
「喜ぶに決まってるだろ。すげえ嬉しいよ」
「うん。喜んでくれて俺も嬉しい」
 そう言った俺を、裕吾は潤んだ瞳でじっと見つめた。ぱちぱちと瞬きを繰り返してなにか言いたそうにする。
「なんだよ」
「凌、なんかあった?」
「え?」
「先生となんかあった?」
 え、なんで。なんでわかんの。
 あの三日間が鮮明に蘇り、とくにあんなことやそんなことが鮮明に蘇り、顔がどんどん赤くなる。ついでに目が泳ぐ。
「……なんも」
「うわ、嘘。高校生活最後の日に嘘。うわあ、うわあ、信じらんねえ」
 ううううう、さすがに誤魔化せないか。言わなきゃダメ?すっごい恥ずかしいんだけど。でも言わなきゃ終わらないよなこれは。
 大きく息を吸って大きく吐き出して、ちょっともじもじしてから正直に白状する。
「……あった」
「おうおう、そうこなきゃ。で?なにがあった」
「…………セックスした」
 固まる裕吾。三秒後、はち切れんばかりに目を見開き、口が「マジか!」の「マ」で止まって、また固まる。さらに三秒。
「ジか!」
「うん」
 今度は裕吾の顔がどんどん赤くなる。ヤリまくりてえ!と言ってる割に純情なのである。
「え、どうしてそうなった」
「いろいろとあって」
「そのいろいろが聞きてえんだよ」
「いろいろありすぎて簡単に説明できない」
「お前ならできる。要約しろ」
「要約できないぐらいいろいろあったんだよ」
「じゃあ要約しなくていいから話せ。担任が来るまであと十五分ある」
 どう話せばいいのやら。ぽりぽりこめかみを掻く。
「昨日までの三日間、ずっと一緒にいたんだ。先生の好きな場所に連れてってもらったり、友達がやってる店に連れてってもらったり、バンドのメンバーに会わせてくれたり、先生の行きたい場所に行ったり」
「へえええ」
「先生は俺の特別で、すごく愛しく想える人。これまではそれだけだった。それだけだって思ってた。でもほんとは、俺は先生を心底求めてた。先生も俺を求めてくれてた。それがわかったんだ。だから愛し合った」
 生々しいほどに蘇る。
 先生の瞳が、声が、唇が、指先が、体温が、熱が、愛情が。
 きゅっと胸が、切いほどに苦しくなる。
「……そっか」
「うん」
「最後にってことなのか?」
「いや、最後じゃない。俺と先生に最後はないんだ。遠くに行っちゃうけど、いつか必ず俺を迎えに来てくれる。だから最後じゃない」
「そっか。それならよかった」
「うん」
 ぺちん!と音がした。裕吾が自分の額を叩き、そのまま頭を支えるようにして俯いた。
「羨ましい」
「は?」
「先生とセックス」
「はあ?」
「どうだったんだよ。先生とのセックスは」
「セックスセックス何度も言うな」
「うるせえ。で?どうだったんだよ」
「うるさいのはお前だよ」
「だってずりいじゃねえか!結局俺は童貞卒業できなかったんだぞ!」
「でかい声で言うな」
「いいなあ、セックス。俺もしてえなあ」悲しい目をした、いじけた顔が俺に向けられる。「気持ちよかったか?」
 その顔が可笑しくて、もうどうでもいいやってなって素直に答えた。
「すんごい気持ちよかった」
「やっぱりそうなのかあ!」
「今までのセックスはなんだったんだって思うぐらい」
「マジか。あ、あれか。身体の相性ってやつか」
「うん、だと思う」
「くそっ、旅立つまでに卒業してえな」
「無理だろ」
「断言すんなよ」
「だってあと何日だよ」
「……無理か」
「無理だ」
「先生、俺とも――」
「殺すよ」
「冗談冗談。そんな怖い顔しないでよ」
 二人で笑い合う。口元に笑みを残したまま、裕吾の目が安堵するように優しくなった。
「よかったな、マジで」
「うん。すごい幸せ」
 もう一度、裕吾と笑い合った。
 体育館の入口に、一組から順に並んでいく。卒業生代表の挨拶をする生徒は緊張してるかもしれないが、俺らに緊張感はまったくなし。いつもの全体朝礼に行く気分。いい天気だなあ、なんて思ってると、厳かなメロディが流れてきて列が進んだ。
 一組が体育館に入り、二組が続く。次は俺らのクラス。体育館の真ん中が通路になっていて、その両脇に一年生と二年生が座っている。一、二年生の視線を感じながら通路を歩き、教員が並んで座る列に目を向けた。
 先生は――。
 はうっ!眩しい!
 あそこだ、絶対あそこにいる。先生は座ってるし、一組と二組の生徒がいるから先生の姿はちらっとしか見えないけど、あそこだけ異様なほどにきらきらと光り輝いている。ああ、見たい。先生の姿を見たい。だって絶対スーツじゃん。絶対かっこいいじゃん。だってほら、一組の奴らの頭がくらくらしてるもん。やられちゃってるもん。いいないいなあ!
 でもあんまり見てると見てるって先生にバレちゃうから我慢我慢。裕吾と放課後にお邪魔して、存分に味わらせてもらおう。
 クラスの代表者が卒業証書を受け取り、来賓代表、在校生代表、卒業生代表の挨拶が終わって校長の挨拶。
「新しい芽が膨らみはじめ、春の香りが感じられる今日の佳き日に、ご来賓の方々、保護者の皆さまをお迎えし――」
 おお、なんか真面目だな。と一度しか話したことないのに思ってしまう。校長の朗々とした声は淀みなく続いていく。
「これから君たちは、それぞれがそれぞれの道を歩みはじめます。その道をどんな道にするのかは、君たちが決めることです。君たちにしか決められない。君たちが進む道は他人が決めることはできないし、君たちが進んだ道を他人のせいにすることもできない。人生は甘くない。楽しいことよりも、辛いことのほうが多いです。しかし、必ず希望はある。諦めない限り、その希望は消えたりしない。だからどうか、歩み続けてほしい。傷だらけになってぼろぼろになって倒れてしまっても、君たちは立ち上がれる。自分を信じて、自分に負けないでほしい。私は、君たちの未来が楽しみだ。卒業生の皆さん、卒業おめでとう」
 校長の声と、龍河先生の声が重なる。
 これからの自分が楽しみになってきた。未来がどうなるかなんてもちろんわからないけど、俺はただ、全力で生きればいい。そうすれば必ず――。
 卒業式が閉幕し、教室に戻った俺らに担任から卒業証書が手渡される。裕吾が一番最初に呼ばれ、少しして俺。さらに少しあとにはほんとなら――。
「渡真利将太」
 将太の名前を口にした担任は俺に視線を向ける。
「風丘、渡真利に渡しておいてくれ」
 すぐに返事はできなかった。込み上げるものを呑み下し、立ち上がって担任のそばへもう一度行く。
「俺が頼む前に校長先生が準備してくれてた。いや、違うか。龍河先生が校長先生に頼んでくれてたんだ」
「え?」
「卒業おめでとう、渡真利」
 勝手に視界が歪む。瞬きを繰り返して、泣き顔を隠すように頭を下げた。
「ありがとうございます」
 クラスメイトのあたたかい拍手と、先生たちのあたたかい想いと、将太の卒業証書を胸に抱き、俺はもう一度頭を下げた。
 高校生活最後のHRも終わって、いつものようにみんなが帰ってから教室を出ようと思っていたが、最後だからかみんななかなか帰らない。泣いて抱き合ったり、別れを惜しむように話し込んだり、写真を撮ったり、ここぞとばかりに連絡先を交換したり、なんだか忙しそうだ。
「待っても無駄だな」
「うん、そうだね」
「先生んとこ行くか」
「うん」
 荷物をまとめていると、廊下がざわざわきゃっきゃっとなにやらざわつきはじめた。
 このざわつきは前にもあったな……。
 はっ!肉食動物たちが獲物を狙う殺気だ!と気が付いてドアのほうへ顔を向けると、やっぱり、龍河先生が現れた。
 どふわばああああああああああんっ!
 見えない!かっこよすぎて直視できない!後光が射してる!観音様かなってぐらいまばゆい光を放ってる!うおおおお!眩しいいいい!
 今日の龍河先生はスリーピーススーツ。色は少し明るめのブルー。水色のストライプシャツに濃紺のネクタイ。文化祭のときよりも喪服のときよりも、カチッとしててキリッとしてて、細身のシルエットが龍河先生のスタイルのよさを際立たせている。
 なんだろうか、くらくらするぞ。フェロモンか?フェロモンだな?先生、ダダ漏れしちゃってるから。ほら、みんなくらくらして目パチパチしちゃってるから。龍河酔いは心臓に悪いんだって。
 まったく、最後の最後でそのかっこよさは反則ですよ。とクラス全員がイエローカードを突き付けたに違いない。
「凌、裕吾」
「は、はい!」
 よろめきながらリュックを背負ってドアまで行く。裕吾はなにかを取り払おうとするように、机に手をついて頭を振っていた。とりあえずほっとこう。
 龍河先生を目の前にして、さらに圧倒される。オーラというか、波動というか、熱波というか、とにかくそういうすごいもんが溢れ出てて、身体をのけ反りそうになってしまう。
「どうした?」
「いや、ちょっと、先生がかっこよすぎて」
 はっ!かっこよさに呑まれてつい口走ってしまった!ほらほら、あの笑顔の登場だよ。
「惚れなおしたか?」
「惚れなおすもなにも、惚れっぱなしです」
「ふふん」
 ああ、やめて。そんな風に見ないで。ここは学校です。みんなの注目の的です。ああ、俺の理性を壊さないで。
 すると突然、龍河先生が俺の耳元に唇を寄せて囁いた。
「昨日の言い逃げはよくねえな」
 急接近とその声に俺の心臓は一気に跳ね上がり、みるみるうちに顔が熱くなる。
「あ、あれは、そうしないと……」
「ん?そうしないと?」
「……我慢できなくなるから」
 周りに聞こえないように小さな声で呟くと、また唇が近づく。
「俺は今キスしたい」
 ぼふうううううんっ!
 まったくこの人は!
 近づいた身体を両手で叩くようにして押し戻し、距離をとる。
「な!にを、言ってるんですか。学校です、っていうかみんないますから」
 あはは!と可笑しそうに笑うのが腹立つ。嘘、腹立たない。嬉しい。ああくそっ!弄ばれてる!
 気持ちと鼓動を鎮めるために息を一つ吐く。
「今から、先生のとこ行こうと思ってたんです」
「そうだと思ったから来た」
「え?」
「悪い。これから校長と出かけなきゃなんねえんだよ」
「え?」落胆する声が出てしまった。だって、一緒にまだいられると思ったから。
「どうしても断れねえんだ。一緒にいてやれなくてすまない」
「いえ!全然大丈夫です!」
「凌」少し叱るような口調。
「……ほんとは一緒にいたいです。でも、先生が断れないぐらい大切な用事なら、そっちを大切にしてほしいです」
「悪い。ありがとな」
 ぽんっと頭に手が乗せられる。
 はふううう、と甘いため息が教室内のあちこちで聞こえたのは俺の気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。みんな近寄りがたくて俺と龍河先生から距離をとってはいるが、一挙手一投足を見逃さんとしている。
 なにを喋ってるのかまでは聞こえてないだろうけど、この仕草は見てるだけでドキドキしちゃうよね。わかるわかる。だってかっこいいんだもん。
 裕吾がなにかから目覚めてやってきた。
「先生用事があるんだって」
「マジっすか」
「悪い。だから校門まで見送らせてくれ」
「え、嬉しいっす。ありがとうございます」
 そんなこんなで、うっとしい視線に晒されながら三人並んで歩き、あっという間に校門。校門にも生徒がいっぱい。ってことはものすごく見られてる。でもどうでもいい。今はこの時間を大切にしなきゃ。
 龍河先生と向かい合う。
「先生、ほんとにありがとうございました」と裕吾が頭を下げた。
「なんもしてねえよ、俺は」
「いえ、ほんとにいっぱい助けてもらったんで。一歩踏み出せたのも、先生と、凌と、将太のおかげです。ありがとうございました」
 裕吾の右手が龍河先生に差し出される。龍河先生はその手を握るとぐっと引き寄せ、左手で裕吾の肩を抱いて励ますように背中を二回叩いた。
「負けんなよ。俺は裕吾のそばにもいつもいるから」
「はい!絶対に負けません!」
 頬を染めて、泣き笑いの顔で元気よく答える裕吾。こっちまで嬉しくなるような光景に自然と笑みが零れる。二人の身体が離れ、裕吾はまっすぐ龍河先生を見つめた。
「先生、また絶対に会いましょう。土産話いっぱいありますから」
「ああ、楽しみにしてる」
「はい!」
 にこにこ二人を眺めていると、龍河先生の視線が俺に移った。ドキッとして、背筋が伸びる。
「凌」
「はい」
「次会うとき先生って呼んだらぶっ飛ばすかんな」
「えええ?」
「俺はもう先生じゃねえだろ?」
「え、でも、俺にとってはずっと先生ですよ」
「あ?」と睨まれて、ハッとする。そういうことか。え、照れる。
「……そうですね。でも言いづらいですね、急に龍河さんとか」
 でこぴんされた。
「いてっ」
「なんで苗字なんだよ」
「え?だって、え?」下の名前で呼ぶなんて照れちゃうよ……でもそっか、そうだよな。ぐふふ。「……大さん、かあ」
 でこぴんされた。
「いてっ」
「大」
「え?」
「大って呼べ」
 は?え?
「いやいやいやいや!それは無理ですよ!」
「なんで」
「だってそんな、急に呼び捨てなんて、なんか馴れ馴れしくないですか?」
「凌、俺と何回セックスし――」
「うああああああああっ!」
「なんだよ」
「こ、そ、な、なにを言い出すんですか!」
「ほんとのことだろ」
 隣では裕吾が笑いを堪えて肩を揺らしてる。
 笑い事じゃないんだよこっちは!ああ、暑い!まったくもう!
「そ、そうですけど、いきなり呼び捨てってのも……あ、こうしましょ。大さんからはじめて、徐々に徐々に――」
「やだ」
「えええ?」
「練習。呼んでみ」
「え!無理!」
「なんでだよ。俺のこと愛してんだろ?」
「もちろんですよ。でも、それとこれとは関係ないっていうか。大さん、なら呼べます」
「やだ」
 くそっ、わがままイケメンめ。まあ、そんなとこも大好きなんだけど。
「…………」
「ほら、呼んでみ」
「……大」
「大、愛してるって言って」
 言えるかアホ!
 ふんっと鼻から息を吐き出して睨み付けてみるけど、龍河先生はあの笑みを浮かべて楽しそうに笑ってる。くそっ、最後の最後まで。
「言いません!」
「なんで」
 しょぼんとした声に罪悪感が沸き起こる。
「……練習、しておきます」
「言ったな?」
「はい、約束です」
 その誓いにふわっと微笑む。
「楽しみだ」
 俺も楽しみです。会える日が。
 居住まいを正して、龍河先生と向き合って、俺の大好きな茶色がかった瞳をまっすぐ見つめる。
「先生、この一年間、本当にありがとうございました。最初に先生に言ったことが本当になりました」
「ん?」
「将太と裕吾がいて、そこに先生がいてくれたから、最後の一年が最高の一年になりました。どんなに伝えても伝え足りないぐらい、感謝の気持ちでいっぱいです。先生と出会えて最っ高に幸せです。先生は俺にとって最っ高に大好きな人です。ありがとうございました!」
 深くお辞儀をして、笑顔のまま身体を起こす。
 すると何度も包まれた大きな手が頬に伸び、え?と思ってるうちに唇が重なった。余韻を残すようにそっと離れて、間近に瞳を覗いて微笑んだ。
「またな」
 それだけ言って龍河先生は背中を向けてしまった。いつものようにすたすた歩き、いつものようにきらきら輝きを残してく。
 言い逃げだ。ずるい。しかもこんなとこでキスするなんて。
 めちゃくちゃ見られてるじゃないかこんちくしょう!肉食動物たちだけじゃなくてみんなの視線が俺に集まってるじゃないかこんちくしょう!言い逃げでやり逃げだ!
 くそおおおおおおおおおっ!
「だあああああい!あいしてるうううううう!」
 振り向いた龍河先生は、嬉しそうに幸せそうに、顔いっぱいに笑顔を咲かせてた。俺も満面の笑みで、大きく手を振った。
 先生が日本を発つその日まで、会いたいと思えば会えるし、声を聴きたいと思えば聴ける。だけどもう会わない、連絡もしない。
 今日で一旦さようなら。
 俺も先生も、いつかの日のために歩き出した。一歩一歩、自分が信じる道を。だからこれでいい。振り返らずに前だけを見て歩く。それが今の俺にとって正しい道なんだって、なんとなくそう思った。

≫≫ 現在へつづく


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