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なんとなく vol.10

十二月

 さて、今日もマック。飽きることなくマック。俺らの身体の四分の一ぐらいはマックのおかげで成り立ってるんじゃないかってぐらいマック。
 ポテトを貪りながら、裕吾が恨めしい目を窓の外に向ける。
「なあにがクリスマスだ。お前らほとんど仏教だろうが」
「そういう僻みは情けないぞ」
「そうそう、宗教はもう関係ないんだよ。ただのイベントなんだから裕ちゃんも楽しめばいいじゃん」
「どう楽しむんだよ。一人でケーキでも食ってればいいのか」
「あとチキンな」
「あとプレゼント」
「山下達郎流しながら」
「メリ~クリスマ~ス!って乾杯」
「ほら、楽しいだろ」
「わくわくするじゃん」
 裕吾の目ん玉が上に向く。「きっと君はこ~ない」と達郎の声が流れて、グラスに注いだシャンメリーを掲げて、一人でチキンとケーキを食べて、自分で買ったプレゼントを開けてみてるんだろう。
 少しして、げっそりした様子の裕吾が助けを求めるように俺らを見た。
「やだよやだよ、寂しいじゃん。だって達郎が一人きりのクリスマスイヴって言ってるもん。いい歌だけど達郎はやだよ」
「そこかよ」
「じゃあマライアは?」
「恋人たちに向けた歌じゃねえか。嫌味にしか聞こえねえ」
「ああ、そうだった」
「じゃあワム」
「傷ついた男の歌じゃねえか。さらに俺を傷つけるつもりか」
「じゃあ竹内まりや」
「あったかい家族の歌じゃねえか。俺は一人ぽっちなんだよ」
「じゃあトナカイのやつ」
「……それはいいな」
「いいのかよ」
「トナカイさんは俺と同じで一人ぽっちなんだろ?なんか仲間意識が芽生えるじゃねえか」
「いや、トナカイはサンタに必要とされて最後は幸せになるからね」
「それがいいんだよ。希望があって」
「たしかにあれはいい歌だよね。可愛らしいし」
「俺にぴったりだろ」
「そう思うよ、心から」
「うん、俺も」
「お前ら適当だろ」
「そんなことないって。じゃあさ、クリスマスは三人で集まろうよ」
「それこそなんか寂しくならないか?」
「いや!俺はその言葉を待っていた!将太、よく言ってくれた!」
「はあ?」
「だって一人なんて寂しいじゃんか。みんなで仲良く一緒にいようぜ」
「うん、俺はいいよ。勉強しなきゃだけど、たまには息抜きしたいし」
「いいけどさ、なにすんの」
 なにか重大な局面にぶつかったような顔でじっと黙り込む裕吾。そして答えが出た。
「マック」
「結局それかよ」
 マクドナルドさん、今後ともよろしくお願いします。

 高校生活最後のテストを来週に控え、さらには大学受験を受ける生徒のほとんどが大学入学共通テストを来月に控えている。俺らみたいに呑気な奴らもいるが、少しピリピリしてる生徒もいて、どことなく緊張感みたいなものが三学年のクラスにはあった。それは俺らのクラスでも同じ。
 二限目の休み時間、それは勃発した。
「うるさいな、ほっとけよ!」
 突然大きな声がしてクラス中がびっくり。俺らも反射的に目が向き、その先に見えたのは、顔を赤くしてすぐそばに立つ生徒を見上げる生徒。
 あれは道長君じゃないか。とくに目立つでもなく、かと言って暗いわけでもなく、日々平穏に過ごしているはずの道長君が怒ってる。おいおい、どうした道長君。とクラス全員が驚いてるに違いない。
 道長君に睨まれてる生徒は真島君。道長君のお友達で、真島君も道長君同様、日々平穏に過ごしている。そんな平穏ペアに今、亀裂が生じている。いつも一緒にいる仲良しのはずなのに。
 その真島君は、まさか怒鳴られると思ってなかったんだろう。怒鳴り返すでもなく、ただ驚いて戸惑っている。そりゃそうだろう、道長君からあんなに大きな声が出るなんて誰が思う。
 真島君は眉を寄せ、なんとかせねばと道長君を宥めはじめた。
「べつに、お前がすることにケチつけてるわけじゃないよ。ただ、もう少し肩の力を抜いたほうがいいんじゃないかなって思っただけで」
 ははあ~ん、なるほど。
「それが余計なお世話だって言ってんだよ。俺は受験のために勉強してるだけだ」
「わかってるって。でもあんまり根を詰めてもさ、それが疲れになって身体にくることもあるし」
 じっと眺めていた将太が呟く。
「昔の俺を見てるようだ」
「懐かしい」と俺は笑う。
 でも道長君も真島君も笑える状況ではない。周りが見えなくなってる道長君と、道長君が心配な真島君。どっちも一生懸命なことに変わりはない。
「真島はいいよ。頭いいから、そうやって呑気に構えてたって余裕だもんな。でも俺はちゃんと勉強しないとダメなんだよ。お前とは違うんだよ」
「それどういうことだよ。べつに俺は呑気に構えてなんかないよ。俺だってちゃんと勉強してるし努力してるし、受験だって不安に感じてるよ。こっちはお前のことが心配で言ってるだけじゃんか。人の気も知らないで、自分のことしか考えないで、俺に当たんなよな!」
 これはまずい、真島君も怒りはじめちゃったよ。まあ、わからなくはないけど、どっちにしろ止めたほうがいいな、これは。
 そう思って立ち上がろうとしたとき、俺よりも先に立ち上がった生徒がいた。
「いい加減にしろよお前ら」
 クラス中の視線が移動して、その目が見開かれる。
 えええええっ!なんと小野君じゃないか!とクラス全員が身体を震わせたに違いない。
 まさかの小野君。どっちかというと止められる側だった小野君が、平穏ペアの喧嘩を仲裁する日が来るなんて!
「道長、真島はお前を心配して言ってんだろうが。それを余計なお世話はねえんじゃねえの。真島もさ、道長が必死になりすぎて思ってもねえこと口走っちまったってことぐらいわかるだろ。お前ら友達なんだから、ちゃんと相手のこと考えてやれよ」
 おおおお、と堪えきれずにクラス全員が静かな嘆声を漏らした。
 あの頃の小野君からは想像できない小野君がそこにいる。ほんとに小野君か?と顔をぺちぺちしたいぐらいだ。
 小野君に叱られて、道長君も真島君も気まずそうに俯いた。先に口を開いたのは道長君。
「ごめん、言い過ぎた」
「いや、俺も。ごめん」
 ぎこちない仲直りにクラス中から拍手が送られる。小野君も嬉しそうだ。
 よかったよかった、よかったね、平穏ペア。おめでとう、小野君!
 この騒動に気を取られ、全員時間を気にしてなかった。チャイムが鳴ってハッとし、龍河先生が教室に入ってきてギョッとする。
 クラス全員が同じ方向に身体を向け、拍手する手の位置で固まっている。そんな俺らを見て、龍河先生もさすがに怪訝な表情を見せた。俺らは慌てて席に戻った。
 でもね先生、小野君が素晴らしく成長したんですよ。とクラス全員が声高らかに訴えたに違いない。
 放課後、放課後訪問禁止令が出る前にと、俺らは龍河先生のところにお邪魔した。そしていつもの視聴覚室でいつもの席。
 そういえば、と将太が口を開く。
「先生はお正月はどうされるんですか?」
「どうって、休むよ」
「夏休みのときみたいにどっか行かないんですか?」
「いや、今年は日本にいる。やりてえこともあるし」
「そうなんですか」
「先生って初詣行くんですか?」
「ああ、行くよ」
「へえ」
「ちょっと意外です」
「ん?」
「なんかそういうの気にしなさそうだったんで」
「気にするもなにも、日本人なら当たり前だろ。そういう風習を気に留めねえ奴もいるが、俺は大切だと思ってるよ。一年の終わりに感謝を伝えて、一年の始まりに祈願する。俺の場合はご利益のためというより、けじめみたいなもんだな」
「一年の終わりにも行くんですか?」
「年末詣って聞いたことねえか?」
「ありません」
「残念ながら」
「お初です」
「初詣ってのは一年の幸せを祈願するもんだろ?年末詣ってのは一年の感謝を伝えるもん」
「へえ。大晦日に行くんですか?」
「いや、冬至から大晦日の間だったかな、たしか」
「知らなかったです」
「勉強になったな」
「初詣だけでいいのかと思ってました」
「初詣だけで十分だよ。俺は二回行くのが沁みついてるってだけだ」
「昔からなんですか?」
「日本に来てからずっと続けてる。校長に毎年連れてかれるうちに、いつの間にか当たり前になってた」
「え、校長に連れてかれたんですか?」
「ああ、日本の年末年始の過ごし方を教えてやるとか言って」
 龍河先生は苦笑いを浮かべながら懐かしむように表情を和ませる。あったかい繋がりがそれだけで伝わってくる。
「面白い人ですね、校長って」
「変人だな、あの人は」と言うその顔はやっぱりあったかい。
「年末詣かあ。凌ちゃん、来年の年末行ってみようよ」
「うん、そうだな。今年は行けないけど、来年一緒に行こうか」
「そうしようそうしよう。初詣だけじゃなくて年末詣も毎年一緒に行くようにしようよ」
「せっかくならそうしたいな」
「うん、決まり」
「おい、俺を忘れてないか。っていうかなんだよ、毎年一緒に行ってるって。俺誘われたことねえぞ」
「だって、お参りする神社が違うじゃん」
「俺と将太はご近所さんだから同じだし」
「そういう問題じゃねえよ。なんで俺を誘わないんだって言ってんの」
「なんでって、ねえ?」と将太が俺に訊く。
「なんかもう一緒に行くのが当たり前だから、誘うとか誘わないとかそういう意識がないよな。十年以上続いてることだし」
「出たよ、幼馴染みのその感じ。俺を省くその感じ。寂しいわあ、悲しいわあ」
「将太、すごいめんどくさいんだけど」
「誘ってあげなよ。それで静かになるよ」
「先生、どう思いますか。友達だってのに仲間はずれです」
「ん?一緒に行きてえなら行きゃあいいじゃん」
「裕吾、お前のやっかみに先生を巻き込むな」
「裕ちゃん、一緒に行こう。来年からは年末と年始、駅で待ち合わせしよ」
「え、いいの?」
「なんでそこで遠慮すんだよ」
「いや、なんか恒例行事に俺が参加していいのかなって」
「いいに決まってんだろ、友達なんだから」
「そうだよ。友達なのになんで遠慮してんの」
「うん、じゃあそうする」
 照れて頷く裕吾を、将太と龍河先生と三人で笑い合った。
 そこでなにを思ったのか、裕吾が突然手を挙げるもんだから思わず指名してしまう。
「裕吾君、どうぞ」
「先生はクリスマスなにしてるんすか?」
「またその話かよ」
「気になるじゃないか。やっぱり彼女さんと一緒に過ごすんすか」
「いや、過ごさねえ」
「ええ!なんで!」
「なんで一緒にいなきゃなんねえんだよ」
 俺も将太も裕吾もちょっとだけぽかんとしてしまう。
 え、ふつうさ、クリスマスは一緒にいたいって思うんじゃないの?え、違うの?イケメンは違うの?
 俺の気持ちを将太が代弁してくれる。
「クリスマスは好きな人と過ごすっていうイメージが……」
「そうか?」
「それにさっき、風習は大切にするって言ってませんでしたっけ」
「日本のな。海外のは知らねえよ。そもそもクリスマスってのは恋人と過ごすもんじゃねえだろ。家族と過ごすもんだろ」
「なるほど」
「先生、俺は感動しました。世間の奴らに言ってやってくださいよ。クリスマスがなんの日なのか調べやがれって」
「すいません先生、先週あたりからずっとクリスマスにいちゃいちゃするカップルに妬いてるんです、こいつ」
「ご苦労だな」
「ほっといていいですから」
「なんだと?」
「でも先生、彼女さんは一緒にいたいみたいな感じないんですか?」
「ねえよ」
「即答ですね」
「誕生日はもちろん祝うが、ほかのそういうやつは興味ねえからな、お互い」
「はあ、そうなんですか」
「どっちにしろ仕事じゃねえかな」
「彼女さんお忙しいんですか?」
 俺がそう訊くと、龍河先生は拗ねた表情になって拗ねた口調で言った。
「すげえ忙しい。全然会えねえ」
 ぼふうううううんっ!
 なんて可愛いんだ。ちょっと、とんでもなく可愛い彼女さん、彼氏さんが拗ねてますよ。会いたがってますよ。っていうか、すっっっっごい可愛いんですけど!
 ああ、これはじっくり深く刺さってくる感じだ。ああやばい。可愛い、可愛すぎる。将太も裕吾もじわじわやられてる。
「それは、彼女さん大変ですね。早く会えるといいですね」
「すげえ会いてえよ」
 やばいな、そろそろ貫通しちゃいそうだけど、訊きたい。
「次、いつ会えそうなんですか?」
「明後日」
「え、もうすぐじゃないですか」
「あと二日もあんじゃん」
「いつぶりなんですか?」
「十月の終わりに会った以来」
「それはだいぶ前ですね」
「だろ?仕事だから仕方ねえけど」
「明後日楽しみですね」
「うん、早く抱きしめたい」
 どふわばああああああんっ!
 貫通するどころか吹き飛ばされましたあ!抱きしめたいって、そりゃそうだろうけど、さらりと言わないでえええ!
 ああ、あの感じで彼女さんに甘えるんだろうか。想像するだけで可愛い。きっと彼女さんも甘えるんだろうな。想像するだけで可愛い。ああああ!妄想が止まらない!
「せ、先生は、好きなクリスマスソングありますか?」
 このままじゃいけないと思ったのか、瀕死状態の裕吾が無理矢理話題を変えた。どういう話題の変え方?って思ったけど、今は正解な気がする。
「あ?」
「この前こいつらが俺に、山下達郎聴いて一人でクリスマス過ごせって言うもんですから」
「裕ちゃん、それじゃ先生意味わかんないよ」
「なんで」
「なんでがなんで。先生、裕ちゃんの脳内を説明しますと、この前みんなで話してるときに裕ちゃんがクリスマスを呪いはじめたんです。だから俺と凌ちゃんで、達郎を流しながら一人でチキンとケーキを食べて、クリスマスを楽しめばいいじゃんって勧めたんです。そしたら達郎はやだって言うから、マライアとワムと、竹内まりやとトナカイのやつはどうだって訊いたら、トナカイのやつならいい!俺にぴったりな歌だ!って言ってたんで、たぶんそこから繋がっての質問だと思います」
「そういうことっす」
「お前勉強はできんのにな」
 俺と将太は大爆笑。また言われちゃったね、裕吾。
「先生、見捨てないでください」
「大丈夫だよ裕ちゃん。誰も見捨てない」
「それがお前のいいとこなんだから、自信を持て」
「優しいなあお前らは。だから大好きだよ」
「はいはい」
「なんの話してたんだっけ?」
「クリスマスソング。あ、そういやお前らはどの歌が好きなんだよ」
「そうだなあ……聴いててぐっとくるのはジョンレノンかなあ」
「ああ、あれね。世界平和を願っちゃうよね、あれ聴くと」
「ジョンか、まあ将太っぽいな」
「凌ちゃんは?」
「うーん、なんだろ……あ、あれ好きだな、ポールマッカートニーのやつ。タイトルわかんないけど」
「ワンダフルクリスマスタイム」龍河先生がさらりと答えてくれた。「クリスマスソングならあれが一番好きかな、俺も」
 やった!一緒だ!とこんぐらいのことで喜んじゃう。
「クリスマスをただ楽しんでる感じも、メロディもいい」
「へえ」
「わかんねえ」
 首を傾げる将太と裕吾を見て、龍河先生がメロディに乗せて口ずさんだ。
「The moon is right. The spirits up. We're here tonight. And that's enough. Simply having a wonderful Christmastime」
 ぽうっとしてしまう。聴き惚れるとはこういうことだ。
 少ししゃがれた声は色っぽく、口ずさむ程度の歌声なのに声の奥に力強さのようなものがあって、それでいて滑らかに耳に残る。俺は全身に鳥肌を立てていた。こんな風に歌うだけで引き込まれてしまうなら、本気で歌ったらどれだけ魅了されるんだろう。
「聞いたことねえか?」
 訊かれた将太も裕吾も俺と同じくぽうっとしてしまっていて、龍河先生の声が聞こえてないようだ。
 そりゃそうなるよ。だって、すんごい歌うまいんだもん。さすがにもうないだろって思ってたのに、歌がうまいって、どこまでかっこいいんだこの人は。もういい加減にしてくれよ。お願いだから、これ以上惚れさせないでくれ。ああ、ダメだ、かっこよすぎる。
「ん?この曲じゃなかったか?」と今度は俺に訊いてくる。
「いえ、その曲です」まだ呆然とする俺。
「はっ!それ知ってます」やっと目が覚めた将太。
「好きですよ、その曲」すべてを諦めた裕吾。
「有名だからな」と言って、眉をひそめて俺らを眺め見る。「どうした」
「先生は自分のバンドで歌おうって思わないんですか?」
「ん?」
「だって、すごい歌うまいじゃないですか」
「うまい、うますぎる」
「十万石饅頭」
 ほら、裕吾がおかしくなっちゃった。
 龍河先生は裕吾を見て笑い、首を振った。
「俺はそういうのには向いてねえよ」
「ええええ?」
「さっきのでそんな風に思ってくれんなら、俺の周りにいる奴らの歌聴いたら腰抜かすぞ、お前ら」
「うわあ、聴いてみたい」
「生で聴くとやっぱ違うんだろうね」
「いやあ、ずるい」
「裕吾、早く帰ってこーい」
「そのうち戻ってくるよ」
「そうだな」俺もまだふわふわしてるけど。「あ、そうだ。ずっと訊いてみたかったんですけど、先生たちの音楽がインストなのってなんか理由があるんですか?」
「あ、それ俺も気になる」
「理由なんてねえよ。気付いたら今の音楽になってた。今の奴らと知り合った頃は歌のある音楽もやってたが、曲作ってるときに言葉が邪魔だなって思ったんだよ。それからはずっと音だけで作ってる」
「……言葉が邪魔?」難しい顔で将太が訊く。
「言葉がなきゃダメな音楽もあるし、言葉があったほうが作り手の想いは伝わりやすいとは思う。だが、俺らは音楽をもっと自由に感じてほしいって思ってる。俺らの音楽で同じ曲を聴いたとしても、楽しいと思う奴もいれば寂しいと思う奴もいる。一曲一曲に想いを込めて作ってるはいるが、それをどう感じるかは自由だ。俺らが込めた想いとはまったく違うことを感じても、俺らの想いを感じてくれたとしても、俺らはそれでいい。言葉があることで縛り付けたくねえんだよ。それに、言葉がないからこそ、俺らの音楽はより深く伝わると思ってる」
 なんとなくわかる。
 言葉がないからこそ深く伝わる。言葉が邪魔なときがある。
「先生の言ってることが全部わかったわけじゃないですけど、先生たちの音楽聴いてると、なんか、伝わります。なんて言うか、先生たちが生み出す音はすごく心地いいというか、身体の中に残るっていうか。俺、ほんとに毎日先生たちの音楽聴いてるんですけど、それでも無性に聴きたくなるときがあって、ただ好きだからだと思ってたけど、もしかしたら、そういう先生たちの想いがあるからかもしれないです。先生たちが縛られてないからこそ、俺も素直にその音を感じることができて、だからすごく響いて、惹かれるのかなって」
 はっ!また勝手にぺらぺら喋ってしまった!と焦って三人を見るが、将太も、正気に戻った裕吾も、龍河先生も、微笑ましいものを見るように俺の言葉を聞いてくれていた。龍河先生の目元がさらに和らぐ。
「どう感じるかは凌の自由だ。だが、凌がそう感じてくれてるのはすげえ嬉しい」
 へへ。照れてちゃう。
 一人照れてると、将太が夢見るように言った。
「先生のライブまた行きたいね。いつになってもいいから、また三人で行こうね」
 俺も裕吾も笑って頷いた。

 期末テストすべての日程を終えてすぐの日曜日。
 俺らの連絡手段と言えばもっぱらLINEで、電話が掛かってくることはあんまりない。それがこの日の夕方、将太から着信があった。
「もしもーし」
『あ、凌ちゃん。今平気?』
「うん、どうした?」
『…………』
「将太?どうした?」
『……あのさ、ちょっとだけ会えないかな』
「うん、いいけど。今から?」
『うん。あ、忙しいなら大丈夫なんだけど』
「忙しくなんかないよ。参考書広げてるだけでなんもしてない」
『そっか』
「どこ行けばいい?っていうか、将太今どこいんの?」
『中央公園』
「ああ、あそこか。そこ行こうか?」
『ううん、凌ちゃんちの近くでいいよ』
「いいよそこで。十分ぐらいで行くから待ってて」
『うん、わかった』
「じゃあ切るな」
 スマホをタップして、そのまま画面を眺めてしまう。
 なんかおかしい。なんだろう。まさか、おじさんかおばさんになんかあったかな。
 ざわつく気持ちを抑えながら、上着を羽織って家を出た。うちから公園までは歩いて十分ぐらい、急げば六分ぐらい。
 将太と待ち合わせした中央公園は長方形の形をした公園で、それなりの広さがある。朝は近所のお年寄りが運動してたり散歩してたり、昼間は近所のママさんたちが子供を遊ばせたりしているが、暗くなりはじめるこの時間帯にはほとんど誰もいなくなってしまう。犬の散歩をしてる人が通るぐらいだ。四隅に出入りするところが設けられ、俺が今向かってる出入り箇所からは砂場と鉄棒と雲梯が見える。中を覗いて右に目を向ければ、手前にブランコと滑り台、奥に動物たちをモチーフにした遊具が並んでいる。公園を囲むようにベンチが全部で十基あり、息を切らして公園に着くと、将太は滑り台近くのベンチに座っていた。
 息を整えながら将太に近づく。「将太」と呼びかけると、将太の顔が上がって俺を見た。
「凌ちゃん、ごめん呼び出しちゃって。っていうか、走ってきたの?」
「うん、寒かったし」
 バレバレの言い訳に将太が笑う。その笑顔に少しだけほっとして、俺は将太の隣に腰かけた。将太から話し出すのを待ったほうがいいかなと思って待ってると、白い息を吐き出して将太がぽつりと言った。
「裕ちゃんに伝えたんだ」
 将太の横顔を見る。少し微笑み、少し先を見ている。
「……そっか」
「今日、たまたま本屋で会ったんだ。隣駅の大きい本屋。本買ったあと、飲み物買って近くのベンチで喋ってたんだ。そしたら、なんか急に言いたくなっちゃって」
 ――裕ちゃん、俺さ、裕ちゃんのことが好きなんだ。
「はじめはどういう意味なのかわかってなくて、だから素直な気持ちを隠さずに伝えて、そしたら、驚いてたけど、ありがとうって。嬉しいって」
「うん」
「でも、俺の気持ちには応えられないって」
「うん」
「これからも友達でいてくれるかって」
「うん」
「だから、当たり前だよって」
「うん」
「すごく怖かったけど、裕ちゃん、俺のこと拒絶しないでくれた」
「それこそ当たり前だろ。どんなことがあったって、俺らは友達なんだから」
 ほんの少しだけ口を閉ざし、またぽつりと将太が言った。
「凌ちゃん」
「うん?」
「ちょっとだけ泣いてもいいかな?」
 俺は将太の肩を抱き寄せた。
「ちょっとじゃなくて、いっぱい泣いていいよ」
 俺に寄りかかりながら、将太が泣く。たまに鼻を啜って肩を揺らして、静かに涙を流した。空が夜になり、星が綺麗に輝きはじめるまで将太は俺に寄りかかっていた。
「ありがとう」
「こういうとき男はダメだな。ティッシュもなんも持ってない」
「あはは!そうだね」
 頬を拭いながら笑う将太に強さを感じた。それと同時に裕吾の強さも感じた。俺たちは変わらないと、確信した。
「少しは落ち着いた?」
「うん、ありがとう」
「将太から電話貰ってなんかあったなとは思ったけど、まさか告ってるとは思わなかった」
「自分でも告るとは思ってなかった」
「将太が衝動的に言っちゃうとはねえ。俺と先生の気持ちがわかったか」
「うん、よくわかった」
「そりゃよかった」
「でも後悔してない。言ってよかったし、なんかすっきりした」
 その言葉通り、将太の顔には晴れ晴れとした表情があって、こいつすごいなと思わず笑ってしまう。
「そっか」
「うん、凌ちゃんにも聞いてもらえたし。凌ちゃんには助けてもらってばっかだよ」
「助けた覚えがない」
「たくさんあるよ。どれも忘れられないけど、一番忘れられないのはうちをバカにされたときのことかな」
「将太んちを?なんだよそれ」
「ほんとに覚えてないんだね」と将太は呆れて笑う。「中二のとき、クラスに佐野っていたの覚えてる?」
「佐野?」記憶を探る。中二?佐野?中二、佐野、中二、佐野……。「ああああああ、あいつか。あのぼんぼん」
 不快で顔がつい歪んでしまう。俺の顔を見て将太が声を上げて笑った。
「そうそう、そのぼんぼん。そのぼんぼんがうちの飯屋をバカにしたの覚えてない?」
「覚えてるよ。すんごい腹立ったもん。思い出したらまた腹立ってきた」
「あんときも凌ちゃんが助けてくれたんだよ」
「なんかしたっけ」
「ほら、ぼんぼんが俺んちを『汚い飯屋』、『ちんけな商売』って笑ってバカにしたとき――」
 ――お前、将太んちで飯食ったことあんのか?
 ――食ったこともねえのになんでそんなこと言えんの?
 ――一生懸命働いてる人のことをそうやって笑ってバカにしてるお前のほうが汚いしちんけだろ。
 ――将太んちの飯はすげえうまいんだよ。俺は将太んちの飯屋が大好きだ。おじさんとおばさんも大好きだ。お前がそうやってでかい声で貶すなら、俺はそれ以上のでかい声で大好きだって叫ぶよ。
「すごくすごく嬉しかった。ぼんぼんが言ったことなんて忘れちゃうぐらい、すごくすごく嬉しかった」
 そんなことを言った覚えはたしかにあるが、こうして聞かされるとなんだか恥ずかしい。冬空の下だというのに頬が熱い。
「あれだな、若さ溢れる感じだな」
「凌ちゃんは今も昔も変わらない。もし今同じこと言われても、凌ちゃんは同じことを言ってくれる」
「それは成長してないってことじゃないか?」
「違うよ」と笑う。「うちの親も泣いてた」
「え、おじさんたちに言ったの?それはまた、恥ずかしい」
「そんとき言われたんだ。自分のために本気で怒ってくれる凌ちゃんを大切にしなさい。凌ちゃんがこの先なにかに傷つけられたり困ってたりしてたら、真っ先に駆け付けなさい。俺にとって凌ちゃんは一生の友達なんだからって。その通りだなって思った」
 将太は俺に笑いかけると、顔を前に戻して言った。
「凌ちゃんは、俺にとって一生の友達だ」
「おいおい、なんだよ急に」照れるじゃないか。でも嬉しいから俺も前を向いて言った。「俺にとってもそうだよ。将太も裕吾も、一生の友達だ。将太にいたっちゃあもう家族だよ」
「うん、たしかに。凌ちゃんちとうちとで大家族だね」
「賑やかでいいじゃん」
「うん」と明るい声で答えた将太は、「あ~あ」と明るくため息をつく。
「なんだよ」
「なんかさ、凌ちゃんにはいつも助けられてばっかで、俺は凌ちゃんになんもしてあげられてないなあっていつも思う」
「なに言ってんの。将太が気付いてないだけで、俺は将太に何度も助けられてる。何度もっていうか、将太が友達ってだけで俺は嬉しいし、将太がそばにいるってだけで俺はいつも救われてる。将太は俺のためにいろいろしてくれてるけど、たとえなんもしなくたって、将太という存在が俺にとって大切なんだよ。だから余計なこと考えないで、ずっと俺の友達でいろ」
 将太に目を向けると、将太は視線を逸らしてすぐに俯いてしまった。ベンチの端に手を置き、覗き込むようにして足元を見下ろす。一度だけ鼻を啜って、将太は空を見上げた。
「友達っていいね」
「うん、最高だ」
 笑った将太の目尻から涙が零れる。俺も空を見上げた。白い息が二つ空に消えていく。あっという間に消えていく。
 しばらく星を眺め、将太が立ち上がった。
「帰ろっか」
「うん」
 公園の端まで並んで歩く。
「すごい身体冷えたね」
「帰ったらすぐ風呂だな」
「そうだね」
「明日緊張すんなあ」
「なんで」
「裕吾の顔見たら笑っちゃいそう」
「俺も笑っちゃう」
「二人で笑ってやろうぜ」
「うん、そうしよう」
「楽しみになってきた」
「先生にも報告しなきゃ。裕ちゃんの前で報告してやろ」
「あっはは!それいいな」
 二人で肩をすぼめながらのんびり歩き、分かれ道で将太が立ち止まる。
「凌ちゃん、来てくれてありがとう」
「一生の友達はどこへでも駆けつけんだよ」
「そっか。じゃあ俺もすぐに駆けつけるから」
「うん、頼んだ」
「それじゃあまた明日」
「うん、また明日」
 いつものように笑い合って、軽く手を挙げて背中を向ける。
 明日を待ちわびて、夜空を見上げた。

 いつもなら俺の少しあとに将太が教室に入ってくるはずなのに、裕吾が先に入ってきた。たまにあることだけど、珍しい。
「あれ、早いな」
「あ?いつも通りだよ」
「将太が来てないだけか」
 裕吾がパチパチ瞬きする。にやけてしまう。
「なんだよ」
「いや、将太遅いなあと思って」
「たしかに、珍しいな」
 ダメだ、どうやってもにやけてしまう。
「なんなんだよ」
「いや、将太いい男なんだけどなあと思って。もったいないなあ」
 裕吾の顔が赤くなる。
 こいつこんなに可愛かったっけな。
「聞いたのか」
「うん。昨日将太から連絡があって、近くの公園で会って聞いた」
「……そうか」
「将太がお前を想ってることは少し前に打ち明けられてたんだ。まさかこんなに早く想いを伝えるとは思ってなかったけど」
「……そうか」
「大丈夫だよ。そりゃまあ、失恋したんだからまったく無傷ってことじゃないけど、将太は大丈夫。それになんかすっきりした顔してたよ。言ってよかったって。裕吾がちゃんと気持ちを受け止めてくれて、ちゃんと断ってくれて、友達でいたいって言ってくれて、喜んでた。俺も嬉しかった」
「そうか」と裕吾もほっとした表情を見せた。
「今日は二人で裕吾のこと笑ってやろうって」
「なんでだよ」
「あと、裕吾の前で先生に報告するってさ」
「ええ?それは、照れちゃう」
「でもその本人が来ないな」
「寝坊か?」
「失恋しちゃったからなあ」
「それを言うな」
「それか昨日ずっと外で喋ってたから風邪ひいたかな」
「昨日寒かったからあり得るな」
「LINEしてみる」
〈おはよう〉
〈どうした?具合悪い?〉
〈大丈夫か?〉
 朝のHRがはじまるまで五分。既読にもならず、俺も裕吾も首を傾げているうちにチャイムが鳴ってしまった。
 具合が悪けりゃスマホも見れないか。
 担任が教室に入ってきた。しかしいつもと様子が違う。顔色が悪く、緊張しているような硬い表情。教卓の後ろに立つと、表情と同じぐらい硬い声音で話しはじめた。
「とても辛いことを伝えなくちゃいけない。渡真利が昨夜交通事故に遭って、今朝亡くなった」
 ………………は?
「先生もさっき連絡を貰って、正直すごく動揺している。渡真利と親しかった者は先生以上だろう」
 担任と目が合ったような気もするが、よくわからない。
「通夜は明日、葬式は明後日行われるそうだ」
 なに言ってんの。
 は?
 将太は?
 通夜?葬式?
 なんで?
 だって俺。
 なに言ってんの。
 そんなわけ。
 だって。
 将太は?
 は?
 事故?
 そんなの、嘘だ。
 絶対に、嘘だ。
 そんなこと、あるわけない。
 絶対に、あるわけない。
 だって俺は昨日――。
 なにかがせり上がってきて、堪えきれずに胃の中のものをその場に吐き出した。それからは覚えていない。
 見覚えのない天井と微かなチャイムの音で、ああ保健室か、と頭にぼんやり浮かぶ。何時なのかわからない。たぶん眠ってたんだろう。はっきりしない記憶が少しずつ見えてくる。気配を感じて顔を動かすと、すぐそばに龍河先生が座っていて、膝に肘をついて頭を抱えていた。俺が起きたことに気が付いたのか、龍河先生の顔が上がる。
「凌」
 その声はいつもの落ち着いた声じゃなく、どこか苦しさがあって、俺の記憶は鮮明になっていく。だけど、なにか大事なとこだけ抜けている気がする。
「先生」
「聞いた」
「…………」
「残念だ」
 残念?
 残念って、なに。
 将太?
「先生」
「ん?」
「俺、昨日、将太と会ったんです。夕方電話がきて、公園で、会ったんです。裕吾に気持ちを伝えたって、想いは通じなかったけど、裕吾はありがとうって、嬉しいって言ってくれて、友達でいてくれるかって言ってくれて、だから、当たり前じゃんって言ったって。すっきりしたって、晴れ晴れしてて、でも、ちょっとだけ泣いていい?って訊くから、いっぱい泣けって抱き寄せて、そしたらいっぱい泣いて、でも、後悔してないって、笑ってたんです。昔の話になって、俺に助けてもらったって、俺は一生の友達だって、だから俺も、将太は一生の友達だって、ずっと友達でいろって言って、そしたら、友達っていいねって、泣きながら笑ったんです。帰るとき、明日裕吾を二人で笑おうって、約束したんです。先生に報告しようって、約束したんです。また明日って、約束したんです。なのに、将太、いくら待っても来ないんです。将太は、約束破るような奴じゃないのに、来てくれないんです。今まで、約束破ったことないのに、将太の奴、はじめて約束破りやがった」
 ゆっくりと龍河先生に顔を向ける。
「先生、将太は、死んだんですか」
 どうしてそんなに苦しそうなんですか。
「ああ」
 先生?
「死んだ」
 死んだ?
 龍河先生の声は耳に届いたけど、それだけだった。
 俺はただ天井を眺めていた。
 俺の頭を包む、龍河先生の手があたたかかった。

 涙が出ない。涙が滲むこともない。俺の目はいつも乾いてる。
 将太が死んだ。
 それはじわじわと脳みそに沁みていって、脳みそが勝手に認識した。だから将太が死んだことはわかってるのに、なんかよくわからなくて、母さんが死んだときはあんなに泣いたのに、俺は泣けない。
 なんでだろう。
 今も、クラスメイトの大半が涙を見せていて、祭壇前に呆然と座るおじさんとおばさんも憔悴しきった顔を涙で濡らしている。裕吾もずっと泣いている。なのに俺は泣けない。
 なんでだろう。
 おじさんとおばさんがあんなに辛そうなのに、裕吾が顔を上げられないのに、俺は掛ける言葉も出てこなくて、そもそもなにを言えばいいのかわからない。泣けない俺が、なにを言えるんだろう。
 将太のことを想っても、将太の声を聴こうとしても、将太の笑った顔を思い出しても、公園でのやりとりを思い返しても、俺は泣けない。
 なんでだろう。
 俺は悲しくないのかな。将太がいなくなってもなんとも思ってないのかな。俺にとって将太はとても大切な存在だったのに、ほんとはそうじゃなかったのかな。俺はどうしちゃったんだろう。
 泣きたいのに、泣けない。
 なにかが突っかかって、泣けない。
 息ができないぐらい苦しいのに、泣けない。
 違うんだって言いたい。大声で叫びたい。でもその声すら塞がれて、俺はなにもできない。
 将太、怒ってるかな。ねえ将太、怒ってる?
 こんな薄情な友達でごめん。一生の友達って言ってくれたのにごめん。でも俺は、将太のこと一生の友達だって心の底から思ってるんだよ。信じてよ。信じてくれる?
 ねえ、将太。俺、なんか変なんだ。まるで感情が抜け落ちたみたいに、からっぽなんだ。教えてよ。将太ならこれがなんなのかわかるでしょ。いつもみたいに、凌ちゃんはさ、って俺のことを教えてよ。将太は俺より俺のことわかってくれてるんだから。将太がいないと、俺は俺がわからないよ。助けてよ。いつもみたいに、俺を助けてよ。すぐに駆けつけるって約束したのに、どうしていないの。どうしてどこにもいないの。ねえ、俺を助けて。
 裕吾が泣いてる。慰めないと。でも言葉がなにも思い浮かばなくて、背中を擦ることしかできない。どうしてそんなに泣けるの。どうしたらそんなに泣けるの。
 なんで将太がいないんだ。なんで母さんがいないんだ。俺のそばにいる人がいなくなる。なんで。俺がなんかしたのかな。俺がいけないのかな。俺がいけないなら、俺を殺せよ。誰だか知んないけど、俺のせいなら、俺をさっさと殺せよ。泣いてくれる人がこんなにいる将太を、母さんを、なんで殺したんだよ。俺を殺せよ。俺の大切な人を返せよ。
 冬の空が、よく晴れた空が広がってる。いい天気だなって思う。
 そういえば、クリスマス三人で集まろうって言ってたっけ。あれ、クリスマスってたしか月曜だったよな。ってことはいつものマックか。あ、それともイヴに集まろうってことなのかな。どっちなんだろう。でも、月曜なら放課後先生んとこ行って、いつかみたいにピザとるのもいいかも。ちょうど先生もいるし、裕吾に訊いてみよう。
「裕吾」
「ん?」
 涙で濡れた目で俺を見る。隣にいる龍河先生も俺を見た。
「クリスマスは日曜と月曜どっちで集まる?」
「え?」
「俺としては月曜のほうがいいと思うんだけど。授業は午前中で終わるだろ?だから昼ぐらいに登校してさ、先生と四人で集まったほうが楽しくないか?この前みたいにピザでもいいし、違うのでもいいし、先生と一緒に昼飯食って、せっかくだからケーキ食おうよ。三人で待ち合わせして駅前で買っててさ。将太が前に言ってたんだよ、あれはすごい楽しかったって。俺も楽しかったし、裕吾も楽しかっただろ?」
「凌?」
「だってマックってのも味気ないし、せっかくならそのほうが楽しいじゃん。あとで将太にも訊いてみるけど、どう?」
「凌……」
「うん?あ、そうか。すいません先生、勝手に。どうですか、クリスマスを祝うって訳じゃないけど、しばらく会えなくなっちゃいますし、四人でケーキ食べましょうよ」
 裕吾が龍河先生を見て、龍河先生は俺を見てる。
 裕吾がまた泣きだして、龍河先生は俺を見てる。
「どうしたんですか?」
 龍河先生の右手が俺の頬を包む。俺の目を覗き込むと、言い聞かすように俺の名前を呼んだ。
「凌」
「はい」
「将太は、もういねえんだ」
「はい、知ってます」
「将太は、死んだんだ」
「はい、知ってます」
 視線を落とした龍河先生は、頬に添えた右手を俺の後頭部に回すと、何度もそうしてくれたように胸に引き寄せて、自分の頬を俺の頭に預けた。
 なんで抱きしめるんだろう。ああ、そうか。先生も泣きたいんだ。そうだよな、アポロ仲間だもんな。
 俺は龍河先生の背中に腕を回して抱きしめた。
「大丈夫ですか?先生も、泣いていいんですよ」
 少しの沈黙のあと、俺の耳元で龍河先生の掠れた声が聞こえた。
「ああ、そうだな」
「はい」
 また少しの沈黙。
 龍河先生の唇が髪に触れてる。いつもならドキドキしちゃうのに、今はなんとも感じない。そんなこと今までなかったのに、やっぱりなんかおかしい。
 なんて思ってると、龍河先生の身体が少しだけ離れた。茶色がかった瞳が目の前にあって、そこに俺が映ってる。
「凌」
「はい」
「将太は死んだ」
「はい」
「これが現実だ」
「はい」
「凌の心は、まだそれに追いつくことができてねえ状態だ」
 俺の心。
「心が追いつくまで、ゆっくりでいい」
 追いつく。
「だが、ゆっくりでも少しずつでも、必ず受け入れなきゃなんねえ」
 受け入れる。
「凌の心が追いついて、目の前にある事実が現実になったとき、絶対に下を向くな」
 事実が現実。
「苦しくても、必ず前を向け」
 前を向く。
「凌ならできる」
 できる。
「先生」
 もしかして。
「将太は、死んだんですか?」
 うそ、だろ。
「ああ」
 うそだろ。
「死んだ」
 そんなこと、あるわけない。
 そんなこと、あり得ない。
 だって将太は、俺の友達だ。
「違う。将太は死んだけど、違う。死んでない。死ぬわけない。だって、約束したことがたくさんあるんだ。クリスマスだって、先生のライブだって、大学だって旅行だって初詣だって、俺と将太は一生の友達なんだ。俺が困ってたらすぐに駆けつけてくれるんだ。だから違う。死なない。そんなことあるわけない。俺の友達なんだ。俺の大切な友達なんだ。俺の家族なんだ。だから――」
「凌」
 頬が温もりで包まれる。
「将太は死んだんだ」
 そう、知ってる。
「将太」
 そう、俺の一生の友達。
「死んだのか」
 そう、交通事故で。
「将太は死んだのか」
 そう、知ってるだろ。
「将太が」
 なんで。
「どうして」
 俺じゃなかったんだ。
「あの日、俺が死ねばよかっ――」
「凌っ!」と肩を揺さぶられる。
 はじめて聞く厳しい声。俺の視線が上がり、同じぐらい厳しい視線とぶつかった。
「そんなクソみてえなこと二度と言うんじゃねえ」
 すごく怒ってるのにすごく悲しそう。俺は間違ったことを言ったのかな。
「……すいません」
 肩を掴む手が離れて、その手がまた頬を包んだ。俺を見る目にもう怒りはないけど、強い憂いがある。
「凌、俺が言ったこと、忘れんじゃねえぞ」
 こくんと頷いた。
 覚えてるけど、今はよくわからない。
「俺、帰ります」
 裕吾の声が聞こえた気がしたけど、それもよくわからない。
 結局俺は、一度も泣けなかった。

 足音が聞こえる。ドアの前で止まって、ノックの音。ドアが開いた。
「凌、お父さん仕事行ってくるから」
「うん」
「少しは眠ったのか?」
「うん」
「ごはん食べれるか?」
「うん」
「じゃあ、冷蔵庫に入ってるから、温めて食べるんだよ」
「うん」
「あと、買い物頼めるか?」
「うん」
「お金と一緒にメモが置いてあるから、それを買って来てくれるか?」
「うん」
「天気もいいし、ついでにどっか出かけたらどうだ」
「うん」
「……じゃあ、行ってくるな」
「うん」
 ドアが閉じ、足音が遠ざかっていく。ベッドに頭を乗せて目を閉じる。眠くはないのに、瞼が勝手に閉じていく。ずっとそうして、車のクラクションで瞼が持ち上がった。
 何時だろう。
 床に落ちてるスマホを手に取ったが、画面が真っ暗で時間がわからない。
 そうだ、充電が切れたんだ。ずっとスマホが震えてたけど、おかげでそれももうない。とても静かだ。
 ベッドに身体を押し付けながらゆっくりと立ち上がり、上着を羽織る。一階に下りて、ダイニングテーブルに置いてあるお金とメモをポケットに突っ込んでから時計を見ると、もうすぐ十二時になるところだった。
 小さい頃母さんと手を繋いで歩いた道。
 毎日のように将太と一緒に帰った道。
 学校帰りに母さんの背中を見つけた道。
 ふざけながら将太と笑い合った道。
 何度も母さんと来たスーパー。
 ちょくちょく将太と寄り道した駄菓子屋。
 太っちゃうって言いながら母さんと食べたアイスクリーム。
 小学生んとき将太と見つけた秘密の空き地。
 毎年みんなで一緒に詣でた神社。
 小さい頃みんなで一緒に遊んだ公園。
 最後に将太と会った、笑い合った公園。
 どこもかしこも母さんと将太がいる。
「凌」
「凌ちゃん」
 呼ばれた気がして振り向くけど、誰もいなかった。
 道の先に姿が見えた気がして目を凝らすけど、誰もいなかった。
 受け入れたはずの事実さえも俺にはもう見えない。
 母さんも将太もどこにもいない。
 二人はもういない。
 龍河先生の声がする。だけど、なにを言ってるのか聞き取れなかった。すごく大切なことを言われた気がするのに、その声はぼやけてて、遠くて、いつの間にか消えてしまう。
 助けてほしい。誰か、俺を助けて。
 誰も助けてくれるわけない。俺をいつも守ってくれた母さんは、駆けつけてくれるはずの将太は、いないんだもの。
 ほんとにこのまますべてが終わってしまえばいいのに。
 そう思った途端、誰かの叱る声が聞こえた。いろんな声が重なって、誰だかわからない。でもきっとこの声は、俺にとってとても大切な人なんだろうなって、なんとなくそう思った。

≫≫ 一月へつづく


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