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なんとなく vol.4

六月

 梅雨に入ったってのにこの澄み渡る青空は奇跡だろうか、それとも嫌がらせだろうか。
「暑い!」
「くそ暑い!」
「もうやだ……」
「誰だよ、この時期に体育祭やるって決めたの」
「もっと爽やかな時期にしてくれよ」
「空はとっても爽やかな色してるけどね」
 六月二週目の金曜日、本日は体育祭です。
 数日前までは曇りの予報だったのに、突然予報は変わって晴れ。これぞ晴天!と言わんばかりに晴れ渡っている。晴れるのは嬉しいが、この湿度をどうにかしてくれ。
「いいよなあ、あっちは。屋根があって」
 裕吾の言うあっちとは、俺らが座る観覧席の向かい側、トラックを挟んだ向こうに並ぶ、わが校の名前が大きくプリントされたテント下に座る教員たちのこと。なにを話しているのか、和やかに談笑しながら俺らが駆けずり回るのを眺めている。
「先生どこだ?」
「こっからじゃよく見えねえな」
「……あれじゃない?」
「どれ?」
「こっち側の一番左のテントの下」
「ええ?どこ?」
「ほら、一番前に座ってる、あれ校長かな?その隣に座ってるの先生じゃない?」
「……ああ!ほんとだ!」
「でもよく見えねえなここからじゃ。癒しにならん」
「望遠鏡ほしいね」
「いいなあ、俺も先生と喋りたい」
「ちょっと行ってみるか」
「あそこに乗り込むの?」
「俺やだよ、さすがに。それに話してるとこ割り込んだら邪魔だろ」
「うん、そうだね」
「やっぱそうか。でもちょっとぐらいダメかなあ。先生と全然話せてないんだぜ、俺」
「俺もだよ。凌ちゃんがいないとさすがにお邪魔できない」
 俺がいなくても平気だよ、と言ってるのに、将太も裕吾も放課後に一人、もしくは二人で龍河先生のところへ行くのはまだ勇気がいるらしく、俺がいないと龍河先生に会いに行けないと言う。俺もまだ緊張はするけど、話したいから一人でも会いに行ってしまう。テストが返ってきたあの日から今日まで、二人はバイトで俺は休み、俺はバイトで二人は休みという日が続き、二人はあれから龍河先生のところへ行くことができていない。俺はあれから二回、一人で放課後訪問している。
「凌、お前、細工してるだろ」
「は?」
「バイトない日がお前とこんなに被んないなんて今までなかったぞ」
「知るかよ。たまたまだろ」
「でもこんなに被らないのはほんと珍しい」
「将太までそんなこと言うのか」
「俺たちも先生と話したいからね」
「だったら行けばいいじゃん」
「あのな、俺らは凌のおこぼれを貰ってるようなもんなんだよ。スタートラインがお前とは違うんだってことを覚えとけ」
「そうそう。気軽に会いに行くにはまだ時間がかかるってこと」
「いや、俺も気軽には行けてないって。いつもドキドキしてるって」
「俺らはドキドキドキドキドキドキなんだよ」
「そういう――あっ!動いた!」
 将太が慌てて言って指を差す。見ると、龍河先生は立ち上がってテント下から出ようとしている。昼休憩まであと一競技、俺らの出番はない。
「行くぞ!」と俺らは駆け出した。
 全力疾走とまではいかないが、そこそこのスピードで走った甲斐あって、校舎に入ろうとする龍河先生に声が届くぐらいの距離まで縮めることができた。
「龍河先生!」
 龍河先生の足が止まり、身体をわずかに引いて振り返る。その目が俺らを認めると、龍河先生の身体は完全に俺らに向いた。
 今日の龍河先生は、上下セットアップの黒のランニングウェア。細身のシルエットで、龍河先生のスタイルのよさがよくわかる。パーカーを首の上まで閉じてるから全身真っ黒。それがまたかっこいい。俺らのジャージ姿とは大違いだ。
 先生、ランニングウェアも着こなしてしまうんですね、やっぱり。
 ぜえぜえ息を切らす俺らに、龍河先生の落ち着いた声が掛けられる。
「どうした」
「いえ、あの、龍河先生の、姿が、見えたんで」
「ん?」
「あの、とくに用があるってわけじゃ、ないんですけど」
「先生を見たら、追いかけたくなっちゃって」
「身体が勝手に、動いてました」
 ふっと龍河先生が小さく笑う。
「それはご苦労だったな」
「はい、疲れました」
「追いかけるのは構わねえが、転ぶんじゃねえぞ」
 そう言うと、龍河先生は俺らに背中を向けてしまった。ええっ!と俺らは慌てる。
「先生!」
「ん?」
 龍河先生がもう一度振り返る。
 えっと、なにかなにか。
「あ!昼!」俺ナイス!「昼、一緒に食いませんか?」
「食いたいです!」「ぜひ!」と将太と裕吾もうんうんと頷く。
「悪い、俺もう帰るんだよ」
「え、帰っちゃうんですか?」と俺。
「ええ!なんでですか!」と裕吾。
「どこか具合でも悪いんですか?」と将太。
「いや、用があって帰らせてもらうだけだ」
「ああ、よかった」と安堵する将太に龍河先生はあたたかい笑みを浮かべ、将太の頭、こめかみの少し上あたりを優しくぽんっと触った。
「ありがとな」
「……あ、いえ」
「怪我すんなよ」と言い置いて、龍河先生は校舎の中に入っていった。
 龍河先生の姿が見えなくなると、将太はその場にくたくたと崩れ落ちた。横座りになり、両手を地面につけて身体を支えている将太のそばに、俺と裕吾はしゃがみ込む。
「なんだあれは……」
「破壊力半端ないだろ。見てるだけの俺らも相当やられてるぞ」
「半端ないなんてもんじゃないよ。あれは核兵器だ」
「いいなあ、俺もそれ味わいたい」
「言っとくが、マジで持ってかれるぞ」
「持ってかれたい!」
「凌ちゃん」
「うん?」
「胸が苦しい。締め付けられて苦しいよ」
「わかるわかる」
「わかりたいわかりたい」
 一つ息を吐き、のろのろと立ち上がる将太に合わせて俺らも立ち上がる。将太が俺の肩に手を乗せた。
「凌ちゃん、先生は人間じゃないかもしれない」
「きたあああ!」
「だから言ったじゃねえか!」
「不思議な力を持つ種族だ、絶対」
 俺と裕吾が声を上げて笑う。
「そうそう。そう思って耐性を作るしかない」
「うん、そうする」
「それにしても、あんなかっけえジャージどこに売ってんだ?」
「ランニングウェアな」
「どっちでもいいだろ。あんなかっけえジャージ見たことねえぞ」
「ナイキショップで売ってるよ」
「買おうかな」
「やめておけ」
「やめときな」
「なんでだよ」
「先生の用事ってなんだろな」
「学校休むぐらいだから大切な用事なんだろうね」
「無視か、ついに無視か」
「もう昼の時間になるんじゃないか?」
「あ、そうかも。そろそろ行こうか」
「絶対買うからな!お揃いにしちゃうからな!」
 俺と将太が「なに食うか」と相談しながら歩き出すと、「冗談だってばあ!」と言う裕吾の声が足音と一緒に聞こえてきた。

 次の日。
 一限目を終えたあたりから、学校中がひそひそと静かにざわつきはじめた。そのときはまだ原因がなんなのかわからず、俺らは「なんかあったのかな」なんて言いながらも興味はなく、他人事だった。
 しかし二限目、その原因がわかるとともに、クラス全員が目をひん剥いた。
 教室に入ってきた龍河先生の額、左眉斜め上に、縦三センチ、横五センチぐらいのガーゼが貼ってあるではないか。
 あれはどう見ても怪我だよな?しかも結構な怪我だよな?昨日用があると言って帰って、そのあと一体なにがあったんだ。先生の身になにが起きたんだ。
 気になる。すごい気になる。誰か訊いてくれ、とクラス全員が懇願しているに違いない。
 だがもちろん訊けるわけがない。動揺しまくりの俺らとは対照的に、額のガーゼは俺らの幻覚ですか、と訊きたくなるほど龍河先生は至って普段通り。教卓の後ろに立ち、教室全体をさっと見渡してから「教科書二十三ページ」と授業をはじめた。気になる気持ちをぐっと押さえ、視線をガーゼから教科書へと移す。が、気になって仕方がない。でも授業に集中しないと旧小野君の二の舞になりかねない。
 集中集中!先生の額にはなにもない。いつもと変わらない。額にガーゼなんて――。
 ああ、先生はガーゼも似合うんですね。額にガーゼがあってもかっこいいんですね。きっとあのネットみたいなのも似合っちゃうんでしょうね。
 なんてことを思いながらも、なんとか意識を授業に向けて乗り越え、授業を終えた龍河先生はこれまたいつも通りさっさと教室から出ていってしまった。それと同時に将太と裕吾が飛んでくる。
「おい、先生どうしたんだ」
「わかんない」
「昨日なにがあったんだろ。あれたぶん、縫ってるよね?」
「たぶんね」
「切ったってことか」
「うん」
「おでこ以外は怪我してる様子なかったから事故とかじゃなさそうだけど」
「うん、そこはひと安心」
「先生が転んでぶつけるとか想像できねえな」
「はしゃいで怪我したってのも想像つかない」
「じゃあ、なに?」
 三人でちょっと考えて、三人の声が揃った。
「気になるううう!」
「おい凌、訊いてこい」
「なんでいつも俺なんだよ、お前が訊けばいいだろ」
「半年後なら訊けるかもしれない」
「どんだけ時間かかんだよ。それに今日は土曜だから無理」
「ああ、そうか。気になりすぎて土曜だって忘れてた」
「来週までお預けだね」
「ちなみに、月曜と火曜はバイト」
「タイミング悪いなお前は!」
「知るか!先生が怪我するなんて誰が思うよ」
「たしかに。もしかしたら意外とドジっ子なのかも」
「……まさかあ!」俺と裕吾の声が揃う。
「でもほら、完璧な人間はいないって言うじゃん」
「……もしそうならちょっと安心するな」
「裕吾、期待しないほうがいい。期待するだけ底は深くなるぞ」
「凌ちゃん水曜日はバイト休みなの?」
「うん」
「俺も休み」
「俺もだ!」
「お、ついに揃った。じゃあ真相解明は水曜日だな」
「だね!」
「よし!」
「でも長いな、水曜まで」
 三人のため息が重なった。

 そんなこんなで日月火ともやもやしたまま過ごし、ついに水曜日。
 五限目、教室に入ってきた龍河先生の額にガーゼはもうなかった。その代わりに今は、長さは三センチぐらいだろうか、縫合された跡が痛々しく見えている。痛そうだなと思いながら授業を受け、早く放課後にならないかなと思いながら教科書を閉じた。
 ちなみに、今日の龍河先生は黒い長袖シャツに黒いチノパン。真っ黒なのに爽やかなのは龍河先生が着てるからってのもあるが、シャツのボタンを下三つ開けて、そこから白Tを見せているから。シャツもぴったりサイズじゃなくて少しオーバーサイズだから暑苦しさもない。今日も見事にかっこいいです。
 やっとのことで六限目が終わり、俺らは急く気持ちを押さえながら英語準備室へと向かった。ノックして、ちょっと待ってからドアを開けると、龍河先生は部屋の奥に立ってマグカップにお湯を注いでいるところだった。コーヒーのいい香りが俺らのところまで漂ってくる。お湯が満たされ、龍河先生の顔が俺らに向いた。
「久しぶりに話したくて」
「今日は三人か」
「お邪魔します」と将太と裕吾がそれぞれ口にする。
 並んで立つ俺らを見て龍河先生が呟いた。
「狭いな」
「あ、そうですよね」
「隣行くか」
 マグカップ片手に英語準備室から出た龍河先生は、隣の視聴覚室に入っていった。もちろん俺らも後に続く。
「ここ、先生の私室化してますね」
「ちょどいいんだよな、ここ。映画見れるし」
 龍河先生が座って俺らも座る。正面から見て、手前右に龍河先生、その横に俺、先生の後ろが裕吾、俺の後ろが将太。しばらくは他愛のない話が続いていたが、ついに、将太の顔が覚悟を決めたように引き締まった。ここに来る前、誰が例のことを訊くのかじゃんけん勝負をして、将太が負けたのだ。
「あの先生」
「ん?」
「ずっと気になってたんですけど、おでこの傷、どうしたんですか?」
「ぶつけた」
「なにに……」
「わかんねえ。気付いたら切れてた」
「ええ?」思わず声が漏れる。「結構な傷ですよね?」
「酔っ払って、とかっすか?」恐る恐る裕吾が訊く。
「いや、ライブで」
「ライブ?」ここで三人の声が揃う。
「痛えなと思って触ったら血が出てて、とりあえず止血だけして――」
「先生、ちょっと待ってください」
「ん?」
「ライブって、あの音楽のやつですよね?」
「そう」
「ライブ見て頭切るって、どうしたらそうなるんですか」
「あ?違えよ。俺らのライブ」
 沈黙。
 ややあって、覚醒。
「えええええええええええっっ!」
 三人叫ぶ。そこからは怒涛の質問タイム。
「え、え?先生のライブ?」
「先生のライブってどういうことですか?」
「先生バンドやってんすか?」
「バンドってあのバンドですよね?」
「え?先生は先生ですよね?」
「どういうことっすか?」
「ライブってなんですか?」
「先生ライブやってるんですか?」
「なんで?どういうこと?」
「俺聞いてないですよ。ライブってなんですか?」
「先生がライブやってるんですか?」
「どうして?え?どうして?」
「っていうか、なんで今まで黙ってたんですか!」
「なんで言ってくれないんですか!」
「先生どういうことっすか!」
 これだけ質問攻めにあっても、さすが龍河先生。動じた様子は微塵もなく、背もたれに寄りかかったまま俺らを眺めている。俺らの質問が一段落したところで「凌」と俺を呼んだ。
「はい」
「今のをまとめて一個にして」
「え?えっと……」俺らが訊きたいのは。「先生、音楽やってるんですか?」
「ああ」
 あ、終わってしまった。でもいろいろ訊きたい。もっと知りたい。と思ったら訊いていた。
「いくつのときからやってるんですか?」
「バンドをはじめたのは十七」
「へえ。それからずっと同じメンバーで?」
「いや、今の奴らとは十九のときから一緒にやってる」
「何人でやってるんですか?」
「四人」
「どんな音楽なんすか?」たまらず裕吾が訊く。
「最高にかっけえ音楽」
「おおおお」
「先生はどの楽器をやってるんですか?」将太もうずうずしていたようだ。
「ギター」
 それを聞いて、あ、だからか、と思い出した。
 ――この手は命とおんなじぐらい大事なんだよ。
 そりゃそうだ。そういうことか。
「作曲とか、作詞は誰がやってるんですか?」
「歌がねえから作詞はしねえが、曲は俺とベースの奴がメインでやってる」
「歌がない?」
「インストゥルメンタルってやつですか?」
「そう」
「へえ、聴いたことないなあ」
「俺も。歌があるやつばっかだなあ」
「俺もちゃんと聴いたことないけど……」想像して聴いてみる。「……気持ちいかも」
 ぽろりと言った俺の言葉に、将太と裕吾は首を傾げ、龍河先生はただ俺を見た。
「あ、変な表現でしたね、すいません」
「そんなことないけど、どういうこと?」と将太が訊く。
「うーん、なんて言うのかな。音楽聴いてて、歌詞に共感することももちろんあるけど、音に惹きつけられることない?」
「音?」
「うん、音の強弱とか、リズムとか、重なり方とか、なんかそういうのに感動することがあるっていうか。歌詞よりも、そっちに耳が傾いてるときが結構あって、だから歌がないのって、聴いてて気持ちいかもしんないなって」
 そこではたと我に返って、恥ずかしくなった。俺はなにを言ってるんだ。
 そっと龍河先生を窺い見ると、寄りかかっていたはずの背中を離し、頬杖をついたまま俺を見ていた。
「すいません。めちゃくちゃなこと言ってますよね」
「どこが。なにに心を動かされるのかは人それぞれだろ。凌が音楽を聴いてそう感じたなら、それが一番正しい。それに――」言葉を切った龍河先生の顔に、やわらかい笑みが広がった。「すげえ嬉しかったよ、俺は。凌がそんな風に音楽を感じてくれてること」
 へへ、と照れてしまう。
「先生にそう思ってもらえたなら、よかったです」はにかんだついでに調子に乗ってみた。「先生たちの音楽聴いてみたいです」
「ああ、聴くか?」と言って、龍河先生はスマホを取り出した。
「え、はい!」
「聴きたいっす!」
「やった!」
 龍河先生の指がスマホをタップしてスワイプして、タップしてタップすると、その一秒後ぐらいにギターの音が流れてきた。うわあと感動したのも束の間、ギター音の代わりに着信音が響き渡った。
「あ、悪い。出るわ」
「どうぞどうぞ」残念だけどもちろんどうぞ。
 龍河先生がスマホを耳にあてる。
「どうした。うん、うん、うん、ああ……いや、いいよそれで。うん、うん、あ?」
 龍河先生の表情が若干険しくなり、なぜか俺らが緊張する。
「知るか、てめえのケツはてめえで拭けっつっとけ」
 自分が怒られているように感じて、俺らの背筋が伸びる。
「あ?うん、うん、マジか」
 龍河先生に少し笑顔が戻り、俺らはほっとする。
「いいだろべつにほっときゃあ。あいつが飢え死にしようが野垂れ死にしようが俺の知ったことじゃねえよ」
 一体なんの話なんだと、俺らはまた緊張する。
「うん、ああ、だからそれはいいって。お前に任せてんだから好きなようにやれよ。うん、うん、ん?アホか、それは違えよ、お前だから頼んだんだろうが」
 相手の人きゅんきゅんしてるだろうなあと思って、俺らはにやける。
「サク、いいか?俺はお前を特別扱いしたことは一度もねえよ。俺はサクの作品がすげえ好きだ。ダチだからとかじゃなくて、ただ好きなんだよ。だからお前に頼んだ。わかるか?」
 相手の人が羨ましくなり、俺らは心が締め付けられる。
「お前はお前の思うようにやればいい。あっちがなんか言ってきたら俺に回せ、ぶっ潰すから」
 いくつかの記憶が蘇って、俺らの背筋がまた伸びる。
「ああ、わかった。うん、よろしく。ん?ああ、また行くよ。あ?」
 サクさんがなにか言って、龍河先生に笑顔が戻った。今度はほんとの笑顔で、ほんとに親しい人にしか見せないような笑顔。可笑しくて仕方なくて、堪えきれずに溢れた笑顔。俺らはちょっと悔しくなる。
「ああ、抱きしめてやるよ。じゃあな」
 どふわばああああああんっ!
 ちょ、ちょ、ちょっと!抱きしめてやるってどういうことだ!
 胸の高鳴りを押さえながら龍河先生に視線を向けると、電話を切った龍河先生の顔にあの笑顔はもうなくて、俺らがよく見る龍河先生に戻っていた。
「悪い、長くなった」
「いえ、全然大丈夫です」
 嘘です、全然大丈夫じゃありません。ノックアウト寸前です。
 と思ってる俺らをさらに苦しめるように、龍河先生がぽつりと呟いた。
「甘いもん食いたいな」
 くそっ、可愛い。かっこいいと可愛いに挟まれてもう身動きが取れません。
 そこで将太が、この現状を打破するためなのか、それとも追い打ちを掛けたいだけなのかわからないことを言った。
「あ、俺アポロ持ってますよ。食べますか?」
 なんでアポロ!可愛らしいもん持ってんなお前も!
「お、いいねえ。ちょうだい」
「全部食べちゃっていいですよ」
「そんなこと言うとマジで全部食うよ、俺」
「はい、どうぞどうぞ」
 将太からアポロの箱を受け取った龍河先生は、手のひらにアポロをいくつか出して一つずつ食べはじめた。それもまた可愛い。
「うまっ」
「将太、なんでアポロ持ってんの?」
「食べたくならない?アポロとか、チョコボールとか」
「わかる」と龍河先生が賛同する。「エンゼル集めたくなるよな」
「なりますね。俺去年、金のエンゼル出ましたよ」
「マジか。俺は銀止まりだな」
「アポロの濃い味食べました?」
「食った。あれはうまい」
「俺も好きです。いちごとチョコって最高の組み合わせですよね」
「だが生のいちごとチョコだと違くねえか?」
「あ、それすごいわかります。いちご味のチョコとチョコの組み合わせがいいんですよね」
「将太、お前わかってんな」
 龍河先生が将太に向けて手を上げると、将太もそれに応えて二人でハイタッチ。俺と裕吾は完全に置いてけぼり。
 おいおい、盛り上がってんな。
 一つずつ食べていたアポロはあっという間になくなり、箱はからっぽになってしまった。箱の中を覗いて、龍河先生がまたぽつりと呟く。
「なくなっちった」
 くそっ、また可愛い。アポロぐらい俺がいくらでもプレゼントしますとも!
 からっぽになった箱を机に置き、龍河先生はマグカップに入ったコーヒーを一口飲む。
「先生甘いもの好きなのに全然太ってないっすよね。鍛えてるんすか?」
 今度は裕吾がなにも知らずに龍河先生の趣味話に触れた。
「やんなきゃ衰えるからな」
「俺も家でやってるんすよ。部活やめたから鈍っちゃいけないと思って」
「凌もやってるってこの前話したな?」
「はい、盛り上がりましたね」思い出して笑顔になる。「裕吾、先生すごい詳しいよ。インストラクター並みだよ」
「マジっすか。教えてもらいたいっす」
「やるからには容赦しねえが」
「はい!お願いします!」
「お、いいねえ。こっち来い」
「はい!」
「凌、将太、お前らもやるぞ」
「はい!」と元気よく返事して立ち上がる俺。
「え、俺もですか」と不安げな声を出す将太。
「当たり前だろ」
「将太、諦めろ」
「……はい」
 そうして龍河先生を講師とした筋肉トレーニングがはじまり、はじまったら最後、俺らは五時までみっちり龍河先生に鍛えてもらった。
 今日は二人じゃなくて四人で帰る。将太と裕吾が前を歩いて、俺と龍河先生がその後ろを歩く形に自然となった。
「あの、先生」
「ん?」
「今さら俺が言うのもあれですけど、こうやって放課後お邪魔して仕事の邪魔になってませんか?」
「ほんと今さらだな」と龍河先生は微かに笑い、「なってねえよ」と言ってくれた。俺がそう思いたかっただけかもしれないが、それは気を遣って言ってくれてるようには聞こえず、本当にそう思ってくれているように聞こえた。
「それならよかったです」
「俺はクラスも部活も持ってねえから暇なんだよ。それが臨時教員引き受ける条件だしな」
「条件?」
「俺ができるのは授業の場で教えることだけ。ほかは一切関わらねえ。それが校長に頼まれたときに俺が提示した条件。校長は俺が今なにしてんのか知ってるし、俺にとって音楽がなによりも最優先事項だってわかってるからその条件でいいよって。だが、表向きはただの臨時教員だからな、一応五時までは残ってるってだけ」
「へえ、そうだったんですか。でも大変じゃないですか?音楽やって先生やってって」
「そうでもねえよ。ライブは何本かやるが、この一年は各々自由にやろうってことになってるから」
「この一年……」
「来年からまた忙しくなるんだよ。去年までは突っ走ってたから、この一年は一旦足を止めてのんびりやろうぜって」
「あ……」
 ――時期がずれてたら断ってたが、今なら一年ぐらいなんとかなるから受けたんだよ。
 五月の初め頃だっただろうか、龍河先生はそう言っていた。
「そういうことか」
 ほんとにタイミングよかったんだな。一つでもなにかがズレていたら俺は先生と出会えなかったんだ。マジでよかった。話したことないけど、校長先生、ナイスです!
「あ、でも忙しいときは帰れって言ってもらって全然大丈夫なんで、ちゃんと言ってください。俺もあいつらも調子に乗りやすいんで」
「テスト前じゃなきゃ問題ねえが、ダメなときはちゃんと言うよ」
「はい、お願いします」
「そういや裕吾も将太も、俺が甘いもん好きなことも筋トレしてることも知らなかったな。話してなかったのか?」
「はい。先生の物事に対する考えとか、俺にくれた言葉は話しちゃってますけど、そういうプライベートなことは俺が軽々しく話していいことじゃないじゃないですか。会話の中で自然と知るべきことかなと思って」
「ふうん」と言いながら、龍河先生は頬を緩めて俺を見た。「凌のそういうとこ、すげえ好き」
 どふわばああああああんっ!
 修復中の心臓、また崩壊。
 人を褒めて、さらにさらりと好きって言えるってすごくないですか。なんでそんな風に言えちゃうんですか。なんでそんなにかっこいいんですか。なんでそんなに俺をドキドキさせるんですか!
「あ、ありがとうございます」……俺も言ってみようかな。「あの、先生」
「ん?」
「俺も、先生のことすごい好きです」やばい、顔が沸騰しそうだ。
「知ってる」
「ええ?」なにその反応。
「一回愛の告白されてるし」
「あああれは……」思い出すだけで恥ずかしい。
「ん?」
「いえ、たしかにそうでした」俺の勇気を返してくれ。
 少しいじけた気分でいると、「冗談だよ」と言う、笑いを含んだ龍河先生の声が耳に届いた。思わず顔を向けた先には、からかう色のない、ただまっすぐ俺を見る龍河先生がいた。
「凌がそう想ってくれてすげえ嬉しい。ありがとな」
 ここで微笑み。
 ああ、勝てない。先生にはやっぱり勝てない。
 俺の顔は再沸騰し、「いえ」と返すことしかできなかった。
 七分間はあっという間で、気付けば改札を通っている。そこで俺は重大なことに気が付いた。
「あああっ!」
 突然でかい声を出した俺を、将太も裕吾も龍河先生も足を止めて振り返る。周りの通行人も何事かと俺を見た。大声出してすいません。
「先生たちの音楽聴けてません」
「あっ!」将太と裕吾の声が揃う。
「そういやそうだな」
「くそっ、アポロめ」と裕吾。
「くそっ、筋トレめ」と将太。
「八つ当たりする対象がおかしいぞお前ら」
「いつでも聴けるだろ。それかアルバム買って聴いてくれ。じゃあな」
 遠くなる龍河先生の背中。その背中を眺める俺ら。少しして。
「ええええええっ!」
 今度は三人分。通行人の皆さん、再び大声出してすいません。
 俺ら三人同じ路線で同じ方向。興奮しながら混乱しながら足を進める。
「アルバムってなんだよ、思い出の写真か?」
「んなわけあるか。曲がいっぱい入ってるやつだよ」
「やっぱそうだよね。でもさ、CDって誰でも出せるもんじゃないよね?」
「うーん、アマチュアでも自主制作で作れるから出せるっちゃあ出せるけど、でも先生のあの口ぶりだとどこにでも売ってる感じだったから、レコード会社と契約してるか、自分たちでレーベル立ち上げてそこから出してるか」
「マジか、すげえじゃん」
「凌ちゃん詳しいね」
「詳しくないよ。音楽多少聴く奴なら知ってるよ」
「そうなんだ。でもすごいね、先生。契約してようが自分たちで出してようが、それが売れてようが売れてなかろうが、自分のやりたいこと叶えてるってすごいよね」
「うん、すごい。だからなのかな、先生の言葉って軽くないんだよ。ずしんってきて、すとんってなる」
「凌ほど先生と話してねえけど、凌の言いたいことわかるわ」
「うん、わかる。ずしんってきてすとん。俺と裕ちゃんでもそう感じるんだから、凌ちゃんは尚更だね」
 これまで先生がくれた言葉は、先生からしたら当たり前のことで、別に俺らを諭そうとか励まそうとかしたものじゃない。自分が思ってること、自分が正しいと思ってることを俺らに伝えただけ。先生がくれた当たり前は、俺らにとってすごく特別なものになって刻まれる。
 どうしたらああやって自分の想いを言葉にできるんだろう。素直に伝えられるんだろう。簡単なことなのにすごく難しくて、些細なことなのにすごく大切なこと。それができる人になりたい。
「凌ちゃん?」
 将太の声で自分が考え込んでいたことに気が付いた。
「あ、ごめん。なに?」
「ううん、なんか難しい顔してから」
「それにしても、先生はどこまでかっこいいんだ」
「わからん、先が見えん」
「今日の電話もかっこよかったね」
「あんなこと言われたら俺、スマホ握り潰してるな」
「あれは電話の向こうで崩れ落ちてたよ、この前の将太みたいに」
「俺たちが言われてるわけじゃないのに俺たちが崩れ落ちそうだったもんね」
「抱きしめてやる。言われてえ!」
「言われたいし、抱きしめられたい」
「ほんと。俺、先生なら全然イケるわ」
「先生の周りにいる男全員思ってるよ、それ。未知なる世界に行ってもいいかなって思ってる」
「やっぱそうか。ライバルは多いな」
「裕吾、行ってもいいけど玉砕するのが目に見えてるぞ」
「わかんねえじゃん。もしかしたらイケるかもしんねえよ?」
「あのな、先生に恋人がいないと思うか?」
「あ……」
「な?諦めろ」
「……略奪愛ってのもありだな」
「あるか!お前が先生から奪えるもんなんてなに一つない」
「冷てえな、凌は。なんとか言ってくれよ、将太」
「え?ああ、うん。裕ちゃんに先生は高嶺の花です」
「将太、俺にじゃない、凌にだよ」
「将太、よく言った」
「俺もアポロ持ち歩こうかな」
「それ俺の役目だからダメ」
「いいじゃん、嬉しいこと楽しいことは分かち合おうぜ!友達だろ!」
 裕吾が将太の肩に腕を回し、二の腕をばしばし叩く。
「すでに筋肉痛なんだからやめてよ」
 将太は顔をしかめて裕吾を押しのけようとするが、逆に裕吾に抱きつかれてしまう。
「なんだよ、冷たいな。友達だって言ってくれよ」
「そうだね、友達だよ」とうんざり顔で将太が言った。
 これは将太と裕吾のお決まりのやりとり。何度見ても聞いても、俺はいつも笑ってしまう。アポロか、と思って俺はまた笑ってしまう。アポロとかチョコボールを買っている龍河先生を想像すると、可愛らしくてたまらない。
 将太と裕吾を見て、龍河先生を思い出して、俺の笑いは止まらなかった。

 次の日、奇跡的に龍河先生と遭遇した。
 昼休みになり、購買所で昼飯を買った俺らは教室へ戻ろうと、二つの校舎を繋ぐ一階の通路を歩いていた。その通路に壁はなく、外に剥き出しの状態だから外の様子が丸見えで、俺はなんとなしに外に目を向けた。すると、教員用出入り口正面、二階の下駄箱に繋がる階段の壁面に寄りかかっている龍河先生を見つけた。左手にコンビニ袋を持ち、右手でスマホを耳にあてている。
「あ」と声が出て、俺の足は自然と止まった。俺の足が止まったことで将太と裕吾の足も止まり、俺の視線を辿って「あ」と二人も声を漏らした。
 三人の足が止まったとき、龍河先生の視線がふと俺らに向いた。俺らと龍河先生の距離は四メートルぐらい。
 龍河先生は電話の相手になにか言うとスマホを耳から少し離し、「将太」と呼びかけた。呼びかけられた将太はびっくり。反射的に背筋が伸び、「はい!」と将太が返事する間に、龍河先生はスマホを左手に持ち替えてコンビニ袋の中からなにかを取り出した。そしてそれを将太に向かって放り投げる。一個、そしてもう一個。
 それは緩やかな弧を描いて将太の手元に届き、将太は苦労せずとも受け取ることができた。ナイスコントロール。
「昨日の礼だ」とだけ言って、龍河先生はスマホをまた耳にあてた。
 将太の手元を見ると、アポロとチョコボール。思わず俺らから笑みが零れ出る。顔を上げると、龍河先生は見かけたときと同じ姿勢で誰かと電話で話していた。
 相手は昨日の人だろうか。それとも別の人だろうか。電話で話す龍河先生の横顔は穏やかで、口元は緩く綻んだまま、時折笑い声が混ざる。
 俺の知らない先生の顔。昨日もそうだった。知り合ってたかが二ヶ月なんだから当たり前だけど、俺の知らない先生を見るたびに、あの表情を見せてくれるぐらい俺は先生に近づけるだろうかと思う。そのぐらいの存在になれるだろうかと思う。こんなこと思うなんておこがましいのかもしれないけど、俺はそうなりたいんだ。先生の隣に立って、笑いたい。俺の隣で当たり前のように笑ってほしい。
 なんだか、先生と出会ってから自分がおかしい気がする。
 先生のことを考えると、そばにいたいと思うのと同時に、もやもやとしたなにかが俺を覆うようになった。先生のような人になりたいと強く思って、先生のような人になろうと明るく思って、じゃあどうすればいいんだって自問自答を繰り返して、結局答えはなにも見つからない。思うだけで、なにもわからない。
 自分がなにになりたいのか、なにをしたいのか、まだわからない。漠然としたイメージはある。でもそれは世間を見て、ああ俺もこうなるんだろうなあという空虚な未来。先生のような人になりたいと思っているのに、俺が想像できるのはそんな未来。だけど先生のそばにいると、自分の未来がちらちら顔を出して俺に手招きしてくる。なのにそれを捕まえることができない。色はないのに形はあって、形はあるのに触れられない。正しい道が見えそうで見えなくて、もどかしい。
 自分の未来は、自分が歩む道は、どれが正しいんだろう。自分がなりたい自分になるには、どうしたらなれるんだろう。
 気付くとそんなことばかり考えてしまっている。
「凌ちゃん?」
 将太の声で自分が考え込んでいたことに気が付いた。
 あれ、デジャヴか?
「あ、ごめん。なに?」
「ううん、なんか難しい顔してたから。って、これ昨日もしたやりとりだって凌ちゃん気付いてる?」
「え?ああ、うん。デジャヴかと思った」
「最近ちょいちょいあるな。どうした、なんかあったか」
「いや、なんもないんだけど……」
「けど?」
「話せないなら無理に訊くつもりはないよ。でも話して楽になるなら、凌ちゃんが話せるなら聞かせてよ」
 龍河先生にも敵わないけど、こいつらにも敵わない。
 将太は人を想う気持ちが強いから柔らかく、裕吾は回りくどいことが苦手だから直球で俺を心配してくれる。いつもそうだ。そうやって俺を守ってくれる。
「大したことじゃないんだ、ほんとに。っていうか、自分でもよくわかんなくて」
 ついさっきまで考えていたことを口にする。自分でもわかんないんだから、将太も裕吾もどう答えていいかわかんないだろう。案の定、二人は購買所で買った弁当に入ってるおかずを箸で弄びながら、考え込む顔になっている。
「ごめん、忘れていいよ。気にしないでいい」笑って言って、おかずの鮭を一口大に箸で割る。「先生と一緒にいたあとだととくに考えちゃうってだけで、悩んでるとかそういうことじゃないし、自分でもよくわかんないんだから」
 小さくなった鮭を口に入れて白飯も口に入れる。そんな俺を二人は眺めている。少しして、将太がゆっくり言った。
「それって、わかんなくない?」
「うん、わかんねえな」確かめるような口調で裕吾も言う。
「うん、だからもういいって。ごめん、訳わかんないこと言って」
「そうじゃなくてさ、こういうことをしたいとか、あれをやってみたいとか、そういう職業的なことならやるべきことはわかるけど、こういう人になりたいとかって心がけの問題じゃん。人に優しくするとか、愚痴をこぼさないとか、そういう行動の心がけじゃなくて、なんて言うんだろう、人間の本質的なことだと思うからさ、なにをするとかじゃないと思うんだよね」
「……うん」将太の言葉を咀嚼しながら頷く。
「例えばさ、先生みたいな人になりたいと思って先生みたいに振る舞ったとして、それって先生みたいな人になったことになるのかな。もちろん、あんな人になりたいっていう憧れの気持ちはあっていいし、こうでありたいっていう気持ちは大切だと思うよ。でもさ、凌ちゃんは凌ちゃんじゃん。凌ちゃんは先生になる必要はないし、先生と自分を比べる必要もない。だって、凌ちゃんは凌ちゃんじゃん」
「二回言ったな」思わず笑ってしまう。
「何回でも言うよ。凌ちゃんは凌ちゃん。憧れの気持ちを持って、こうでありたいって思ってれば十分」
「将太に一票。俺は難しいことわかんねえけど、先生はああなりたいと思ってああなったわけじゃねえだろ。先生言ってたじゃん、『いろんなことが重なって重なってやっと今の俺がある』って。だから凌は凌でいい」
「それに凌ちゃん、大事なこと忘れてる」
「え?」
「凌ちゃんが憧れてる先生が言ったこと忘れてる。凌ちゃんが俺らに教えてくれたのに」
 将太が龍河先生の言葉を繰り返す。
 ――予測ができねえ選択を迫られたとき、どっちを選べば正解、なんてねえ。
 ――後悔しながらも、振り返りながらも、それでも自分の選んだ道が正しかったって、最後の最後で思えるように努力する。こっちを選んでよかったって思えるような生き方をする。
 ――大事なのは選んだ道をどう進むかだ。
「あ……」
「将来のことはわかんなくて当たり前じゃない?夢があっても叶うとは限らないし、自分に向いてないこともある。全然興味なかったことが天職になることもある。生きてるうちに未来は変わるよ。だからさ、考えてもいいし悩んでもいいけど、そんなに考え込む必要はないんじゃないかな。今少し見えるときがあるなら、ちゃんと姿を現すまで待ったっていいじゃん。それからだって遅くないよ」
「またも将太に一票。将太と先生の言う通りだと思うぜ。死ぬときに、ああ楽しかった!って思えたら大正解、これでいいじゃねえか」
「雑だけど、そうだね」と将太が笑って卵焼きを口に入れる。
「いんだよこんなんで」と裕吾も笑ってからあげを口に入れる。
 笑えてきた。可笑しく可笑しくて、笑わずにはいられない。
「そうだな。お前らと先生の言う通りだ」
「そうそう。まあ、俺たちも高校三年生だから考えるっちゃあ考えるけど、今は今やりたいって思うことをすればいいじゃん」
「今日は将太が冴えてるな。いいこと言うわあ」
「裕ちゃんもなかなかだったよ」
「マジか。俺の言葉に心動かされたか、凌」
「いや、全然。だって先生の言葉だし、将太のあとだったし」
「おいおいおい、喋り損か」
 がっかりする裕吾に「冗談だよ」と笑いかけ、二人に向けて気持ちを込める。
「二人ともマジでありがとう。すごい楽になった」
「やめろやい、照れるだろ」
「そうだよ、恥ずかしいじゃん」
「お前らが照れると俺も照れるからやめて。よし、じゃあ、今週の土曜はお礼にナゲットを奢ってやろう」
「お、マジか!」
「やったね!」
 テンション上げながら飯を食う二人を見て、今さら気付く。
 将太も裕吾も先生と同じで、自分の想いをいつも素直に伝えてくれる。俺だけじゃんって思ったけど、どうでもいい。今からでも遅くない、これから伝えていけばいいだけのことだ。
 その日の放課後、奇跡がまた訪れた。
 HRが終わって、帰る生徒の波が少し落ち着いてから教室を出る。それが俺らのいつもの帰り方。人がいなくなった廊下を歩いて、階段を下りて、三階と二階の間にある踊り場で曲がって、また階段を下りる。
 奇跡はそこで起きた。一段下りたとき、階段を上ってくる龍河先生と再遭遇を果たしたのだ。
「あ、先生」意識せずとも声に嬉しさが滲んでしまう。
 龍河先生は足を止めずに顔を上げた。俺らは踊り場で龍河先生の到着を今か今かと待っていたのに、龍河先生は「気を付けて帰れよ」とだけ言って俺らの横を通り過ぎようとするもんだから、俺らは慌てて呼び止めた。
「ええええ!先生!」
「ん?」
 踊り場で足を止め、龍河先生は俺らと向かい合った。とは言え、呼び止めたもののとくに用があるわけじゃない。ただ話したいだけだ。数秒無言のまま見つめ合う時間があって、龍河先生が小さく笑った。
「なんだよ」
「いや、すいません。呼び止めたことに意味はないんですけど」
「あ?」と言う龍河先生の顔は笑っている。
「なんか、先生見かけると呼び止めたくなっちゃうんですよ」
「呼び止めたくなるとか、追いかけたくなるとか、忙しいなお前ら」
「すいません」と謝る俺も笑ってしまう。
 龍河先生はもう一度小さく笑ってから「じゃあな」と立ち去ろうとしたが、「あ!先生!」と今度は将太に呼び止められた。少しうんざりした顔で、でも親しみを込めた顔で、わずかに口元を緩めながら龍河先生は将太を見た。
「なんだよ」
「アポロとチョコボールありがとうございました」
「ああ」複雑だった表情がただの笑顔になる。「エンゼル出たか?」
「出ませんでした」
「そりゃ悪い」
「いえ、今まで食べたチョコボールの中で一番おいしかったです」
「ん?」
「ひどいんすよ先生。くれって言っても一粒もくれないんすよ、こいつ」拗ねた口調で裕吾がチクる。
「あれはそこらへんにあるチョコボールとは違うんだよ」
「だからくれって言ってんの」
「だからあげないって言ってんの」
「ああ、もうやめろ。何回やれば気が済むんだよ。裕吾、チョコボールなら俺が買ってやるよ」
「凌が買ったのじゃ意味ねえんだよ」
「うん、凌ちゃんが買ったチョコボールはそこらへんのチョコボールだもん」
「なんだと――」
 俺がそう言いかけたとき、ダダダダダ!と階段を駆け下りてくる音が聞こえてきたかと思うと、その音を発している生徒が俺らのいる踊り場に向かって勢いよく現れた。そしてそれを追う生徒がいて、そいつも疾風の如く駆け下りてくると、最初に出現した生徒を捕まえて胸倉に掴みかかった。
 突然の出来事に、俺も将太も裕吾も目を白黒させながらそこに突っ立っていた。龍河先生はというと、多少は驚いたのだろう、その顔に焦りや戸惑いの色はないが、少しぽかんとした顔で今にも殴り合いをはじめそうな二人の生徒を眺めていた。
 胸倉を掴まれた生徒は――ここで最初に下りてきた生徒をA、追いかけてきた生徒をBとします。胸倉を掴まれたAはそのまま壁に押し付けられ、強く背中を打った。興奮から周りが見えていないのか、AもBも俺らがいることに気付いていない。
「っざけんなよてめえっ!」Bが怒り狂って怒鳴る。
「ふざけてなんかねえよっ!」Aも怒鳴り返し、胸倉を掴むBの手を払いのける。
「だったらあれはなんなんだよ!お前しかいねえだろうが!」BがAの肩を強く押す。
「あ?どこにそんな証拠あんだよ!お前が勝手にそう思ってるだけだろ!」AもBの肩を強く押す。
「勝手にこんなこと思うかよ!」Bがもう一度Aの胸倉を掴む。
「じゃあ言ってみろよ!そもそもこうなったのはお前のせいだろ!人に責任押し付けてんじゃねえよ!」BもAの胸倉を掴む。
「よく言うな!逃げといて最後はそれかよ!」Bの拳が握られる。
「はあ?よくわかんねえ戯言に付き合ってらんねえだけだよ!」Aの拳も握られる。
「ただの根性なしだろが!」Aの胸倉を掴むBの手に力がこもる。
「ああ?やんのか?」対抗するようにAの手にも力がこもる。
「やってみろよ!」
 Bが挑発するも、Aは殴りかからず睨み合いになった。殴りそうで殴らない。そんな二人をハラハラもやもやしながら眺め、俺らはどうすればいいんだろうと目を泳がせていたら、龍河先生がすたすたAとBに近づいてそのままBを蹴り飛ばした。
 俺、将太、裕吾、目をひん剥く。
 えええええええっ!
 続いてAも蹴り飛ばされる。
 俺、将太、裕吾、目がはち切れそう。
 ええええええええええっ!
 俺らは口をあんぐりと開け、カチカチに固まった。蹴り飛ばされた二人はなにが起きたのかわからない、そんな顔で龍河先生を見上げている。
 そりゃそうだ。二人の世界だったのに突然蹴り飛ばされりゃあそんな顔になるに決まってる。ご愁傷さまです。
 倒れるAとBの足元に立ち、龍河先生が見下ろして言う。
「殴りてえならさっさと殴れよ。ちまちまやってるから終わんねえんだろうが」
「え?」AとBがきょとんとなる。
「全力でやんねえから言いたいことも伝わんねえんだよ。なんだって本気でやるから意味が生まれるんだろうが。中途半端にやるぐらいなら喧嘩なんかすんじゃねえ」
 龍河先生はそう言って去っていった。
 残された俺らとAとB。全員同じ表情で同じ方向を見つめている。しばらくして俺は我に返り、AとBを見た。恐らく俺らと同じ三年だ。見たことあるようなないような。二人はまだ呆然としたままだったが、妙な仲間意識が生まれた俺はそっと声を掛けた。
「……大丈夫か?」
 その声で将太も裕吾も、AとBも現実世界に引き戻された。
「え、あ、うん」とB。
「ああ、うん」とA。
「まああれだな、お互い言いたいことはあるだろうけど、冷静にな」と裕吾。
「殴り合いもいいけど話し合うことも大切だから」と将太。
 AとBはほんの一瞬目を合わせてから立ち上がると、気まずい空気を撒き散らしながら階段を下りていった。
「先生さ、いつかクビになるよね」
「うん、なるな」
「でもほら、今まで遭遇したのは全部ぶっ飛ばされたほうが悪いから」
「たしかに」
「それにたぶん、クビになるとかどうでもいいんだと思う」
「だな。そんな小さい人じゃねえ」
「なんか、そういうのもかっこいいんだよなあ」
 そう呟いた俺を、将太はじっと見つめてから裕吾に顔を寄せた。
「裕ちゃん」
「んあ?」
「先生に憧れすぎて、凌ちゃんが突然誰かを蹴り飛ばしはじめたらどうしよう」
「それは……怖えな」
「凌ちゃん突然暴走するタイプだからあり得なくないよ」
「あり得ないに決まってるだろ。全部聞こえてるっつーの」
 二人はちらっと俺を見て、顔を見合わせて小さく頷いた。
「なんだよ今のは」
「さ、帰ろ帰ろ」
「あ~バイトめんどくせえ」
「よくないぞ、そういうのは。喧嘩すっか?本気で。やるか?」
「くだらねえこと言ってねえで帰るぞ」
「ほら、行くよ。凌ちゃんもバイトでしょ」
「はいはい、行きますよ」
 俺と将太と裕吾、三人仲良く並んで帰った。

 時間が過ぎるのは早いもので、中間テストから一ヶ月ほどが経ち、一週間後には今度は期末テストときたもんだ。そこで俺は重大なことに気が付いた。龍河先生のところに行けなくなる、と。
「ああっ!」
 俺は大声を上げてしまった。授業中だってのに、ましてや龍河先生が目の前にいるってのに。恐る恐る顔を上げると、黒板に英文を書いていた龍河先生が身体を少し捻って俺を見下ろしていた。
「凌――」
「すいません」誠心誠意早口で謝る。
 龍河先生はわずかに眉をひそめて黒板に向き直った。その間際、口元が綻んだように見えたのは俺の願望だろうが。
 チャイムが鳴る少し前に授業は終わり、龍河先生が教室を出ていく。教科書類を手早く片付けてから俺も教室を出て、きらきらと輝く軌道を追った。
 今日の龍河先生は、長袖の黒白ボーダーTシャツに、インディゴブルーのストレートデニム。
 ああ、眩しい。後ろ姿だけでかっこいいことがダダ漏れです。
「龍河先生」
 振り向いた龍河先生は足を止めて、俺が追いつくのを待ってくれた。
「授業に集中してなかった凌、どうした」
「う……すいません。でも決して集中してなかったわけでは……」
 俺を見つめる龍河先生の目元が和らぎ、ふっと笑った。ほっと胸を撫で下ろす。
「なんだよ」
「あ、あの、今日昼一緒に食いませんか?」
「ああ、いいよ」
「よかった」と笑う俺に、龍河先生のからかうような視線が向けられる。
「授業聴いてなかったから放課後教えてくれって言われんのかと思った」
「なに言ってるんですか、ちゃんと聴いてましたよ。先生が黒板に書いてるときにちょろっと別のこと考えちゃっただけです。すいません!」
 龍河先生は可笑しそうに笑って、「冗談だよ」と言う。
「先生って結構いじわるですよね」
「俺は好きな子をいじめたくなるタイプなんだよ。じゃあ昼にな」
 どふわばああああああんっ!
 胸が……胸が……。
 なんだ今のは。なんだこのじわじわくる喜びは。ああ先生、今すぐその背中に抱きついてもいいですか。
 崩れ落ちそうになる足をなんとか支え、俺は胸に手を当ててきらきらの残滓を見送った。よろめきながら教室に戻ると、将太と裕吾が訳知り顔で近寄って来て俺の身体を支えてくれた。
「やられたか」
「木っ端微塵だよ」
「たかが数分でそんなダメージを」
「秒だよ秒」
「つーか、さっきどうした。急に叫んで」
「うん?ああ、もうすぐ期末だなあって思って、ってことは放課後訪問禁止になるじゃんって思い出して、そしたらつい」
「なるほど」
「だから今、昼飯誘ってきた」
「やるな!」
「ナイス!」
「放課後も行くぞ、俺は。今のうちに充電しておかねば」
「俺バイト。ずるいよ」
「俺も。卑怯だよ」
「お前らも勝手に行きゃあいいだろうが」
「だって照れちゃう」
「まだ耐性ができてない」
「俺もだよ。今の俺を見てみろ」
「すごいなって思う」
「さすがだなって思う」
「昼までに回復しなければ。次の授業なんだっけ?」
「古典」
「くそっ、聞かなきゃわかんないな」
「できるだけ無になって」
「雑念を取り払いなさい」
「俺は修行僧か」
「ある意味ね」と将太が合掌したところでチャイムが鳴り、俺は慌てて古典の教科書を取りに行った。
 俺たちが食堂に着くのとほぼ同時に龍河先生もやってきた。そこにいるだけで目立つのに、ロンTのボーダーが少し太めだからなのか、とても目立っている。誰もが目元に手をかざし、眩しく目を細めているように見えるのは俺だけだろうか。
 龍河先生は「なに食うか」とメニューの書かれたボードを腕を組んで眺めている。この構図が雑誌に載っていても不思議じゃない。『一週間コーデ』なんて特集で、『火曜日、今日はなに食べよう』みたいな吹き出しが出てる感じ。
 ああ、想像できる。なんなら俺が作ってもいい。
「なに食う?」と龍河先生に訊かれて妄想から醒める。
「え?あ、えっと、俺はチキン南蛮定食にします」と俺。
「俺はカレーライスっすね」と裕吾。
「俺もチキン南蛮にします」と将太。
 今日のメニューはチキン南蛮定食、カレーライス、肉うどん、オムライス、おにぎり、デザート。
「俺はオムライスだな」
 券売機に向かいながら「凌、今日のデザートなに」と訊いてくる。メニュー見たときに確認しておけばいいのにって思うけど、それでいい。いつも見逃してほしい。
「わらびもちです」
「お、いいねえ」
 奢るのはやめてほしいと言ってあるから、もう俺らの分まで買おうとすることはなくなったけど、相変わらずデザートは奢ってくれる。デザートの食券を四枚買うと、それを一枚ずつ俺らに渡す。「ありがとうございます」と三人で頭を下げてありがたく頂戴し、四人で列に並んだ。
 俺が見ている限り、龍河先生は俺らと飯を食うとき以外はコンビニで済ませているようだ。だから龍河先生がこの食堂に現れることは滅多にない。俺らもそんなに利用しないからたしかとは言えないが、龍河先生が現れると食堂のおばちゃんたちのテンションが三割増しになる。おばちゃんと言えどもそこは女。歳を重ねているだけあって、はしゃぎすぎることに恥じらいがあるのだろう、だから三割増し。
 わかるわかる。嬉しいよね、先生がそこにいるだけで自分の周りに小花が咲くよね。ご主人様を迎えるわんちゃんみたいになっちゃうよね。
 龍河先生にオムライスが盛られた皿が渡される。
「ケチャップ足りる?」とおばちゃんが龍河先生に訊ねた。
 おお、やるな、おばちゃん。ほかの奴には訊いてなかったじゃないか、おばちゃん。頬染めちゃってるじゃないか、おばちゃん。
「はい、大丈夫です、ありがとうございます」
「もし足りなかったら言ってね」
 おお、食い下がるな、おばちゃん。後がつっかえちゃうから、おばちゃん。
「はい、ありがとうございます」
 素っ気ない口調なのに丁寧という器用なことをやってのけ、龍河先生は先に進んだ。俺の前には名残惜しそうにするおばちゃん。
 おばちゃん、俺にチキン南蛮をください。
 いつか座ったことのある窓際の席が空いていて、俺らはそこに座った。窓際に龍河先生、その隣に俺、龍河先生の向かいに将太、その隣に裕吾。四人で合掌して食べはじめてすぐ、俺の隣から舌打ちが聞こえてきて、俺と将太と裕吾はドキッとして龍河先生を見た。
「オムライスにしめじ入れるか?ふつう。しめじ業者に強請られてんじゃねえの、校長の野郎」
 龍河先生はぶつぶつ言いながらしめじを俺の皿に放り、スマホをポケットから取り出して操作すると耳にあてた。少しして相手が出たらしい。
「ねえ、なんでこんなにしめじ使ってんの。癒着してんの?脅されてんの?しめじとどういう関係なの?え?そう、オムライスにしめじっておかしくねえ?この前酢豚にも入ってたよ。ん?んなわけあるか」
 可笑しそうに笑う龍河先生に見惚れながら俺はしめじを口に運び、将太と裕吾も興味津々な顔でもぐもぐしている。
「俺が好きな食いもんにしめじ入れんのやめて。うん、え?そうそう、そういうこと。わかってますよ、わかって言ってんだから。うん、うん、じゃあお願いね」
 電話を切ってスマホをテーブルに置くと、龍河先生はオムライスとセットになっているスープに口をつけた。将太と裕吾の目が俺を催促してくる。はいはい、訊きますよ。
「今の、誰ですか?」
「校長」
「え!校長に文句言ってたんですか?」
「だっておかしいだろ。しめじだらけだぜ?」
 そこで俺らは大笑いしてしまう。
 なんだかなあ、こういうとこすごい可愛いんだよなあ。
 笑いが消えない顔のまま龍河先生を見る。
「先生ってよくわかんないですよね」
「あ?」
「いえ、褒め言葉です」
「凌、俺のことバカにしてんだろ」
「してませんよ。一ミリたりともしてません」
「顔が笑ってんじゃねえか」
「笑ってません」
 いくら唇をきゅっときつく結んでも堪えきれず、頬が震えてしまう。俺のそんな様子が可笑しかったのか、龍河先生は声を上げて笑い出した。その明るい笑い声に俺らの気分も明るくなる。ひとしきり笑った龍河先生は頬杖をつき、首を傾げるようにして俺を見た。
 やめてその角度。そんな目で見ないで、ときめいちゃうから。
「面白えな、凌は」
「面白くないですよ、べつに。でも、先生を笑わせることができてよかったです」
「俺をバカにしたことを許したわけじゃねえよ」
「先生、執念深いですよ」
「凌にはちょいちょいバカにされてっからな」
「ええ?……じゃあ、どうしたら許してくれるんですか」
「ん?じゃあ――」龍河先生の視線がふと下に落ちて止まった。「そのチキン南蛮一口くれ。それで許してやる」
「そんなんでいいんですか?」
「うん」
 そんなのお安い御用だぜ!と思った俺がバカだった。龍河先生は俺をときめかせる姿勢のまま「んあ」と言うような声を出して、俺に向けて口を開けた。
 え、え?え?え、え、え、え?
 あれか?これが世に言うあ~んってやつなのか?なるほど、たしかにこれはドキドキ感半端ないな。ただ箸で相手の口元に運ぶだけなのに、なんだこの緊張感は。まずいぞ、手が震える。タルタルソースがあらぬところについてしまうかもしれない。でもなんだろう、甘えられてる感がたまらない。先生、もっと甘えてください。まだまだガキですけど、全力で応えます!
 焦れたように龍河先生が「あ」と催促してくる。
 俺は覚悟を決め、暴れまくってる心臓を宥めながら箸を持ち直す。一番おいしい真ん中の部分の端っこにタルタルソースを乗っけて、肉を箸で持って、将太と裕吾の視線をばんばん感じながら龍河先生の口元に運んだ。
 龍河先生はぱくっとかぶりついて口に入った分を噛み切ると、もぐもぐ口を動かしながら、唇に少しついたタルタルソースを舌でぺろっと拭い取った。
 色っぺええええ!
 おい、くらりとするぞ。これがフェロモンなのか?そうなんだな?ああ、俺にも欲しい。
 将太と裕吾の悶え苦しむ様が横目に見える。いや、食堂にいる全員がこのフェロモンに侵され胸を掻きむしっているに違いない。
「うまっ」と言って一口チキン南蛮を飲み込むと、龍河先生は満足そうな笑みを浮かべて俺を見た。
「許してやろう」
「はい、ありがとうございます」
 顔が熱い。心臓がうるさい。手元を見てハッとなる。
 この半分になったチキン南蛮は俺が食うのか?間接キッスじゃないか。そんなこと将太とも裕吾とも、なんなら女の子とだってふつうにしてるけど、なんでだろう、チキン南蛮がいやらしく見える。ファーストキッスばりにドキドキするぞ。
 先生、こんなことを平然とやってのけるあなたはどうかしてますよ。それともなんですか、いつもこんなことしてるんですか。ああ、羨ましい。相手の人が羨ましい。
 しばらく再起不能だからあとは任せた。という想いを込めて目の前の二人を見ると、二人は寛大な心を持って頷いてくれた。だから俺は心を無にして箸に持った一口チキン南蛮を口に入れ、なにかを誤魔化すようにこれでもかってぐらいの白飯を口に詰め込んだ。そうしてる間にも、俺の皿にはしめじが飛んでくる。
「そういえば先生、おでこの傷、だいぶ目立たなくなってきましたね」
 将太がさらりと話題を変えてくれた。
「ああ、触るとまだ少し痛いが」
「もう少し下だったら危なかったすね。眉あたりだと神経多いんで」裕吾も加勢してくれる。
「だな。これも結構痛かったし」
「状況が状況なんで気を付けようがないと思うんですけど、ほんと気を付けてくださいね」
「そうっすよ。健康第一っすから。先生になんかあったらって思うと吐き気がします」
 真剣な表情を向ける二人を安心させるように龍河先生は笑いかけた。
「絶対とは言えねえが、気を付けるよ」
「はい、お願いします」
「頼みます」
 龍河先生が横を向いて俺を見た。
「どうした、凌。喋んなくなったな」
 あなたのせいです。
「いや、なんか俺ばっか先生と喋ってたんで、二人にもと思って」
「そんなつまんねえこと言うなよ」
 ぼふうううううんっ!
 そんな嬉しいこと可愛く言わないでください。
「しめじ、なくなりました?」
「いや、まだいる。蔓延っていやがる」
 拗ねないでください。可愛すぎますから。
「お前ら――」
 龍河先生が口を開きかけたとき、テーブルに置いた龍河先生のスマホが震えた。着信らしい。スマホの画面を見た龍河先生から、さっきのとは比べ物にならないぐらいの嫌悪に満ちた舌打ちが聞こえ、俺らの背筋が伸びる。
 めんどくせえ、と言わんばかりのため息を吐き出し、「悪い、出るわ」と面倒くさそうな声で俺らに言った。
「どうぞどうぞ」怖いけどどうぞ。
 スマホを手に取りタップして、テーブルに肘をついてスマホを耳にあてる。相手に聞こえても構わないのだろう、盛大なため息をもう一度吐き出した。
「なんだよ」
 おいおい、のっけから突き放してるじゃん。これは只事じゃないぞ。なんだろうか、無表情なのが余計に怖い。なにも言わないし、相槌も打たないし、これは相当ご立腹です。
「だから?」
 通話がはじまって一分ほど。やっと出た言葉がこれ。また拒絶。これはマジでやばい気がする。どなたか存じませんが、必死に喋ってるようだけどもうやめたほうがいいと思いますよ。
「俺に謝ってどうすんの」
 おお、またまた拒絶。どなたか存じませんが、もうやめましょう。だって只ならぬものがどーんどんどーんどん、龍河先生から放たれてるんです。
「お前のくだらねえ言い訳聞いて、俺がそうだね反省してるねなんて言うとでも思ったのか?そもそも謝る相手が違うだろうが。お前さ、そうやって俺は反省してます、俺が悪かったみたいなこと言ってるが、自分は悪くねえってどっかで思ってるだろ。全然伝わってこねえんだよ。聞こえんのはなんで俺がっていう自分が可愛いだけの薄っぺらい言い訳。お前、自分がなにしでかしたかわかってねえだろ」
 一体なにをしでかしたんだろう。たぶんこれは、この前の電話と繋がってるな?そんな気がする。あ、先生が目瞑った。あ、開いた。
「てめえの空っぽな頭下げられたところでなんの意味もねえんだよ!」
 声荒げたの、はじめて聞きました。大きい声じゃないのに、迫力がすごいです。しめじ食べよ。しめじ。
「あ?知るか、だったらそうすりゃいいだろ。てめえのケツをこっちに向けんじゃねえよ。好き勝手やって調子こいて、分が悪くなって俺らに泣きついて、お前さ、恥ずかしくねえの?」
 詳しいことはわかんないけど、絶対的に相手が悪いですね。だって先生が感情剥き出しにしてこんなに怒ってるんだもん。
「言っとくが、俺らはもうお前と関わるつもりはねえし、関わりたくもねえんだよ。サクにその軽い頭下げて謝りてえなら謝ればいい。そんなんでお前のやったことが許されると思ってんなら勝手に謝れよ。だがな、それ以外でサクに近づくな。サクの才能を邪魔するな。今回はサクの温情で俺らもこれで手引くが、次なんかしでかしたら全力でぶっ潰しにいくからな。そんときは二度と陽の光を浴びれると思うなよ」
 おいおいおい、殺される寸前じゃないか。どなたか存じませんが、絶対にサクさんに近づいちゃダメですよ。
 龍河先生は額に右手をあて、ため息を一つついた。疲れ切ったようなため息。
「トオル、自分の価値を自分で下げるな。お前はお前でしかねえんだよ。周りにどう思われるかじゃねえ、自分がどうしたいかだ。いくら周りに褒め囃されようが、自分が納得できなきゃ意味ねえだろ。そんなんになんの価値があんだよ」もう一度ため息。「自分を甘やかすな、自分を忘れるな、いいな?」
 これはくる。たぶん相手の人泣いてる。声も口調も厳しいけど、ちゃんと想いやりがある。
 俯いた龍河先生の瞼がなにかを諦めるように伏せられて、ゆっくりと開かれるのが俺には見える。
「トオル、俺はお前を許さねえ。残念だ」
 相手がなにか言うのも聞かずに龍河先生は電話を切った。少しの間を置いて小さく息を吐き出すと、スマホをテーブルに置く。龍河先生のキレっぷりは恐ろしかったけど、そんなものはもうどこにも感じない。冷たく言い放った最後の言葉が、とても寂しそうだったから。
「悪い、また長くなった」
「いえ……」
 俺らに謝る龍河先生はいつもの龍河先生だ。いや、本当にそうだろうか。考えるよりも先に言葉が口をついた。
「先生、大丈夫ですか?」
「ん?」
「なんか、悲しい顔してるんで」
 龍河先生はほんの一瞬きょとんとして、笑って見せる。寂しさと諦めと優しさが詰まった微笑み。
「そりゃあな。ダチが一人いなくなれば、そいつがどんな奴であれ虚しくなるだろ。自分が」
「自分が?」
「圧倒的な原因がそいつ側あったとしても、どっかでそうならねえようにしてやれたんじゃねえかって考えるだろ。俺がそいつに掛けた言葉、そいつを想ってしたこと、それじゃ足りなかったのか、なにが足りなかったのか、今さら考えてもどうしようもねえことを考えちまうだろ」
「そう、ですね。もし将太か裕吾とそんなことになったら、どっかで自分を責めますね」
「たしかに。仲が良ければ尚更ですね。時間が経てば経つほど自己嫌悪に陥りそうです。凌ちゃんと裕ちゃんは滅多なことじゃ俺を裏切らないって勝手に思っちゃってるんで」
「裏切らねえよ」
「裏切るわけないじゃん」
「うん、だからそうなったら余計に虚しい気持ちが大きくなりそうだなって」
「やめろやい。考えたら泣けてくるだろ」
「そうだね、やめよ。俺が二人を例えに出したのが悪かった」
「やめよやめよ。俺も変なこと言った、ごめん」
 俺らのやりとりを聞いていた龍河先生がまた笑う。
「お前らは大丈夫だよ、すげえいい奴らだから。凌はしめじ食ってくれるし」
「え?そこ?」
「将太はアポロくれるし」
「え?そこ?」
「裕吾は……」
 そう言ったきり黙り込んで裕吾を見つめるも、龍河先生はすぐに諦めてオムライスをスプーンで割り、出てきたしめじを俺の皿に放った。
「嘘!先生!俺泣きますよ!」
「悪い、思いつかなかった」
 俺と将太は大笑い。裕吾はこの世の終わりみたいな顔になっている。
「先生、俺明日から不登校になります」
「冗談だよ」と龍河先生は表情を緩めて言うと、しめじのなくなったオムライスを口に運んだ。もぐもぐ食べて、またオムライスにスプーンを入れて、しめじを俺の皿に放って、しめじのなくなったオムライスを口に運ぶ。たまにスープに口をつけながら、そんな動作を繰り返す。
 裕吾は龍河先生を見つめている。俺と将太は笑いながらチキン南蛮と白飯を頬張っていたが、これ以上は見ていられない。米粒を吹き出す前に龍河先生にお願いした。
「先生、そろそろ相手してあげないと、あいつマジで不登校です」
「ん?」
「先生、俺寂しがり屋なんでほっとかれたら死んじゃいます」
「先生、さすがに死なれたら困ります」
「なんでもいいんで、言ってあげてください」
「うーん」首を軽く傾げて、裕吾を見る。「裕吾はいい奴だよ、全体的に」
「雑!」
「でもほら、俺しめじだし」
「俺アポロ」
「似たようなもんか」
「いや、全体的にだから裕吾のほうがマシな気がする」
「なんかやだな、裕ちゃんに勉強以外で負けるって」
「どういう意味だ、将太」
「そのまんまの意味だけど」
「将太の気持ちすごいわかる」
「どういう意味だ、凌」
「そのまんまの意味だって」
「くそっ、そうやっていつも俺をバカにしやがって」
「だってバカじゃん」
「将太、そんなにド直球で言ったらさすがの裕吾も傷つくから。どんだけ心底思ってても言葉は選ぼう」
「そっか、ごめん裕ちゃん」
「お前ら見てろよ。卒業するまでに俺のいいとこ十個、先生に言わせてみるからな」
「俺を巻き込むな」
「いいえ、巻き込みます!」
「すいません、気にしなくていいんで」
 龍河先生は「うん」と答えながらわらびもちに手を伸ばし、楊枝で一粒取って口に入れる。
「うまっ」
「俺も食お」
「俺も」
「あ、そうだ先生。今日の放課後お邪魔していいですか?」
「ダメ」
「え!」
「テスト作りはじめてる」
「くそっ、遅かったか」
「残念だったね凌ちゃん。一緒に帰りましょう」
 そこでふと、龍河先生が顔を上げて裕吾を見た。その顔はからかう色を含んで満足そうに微笑んでいる。
「裕吾、拗ねんな。悪ふざけが過ぎた」
「先生!待ってました!」
「裕吾のそういうめげねえ感じすげえ好き」
 ドドンパ級の波動を浴びて、裕吾は失神寸前。しかしこれだけじゃ終わらない。龍河先生は裕吾のトレイにあるわらびもちの皿を手に取ると、その一粒を楊枝でつまんで裕吾に差し出した。俺も将太も衝撃を受けたが、裕吾の比ではない。裕吾はカチコチに固まっている。
「え?」
「ほら、うまいから食え」
 動揺を隠し切れないまま少し身を乗り出した裕吾は、まるで錆びた機械が無理矢理動こうとするようなぎこちなさで口を開き、わらびもち口に入れた。そして、泣きそうな顔になって「うまい」と呟く。
 龍河先生は「だろ?」と笑い、次の一粒を差し出す。裕吾は頬を染めながら食べ、食べるたびに「うまい」と泣きそうになって言う。俺と将太は羨ましいと思いながらも、顔を真っ赤にしてわらびもちを食べる裕吾の姿にどうしたって笑ってしまう。
 俺と将太と裕吾、そして龍河先生。こうやってくだらないことで笑い合えるのはいつまでだろう。いつまでもこうしていたいって思うけど、それが贅沢な願いだってことはわかってる。
 いずれなにかが変わる。絆は変わらなくても、少しずつ俺らも変わっていくんだろうなって、なんとなくそう思った。

≫≫ 七月へつづく


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