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なんとなく vol.7

九月

 新学期になってすぐ、席替えがあった。
 将太は廊下側二列目の前から三番目、裕吾は窓際の一番後ろ、俺は窓際二列目の前から二番前。
 ああ、教卓から少し遠くなってしまった。でもまだ近いからいいか。この距離なら先生の顔はよく見える。
 ちなみに、俺が座ってた席には小野君が座ってる。あの日以来、小野君は変わった。英語以外の教科でも真面目に授業を受け、スマホの着信音が鳴ることもない。前を向いて先生の話を聴き、黒板に書かれた文字、先生の言葉をノートに書き写している。
 すごいね、人って変わろうと思えば変われるんだね。小野君、教えてくれてありがとう、とクラス全員が感銘を受けているに違いない。
 しかし変わらないものもある。そう、新学期になろうと、龍河先生のかっこよさは変わらない。むしろさらに魅力が増しているように見える。それは龍河先生との距離が近づいたからなのか、それとも俺の気持ちの問題か。
 肉食動物たちも変わらない。懲りもせず、いつ何時も目を光らせている。以前のようなあからさまな行動をとることは少なくなったが、龍河先生が狙われていることに変わりはない。そろそろ気付けよ、諦めろよ、と思わずにはいられない。
 九月も一週間が過ぎ、やっと学生の生活リズムを思い出してきた今日この頃。すべての授業を終え、俺らは下駄箱がある二階から地上に下り立とうと、仲良しこよしで三人並んで階段を下りていた。
 すると、愛しの龍河先生を発見した。しかも校長と一緒にいるではないか。どうやら立ち話をしているらしい。なんてレアな場面に遭遇したんだ!と感動すら覚えたが、俺らの足はぎこちなく階段の一段一段を踏みしめていた。
 今すぐにでも龍河先生の元へと駆け出したい気持ちと、校長がいることに躊躇する気持ちとで揺れている。そうこうするうちに俺らは地面を踏んでいて、二人はもう目の前。そうなると二人も俺らに気付いてしまう。
 俺らに気付いた龍河先生が校長になにかを告げる。校長が俺らを見て、「ああ~!」みたいな顔になった。
 なにを言ったんだ。一体、なにを告げ口したんだ。
「凌」と龍河先生に呼ばれて手招きされる。行かざるを得ない。龍河先生の「おいで」を無視することなんてできない。後ずさろうとする将太と裕吾の腕を掴み、俺は二人の元へと歩み寄った。ぎくしゃくと会釈をする俺らに、校長の満面の笑みが向けられる。
「君たちが噂の」
「……噂?」
 校長と話すなんてはじめてで、どうしていいかわからない。っていうか、噂ってなんですか。
「君たちのことは龍河先生から聞いてるよ。どうも、いいことを言う、適当な校長です」
 はうっ!そこか!
 俺の見開いた目は勢いよく龍河先生へと向けられた。笑ってる。とっても楽しそうに笑ってる。
「いや、あの、それはなんというか……」
「あっはっはっはっは!冗談冗談!」
「はあ」
「すごく面白くて可愛い生徒がいるってね。まっすぐで一生懸命で思いやりがある、愉快で可愛い生徒たちがいるから楽しいって話してたんだ」
「え……」
 もう一度龍河先生に俺の、俺らの顔が向く。照れるわけでもなく、それが当たり前のように微笑んでいる。
「一年間だけの教員生活で、君たちのような生徒に出会えて運がいい。ちゃんと卒業まで見守ってやってくれよ」
「もちろん」
 これも当たり前のように答えてくれる。
 ああ、先生、俺の心には今、感動の波が押し寄せています。泣き虫凌ちゃんって呼ばれてもいいから、泣いてもいいですか。
「普段はいい奴なんだがたまに乱暴になるから、いじめられたら私のとこにおいで」
「校長先生、もういじめられてます」と言ったら、龍河先生に尻を軽く蹴られた。「こんな感じで」
 目の前で尻を蹴られたってのに、校長は「あっはっはっはっは!」と豪快に笑うだけだった。なんもしてくんないじゃん、なんて思うわけなく、校長と龍河先生の関係がすごくいいものなんだってことが改めてわかって、校長の隣に立つ龍河先生がすごく穏やかな顔をしていて、俺は嬉しかった。飲み屋で聞いた話の影響もあるけど、校長のこの気さくな感じが俺は好きだった。
 俺らがそろそろ、と帰りかけたとき、それは聞こえた。
「待て!どうしたっていうんだ!もう走りたくないなんて理由じゃ俺は納得できんぞ!」
 声のほうを見ると、ジャージを着た男の人が制服を着た生徒の腕を掴んで行かせまいとしている。たしかあれは陸上部のコーチだったような。コーチだと思われる男の人の後ろにトレーニングウェアを着た生徒が五人、心配そうな表情でどうすることもできないままそこに佇んでいる。どの生徒も知らない顔だ。一年か二年だろう。
 教員と生徒が揉めていたら校長として放っておくわけにはいかない。校長は龍河先生に「行こう」と言って歩き出し、龍河先生はこれといった感情も見せずに校長の後を追う。このまましれっと帰るのも気が引けて、俺らは顔を見合わせてから二人の後をおずおずとついていった。
「田茂さん、どうされました」
 校長の声にハッとして、田茂コーチは慌てて目の前の生徒から手を放した。
「校長、これは――」
「今は田茂さんの行為を責めているわけではありません。理由があってのことですか?」
 田茂コーチはちらっとその生徒を見やって、ためらいがちに話しはじめた。
「いや、その、こいつ――野崎が部活を辞めると言い出しまして。理由を訊くと『もう走りたくないだけだ』としか言わず、走りたくなくなった理由を訊いてもそれの繰り返しで、私としても納得できなくてつい」
「なるほど。しかし、田茂さんは彼が走りたくなくなった理由について、察しがついているのではないですか?」
 え?そうなの?と俺は思うが、どうやら的を得ていたらしい。田茂コーチはもう一度その生徒を一瞥すると、肩の力を抜くように息を吐き出した。問題の生徒は誰とも目を合わせようとせず、どこか拗ねた様子で目を伏せている。
「夏の大会で、勝てなかったんです。これまで野崎は上位の成績を残してきました。優勝経験もあります。だけど今回の大会では予選落ちしてしまって、たぶんそれで――」
「違います」
 即座に否定することが田茂コーチの懸念を肯定していた。今まで味わったことのない敗北感が、彼からやる気を削いでしまったんだろう。
「そんなんじゃありません。ただ走りたくなくなっただけです。とくに理由なんてありません」
「野崎、これまで一生懸命向き合ってきたことを、理由もなく辞めようだなんて思うわけがない。今回の大会はたしかに悔しい結果だったが、誰だって一度は挫折を味わうときがあるんだ。どんなに努力してもそれが結果に結びつかないこともある。だけどな、それでも這い上がろうとする奴が強くなれるんだよ。お前の走りには力があるし未来がある。こんなとこで諦めないでくれ」
「這い上がりたいなんて俺は思わない。だからほっといてください」
「野崎!」
「うるさいな!陸上を続けるかどうかは俺の勝手じゃないですか!」
「野崎――」
「辞める理由?そんなに聞きたいなら教えてあげますよ。コーチの指導方法が俺には合わないんです。だから俺のタイムも縮まらない。ほかの奴らだって俺と同じこと思ってますよきっと。訊いてみたらどうですか」
 歪んだ笑みを浮かべて、田茂コーチの後ろに並ぶ仲間に視線を送る。
 おいおいおい、野崎君。今のはよろしくないぞ。ほら、仲間のみんなが困ってるじゃん。田茂コーチだってショック受けちゃってるじゃん。野崎君の気持ちもわからなくはないけど、今のはよくないぞ。
 野崎君の思惑としてはほかの五人がなにも答えられず、この場を気まずい雰囲気にしたかったんだろうが、しかし残念、そうはならなかった。後ろに並ぶ生徒のうちの一人が、野崎君を真っ直ぐ見据えて言った。
「俺はそんなこと思ってないよ。俺もタイムが縮まらなくて悩んだことあるけど、田茂コーチの指導方法が間違ってるとは思えない。たしかに、指導方法が合わないこともあるだろうし、指導方法が間違ってるチームもあるかもしれないけど、田茂コーチはちゃんと一人一人を見て指導してくれてる。タイムが縮まらなかったのは俺自身の問題であって、田茂コーチの指導方法が原因じゃない。実際に俺は今タイムが縮んでる。それは田茂コーチが不調だった俺とちゃんと向き合ってくれたからだ」
 田茂コーチ感動中。部外者なのに俺も感動中。名前はわからないけど、その通りだよ救世主君。
 野崎君はというと、思わぬ反撃に顔を赤らめ屈辱のご様子。誰もがこの状況をどうするべきか悩み、押し黙る中、龍河先生の冷めた声が響いた。
「そんな奴、辞めてなんか問題ありますか?」
「え?」
 声に出したのは田茂コーチだけだったが、ここにいる全員が目をひん剥いたに違いない。あ、校長は違うかも。
「自分の不甲斐なさを他人のせいにして、自分よがりな考えを他人に押し付けるような奴、必要ですか?」
「……」
「陸上は個人種目かもしれないが、陸上部はチームでしょう。こんな奴がいたらまとまるもんもまとまりませんよ。人間には二通りある。努力する人間を見て自分を成長させる奴と、自分には無理だと諦める奴。こいつは後者だ。たった一度の挫折ですべてを諦めて、自分に足りない部分を見ようともしねえ臆病な奴。これまでの功績に縋って、今の自分を受け入れられねえ惨めな奴。俺にはそう見えます。自分を変えるための努力ができねえ奴に、未来なんてないですよ」
 バッサリと切り捨てる龍河先生の言葉に、田茂コーチも野崎君も救世主君も、ほかの四人も唖然としている。もちろん俺らも。校長だけは「やれやれ」ってな感じで口元を緩めている。
「校長、俺先戻りますね」龍河先生は校長に声を掛け、俺らに目を向けた。「気を付けて帰れよ」
 すたすたと校舎に向かって歩いていく龍河先生の後ろ姿は、やっぱりきらきら輝いていた。
 先生、相変わらず輝いてますが、やり逃げですか。
 微妙な空気が漂う。これを打破してくれるのは校長しかいない。
「ま、龍河先生の意見に私も賛成ですね」
 えええええ!賛成しちゃうの?正しいとは思うけど、言っちゃっていいの?
「我が校は生徒の自主性を重んじてます。本人にやる気がないのであれば仕方ないでしょう。とりあえず、少し考える時間を与えてあげてみてはいかがですか?冷静に考えて、それでももう陸上を辞めたいと思うなら辞めてもらえばいい。龍河先生も仰ってましたが、チームに属す限り協調性は大切です。自分のことしか考えられないような、相手を思いやることのできないような人間はいずれ抜け落ちます。田茂さん、あとはお任せしますからご自由にどうぞ」
「……はい」
「それじゃ皆さん、解散しましょう。みんなは部活頑張ってくださいね、君たちは気を付けて帰るように」
 校長もすたすたと校舎に向かって歩いていく。その背中を眺めて、龍河先生と似てるなって思った。後ろ姿じゃなくて、思考が。あの二人がなんで仲がいいのかわかった気がする。
 その場に残された俺らは、話したこともない田茂コーチに軽く会釈をしてから立ち去った。
「野崎君どうすんだろうな」
「どっちにしろ勇気がいるよね、辞めるのも続けるのも」
「俺だったらぜってえ辞めねえ」
「そもそもお前は野崎君みたいな行動とらないだろ」
「たしかに。裕ちゃんは負けて燃えるタイプだもん」
「そう言われるとそうだな。勝っても燃えるけど」
「アスリート向きだなお前は」
「え、なんかやってみようかな」
「凌ちゃん、余計なこと言わないでよ」
「すまん」
「一人でやる競技は寂しいから――」そこで言葉を切り、裕吾はポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。スマホが震えてる。「あ、出ていい?」
「うん」
「はーい。うん、うん、ああごめん、今日バイトなんだ。うん、ああそうなんだ、ごめん無理だわ。うん、じゃあまた」
 電話を切った裕吾をじろりと見る。
「お前今日バイトないだろ」
「うん」
「しかも女の声じゃなかった?」
「へっへっへ~」
「マジか!どこの女?」
「この前地元の友達と遊んでたら逆ナンされちった」
「早く言えよ!」
「いやあ、なんかね」
「なるほど。イマイチなんだな?」
「顔は可愛いんだけどバカっぽいのがね。話しててもつまらん」
「彼女欲しい、ヤリまくりてえって言ってる割にそういうとこ気にするよな、お前って」
「そりゃ気にするだろ。一緒にいて楽しくなきゃ意味ねえじゃん」
「でもヤリまくりたいんだろ?」
「そこが難しいとこなんだよ。とりあえず連絡は取ってるけど、なんせ話が合わない。でも顔は可愛いからなあっていう」
「その感じだとお前が押せばイケそうってことだろ?」
「まあな」
「じゃあとりあえず一回ヤっちゃえばいいじゃん。ちょっと辛抱して、一回ヤって、そのあとドロンしちゃえば?」
「うわお。将太、聞いた?凌がこんなこと言うなんて」
「え?あ、うん。凌ちゃんは意外と遊び人だから」
「やっぱりそうか」
「やっぱりってなんだよ。遊んでないよ俺は。お前がヤリたいっていつも言ってるからそう言っただけ。あと将太、根も葉もないことを言うんじゃない」
「言い方が違かったか。凌ちゃんはモテるから」
「それは知ってる。しれっとモテる感じがムカつくんだよな」
「ムカつくってなんだよ。モテてないっつーの」
「凌、俺は知ってるぞ。お前が高校入って何人に告られ、何人を袖にしてきたのか」
「その言い方やめろ。俺が冷たい人間みたいじゃないか」
「そしてそのうち何人とお付き合いし、何人とヤったのか」
「遊び人みたいな言い方やめろ。付き合ったのは二人だし、付き合ってない人とはヤッてません」
「その二人とも凌ちゃんにフラれたけどね」
「おーい、将太君。どうした?なんか俺への当たりが強いぞ」
「なっちゃんもいずれ凌にヤラれんだろうな」
「だと思うよ」
「なんなんだよお前ら。それになっちゃんのことはまだ好きかもだから。かなり好きだけど」
「ってことはもう決まりだろ。どうせ付き合うんだろ。なっちゃんが彼女になるんだろ。あ~あ、なんでみんな凌に惚れるんだろうなあ。俺も隣にいるんだけどなあ」
「裕ちゃんが隣にいるから際立つんじゃないの」
「おーい、将太君。どうした?俺への当たりも強いぞ」
「しかもさりげに俺のこともディスってるだろ」
 あはは、と明るく将太が笑う。
「うそうそ。凌ちゃんはモテて当然だし、裕ちゃんはヤリてえヤリてえ言ってるからモテないんだよ」
「そこだったのかあ!もう言わね!」
「だから俺はモテないって」
「あと、その子と付き合う気ないなら早くドロンしたほうがいいと思うよ。まあ、裕ちゃんがヤル目的だけで付き合うっていう最低な男なら話は別だけど」
「俺はそんな男じゃありません。もう会いません。連絡しません」
「将太、言っとくけど俺がさっき言ったのは本心じゃないからね。俺は最低な男じゃないからね」
「それは……」ちらっと俺を見る。「凌ちゃんにフラれた女の子たちに訊いてみないと」
「将太くーん。そういう言い方はよくありませんよ~」
 あはは、と明るく将太が笑った。

 うちの高校はほとんどの生徒が進学する。だからこの時期の三年生はなにかとざわざわしている。進学したい大学、学部をある程度絞り、大学入試に向けて準備をしなければならない。それと同時に、高校生活において最後の行事である文化祭の準備もしなければならない。自分の進路について考えつつ、楽しいことも考えるという両極端な感じ。ああ、忙しい。
 とは言っても、なんだかんだ文化祭寄りの楽しい気分になってしまうのが俺らである。ってことで、学校中がお祭り気分なのである。
 俺らのクラスの出し物は焼きそばに決まった。階段前の広場にお祭りのときのような屋台を出店するのだ。文化祭まであと三週間を切り、実行委員である池内さんと多田さんが中心となってくれて、少しずつ準備をはじめている。
 今日も放課後に残れる人だけが残り、店に飾る装飾品やら看板やらを作る作業が着々と進んでいた。俺、将太、裕吾は看板作り担当。
「あ、ペンキもうないや」
「うん?ああ、俺取ってくるよ」
「いいよ、凌はそこやってて」
「悪い」
 裕吾がその場から離れてすぐ、実行委員の多田さんが俺らのところにやってきた。
「汚れる作業してもらっちゃってごめんね。ありがとう」
「ジャージだから平気。そういう多田さんの手も汚れてるよ」
「あ、ほんとだ。でも洗えば落ちるから」
「準備は今んとこ順調?」
「うん。みんなのおかげで」
「あ、裕ちゃん戻ってきた」
「ん?俺がかっこいいって話か?」
「違うに決まってんじゃん」
 裕吾の手にあるペンキを見て多田さんが申し訳なさそうにする。
「言ってくれれば取ってきたのに」
「いいのいいの。裕ちゃんはこれが仕事だから」
「どういう意味だそれ」
「みんなペンキ塗るのうまいね。綺麗に塗れてる。とくに『ば』」
「それは将太。器用なんだよなあ、こいつ」
「へえ、そうなんだ」
「俺は二人と違って繊細だからね」
「そういえば渡真利君って字も綺麗だよね」
「そう?」
「俺もそれは思う」
「たしかにな」
「二年のときから思ってた。渡真利君が黒板に文字書いたとき、うわあ綺麗だなあって」
 将太と多田さんは二年のときも同じクラスなのである。
「字は性格を表すって言うからな、将太らしいよ」
「じゃあ俺は?」
「お前の文字は豪快。ほら、まんまだろうが」
「凌ちゃんも綺麗な字書くじゃん。読みやすい字っていうか」
「うん、私もそう思う」
「マジで?」
「多田さん、俺の字は?」
「ん?うーん、豪快」
「多田さん、俺泣いちゃうよ?」
「わかってるわあ」
「いいねえ、多田さん」
「でもほら、男らしいってことだし、私はいいと思うけど」
「多田さん!俺と付き合いませんか?」
「付き合いません」
 多田さんの迷いのない即答に俺と将太は大笑い。
「多田さんお見事!」
「残念だったね裕ちゃん」
「俺の彼女はどこにいるんだろうか」
「どこだと思う?多田さん」
「うーん、あっち」
 適当に窓の外へ指を向ける多田さんの顔は至って真面目。それがまた可笑しくて俺と将太はまた大笑い。大笑いする俺らを見て、多田さんもたまらず笑ってる。
「それじゃあキリのいいとこで終わらせちゃってね。そろそろみんな帰るって言うし」
「うん、わかった」
 多田さんの指示通り俺らはキリのいいとこで切り上げ、俺と裕吾は看板を、将太はペンキを片付ける。看板を壁に立てかけてからその場で将太の姿を探すと、ペンキを片付けながら多田さんと喋っていた。楽しそうに笑う将太と多田さん。少しして将太がなにかに気付いた顔になって、多田さんの頭に手を伸ばした。たぶん、「ゴミついてるよ」だと思う。将太の手が多田さんの髪に触れたその瞬間、おや?と思った。
 あれ、もしかして、多田さん……そういうこと?
 へええええ~と一人でにやけてしまう。そうだと決まったわけじゃないのにそうとしか思えなくなってきた。
 そうかそうか、そういうことか。将太が多田さんをどう想ってるかは、たぶんなんとも想ってなさそうだけど、想われて恋に落ちるってこともあるからね。うんうん、いいじゃないか。青春だ、青春真っ盛りだ!
「なに笑ってんだ?」
「いや、なんでもない」
 もう少し胸の内にしまっておこう。でもそういや、将太って好きな人いないのかな。そんな話一回も聞いたことないな。幼、小、中、高、将太とはだいぶ長い付き合いだけど、なんかいつもはぐらされてた気がする。
 うーん……気になる。
 将太が戻ってきて、「じゃあな」「また明日」「おつかれ~」と周りにいる奴らに挨拶してから教室を出る。出たところで将太に訊いた。
「将太って好きな人いないの?」
 将太の肩がビクッとなる。
「え?なに、急に」
「そういえばと思って」
「俺もずっと気になってた。訊いてもいつもいないって言うもんな。最近訊いてなかったけど、今はどうなんだよ」
 将太は言葉を詰まらせ、ぱちぱち瞬きを繰り返しながら俺と裕吾を見る。その目を逸らし、少し口ごもると小さな声で言った。
「い…………るけど」
「マジか!」
「なんで言わねえんだよ!」
「訊かれなかったし」
「へええええ~」多田さん、じゃないよな?そんな出来過ぎなことあるわけないか。「俺らが知ってる人?」
「いいよ、俺の話は」
「なんで。俺らもなんか協力できるかもしんねえじゃん」
「そういうんじゃないから」
「どういうこと?」
「……二人がどうこうできるような人じゃないから」
「え、人妻?」
「なんでそうなるの」
「はっ!まさか、先生?」
「好きだけど、違うよ」
「じゃあなんだよ」
「いいんだってだから。俺は、好きってだけで」
 そう言う割に、将太からはそう思ってないことが伝わってくる。寂しさ、虚しさ、そんなものを感じる。
 将太が想う人はどんな人なんだろう。恋人がいるのかな。だから想いを言葉にできないのかな。でも、伝えることぐらいいいじゃないか。誰かを想うのは自由なのに。
 でも今はまだ俺らがずかずかと踏み入ってはいけない気がして、俺は裕吾と目顔で頷き合った。
「なんか最近、先生んとこ行けてなくね?」
「文化祭の準備があるからね」
「みんな準備してんのに俺らだけ先生んとこ行くわけにはいかないもんな」
「先生を拝めるのが授業だけってしんどいな」
「ああ、会いたい。話したい。見つめられたい」
「凌ちゃんってすごいよね」
「なにが」
「先生と話したいとは思うけど、見つめられたいなんて思えない。俺の心臓はそんなに強くない」
「凌と先生が話してるの見てるだけで脳みそぶち抜かれてんだぞ俺らは」
「飲み屋でもさ、凌ちゃんの肩に頭乗っけてたじゃん?あんなんされたら俺は入院するよ」
「いや、俺も相当やられてっから」
「持ちこたえられてるのがすごいって話」
「あのね、ほんとにギリギリだって」
「ああ、先生今なにしてんのかなあ」
「……ねえ、先生そろそろ帰る時間じゃない?」
 ハッとして、スマホを見る。五時四分。
 誰からともなく駆け出して、ダッシュ!
 上履きを下駄箱に放り込んで、ダッシュ!
 外に出るとなんと!龍河先生が校門に向かって歩いてるのを発見して、ダッシュ!
「せんせえええええええ!」
 三人の応援団並みの大声が響き渡る。龍河先生が足を止めて振り返った。俺らが駆け寄るのを待ってくれて、俺らはぜえはあぜえはあ息を切らしながら龍河先生の元に辿り着いた。
「なんでそんなに疲れてんの」
「いや、時計見たら、五時ちょい過ぎで、もしかしたら、先生も帰ってるときじゃないかって、思って」
「気付いたら、駆け出してました」
「階段、二段飛ばししました」
「俺に電話すれば済む話だろ」
 ハッとして、将太と裕吾が俺を見る。
 うん、すまん。
「でもほら、間に合ったし。終わり良ければ総て良しってさ。さ、帰ろ帰ろ」
 三人を促して歩き出す。いつも通り自然と、俺と龍河先生、将太と裕吾の組み合わせになった。
「こんな時間までなにしてんだ?」
「文化祭の準備です」
「ああ」
「うちのクラス焼きそば出すんで食いに来てくださいね」
「俺休みだよ」
「ええっ!」
「授業もねえのに来る必要ねえだろ」
「そんなあ」
「そんな顔されてもな」
「……そっか、残念です」
 ふと危険な香りが鼻腔をくすぐった。横を見るとやっぱりあの笑顔。
「凌は寂しがり屋だな」
「え、そんなことないですよ」
「ふうん。じゃあ俺いなくてもいいじゃん」
「先生にはいてほしいんです」
「なんで」
「……なにを言わせたいんですか」
「凌の素直な気持ちを聞きたいだけ」
 くそっ、そんなこと言われたら吐き出すしかないじゃないか。俺だってわかってるよ、まんまと先生の戯れに転がされてるって。でもダメだ、口が勝手に素直な気持ちを言葉にしてしまう。ああ、これが龍河マジック。
「高校最後の文化祭ですし、先生と一緒に楽しみたいなって思うじゃないですか。というか、そういう行事とか関係なしに、一緒にいられるなら先生とは少しでも長く一緒にいたいんです」
「その割には最近来ねえな」
「え?」
「放課後」
「あ、今、文化祭の準備で残れる人が残ってやってて、だから行くに行けず……」
「ふうん」
 え、もしかして……。
「先生、もしかして、寂しがり屋ですか?」
「うん。凌と話してえなあって思うよ」
 ぼふうううううんっ!
 先生ったら!そんなこと思ってくれてるんですか!どうしよう、嬉しい。今なら飛べる。どこまでも飛んでいける気がする。フライアウェイ!
「……さっきの取り消します。俺も寂しがり屋です。俺も先生と話したいって毎日思ってます。だからさっきも駆け出しちゃいました」
 ちらっと横目で龍河先生と窺うと、ほらやっぱり。満足そうに笑ってる。
 でもその意地悪そうな笑顔も好きなんです。全部好きなんです。ああ、これが龍河マジック。
「可愛いなあ、凌は」
「じゃあ文化祭来てください」
「やだ」
「ええっ!」
 ツンデレツン!
 そんな重ね技もあるなんて。先生、どこまで俺を翻弄するつもりですか。ああ、でもたまらん!

 いつもと変わらない学校生活は続く。学校に行って、授業を受けて、昼飯を食って、授業を受けて、文化祭準備をする。少し変わったのは、これまで以上に龍河先生を昼飯に誘うようになったこと。放課後会えないなら昼しかない。あんなこと言われちゃあ大胆にもなるってもんよ。そのおかげで龍河先生と話せる時間も増えて、俺らは相も変わらずげらげら笑ってる。でもだからと言って、俺の一日は大して変わらない。
 この日も、いつもと変わらないはずだった。
 いつも通りの学校生活があって、六時前に家に着いて、晩飯用の飯を炊く。バイトがない日は俺が夕飯を作ることになっているから、夕飯の下ごしらえをして家族が帰ってくるのを待つ。作ると言っても簡単なものしか作れない。今日は回鍋肉。野菜を切り、市販されてるタレで野菜と肉を炒めるだけ。あとは姉ちゃんが作り置きしておいてくれたきんぴらと、ほうれん草の胡麻和えと、俺が作る味噌汁。
 七時前に姉ちゃんが仕事から帰ってきて、七時過ぎに父さんが帰ってくる。これもいつも通り。違ったのは、ここから。
 父さんが、いつも通りにしようとしている。いつも通りに「ただいま」と言って、いつも通りに「夕飯ありがとな」と笑って、いつも通りに「おいしい」と褒める。
 姉ちゃんも父さんの作られたいつも通りに気付いていて、なにか言いたげな視線を俺に寄越してきた。でも、俺も姉ちゃんもなにも言えなかった。父さんに「どうしたの?」と訊くことができなかった。触れたらなにかが崩れる気がした。俺は怖かった。
 夕飯の片付けを姉ちゃんと終わらせてキッチンの電気を消したとき、ついにそれはやってきた。
「奏、凌、ちょっと話があるから、座ってくれないか」
 行きたくない。逃げ出そうとする足を引きずりながら、父さんが座るソファに近づく。姉ちゃんが恐る恐るという感じで腰かけ、俺も姉ちゃんの隣に座った。
 なんだろう、なにを言われるんだろう。いや、嘘だ。どこかですでに覚悟している自分がいる。
 だけど、聞きたくないんだ。聞いてしまったら――。

 朝からよくわからない。気付けばぼうっとしてしまう。なにを考えるでもなく、ただ無になって俺はどこかに行ってしまう。だから自分を意識していないと、自分が今どこにいるのかもよくわかんなくなってしまう。
 将太と裕吾と一緒にいるときはなんとかなった。喋ってるから気が紛れて誤魔化せる。それでも何度か、「凌?」「凌ちゃん?」と二人に引き戻してもらわなきゃならなかった。
 授業中がしんどい。集中しようと思っても、この静かな時間が俺をどこかに連れてってしまう。先生たちの声がどんどん遠のいて、周りのみんなも白くぼやけて、どこでもない場所で一人ぼっちになっているような感覚。チャイムで目が覚めて、そのときになってノートを全然取ってないことに気が付いて、いかんいかんって思うけど、結局はその繰り返し。
 だから龍河先生の授業もほとんど覚えていない。いつもなら見惚れてしまう龍河先生の姿が見えなくなって、大好きな声も聞こえなくなって、俺はまた一人の世界に堕ちていく。
 将太と裕吾と喋っているときも、どこかに行ってしまっているときも、俺の頭にそれはある。わかっていたはずの事実が受け入れられない事実となって、俺の頭の隅で蠢き続けている。
 授業がすべて終わり、HRも終わり、クラスのみんなが帰ろうと立ち上がる。すると、ここでもいつもと違う空気がざわっと流れた。
「凌」
 決して大きな声じゃないのに、その声は俺の中に直接響いてきた。顔を上げてその声を探ると、ドア枠に寄りかかって俺をまっすぐ見つめる龍河先生がいた。その顔はどこか険しくて、俺は叱られると思った。
 そりゃそうだ、あんな授業態度じゃ先生も呆れてるだろう。
「ちょっと来い」
「……はい」
 なにか言いたげな将太と裕吾のことは振り返らずに、俺は龍河先生の後を追って教室を出た。龍河先生はいつもの足取りで歩いていく。辿り着いたのは視聴覚室。部屋に入って電気をつけると、龍河先生はすぐそばにある机に尻を乗せ、俺はその前に立った。少しだけ俺を見つめて、龍河先生は俺に訊く。
「どうした?」
 その声は俺が想像していた声ではなく、温もりのある優しい声で、俺のための声だった。伏せていた目が思わず上がる。そのたった一言で、俺の中でなんとか食い止めていたものが壊れて、決壊した。
 涙がとめどなく流れ、もう止まらない。手で目元を覆って歯を食いしばっても、涙は止まるどころか、溢れ出る。
 すぐそばに体温を感じると、あのときと同じように俺の頭は龍河先生の手に包み込まれて、そのまま引き寄せられた。俺は龍河先生の肩に額を預け、涙が止まってくれるまでその温もりに縋りついた。
 どのくらいそうしてたかはわからない。俺が少し落ち着いたことを感じ取った龍河先生は、俺の顔を覗き込むようにして身体を離した。
「座って待ってろ」
 言われた通り座って待ってると、ペットボトルの水とティッシュを持って龍河先生が戻ってきた。それを俺が座る席の机に置き、龍河先生は俺の近くに椅子を寄せて座る。
「すいません」
 龍河先生は俺を見守るように眺め、両肘を膝に乗せて前のめりになった。
「話せるなら聞かせてほしい」
「……」声になるまでの数秒。「……母が」
 また込み上げてくる。もう変わることのない事実なのに、言葉にしたら目に見える現実となって俺を踏み潰そうとする。でも、もうそろそろ受け止めなきゃいけない。
「……俺の母さんは、末期がんなんです。五年前にがんが見つかって、今年の二月はじめに再発して、その時点で何ヶ所かに転移してて、お医者さんからは余命一年だと言われました。それでも諦めたくなくて――」
 止まったはずの涙が零れ、手の甲で拭う。
「父さんも姉ちゃんも俺も、母さんが死ぬわけないって言って、希望を持って抗がん剤とかで治療を続けてたんです。それなのに――」
 拭っても拭っても、止まってくれない。声が詰まってうまく喋れない。
「昨日、父さんが、母さんはもう、治療できないって。がん治療のための、投薬はもうしないって。これからは、緩和ケアに移るって。病棟も変わって、最期を迎える、ための、専門の施設に、移るって」
 言え。受け止めろ。言葉にして、受け止めろ。
「母さんが死にます」
 もう喋れない。少し待ってほしい。もう少ししたら喋れるようになるから。もう少しだけ、待ってくれ。
「凌、話してくれてありがとな」
 首を振って伝える。まだ顔は上げられない。
 ふと影が落ちた。龍河先生は俺の膝に手をつき、すぐ目の前にしゃがみ込んで下から俺を見上げる。
「凌の母さんがもうすぐ亡くなることは決まってしまった。それはもう誰にも変えることはできねえ。だから凌はこうやって悲しんでる。受け入れられなくて、受け入れたくなくて、それでも受け入れようとして、こうやって苦しんでる。凌はなにも間違ってねえ。今は思う存分、抗って、泣いて、怒っていい。そうやって少しずつ、突き付けられた現実を受け止めていけばいい」
 涙は止まり、しゃっくりだけが出る。泣き濡れた顔のまま、俺は龍河先生を見つめた。
「だが、凌にはやらなきゃならねえことがある」
「やらなきゃ、ならない?」
「凌は今、母さんのためにできることを精一杯やらなきゃなんねえんだよ。泣きっ面を見せることでも、寂しいと縋ることでもねえ。母さんにしてやりたいこと、伝えたいこと、たくさんあるはずだ。たとえ言葉にしなくたって、凌の想いやり一つ一つが、凌の想いを母さんに伝えてくれる。だが、いくら母さんを想って、母さんのために尽くしたとしても、最期を迎えたとき、必ず後悔する。母さんのために、必ず後悔する。ああしておけば、こうしておけば、そうやって後悔はいくらでも湧いてくる。だから凌は、少しでも多くの感謝の気持ちを、母さんを慕う気持ちを、母さんに伝えるべきなんだよ」
 新しい涙が視界を滲ませ、また溢れて止まらない。手でもう一度目元を覆って、ずっと溜め込んできた想いを吐き出した。
「俺、母さんが再発して、入院することになって、母さんに会うのが、怖かった。いつも笑ってた母さんが、痛いって苦しんで、どんどん、痩せてって、それなのに、俺が行くと笑ってくれて、俺の身体を心配して、自分のほうが大変なくせに、いつも、俺のこと心配して。なのに俺は、そんな母さんと向き合うのが辛くて、逃げてた。週末、家族としか見舞いに行くことが、できなくて、俺、どうしようもないバカ息子だ」
 目元を覆う俺の手を龍河先生は掴み、もう一方の手も掴み、両手で俺の両手を包み込んだ。励ますように、その手に力がこもる。
「今からでも遅くねえ。凌の母さんは生きてる。生きてるなら、なんも遅いことなんてねえ」
 俺は身をかがめ、包まれた両手に頭を預けた。そして何度も頷いた。塞がった両手の代わりに龍河先生は俺の耳元に頬を寄せ、そこにあるたしかな温もりを与えてくれた。
 時間が経てば気恥ずかしさが上回る。
 ティッシュで涙と鼻水を拭き取り、呼吸を整えるために深呼吸を繰り返す。
「しばらくここにいればいい。俺はあっちにいるから」
 そう言ってドアに向かおうとする龍河先生の腕を思わず掴んでしまった。
「ん?」
「……ここに、いてほしいです」
 気恥ずかしいけど、先生にはやっぱりいてほしい。
「凌がそう言うなら俺はどこにも行かねえよ」
「はい、いてください」
 龍河先生は俺の頭をぽんと撫で、さっきまで座っていた椅子に腰かけた。でもすぐなにかに気付いた顔になる。
「凌、荷物教室に置きっぱなしだろ?」
「あ、はい」
「取ってくる。待ってろ」
「え?」
 立ち上がってさっさとドアのほうへ足を向けた龍河先生は、ドアを開けてその動きを止めた。口元をわずかに綻ばせ、俺を振り返る。
「凌、お客さん」
 少し首を伸ばして見ると、気まずそうな顔をした将太と裕吾が視聴覚室に入ってきた。将太の手には俺の荷物。泣き腫らした俺の顔を見て、二人は目を丸くする。
「お前ら……」
「ごめん、心配でつい」
「でも話は聞いてない!聞こえなかった!」
 二人の表情に、言葉の温度に、俺は安心する。龍河先生もあったかく微笑みながら二人を見つめている。俺はどっと力が抜けて笑ってしまった。
「いや、俺がごめん。ちゃんと話す」
「うん、わかった」
「うん、じゃあ聞く」
 と言いながら、その場に突っ立たままの二人に龍河先生が笑って言う。
「裕吾、将太、さっさと座れ」
「あ、はい!」
「すいません!」
 二人が腰かけるのを待って、俺は伝えた。母さんがもうすぐ死ぬことを。
 俺の母さんが末期がんを患っていることは二人には話してある。だから驚くというよりは、ついにきたか、と悔やんでいた。将太は小さい頃から母さんと親しんでいたし、母さんも将太を息子のように可愛がっている。だから将太は泣いた。それが俺には嬉しかった。
 いっぱい泣いて、ずっと抱えてきた自分の弱さと不安、恐怖を曝け出して、それを龍河先生が受け止めてくれて、将太と裕吾の想いやりに触れて、ようやく俺はいつもの俺に戻ることができた。自分が思っていた以上に自分は脆いって気付くことができた。
「ねえ凌ちゃん、今度、おばさん見舞ってもいい?」
「俺も行っていいなら行きてえな。凌の母ちゃんに会ったことねえけど、俺も会いたい」
「もちろんいいよ。母さん賑やかなの好きだから」
「じゃあ、文化祭終わったらお邪魔しようかな」
「うん、そうしようか」
 きっと母さんは喜ぶだろう。俺はこれから、母さんのためにできることをしなくちゃいけない。母さんが一度でも多く笑えるようにしたい。母さんに恩返しをしたい。
 もう泣いてなんかいられない。
 そうしようと誰かが言い出したわけじゃないが、自然といつもの放課後訪問のときのような雰囲気になった。俺がぴーぴー泣いてたことも忘れ去られ、それはみんなが気を遣ってくれただけだろうけど、こうやって龍河先生と視聴覚室で話すのは久しぶりだし、今はこの時間を楽しみたい。
 いつもとなんら変わらない、くだらなくてなんでもない話が続く。しばらくして、裕吾が龍河先生に訊いた。
「先生って、音楽以外に好きなことあるんすか?趣味というか」
「旅するのは好きだな」
「国内国外問わずっすか?」
「ああ。海外のほうが行ってる回数は多いが」
「へえ。今までどこの国に行ったんですか?」
「いろいろ行ってる。ちょっと休みてえなあって思ったら日本から出て、そのときの気分でいろいろ」
「すげえ。俺にはそんな勇気ないっす」
「なんで?行きたきゃ行きゃあいいじゃん」
「いやあ、だって俺日本語しか話せませんし」
「言葉なんてコミュニケーションツールの一つだろ。俺もなに言ってんのか全然わかんねえとこ行ってるが、伝えたいって想いがあればなんとかなるもんだよ」
「そういうもんすか?」
「そういうもん」
 マジか、俺も行ってみようかな。いや、待て待て。先生の場合はその見惚れるほどの容貌がプラスに働いてるだろ絶対。老若男女問わず虜にしてしまうその笑顔。もし先生のような人が困ってたら、俺は言葉が通じようが通じまいがヒーロー現る!ばりに駆け寄って手差し伸べちゃうもん。なんならあわよくば仲良くなろうと必死になっちゃうもん。いいなあ、旅先での出会い。ロマンチックじゃないか。先生と旅先で偶然出会ったりしちゃって、そのまま一緒に旅しちゃったりして……ぐふふ。
 なんて俺が妄想の世界に浸ってる横で将太が龍河先生に訊く。
「でもそうやってパッと旅行に行くってことは、なんの準備もしてないってことですよね?旅先でなにしてるんですか?」
「準備ってなんの?」
「ここに行こうとか、これ食べようとか」
「行ってから決めればいいだろ、そんなもん」
「たしかにそうですけど……」
「計画立てなきゃって奴らを否定してるわけじゃねえよ。なんも考えずにぷらぷらすんのが好きなんだよ、俺は」
 俺の頭の中でピタッとなにかがくっついた。
「あ、そうか。休みたくて旅に出るんだから、そうなりますよね」
「そういうこと。楽しむための旅なら計画立てたほうがいいのかもしんねえが、俺はただ、いろんなもんから離れたいだけだからな。だがそうやってぷらぷらしてると、ひょんなきっかけで現地の人と仲良くなったりして、日本に帰るときには楽しかったなって思ってる」
「へえ。想像することしかできないけど、なんか楽しそうですね」また妄想が膨らむ。「それに、言葉が通じないことがもしかしたらいいのかも。お互いが一生懸命自分の想いを伝えようとするから、なんか、本当の自分で繋がるっていうか」
 俺のあるある。一人で喋ってハッ。またやってしまった。さっきまでべそかいてた奴がなに言ってんだって思われてるかも、なんて思ったけど、そんなことを思うような彼らではない。龍河先生は口元をわずかに緩めて、将太と裕吾は「なるほどなるほど」「ふむふむ」と納得顔で頷いている。
「社会人になって、自分でちゃんと稼げるようになったらやってみようかな」
「うん、将太ならできそうな気がする。っていうか、してそう」
「ほんと?」
「なんか想像できる。凌がそうしてんのも想像できる」
「面白そうだからやってみたいけどな。裕吾だってできるだろ、日頃から誰彼構わず話しかけてるんだから」
「それは相手が日本人だから。外国の人だと緊張しちゃう。ほら、俺照れ屋だから」
 裕吾を見ていた将太の顔がそっぽを向き、龍河先生に向けられる。
「そうやって海外行くときはいつも一人なんですよね?」
「お、無視だな?凌、これは無視ってやつだな?」
「そうだよ。よく知ってるな」
「くそっ、いつかぎゃふんと言わせてやる」
「ぎゃふん。満足か」
「先生、どう思いますか。俺に対するこういう仕打ち。ひどいと思いませんか?」
「裕ちゃんうるさい。俺は今先生に質問してんの」
「ん?なんだっけ」
「旅に出るときは一人なんですか?」
「ああ、思い立ってすぐ行くからな」
「へえ。すごいなあ」
「ぷらぷらしながらどっか観光地に行ったりしないんですか?」
「観光地というか、昔からある場所に自然と足が向く」
「昔からある場所?遺跡ってことですか?」
「いや、山とか川とか、人間が作ったものじゃねえ、昔からある場所。そういうとこに行って一人ぽつんと突っ立ってると、ああ、俺は今生きてるなって思える。生きなきゃなって思う」
 なんとなくだけど、先生はなにか大きな傷を抱えているんじゃないかってずっと感じてた。それは大きくて、塞がることのない傷。たとえその傷が過去のものになったとしても、決して忘れることなんてできないぐらいの、とても深い傷。もし俺の思い違いじゃなくて、俺の感じたままだとしたら、先生はどうしてこんなにも強くいられるんだろう。どうしらこんな風に生きられるんだろう。いつか聞くことはできるかな。
「お前らも、いつか行ってみるといい。世界はほんとに広いから」
「はい、必ず行きます」と将太。
「一人じゃないかもっすけど、行ってみます」と裕吾。
「行きたいです、いつか」と俺。
 頷く俺らを見て、龍河先生は小さく笑う。
「旅先で偶然会うこともあるかもしんねえな」
 え……ほんと?
「はいっ!」
 嬉しくて勢いがよすぎた。
 だってだって、それは俺がさっき妄想してたことなんだよ。先生がそう言ってくれるってことは、そんな未来があり得るってことなんだよ。俺らの未来にはちゃんと先生がいるってことなんだよ。
 三人がどうした?って顔になってる。こんなこと正直に伝えたら笑われるだろうか。でも言葉にすればそれが未来になる気がする。ただの願望だってわかってる、ただの例え話だってわかってる、それでも俺は縋りたい。
「大声出してすいません。でも、先生がそう言ってくれたのが嬉しくて」
「ん?」と、ほんの少し首を傾げる龍河先生。俺を見る、そのまっすぐな瞳に俺は揺れる。
 俺の素直な気持ちを伝えることは、もしかしたら卑怯なことなのかもしれない。拒絶できなくするために、俺は自分の気持ちを伝えようとしてるのかもしれない。
 そう思いながらも、困らせてしまうとわかっていながらも、俺は素直な気持ちを伝えたいと思ってしまう。
「最近、よく考えるんです。俺らはあと半年ぐらいで卒業して、先生は先生じゃなくなって、そしたらもう、それで終わっちゃうんだろうかって。先生は俺らのそばからいなくなっちゃって、もう二度と――」
 唾を喉に押し込む。
 おかしい。また泣きそうになってる。一体どうしたんだ俺は。情緒不安定すぎないか。
「もう二度と、先生とこうやって話すことも、笑い合うこともできなくなっちゃうんだろうかって。俺はそれが、怖いんです。なんでかわかんないんですけど、先生がいなくなることが――先生のいない未来を想像すると、俺はすごく怖い。だから、さっき先生が言ってくれたことが、俺らの未来に先生がいる未来があるんだって思えて、嬉しいんです」
 龍河先生が口を開く前に、俺は急いで続けた。
「すいません。こんなこと言うのは卑怯だってわかってます。先生を困らせるだけだってこともちゃんとわかってます。だから、こんだけぺらぺら喋っといてあれですけど、気にしないでください。先生がああ言ってくれたことが嬉しくて、欲が出ちゃいました」
 椅子の背もたれに寄りかかりながら俺の話を聞いていた龍河先生は、誤魔化すように笑う俺を見ると呆れたようなため息を零し、少しだけ顔をしかめてぽりぽりと後頭部を掻いた。将太と裕吾はそんな龍河先生と、やっちまったと悔いる俺を静かに見守っている。
 こんなこと言われたらそりゃ困るよな。少し親しくなったからって調子に乗ったな、俺。バカだな、俺。
「凌」
「はい」
「俺言わなかったっけ。凌のそういうとこ好きじゃねえって」
 ドキッとして、記憶がすぐに蘇る。
「……言われました」
「なんで俺が困るって思うわけ?俺がどう思うか、どう感じるか、勝手に決めんじゃねえよ」
 そうだった。あの時も同じようなことを言われたじゃないか。
 ――付き合わせたら申し訳ねえ、付き合ってもらうことに気が引ける、相手が負の感情を抱くと勝手に決めつけてるからそう思う。
 ――気の利かねえ奴だと思われたくねえ、嫌われたくねえ、そういう保守的な気持ちを、気を遣ってるように見せて誤魔化してるだけだ。
 忘れたわけじゃないのに、困らせた俺を嫌わないでほしいという気持ちが先走ってしまった。
「……すいません」
「なあ凌」
 名前を呼ばれて顔を上げる。心底呆れた顔があると思ったのに、そこにあったのは傷ついた子供を慰めるような、労わるような、そんな温もりのある真剣な顔。
「凌には『別れ』が身近にある。確実に訪れようとしてる。ずいぶん前からそれを恐れていただろうし、その恐れはどんどん膨らんでる。それは当たり前だ。『別れ』を怖いと思うのも、俺には痛いほどよくわかる。だが、不確定な未来の『別れ』を恐れちゃいけねえ、考えちゃいけねえ。『別れ』を思い描いた時点で、それに囚われて身動きがとれなくなる」
 龍河先生は一つ、小さく息を吐く。
「凌がここを卒業したあと、俺は凌のそばにはいられねえ」
「え?」今、なんて。
「俺は日本からいなくなる。だから凌のそばにはいられねえ。だが、未来はわからねえだろ。どこかで、さっき話したみたいな、旅先で遭遇して一緒に酒を飲んでるかもしれねえ。未来になにが起こるかなんて誰にもわかんねえんだよ。だから凌、未来を勝手に決めて、それに怯えるのはやめろ」
「……はい」その通りだ。その通りなんだけど――。
「それに、俺は凌を思い出すよ。どこにいようと、元気にやってるか、泣きべそかいてねえか、俺は凌を思い出して、凌を想う。すぐそばにいなくなって、そばにいることはできる。そう思わねえか?」
 ……そう、だよな。誰だって常にそばにいられるわけじゃない。そこにいなくても、そこにいると感じることができれば、俺を想ってくれるなら、その人は俺のそばにいる。俺が想えば、俺はその人のそばにいる。
 龍河先生とこれからも一緒にいたいと想う気持ちはなんも変わらないけど、不思議なぐらい気持ちがすっと落ち着いた。
「思います。俺、なんか焦ってました」
 正気に戻った俺を見て、龍河先生はどこかほっとした表情を見せた。
「ずっとそばにいてほしいって凌に言われて、俺は困ったりなんかしねえよ。嬉しい、ただそれだけだ」
「はい、すいませんでした」
「次やったらマジでぶっ飛ばすかんな」
「はい、二度と――」ちょっと考える。「気を付けます」
「二度としねえって言えよ」
「……約束はちょっと」
「ふうん」
「いえ、嘘です。二度としません」
「言ったな?」
「え、言わせたんじゃないですか」
「ん?」と惚ける龍河先生と、「ハメられた」と項垂れる俺。重い空気が消え去り、将太も裕吾もほっと胸を撫で下ろしたようだった。
 それから少しして、ふと思い出したように将太が口を開いた。
「そういえば、裕ちゃん学部決めたの?」
「うん、理工学部」
「そっか。凌ちゃんは?」
「俺は経済学部。将太は?」
「俺は法学部」
「見事にバラバラだな」
「ほんとだね。でも大学名は言わないで」
「なんで?」
「もしかしたら同じかもしんないじゃん。大学決まってそれがわかったら大興奮できるでしょ」
「そういうことか」思い出して笑えてくる。
「なるほど。将太と凌の再現ができるかもしんねえってことだな」
「そういうこと」
「そういえば、先生はどこの大学卒業してるんですか?」
「――大学」
 さらっと言われたその大学は、超がつくほどの難関大学。
 マジか、マジでか。そうだろうなとは思ってたけど、脳みそまでもとは。内面もかっこいい、外見もかっこいい、声もかっこいい、スタイルもいい、センスもいい、運動神経もいい、頭もいい。音楽の才能もあって、とんでもなく可愛い恋人もいて、さらに語学が堪能となっちゃあ……ねえ?もうお手上げですよ。
 先生、あなたはかっこいいという成分で作られてるんですか。ほんとに俺と同じ人間ですか。ああ、俺にもその成分を少し分けてほしい。
 将太も裕吾も同じことを思ってるんだろう。羨みと諦めを混ぜ合わせたような瞳で龍河先生を凝視している。恐る恐る将太が訊いた。
「どうしてその大学を選んだんですか?」
「校長に言われたから」
「やっぱり」
「先生って、興味ないことにはとことん興味ないですよね」
「興味ねえことに時間使ってどうすんだよ」
 龍河先生らしい答えに思わず笑みが零れる。
「先生のそういうとこ好きです」
「ん?」
「好きなものは好き、嫌いなものは嫌いっていう、そういう嘘のないまっすぐなとこ、すごい好きです」
 これも俺のあるある。龍河先生の悪戯心に火をつける。
 はっ!またやってしまった!と気付いたときにはもう遅い。ああ、やっぱり笑ってる。俺もだいぶ先生のことわかってきたな、なんて呑気に喜んでる場合じゃない。
「ふうん。ほかには?」
「え?」
「俺の好きなとこ」
「それは、たくさんありますよ」
「うん、言ってみ」
「……なにを企んでるんですか」
「企んでなんかねえよ。聞きたいだけ」
 嘘だ、嘘に決まってる。でも答えずにはいられない。だって聞きたいって言うんだもん。やっぱり伝えたいんだもん。そう、これが龍河マジックなのだ。
「ほんとにたくさんありますよ。優しいとこも好きだし、俺たちとすごく真摯に向き合ってくれるとこも好きだし、音楽をとことん好きなとこも好きだし、周りの人を大切に想ってるとこも好きだし、しめじ食べれないとかそういう可愛いとこも好きだし、笑った顔も好きだし、声も好きです。あと、約束守ってくれるとこも好きだし、丁寧に教えてくれるとこも好きだし、ちゃんと言葉にして伝えてくれるとこも好きだし――」ん?と思って口を噤み、ああ、とわかった。「全部大好きです」
 俺の辿り着いた答えに、龍河先生は「あはは!」と愉快そうに笑い、将太と裕吾は「わかるわかる」と何度も頷いていた。
「そんなに言ってくれるとは思わなかった」
「だからたくさんあるって言ったじゃないですか」
「そうだな」と笑って、「凌」と呼ぶ。
「はい」
「おいで」
「え?」
「こっち来て」
 言われるまま近づくと、龍河先生の手が俺に伸びてきた。なんだ?と思ってるうちに腕を掴まれて引き寄せられて、前屈みになった俺の身体は龍河先生にぎゅうっと抱きしめられていた。
「え?」
「じっとしてろ。俺は今、凌を抱きしめたい」
 どふわばああああああんっ!
 心臓兵全滅。
 あの、あの、口説き文句に聞こえるのは俺だけでしょうか。俺は今口説かれてませんか?いいけども!先生になら口説かれようが抱かれようが好きにしてください!って感じだけども!
 でも先生、いきなりこれはやめてくれ。このままじゃ俺、早死にします。
 俺の体温を感じようとするように、龍河先生は俺の背中を両腕で包んで、俺の首元に頬を密着させている。
 どうしよう。俺も先生の背中に腕を回していいのだろうか。
 そう思いながらも自然と腕は持ち上がり、気付けばそっと、その広い背中に腕を回していた。少しだけ力を込めて抱きしめ返すと、微かに笑う気配を耳元で感じて、その気配は、俺にだけ聴こえる声に変わった。
「凌の全部が大好きだ」
 今日はやっぱりおかしい。また涙が滲んできて、俺は口を引き結んで目を瞑った。さっき思ったことは訂正する。俺は不死身になれたかもしれない。

 今までとは雰囲気が違う。独特な匂いは変わらないが、なんだろう、終末を迎える場所なのに、開放感というか、どこか明るい雰囲気が漂っている。どこもこんな感じなんだろうか。それともこの施設が特別なんだろうか。
 わんわん泣いた次の日、俺は母さんが入室している部屋に一人で向かっている。変な緊張が俺に纏わりついてくるが、龍河先生の言葉を思い出して自分を励ました。
 こんこん、と静かにノックしてから扉も静かに開ける。寝てるかな、と首を伸ばして部屋の中を覗くと、母さんはベッドの上で上半身をわずかに起こし、来訪者は誰かとこっちを見ていた。それが俺だとわかって、母さんはほんの一瞬驚いた顔を見せたあと、「凌」と呼んでその顔に笑顔を咲かせた。
「場所、迷わなかった?」
「うん、父さんにちゃんと訊いてきた」
「そう。でも凌、大丈夫?受験とか、いろいろ考えて大変なときでしょ?」
「平気。それに個室になったから、母さんの身体に障らないようならこれからはここで勉強しようかなって」
「あら、それは嬉しい。凌の顔見るだけで元気が出るから」
「うん、ならそうする」
「でも勉強だけじゃなくて、お母さんともお話してね」
「俺の将来に差支えのない程度にしてね」
 あはは、と楽しげに笑い、母さんは「はい、気を付けます」と微笑んだ。
 ベッドと窓の間に置かれているテーブルに移動して、リュックから参考書とノートとペン入れを取り出していく。俺が椅子に腰かけると、母さんが訊いてきた。
「学校は楽しい?」
「うん?」
「学校のこと、最近聞けてなかったから」
「ああ、そういえばそうだね。うん、楽しいよ」
「将太君も元気?」
「うん。あ、そういえば、将太と裕吾が母さんに会いたいって」
「あら、ほんと?こんな姿でもいいかしら」
「なに言ってんの。文化祭終わったら連れてきてもいい?」
「もちろん。裕吾君は初お目見えね、ドキドキしちゃう」
「たぶんそれ以上に裕吾のほうがドキドキしてると思う」
「ふふ、楽しみ」
「うん、俺も」
「楽しくやってるならよかった」
「うん、今年はとくに楽しい」
「どうして?」
「すごい人がいるんだ。龍河先生っていう、この世のものとは思えないぐらいかっこいい人」
「なあにその表現」くすくす笑う。「でもそんなにかっこいいならぜひお会いしたいわ」
「腰抜かすよ。でも、外見だけじゃないんだ。内面も、考え方も、生き方も、全部かっこいい。ほんとにすごい人なんだよ。これまでも、先生の言葉に何度も救われて、自分が間違ってることに気付かせてくれて。先生と知り合ってまだ半年ぐらいなのに、なんでかすごく惹かれて、先生は俺にとってすごく大切な人なんだって、すごく特別な人なんだって、根拠はないけどそう思えてならないんだ。たまにめちゃくちゃなときもあって驚かされるけど、でも、間違ってない。芯が通ってて、正しい。どうやったらあんな風に生きられるんだろうって、先生と出会ってからずっと思ってる。ほんとにすごいんだ、先生は」
 微笑んだまま小さく何度か頷き、母さんはその微笑みを大きくした。
「凌がそう思うなら、人として、とても素敵な先生なんでしょうね。よかったわね、そんな人と出会えて。凌は運がいい」
「うん、そう思う」
「大切にしなさい、その出会いを。凌の周りにいてくれる人たちを」
 そのいつになく真剣な眼差しが、なぜか龍河先生と重なって見えた。脳内が侵されてるな、と自分に危うさを感じながら、母さんの言葉を胸にしまう。
「うん、わかった」と頷いて、お世辞にも顔色がいいとは言えない母さんの顔を見つめた。龍河先生の声がもう一度、俺の耳に聴こえてくる。
 ――凌は今、母さんのためにできることを精一杯やらなきゃなんねえんだよ。
 ――母さんにしてやりたいこと、伝えたいこと、たくさんあるはずだ。たとえ言葉にしなくたって、凌の想いやり一つ一つが、凌の想いを母さんに伝えてくれる。
 ――最期を迎えたとき、必ず後悔する。母さんのために、必ず後悔する。ああしておけば、こうしておけば、そうやって後悔はいくらでも湧いてくる。だから凌は、少しでも多くの感謝の気持ちを、母さんを慕う気持ちを、母さんに伝えるべきなんだよ。
 俺はテーブルの場所からベッド脇に移動して、母さんのそばに腰かけた。
「母さん」
「うん?」
「俺はこれから、母さんにいっぱい感謝の気持ちを伝えたい。母さんのことが大好きだってことを伝えたい。いくら伝えても伝え足りないけど、俺が母さんのことを、いつでもどこでも想ってるって知ってもらいたい」
「凌……」
 泣くまいと思ってたのに、ダメだ。だって母さんの目に、みるみる涙が溜まっていく。
「だからまず、母さん、産んでくれてありがとう。俺は、父さんと母さんの子供になれて、本当に幸せだよ。本当にありがとう」
 唇をきつく結び、母さんは次から次へと流れる涙を指で拭う。
「母さん」
 真っ赤になった、母さんの優しい瞳が俺を見る。
「大好きだよ」
 母さんはくしゃっと顔を歪めると、俺に向かって両腕を広げた。小さい頃、よくこうやって俺を迎えてくれた。
 ――凌、おいで。
 ――凌、よくがんばったね。
 ――凌、おかえり。
 ――凌、大好きだよ。
 俺は腰を浮かせて、随分痩せてしまったその細い身体をそっと抱きしめた。母さんは今ある精一杯の力で俺を抱きしめる。
 懐かしい匂いと温もり。何度も包まれて、何度も守ってくれた。一番安心できる場所。俺の大切な、大好きな場所。
「凌は、私の、自慢の息子」
 今度は俺がぼろぼろ泣く番。
「私の、可愛い、自慢の息子」
 両手が塞がって、涙も鼻水も流れ放題。
「凌、大好きだよ。ありがとう」
 母さんは俺の、俺は母さんの首元に顔をうずめる。寝間着に、シャツに、お互いの涙が吸い込まれていく。
 カタッと小さく音が鳴った。俺と母さんは身体を離して、涙でぐしょぐしょの顔をその音のほうへと向ける。そこには俺と母さんと同じ顔をした父さんが、扉の取っ手に手を掛けたまま立っていた。
「あなた」
「父さん」
「すまん、寝てると思って、そっとドア開けたら――」
 母さんと顔を見合わせ、ふっと二人で吹き出した。
「そんなとこ立ってないで、こっちに来てよ」
「まさか聞かれてたとは。私と息子の密談を」
 ベッド横まで来た父さんは、サイドテーブルに置いてあるティッシュで盛大に鼻を噛み、はあああと大きく息をついた。俺と母さんも然り。
「いやあ、なんか嬉しいなあ」
「こんな早い時間に来るなんて思わなかった」
「仕事が落ち着いてたから早めに帰らせてもらったんだ」
「こんなに嬉しい偶然はないわね」
「姉ちゃんに話したら悔しがりそうだけど」
「内緒にしなきゃな」
「そうだね」
 みんなで小さく笑い、ふと沈黙が訪れた。
「凌」
「うん?」
「お父さんからも、ありがとう。奏も凌も、お父さんとお母さんの自慢の娘と息子だ。大切な大切な、可愛くて仕方ない、かけがえのない娘と息子だ。お父さんも、お前たちのことが大好きだ。ありがとうな」
 話しながらまた泣く父さん。聞きながらまた泣く母さんと俺。ここに姉ちゃんがいれば、姉ちゃんも絶対泣いてるはず。風丘家は今、感情が乱れているようです。
 こんなに泣いて母さんの身体に障るんじゃないかって心配になったけど、母さんに疲れた様子はない。むしろ元気になっているように見えるのは俺の願望だろうか。
 その母さんが明るい表情を俺に向ける。
「ねえ凌、さっき言ってた先生の話、もっと聞かせて」
「先生?」と父さんが首を傾げる。
「凌の学校にいる、この世のものとは思えないぐらいかっこいい先生のこと」
「なんだその表現は」
「うわ、夫婦だねえ」
「よくわからんが、お父さんも聞きたいな」
「いくらでも話せるよ」
 先生のことならまかせなさい。
 四月から今日までの約半年間の出来事を父さんと母さんに事細かく、龍河先生がいかに素晴らしい人なのか、どんだけかっこいい人なのかを熱く熱く語った。自分でも怖くなるぐらい、語り出したら止まらない止まらない、止まらないったらありゃしない。それはもう実の親が引くぐらいである。
 だってさ、一言二言で語り切れる人じゃないんだもの。先生のかっこよさはこの世に存在する言葉じゃ足りないんだもの。俺の先生への想いはそんじょそこらの恋だの愛だのとは違うんだもの。そりゃ熱くなって当然、話し疲れるのもしょうがない。
 半ば呆れながら、笑ったり感心したり共感したりしながら二人は耳を傾け、一つの結論に辿り着いた。
「凌は龍河先生が大好きってことね」
「うん、そういうこと」
 一言でまとめられてしまったけど、要はそういうことだ。
 俺が熱弁し過ぎたのか、母さんが少し疲れてるように見える。
「ごめん、俺が喋りすぎた」
「ううん、心地いい疲れだから大丈夫」
「もう休んだほうがいいよ」
「そうだな。奏もそろそろ帰ってくるし、俺たちも帰るとするよ」
「うん」
 俺はテーブルに広げたものをリュックにしまっていく。結局勉強のべの字もしなかったな、と苦笑いが零れたけど、勉強なんてどうでもいい。ここにいるのは勉強するためじゃなくて、母さんと過ごすためなんだから。
 帰り仕度を終えた俺に母さんから声が掛かった。
「凌、勉強も大切だけど、休息も必要だからね。ちゃんとごはん食べて、しっかり眠って、体調崩さないように気を付けてね」
「うん、わかった」
「お父さんも、仕事忙しいときは無理して来なくていいから。体壊さないように、忙しくても栄養あるものちゃんと食べてちょうだいね。奏にもそう伝えておいて」
「わかったよ」
「母さんこそ無理は絶対にしないでね。しんどいときはちゃんとしんどいって言って」
「うん、わかった。ありがとう」
 また来るね、と父さんと言って部屋を出た。歩き出した途端、父さんの手が俺の頭をわしゃわしゃ撫でる。涙が零れ出た。
 いつの日か、これが叶わぬ日が来る。当たり前が当たり前じゃなくなる日が来る。その日が訪れて時間がいくら過ぎたとしても、叶わぬことを望んで、当たり前だった日々を恋しく思って、俺はいつまでも母さんを想う。
 でもきっと、それでいいんだ。たとえそこに母さんがいなくても、もう触れることができないとしても、母さんはそこにいる。
 俺を見つめる優しい瞳も、俺の頬に触れる手の感触も、こっちがつられてしまうような笑い声も、そこにあるだけで安心する笑顔も、そこにある。
 決して、なくなったりしない。
 その日が来たとき、俺は笑ってさよならを言えるんじゃないかって、なんとなくそう思った。

≫≫ 十月へつづく


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