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なんとなく vol.11

一月

 どうやら、新しい年になったらしい。年が明けて何日経ったのかはよくわからない。でも父さんと姉ちゃんが仕事に行くようになったし、それなりの日数は過ぎているようだ。でもどうでもいい。なにもかもがどうでもいい。
 俺は部屋から出られなくなった。
 母さんが死んだとき、すごく悲しくて寂しくて恋しく思ったけど、どこか割り切れていた。それなのに、将太が死んで、それが崩れた。
 地元を歩くと、母さんと将太を探してしまう。家の中をうろつくと、母さんを探してしまう。学校に行ってしまうと、将太を探してしまう。
 二人の声も匂いも温もりも、笑った顔もすぐそこにある。だけどそれは霞のように消えてしまう。もう二度と喪いたくないのに、それは俺の前から消えてしまう。
 俺は、限界だ。
 父さんと姉ちゃんが俺を心配している。自分たちも母さんを喪った空虚をまだ埋められていないのに、俺を心配してあれやこれやと気にかけてくれる。
 裕吾もそうだ。将太が死んで、悲しくて苦しくて、埋められない寂しさを抱えているのに、俺を心配している。スマホが震えればそれは裕吾からで、将太の葬式が終わってから数日は電話にもメッセージにも応えることはあった。でもだんだんそれさえも億劫になって、いつの間にか充電はなくなり、スマホが震えることはなくなった。
 俺を気遣う気持ちを、俺は受け切ることができない。
 わかってる。自分が今、どうしようもない奴に成り下がってることは。
 母さんと将太が死んだことは、もう受け入れた。母さんと将太がどこにもいないのは、死んだからだと思い出した。でも、未だに俺は泣けない。全部わかってるのに、ちゃんと受け入れたのに、涙は流れてくれない。
 それが苦しい。母さんと将太を恋しく想う気持ちを言葉にしたいのに、俺を覆い尽くす喪失感を吐き出したいのに、それを伝える術を俺は思い出せない。感情の行き場がなくて、俺の内で暴れる感情に疲れ果てて、だからもうなんの感情も生み出さないよう、俺は諦めるしかなかった。
 毎日ベッドの上で、ただ目に映るものを眺めている。
 今日も目の前にある壁を眺めながら、微かに聞こえる家の音を聞いている。廊下を歩く音、掃除機の音、なにかがぶつかる音、インターホンの音、廊下を歩く音、ドアが開く音、誰かと話す声、ドアが閉まる音、階段を上ってくる音、廊下を歩く音、ドアをノックする音。
「凌、入るぞ」
 その声に埋もれていた感情が反応する。ドアが開き、俺は上半身をわずかに起こしてそこに立つ人を見た。
 ……先生。どうして。
 ドアを閉じて龍河先生が近づいてくる。上着も脱がずにベットの端に尻を落とし、膝に肘を乗せて前のめりになると首を捻って俺を見た。俺に見せたことのない厳しい顔で、侮蔑を隠さず、冷たく言った。
「なにしてる」
 喉が貼りつく。唾を飲み込み、乾いた唇を開く。
「……なにも、してません」
「だろうな。そのみっともねえ顔じゃなんもできねえよな」
 焦り、羞恥、自己嫌悪、後悔、様々な感情が沸き起こり、俺は思わず目を伏せた。そんな俺を一瞥して、龍河先生は立ち上がると同時に俺の胸倉を掴んで引き起こし、俺の左頬に拳をぶち込んだ。俺は文字通り吹っ飛んで壁に背中と頭をぶつけ、龍河先生は崩れ落ちた俺に覆い被さって馬乗りになると、俺の胸倉をもう一度掴んでぐいっと引き起こした。
「裕吾が俺のとこに来た。凌を助けてくれって。泣きながら俺に頭下げて、凌を救ってくれってよ」
 ……裕吾が?
「なあ、お前なにしてんの。そうやって項垂れて、項垂れてるからなんも見えねえで、お前の周りでお前のために泣いてる奴に気付きもしねえで、お前、最高に最低なクズ野郎に成り下がってんぞ。俺が言ったこと忘れたのか?お前が喪ったもんを受け入れられたとき、絶対に下向くなっつったよな?苦しくても前を向けっつったよな?俺はお前ならそれができると思ってた。お前なら負けねえって思ってた。だから今までお前を信じて放っておいた。だがお前は所詮こんなもんだったってことだ。俺が信じたお前はどこにもいなかったってことだ。お前がそうやってみっともなく生きてえなら勝手にしろよ。だがな、ダチに頭下げさせてんじゃねえよ。泣かせてんじゃねえよ」
 龍河先生の顔が少し俯き、なにかを堪えるように目を瞑った。
「俺にお前を嫌いにさせんなよ。こんなこと言わせんなよ」
 吐き出された言葉はわずかに震えを帯びていて、苦しそうで、俺は呆然と目の前で俯く龍河先生を見つめた。目の端に俺を殴った拳が映り、視線を落として見れば、それは赤くなっている。
 先生、手、使ったんですか。大切な手。
 勝手に言葉が零れた。
「ごめんなさい」
 龍河先生の手が離れ、覆い被さっていた身体がどく。すぐそばで胡坐をかいて座ると、いつもの俺を見る目で、俺をまっすぐ見つめる。
「凌」
「はい」
「人は死ぬ。いつ死ぬのかもわかんねえ。天寿を全うする奴もいれば、突然死ぬ奴もいる。俺だって明日生きてる保証はどこにもねえ。だから今生きてる奴は、いつ死んでもいいように生きなきゃなんねえんだよ。母さんと将太を喪った悲しみも、苦しみも、悔しさも、なに一つ忘れる必要はねえ。だが凌、自分が今生きてることも忘れるな。凌は生きてる。だったら精一杯生きて、みっともなくてもかっこ悪くても、這いつくばってでもその命にしがみついて生きなきゃなんねえんだよ。じゃなきゃ、死んだ奴と向き合うことなんかできねえだろ」
 紡ぎ出される言葉が、俺の中にするりと溶けていく。
 ああ、そうか。
 俺は逃げてたんだ。母さんから将太から。自分の弱さから。
 龍河先生がなにかを吹っ切るような、覚悟を決めるような息を吐き出した。思わず顔を上げて龍河先生を見ると、どこでもないどこかを見つめていた。
「俺な、十五のときに父親と母親と、三歳下の妹を一度に喪ったんだ。どこかのイカれた野郎が街中で銃を乱射して、それの巻き添えになって、父親と妹は逃げ遅れて、母親は俺を庇って、みんな死んで、俺はあっけなく一人になった。親戚に引き取られることになって日本に帰って来て、まるで異世界に放り込まれたようだった。現実を受け入れられなくて、精神状態はぼろぼろで、なにもかもが憎くて腹立って、暴れまくって、あんときは本気で死んでも構わねえと思ってた。だが、入った高校にお節介でお人好しな奴らがいて、腫れ者扱いされてる俺をあれやこれやとかまってきた。そこから少しずつ変わっていって、人と交わるようになって、音楽を教えてもらって、音楽が面白くなって、いつの間にか死にてえなんて思わなくなってた。なにがなんでも生きてやるって、そう思うようになってた」
 いつか話してくれた龍河先生の声が蘇る。
 ――今の俺があるは、今までの俺がいるからだ。なにもせずに今の俺があるんじゃねえ。失敗して挫折して、後悔して絶望して、幸せを知って喜びを知って、いろんな人に助けられて与えられて、なりたい自分になるために努力して、そういういろんなことが重なって重なって、やっと今の俺がある。
 ――お前らになにが起こるかなんてわからねえが、絶望を感じてどん底になって、死にたくなることもあるかもしれねえ。だが、諦めるな。這いつくばってでも前に進め。必ず希望はある。それを見つけたらどんなに小さくても、絶対にその手から離すな。みっともなくてもいい、がむしゃらにしがみついて、その希望をでかくしろ。そうやって自分の未来を切り開け。
 ああ、先生はどこまで強いんだろう。先生はどん底から這い上がってきたんだ。目の前に見つけた小さな希望を掴んで、がむらしゃらに突き進んで、自分の未来を明るくした。信頼できる人たちとともに。
 どこかを彷徨っていた龍河先生の視線が戻って来て、俺に向けられる。
「凌の周りにもお節介でお人好しな奴らはたくさんいる。手を差し伸べて、折れそうになる心を支えてくれて、ともに歩いてくれる。だがな、凌にしか乗り越えられねえ壁があるんだ。その壁だけは自分で乗り越えなきゃなんねえ。どんなに苦しくても、どんなに痛もうとも、凌の足で乗り越えなきゃその先には進めねえんだよ」
 俺を見つめる瞳にさらに強く想いが宿る。
「凌、前に進め。凌が足を踏み外さねえように、凌の周りには俺らがいる。そうだろ?」
 涙が頬を伝った。
 将太が死んだと聞いた日から、一度も流れなかった涙がとめどなく流れ落ちる。
 龍河先生の腕が伸び、その先にある大きな手が俺の頭を包んで引き寄せた。あたたかい温もりが頬にあたって、心臓の音が聴こえる。
 とくん、とくんと、静かな音。
 心地いい音。
 生きてる音。
 少しずつ、溢れてくる。
「凌、泣いていいんだ」
 溢れたものは嗚咽になって、段々と叫びに変わっていく。
「うう、う、うううあああああああああああああ――――」
 声にならない声を上げて、俺は泣いた。龍河先生にしがみついて、貪るように泣いた。
 俺のすべてを包み込むように龍河先生は抱きしめる。ずっとずっと、苦しいぐらいに抱きしめてくれた。
 
 気付いたら、日付が変わっていた。しかももうお昼。
 でもこんなにぐっすり眠った感覚はいつぶりだろう。あれは夢だったんだろうかと手で顔を擦った途端、夢じゃなかったと思い知った。ほっぺが痛い。
 ふらつく足で部屋から出る。腹が減ったと思うのもいつぶりだろう。一階に下りると、仕事に行っているはずの父さんがソファにいて、俺は驚いた。
「仕事は?」
「久しぶりにまともに顔を見せたと思ったら、第一声がそれか」
「あ、ごめん」
 父さんは笑って、読んでいた新聞をテーブルに置いた。
「今日は休みを貰った。昨日の昼過ぎからずっと眠り続けてる息子を放っては行けないだろ」
「あ……」そうか、あのまま俺、寝ちゃったんだ。
「龍河先生、だったか?」
「……うん」
「たしかに、この世のものとは思えないぐらいかっこいいな」
 懐かしいその言葉に頬が緩む。
「うん、でしょ」
「それに、凌の言う通りだ」
「なにが」
「すごい先生」
「ああ、うん」
「でもって、変わってる」
「え?」
「昨日、突然訪ねてきたと思ったら――」
 ――凌と話をしたいんです。
 ――部屋には入ってこないでいただけますか。なにが聞こえても、私が出てくるまでは入ってこないでいただきたいんです。
「ええ?って思ったよ。でも、凌が先生のことをすごく信頼してるのは聞いてわかってたし、なによりそんときの先生の目がな、ものすごく真剣で、だから信じてみようって思えたんだ」
「そっか」
「まあでも、さすがに心配だから部屋の外で聞き耳立ててたんだけど、一回でかい音がしただけで、あとはなんか喋ってるだけだったから大丈夫かなと思って放っておいた」
「軽いな」
「でも正解だった」と言って、小さく吹き出した。「先生、部屋から出てきて一階に下りてきて――」
 ――今、泣き疲れて眠ってます。あと、凌のこと殴りました。頬が腫れるかもしれないので冷やしてあげてください。
「ええ?ってまた思ったよ。それだけ言ってさっさと帰っちゃうし。でもなんか笑えてきてさ、久しぶりに晴れ晴れとした気持ちになった」
「すごい想像できる」
「でも、ほんとはお父さんが殴らないといけなかったんだろうな。先生に助けられた」
 自嘲気味に笑う父さんを見て罪悪感が湧いてくる。
「……父さん、ごめん」
「うん?」
「父さんも姉ちゃんも、母さんがいなくなって辛かったのに、俺、自分のことしか考えてなくて、ごめん」
 慈しむような眼差しを俺に向け、父さんは優しく言った。
「凌がそう思えるようになったならそれでいい。それに、お母さんがいないのは寂しいし悲しいけど、お父さんには凌と奏がいる」
「……うん、そうだね」
「そうだよ。わかったならさっさと顔洗ってきなさい。いや、風呂に入りなさい。ごはんはその間に準備しておくから」
「うん、ありがとう」
 歯を磨いて、風呂で全身洗って、スマホを充電して、飯を食って、制服に着替えた。
 まずは裕吾。
 スマホを手に取り、裕吾に電話を掛ける。ワンコールで出た。
『凌!』
「裕吾、ごめん。あと、ありがとう」
『お前――』
 それ以上の言葉は聞こえず、代わりに鼻を啜る音が聞こえてくる。
「先生が来てくれた。裕吾が頭下げて頼んでくれたって聞いた。ダチに頭下げさせんじゃねえ、泣かせてんじゃねえって、殴られて怒鳴られた」
『え、殴られて?』
「うん」笑ってしまう。「すごい痛かった。今も痛い。でも、拳で殴ってくれたんだ。痛いのに嬉しかった。自分がバカやってることに気が付いた」
『……うん、ほんと大バカだよ』
「裕吾、お前の話、聞いてあげられなくてごめん。お前もしんどかったのに、ひどいことしてごめん」
『んなことどうでもいいよ。お前はなにも謝るようなことしてねえよ』
「裕吾、助けてくれてありがとう。友達でいてくれてありがとう」
『やめろやい。照れるだろ』
「うん。でもちゃんと言わないといけないから、もう一個聞いて」
『なんだよ』
「裕吾も将太も、最高の一生の友達だよ」
『……知ってる。凌も将太も――最高の一生の友達だ』
「うん、知ってる」
『ああ、ちょっと待って』盛大に鼻をかむ音が遠くに聞こえて、鼻声が戻ってきた。『今日なにしてんの?』
「これから学校に行こうと思ってる。担任にも心配かけたし、先生にもちゃんとお礼言いたいから」
『そっか。じゃあ明日は?』
「明日はなんも。勉強しようかなとは思ってるけど」
『じゃあマック行こうぜ』
「うん、わかった。あとで連絡するよ」
『おう!』
「じゃあまた明日」
『おうおう!明日な!』
 笑みを零して電話を切る。でも思ってたより緊張してたようで、スマホを持つ手がびしょびしょだった。ほっと息をつき、リュックを背負う。
 よし、行こう。
 三時過ぎ、学校に到着した俺はまず職員室に向かった。職員室の入口で担任の席に目を向けると、担任と目が合った。驚いた顔を見せて、すぐに立ち上がって駆け寄ってくれる。
「風丘、よかった」
「心配かけてすみませんでした」深々と頭を下げる。
「いいんだよ、そんなこと。体調はどうだ?」
「もう大丈夫です。共通テストもちゃんと受けます」
「そうか、少しでも元気になれたならいい。共通テストも不安なことあれば遠慮なく訊いてくれよ」
「はい、ありがとうございます」
 担任は心底安堵した表情で俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「とにかくよかった。わざわざありがとな」
「いえ、俺のほうこそ、ありがとうございます」
 もう一度頭を下げ、俺は職員室を後にした。担任のあたたかな想いが嬉しかった。
 次は龍河先生だ。
 正直、会うのが恥ずかしい。すごい泣きじゃくったよな、俺。あの高そうなマウンテンパーカーに鼻水つけちゃったよな、俺。ああ、なんてことを。
 英語準備室のドアをノックして中を覗くと誰もいなかった。隣の視聴覚室に移動する。ドアの小窓から微かに光が漏れていて、これは映画見てるな、と察しをつけた俺は、自分が通れるぎりぎりの幅分そっとドアを開けて、そっと中に入った。案の定、龍河先生は堂々と映画鑑賞中。俺は忍び足で近づくと、龍河先生が座っている隣の席に腰を下ろした。
 驚いた様子もなく龍河先生は俺を見て、視線を前に戻す。
「遅えよ」
「すいません」
 そうして一緒に映画を見た。見たことない映画だし、字幕ないし、全然内容がわからない。
 それでも楽しかった。今まで見た映画の中で、一番楽しかった。
 映画が終わって、俺は部屋の電気をつけてからプロジェクターを操作する龍河先生に近づいた。
「操作完璧ですね」
「当たり前だろ」
「機械音痴じゃなかったんですね」
「凌は相変わらず俺をバカにしてんな」
「してないです」
 でこぴんされた。
「いてっ」
「顔が笑ってんだよ」
 龍河先生は額を擦る俺を見て笑うと、ディスクケースを机に置いてそのすぐ横に尻を乗せた。身体の前に垂らすその手を見て、熱いものが込み上げる。
「先生」
「ん?」
「殴ってくれてありがとうございました」
 俺は龍河先生のすぐそばまで近づき、手を伸ばしてそこにある右手を手に取った。両手で包んでじっと見下ろす。
「大切な手で、殴ってくれてありがとうございました」顔を上げて茶色がかった瞳を見つめる。「本気で怒ってくれてありがとうございました。みっともない姿見せちゃったけど、俺を信じてくれてありがとうございました。俺と本気で向き合ってくれてありがとうございました」
 龍河先生は俺の手を握り返すと、安堵、喜び、呆れ、からかい、いろんな感情を混ぜ合わせた、温もりに満ちた笑顔を浮かべた。
「俺が好きな凌だ」
「はい、お待たせしました」
 さらに笑みを広げる龍河先生がそこにいる。ただそれだけなのに、龍河先生の笑顔がみるみる滲んでいく。俯くとぽたぽた落ちて、俺の手に、龍河先生の手に水滴を残した。
 忘れていた感情は思い出した途端溢れ出て、忘れていた時間を取り戻すかのように吐き出される。
 母さんと将太を喪った悲しみも、寂しさも、後悔も。
 母さんと将太に会いたいと願う恋しさも、切なさも、虚しさも。
 俺を想ってくれる人たちの優しさも、愛しさも、希望も。
 溢れて止まらない。
「すいません」
 俯いたまま謝ると、握られた手が少し引かれてさらに半歩、龍河先生が近くなる。
「凌」
「はい」
「泣いていいんだ。凌が喪ったもんはとてつもなくでかい。それはこの先どれだけ時間が経とうと、埋まることはねえ。凌はようやく前に進みはじめた。だがそれは、喪ったもんを置き去りにして、見えないところまで進むためじゃねえんだよ。凌が今抱える想いも一緒に、全部背負って歩いていかなきゃなんねえんだよ。だから、苦しいとき、しんどいとき、悲しいときは、立ち止まって泣いたっていいんだ。そうしなきゃ背負ってるもんに潰される。今はすげえ重いだろうが、たまに立ち止まりながら、それでもちゃんと前を向いてれば、いつか両手で抱えることができるようになる」
 龍河先生の左手が頬に零れた涙を拭ってくれる。その手が下がり、握り合った二人の手を包んだ。
「いつか、凌が俺に言ってくれたな。一人じゃねえって」
「……はい」
「それは凌も同じだ。凌は一人じゃねえ。家族がいて、裕吾がいて、将太の家族がいて、バイト先のご夫婦がいて、ほかにも数えきれねえぐらい凌を支えてくれる人たちがいる。もちろん、凌の母さんも将太もいる」
「……先生は、いないんですか?」
「いるに決まってるだろ。どこにいようとも、俺は凌のそばにいる。凌にも、凌の母さんにも約束した。忘れたか?」
 声にならなくて、首を横に振る。
「今は一歩ずつでいい。前を向いて歩いて、たまに休んで、俺らに甘えたきゃ――甘えすぎはぶん殴るが、甘えたきゃ甘えればいい。そうやって一歩ずつ、少しずつ歩幅をでかくして歩いていけばいい。そのそばには俺らがいる。凌は一人じゃねえ」
「はい」
「凌も俺のそばにいてくれんだろ?」
「はい。俺も、先生がどこにいようと、先生のそばにいます。約束します」
 龍河先生の顔に浮かぶ微笑みが満面の笑みに変わる。
 やっぱり好きだ。先生の全部が好きでたまらない。先生がそばにいてくれるだけで俺は前を向ける。一歩はまだ小さいけど、もう下は向かない。先生と裕吾と、母さんと将太と、俺のそばにいてくれるみんなと一緒に一歩ずつ。
 でもちょっとだけ。
「先生」
「ん?」
「さっそく甘えてもいいですか?」
「いいよ」
「……抱きしめてほしいです」
 龍河先生は机から尻を上げ、いつものように、大きな手で俺の頭を包んで引き寄せて、ぎゅうっと抱きしめてくれる。俺は龍河先生の首元に顔をうずめ、龍河先生は俺の髪に頬を押し付けて小さく笑った。
「こんなん甘えになんねえよ。いくらでも抱きしめてやる」
 涙は龍河先生の肩に吸い込まれていく。
 たくさんの想いを言葉にして伝えてくれた龍河先生。俺も、俺の想いを少しでも伝えたい。涙に濡れた声で、鼻を啜りながら、精一杯の想いを言葉に変える。
「先生」
「ん?」
「俺、先生に出会えてよかった」ぎゅっと腕に力を込める。「先生、生きていてくれて、ありがとうございます」
 息を呑む気配があり、俺は抱きしめる腕をさらに強くする。
「先生、俺、先生のこと大好きです」
 わずかな沈黙のあと、今度は笑う気配を感じた。あの日と同じように、龍河先生は俺のこめかみにキスをして、もう一度キスをする。愛しむように頬を摺り寄せて、俺をぎゅうううっと抱きしめる。
 龍河先生の温もりが、匂いが、俺に安心感と幸福感を与えてくれる。久しぶりに感じるその感覚に身を委ねていると、将太の声が聞こえた気がした。
 ――凌ちゃん、いちゃいちゃするのやめてくれる?
 俺はそっと笑みを零した。

 次の日、裕吾とは隣駅の改札で待ち合わせた。
 そして裕吾は泣きながらやってきた。改札の向こうで俺を見つけると、顔を歪めながら涙を零しながら、俺に突進してきた。多くの人が怪訝な顔で、見てはいけないものを見てしまったような顔で、稀に心配するような顔で、俺らを見てくる。裕吾が現れるまで、正直どんな顔して会えばいいのかわからず戸惑っていた。だけど気付けば笑っていた。
「久しぶりだな」
「ひさ、し、ぶり」
「元気そうでよかった」
 子供のように泣く裕吾が可愛くてやっぱり笑ってしまう。
「うん。りょ、凌も、おもっ、たより、元気――な、んで、笑っ、てんの」
「いや、笑ってないよ」
「笑っ、てん、じゃん」
 もう我慢できない。
「あっはははは!」
 駅の構内に俺の笑い声が広がっていく。納得できないような、不貞腐れたような顔する裕吾に「ごめんごめん」と謝って目尻を拭い、俺は近くでティッシュを配ってるお姉さんに近寄って声を掛けて、裕吾のそばに戻った。
「はい、ティッシュ」
「ありが、とう」
 裕吾は鼻水をかみ、その鼻水まみれのティッシュで目元を拭った。
「ティッシュもう一枚使えよ。目に鼻水ついたぞ絶対」
「うるせえな。お前の、せいだろうが」
「うん、そうだな。悪い」
「やめろやい。謝られると、泣けて、くるだろ、が」
「ちょっと座るか。そんなんでマック行ったら入店拒否られるぞ」
「なんで」
「変質者みたいだから」
「それは、困る」
 駅のベンチに座り、俺は行きかう人たちをぼんやりと眺めた。いろんな人がいる。
 スーツを身に付け忙しない足取りで改札に向かう男の人、やたらでかい荷物を抱えてるおじさん、改札前で別れ際の挨拶が十分以上続いてる奥様方、冬だというのに素足を晒す同い年ぐらいの女の子、それとは正反対に着ぶくれした同い年ぐらいの女の子、流行りのファッションに身を包んだ似たような人たち、手を繋いで仲良く歩く年配のご夫婦。
 ほんとにたくさんの人がいる。だけど母さんも将太もやっぱりいない。わかってはいるのに、もしいたら、と想像してしまう。そして否応なしに涙が滲む。
 きっとこの繰り返しなんだ。でもそれでいいんだ。大切な人を想うことは、大切なことなんだから。
 はああああ、と大きなため息が聞こえ、俺は隣に座る裕吾に目を向けた。
「落ち着いた?」
「うん」
「……ごめん」
「だから謝んなって」
「あ、うん。ごめん」あ、と思って裕吾を見ると、やっぱり睨まれてた。そうか、ごめんじゃないのか。「裕吾、ありがとう」
「やめろやい。泣いちゃうぞ」
「どうすりゃいんだよ」
「ごめんもありがとうもいらない。お前がお前でいれば、それでいい。これからも俺と将太の友達でいてくれれば、それでいい」
「やめろよ。泣いちゃうぞ」
「いいよ泣いて。俺も泣くから」
「笑われるぞ将太に。二人で泣いてたら」
 ――え、二人ともなんで泣いてんの。
「いや、将太は笑わねえよ。たぶん一緒に泣いてるよ」
 ――やめてよ。泣いちゃうじゃん。
「笑いながら泣いてるよ」
「うん、それが正解だな」
 込み上げる涙を呑み込んで、ゆっくりと息を吐き出す。
「なあ裕吾」
「うん?」
「これからなにがあっても、どんなに俺らの環境が変わっても、俺はお前のそばにいるから。だから、お前も俺のそばにいてくれ」
 なにかを探るように俺を見つめていた裕吾はふと表情を緩めると、小さく何度か頷いて空を見上げた。
「ストーカーかってぐらい、そばにいてやるよ」
「それはキモいな」
「なんだよ。お前がそばにいてって言ったんじゃねえか」
「あはは!そうだった」
 二人で空を見上げ、少しして裕吾が口を開いた。
「大丈夫だ。将来、俺も凌もなにしてんのか想像つかねえけど、俺らは変わんねえよ。俺と凌と将太、いつも一緒だ。それだけは絶対だって言える」
 そう、それだけは絶対に変わらない。
「うん。絶対に変わらない」
「よし!腹減ったな」
「うん、行こっか」
 寒い寒い言いながらマックまでの短い距離を歩き、いつもと同じメニューを注文する。でも今日は特別だと言って、お互いナゲットを奢り合った。四人席に腰かけ、いつもの定位置で座る。
「そういや、共通テスト大丈夫そうか?」
「うん、まあ大丈夫かな。そういう裕吾だってそれどころじゃなかっただろ。って言っても、お前は大丈夫か」
「まあな」
「うわ、なんか腹立つ」
「それよか、先生の話聞きたい」
「先生?」
「殴られたんだろ?」
「ああ、うん」
「こうやって凌が外出れるようになったのは先生のおかげなんだろ?」
「先生とお前な」
「俺はなんもしてねえよ。ああもう、俺はどうでもいいんだよ。先生が凌んち来たところからちゃんと話して」
「来たところっていうか、俺が情けなく部屋に閉じこもってたら、先生が部屋に入ってきたんだよ」
「うんうん、それで?」
 前のめりになって聞く裕吾に苦笑いを浮かべながら、俺は龍河先生から貰った言葉を裕吾に伝えた。龍河先生が抱えている大きな過去の傷は伏せ、昨日のことも含めて、できるだけ忠実に話せることは全部話した。龍河先生の言葉は裕吾にも必要だと思ったから。大切な人を喪ったのは俺だけじゃない、裕吾だって俺と同じ想いを背負ってる。きっと、龍河先生の言葉は裕吾も救ってくれる。
 俺の予想通り、裕吾は俺の話を聞きながら何度も目元を拭って、何度も鼻を啜っていた。俺も裕吾も手が止まってしまっているから、トレイの上は全部食べかけ。かと言って手を伸ばす気にもならなかった。
 裕吾はさっき駅で貰ったティッシュを取り出して鼻をかむ。でもってまたその鼻水まみれのティッシュで目元を拭う。
「だから新しいティッシュ使えって」
「いいんだよ。目の周りがカピカピになったって、そんなんどうでもいい」
「帰りに可愛い子がいたらどうすんだよ」
 ハッと目を丸くした裕吾は、ドリンクカップの表面についてる水滴をティッシュに含ませ、目の周りを拭きはじめた。
「とれたかな」
「とれたとれた。綺麗にとれた」
「なんだその興味ない言い方は」
「興味ないんだよ。なあ――」
 将太、と言いかけて口を噤んだ。裕吾もそれに気付いて目を伏せる。俺はポテトをつまみ、口に入れることなく指先で弄んだ。
「こういうこと、これからもあるだろうな」
「だろうな。慣れるのかな、いつか。将太がいねえことに、慣れちまうのかな」
「慣れないよ」俺は即答する。「いつだって将太は俺らのそばにいる。いつだって将太を近くに感じる。今だって――」
 堪えてた涙が溢れてくる。
「今だって、姿は見えないけど、ここにいる」手の甲で鼻の下を擦り、指で涙を弾く。「こんなに将太を感じるんだから、将太がいないことに慣れることなんてない」
 男二人が飯も食わずに急に泣き出して、俺らは今、店内で注目の的になってるはずだ。とくに隣の席の人、驚かせてごめんなさい。
 吹っ切るように息を吐き出して、もう一度涙を拭って、前を向く。
「自分がこんなに泣けるとは思ってなかった。母さんが緩和ケアに移るってなったときから、信じらんないぐらい泣いてるな」
「あれだな、凌は将来、血も涙もない人間になるかもな」
「血は出してないよ」
「献血いっぱい行け」
「いくら出そうが俺はずっとあったかい人間だ」
「たしかに。凌はいい奴だからな」
「だろ」
 泣き腫らした顔を綻ばせ、裕吾が食べかけのバーガーにかぶりつく。それを見て、開けてもいなかった包装を?いで俺もバーガーにかぶりついた。
「先生ってさ」口に入れた分を飲み込んで裕吾が言う。「たぶん、なんかあったんだろうな、過去に。俺なんかが想像できないような辛い経験をして、それを乗り越えて、自分らしく生きるために努力して、だからあんなにかっこいいんだろうな。だから先生の言葉には嘘がなくて、まっすぐ届く。まあ、俺の勝手な想像だけど」
「……どうなんだろうな。でもたぶん、そうなんだと思う」
「ま、どっちでもいいけど。先生は先生だし」
「うん、そうだな」
「なあ、共通テスト終わったら学校行かねえか?」
「なにしに?」
「先生に会うために決まってんだろ。なんだよ、会いたくねえのかよ」
「会いたいよ」
「そこは即答なんだな、やっぱり」
「そりゃあね」
「俺も先生とゆっくり話してえし、目の保養が必要だ」
「わかる。あんなかっこいい人がそばにいるとさ、目が肥えちゃって基準がおかしくなるんだよ」
「俳優とかモデルとか、大したことねえなって思っちまうもんな」
「ほんと、罪な男だよ、先生は」
「大学受かったらお祝いで等身大パネル作ってくんねえかな」
「それをどうすんだよ」
「ことあるごとに抱きしめる」
「裕吾、マジでキモい」
「そのトーンやめて」
「将太ならもっとバッサリ切り捨ててるぞ」
「将太、俺を嫌いにならないで」
「ならないよ」
「……そうだな、将太もいい奴だもんな」
「そうじゃなくて、告られたこと忘れたか」
「凌、それは言わないで」と真面目な顔で俺をじっと見て、目を逸らす。ポテトをいじりながら裕吾が言った。
「照れちゃう」
 俺が笑うと裕吾も笑って、俺も裕吾も頬を拭った。

 共通テスト前日、俺は将太んちのインターホンを鳴らした。将太んちにお邪魔するときはいつも店のほうから上がらせてもらってたから、このインターホンを鳴らしたのははじめてだ。
 店はまだ閉じている。あの日からずっと閉じたまま。
 少しして「はい」と応える、おじさんの色のない声がインターホンから聞こえてきた。
「おじさん、凌です」
「凌君」
「もし会えるなら、おじさんとおばさんに会いたくて」
「今行くから待ってて」
「うん」
 すぐに玄関が開いた。おじさんがドアを開け、その後ろにおばさんが立っている。俺の顔を見た途端、おばさんは靴下のまま三和土に下りてきて、俺はおじさんとおばさんに抱きしめられた。右手はおばさんの背中に、左手はおじさんの背中に回して俺も抱きしめ返す。嗚咽、震え、鼻の啜り、声にならない声が三人分重なる。ひとしきり泣いて、それぞれの腕が離れていく。
「凌君、痩せたんじゃないの?」
「頬もこけてるぞ」
「二人だって同じだよ」
 三人で小さく笑い合い、二人に手を引かれて家の中に入った。
「上がって上がって。ちょっと散らかってるけど」
「お邪魔します」
「どんどんお邪魔してくれ」
「こっちから上がるの変な感じ」
「ああそうか、いつも店のほうからだもんな」
 リビングに通されてソファに座る。いつも将太の部屋に直行するから、何度も来てるうちなのになんだか落ち着かない。きょろきょろしてると、おばさんがあったかいお茶を、おじさんがお菓子をたくさん並べたお盆を運んできて、俺を挟んでソファに腰かけた。
「あんまりじろじろ見ないでよ」
「いや、なんかここに座ることなかったから」
「そういえばそうね」
「いつもは将太の部屋か店だもんな」
「うん」
「お菓子、いっぱい食べて」
「うん、ありがとう」
 一番手前にあったせんべいの袋に手を伸ばして、袋のまませんべいを割って袋を開けて、小さくなったせんべいを口に入れる。バリバリと噛み砕く音だけがリビングに鳴る。飲み込んで、おじさんとおばさんに顔を向けた。
「二人とも、体調はどう?」
「うん、だいぶ落ち着いてきた」
「ようやくってとこだな」
「お店もね、そろそろ開けようかなって」
「四十九日過ぎたらだけどな」
「そっか。みんなおじさんの飯食いたがってるだろうから、店再開したらみんな喜ぶよ。俺も食いたい」
「そうか、そうだな。そう思ってくれるならがんばらないとな」
「うん、しんどくないぐらいにね」
「わかってるよ」
「凌君はどう?」
「俺もやっとって感じ。急に涙が出てくることはあるけど、前に比べれば落ち着いてきた」
「そう。よかった」
「ほんとはもっと早く二人に会いにくるべきだったんだけど、ごめん」
「なに言ってんだ。凌君だってしんどかっただろう」
「将太の葬式のあと、改めてお父さんが来てくれてね、そのとき凌君のこと教えてくれて」
「だがあんときは俺たちも自分たちのことで精一杯で、凌君になんもしてやれなかった。でも、言い訳に聞こえるかもしれないが、凌君ならきっとちゃんと自分で立ち上がって、俺たちに会いに来てくれるって信じてた」
「こうやってちゃんと会いに来てくれた」俺の膝をぽんぽん叩く。
「うん。でも自分一人じゃ立ち上がれなかった。家族と、裕吾と、先生がいなかったら、俺は腐ってた」
 裕吾に語って聞かせたことをおじさんとおばさんにも伝えた。もしかしたら二人にとっても救いになるかもしれないと思ったから。全部聞いたおじさんとおばさんは涙目になりながらも、懐かしむように微笑んだ。
「年が明けて何日か経った頃に、先生からご連絡いただいてね。改めてお伺いしたいのですがよろしいですかって」
「先生が?」
「うん。驚いたけど、将太が慕ってる先生だもの、もちろんいいですよってお伝えして。こちらとしてはいつでも構わなかったから、ご連絡いただいた次の日に来てもらったの」
「ちゃんと喪服着て、時間通りにうちに来て、線香あげてくれて、長いこと手合わせてた。すごく嬉しかったなあ」
「私とお父さんに『この度は』って頭下げてくださったんだけど、その後の言葉がなくてね。畳に手ついて、じっと動かないの。少ししてぽたぽたって、畳についた手に涙が落ちて、また落ちて、私たちも言葉を失ってしまって、その姿を見てることしかできなかった」
「顔を上げた先生の目にはもう涙はなかったよ。目は赤かったが、泣いてはなかった。たぶん、俺たちの前で泣きっ面は見せちゃいけないって思ったんだろうな」
 そういえば、先生は俺の前でも絶対に涙は見せなかった。苦しそうな表情は見えたし、なにかを堪えるような声も聞いたけど、先生の涙は一度も見たことない。
「俺、さっきすごい泣いちゃったな」
「凌君はいいのよ、家族なんだから。先生だってよかったんだけどね」
「でもその気遣いがまた嬉しかったよ、俺は」
「詳しいことは仰らなかったし、私たちも訊くつもりはなかったけど、先生がね――」
 ――最も大切な存在を喪うことは、死にたくなるほどの絶望と苦しみを生み出します。俺はそれを知ってます。ですが俺はこうして生きて、今、生きててよかったって心底思えてます。だからどうかお二人も、生きることを諦めないでください。
「そう言ってまた頭を下げてくれてね。懇願するように、長い時間頭を下げてくれた。その言葉も、その姿も、すごーーーく心に沁みて、それからかしらね、少しずつ心にゆとりが出てきたっていうか」
「そうだな。それまでは将太を喪ったことを悲しむことしかできなかったが、同じように悲しんで苦しんで、それでも前を向いてる人がちゃんといるんだってわかって、このままじゃいけないって思うようになれた」
 龍河先生を想って涙が零れる。
 本当に、本当に先生は強い。消えない傷を抱えながら、それでも前に進み続けて、自分と同じように傷ついた人たちが歩き出せるように背中を押す。
 どうしてそんなに強くなれるんだろう。と思ってすぐに、そうか、と答えに辿り着いた。
 先生が一人じゃないからだ。一人じゃないって知ってるからだ。
 だから突き進むことができる。自分のために、誰かのために。
 背中に温もりを感じて顔を上げると、おじさんとおばさんが労わるように俺を見つめて背中を擦ってくれていた。
 そんな二人の顔を見ていたら、さらに涙が込み上げてくる。
 似てる。親子なんだから当たり前だけど、将太はおじさんとおばさんにそっくりだ。目元はおばさんに、鼻筋はおじさんに、溢れる優しさは二人に。
「ごめん、俺ばっか泣いて」
「いいんだよ。泣きたいときは泣けばいい。抱えきれない想いはそうやって涙に変えて零していけばいい」
「そう、泣いていいの。泣いて泣いて、いっっっぱい泣いて、さっき凌君が話してくれた先生の言葉にもあったけど、そうすればいつか、抱えられる悲しみになるから」
「うん、ありがとう。おじさんもおばさんも、俺の前ではいっぱい泣いてよね」
「うん、そうさせてもらう」
「うん、三人でいっぱい泣きましょう」
 顔を見合わせて笑い合って泣き合って、お茶を飲んでお菓子を食べた。おばさんがお茶を淹れなおしてくれて、あったかい湯気がふわりと上がる。
 今日将太んちに来たのはおじさんとおばさんが心配だったからってのもあるが、俺は、二人にちゃんと伝えておきたかった。
「おじさん、おばさん」
「なんだい」
「なあに」
「俺は、将太のこと家族だと思ってる。おじさんとおばさんのことも、もう一人の父さんと母さんだと思ってる。だから二人になにかあれば俺はすぐに駆けつけるし、自分がこれからどういう道を進むのかはまだわかんないけど、たとえ地元を離れて別の場所にいようとも、俺はずっとおじさんとおばさんのそばにいる」
「凌君……」
「将太みたいにできた息子じゃないけど、俺のこと、息子だと思ってほしい。図々しいお願いだけど、これからもずっと、おじさんとおばさんには俺のそばにいてほしいんだ」
 顔を歪めたおばさんが俺を抱きしめ、泣き笑い顔のおじさんが俺とおばさんを抱きしめた。
「将太も凌君も、俺たちには出来過ぎた息子だ」
「頼まれなくたって、おせっかいなぐらいそばにいちゃう。凌君のお父さんとお母さんと奏ちゃんと、お父さんと将太と私と、家族全員で凌君のそばにいるから」
「うん、ありがとう」
 また散々泣いて泣き疲れて、また笑い合って、お茶を飲んでお菓子を食べた。おばさんがお茶を淹れてくれようとするのを止め、俺は将太の部屋に入ってもいいか訊ねた。
「もちろん。そのままになってるから、好きなだけいてちょうだい」
 二階に上がり、何度も入った部屋に入る。将太の匂いがして思わず笑みが零れた。
 六畳の部屋はドアから縦に伸び、窓がある奥の壁際にベッドがくっついている。ベッドと壁のわずかな隙間に折りたたみテーブルが立てかかっていて、俺や裕吾が遊びに来たときはこれを広げて二人、もしくは三人で囲む。右側の壁には腰高ぐらいの本棚。文庫本が数冊、お気に入りの漫画が全巻、参考書類が数冊、それらが綺麗に並んでいる。反対側の壁には、小学生の頃から使っている勉強机と、洋服類がしまってある木製の引出し棚が置かれている。この引出し棚も小学生の頃から使っているもの。ドアを開けたすぐ左横にハンガーラックがあり、制服とコートと、普段着ている上着が数着と、いつも首に巻いていたマフラーがかかっていた。
 そのハンガーラックに近づき、制服に触れて、マフラーに触れて、そのままマフラーを鼻先に押し当てて将太の匂いを感じた。あの日着ていた上着は見当たらない。きっと汚れてしまって、ここではないどこかにあるんだろう。
 勉強机に歩み寄る。参考書とノート、ペンケースが重なって端に寄せてあった。散らかってるのが嫌いな将太らしい、整頓された机の上。椅子を引いて座ってみる。子供の頃に貼ったシールとかいたずら書きとか、どれも剥がされたり消されたりしているが、綺麗に?がれなかったもの、消えなかったものもあってりして、懐かしい面影を残している。
 だけど一つだけ、綺麗に残ってるものがある。
 嫌でも目に付く場所に貼ってあるシール。小学校低学年の頃に俺があげたお菓子のシール。それだけは今も、部屋の電気に反射してきらきら光ってる。
 手を伸ばして触れた。
 こんなもんをずっと大事にしてくれる将太。俺から貰ったことを忘れずにいてくれる将太。
 律儀な奴だ、と思って、そう思ったことが可笑しくて笑うと、机に涙が零れ落ちた。
 俺も同じだ。このシールは将太と交換こしたシール。俺もまだ持ってる。そのとき使ってた筆箱に貼って、今もちゃんと筆箱ごととってある。
 椅子から下りて地べたに座った。見慣れた高さで将太の部屋を見渡す。
 幼稚園の頃からこの部屋で遊ぶようになって、戦隊ごっこをしたり、見えない敵と戦ったり、ボードゲームをしたり、トランプで遊んだり、宿題をしたり、漫画を読んだり、ただゴロゴロして喋ったり、ちょっとやらしい雑誌を眺めたり、たまに喧嘩したり、仲直りしたり、悩みを相談したりされたり、未来を想像したり。
 この部屋にはいろんな思い出が詰まってる。そこには必ず将太の笑った顔があって、どんなことも最後はいつも笑ってくれた。俺はその笑顔が大好きなんだ。
 目元を拭って一つ息を吐き、前を向く。目の前の本棚に並んだ本を眺めていると、参考書の間に薄い冊子が挟まっていることに気が付いた。なんか気になる。本棚に近づき胡坐をかいて座り、その冊子を手に取って表紙を見た途端、俺は目を丸くした。
 大学案内のパンフレット。目に映った大学名は、俺が第一志望とする大学と同じだった。
 ぽた、ぽた、とパンフレットが濡れていく。ぽた、ぽた、と文字が滲んでいく。
 こんなのありかよ。なんでだよ。こんなの悔しいじゃん。悔しすぎるじゃん。将太お前、エスパーかよ。それとも俺がエスパーなのかな。違うよな、これが俺らなんだよな。でもさ、これはやっぱり悔しいよ。
 なあ将太、俺はずっと思ってたんだよ。あんときみたいに、同じ学校選んでたら面白いなって。もしそうなったら、それってすごいことだなって。あんときみたいに目まん丸くして、絶叫して、声枯らして、そんなことが起きないかなって。勝手に夢見て、楽しみにしてたんだ。
 なのに、俺、一人じゃん。将太がいなきゃ、喜べないよ。
「将太……」
 会いたいよ。寂しいよ。
 お前の笑った顔が見たいんだ。凌ちゃんって、呼んでほしいんだ。
「将太あ……将太ああ……」
 頼むから、返事してくれ。
 叶わないことだとわかっていても、願わずにはいられなかった。将太の名を呼ばずにはいられなかった。パンフレットを抱いて蹲って、将太を呼びながら泣き続けた。
 その肩に、ふわっと風がそよいだ。肩を抱き込むようにして包まれる。泣き濡れた顔を上げて部屋を見渡すけど、窓は開いてないし、エアコンもついてないし、もちろん誰もいない。でもたしかに今も、なにかあったかいものに包まれている。そしてそれもまた、風に乗るように聞こえてきた。
 ――凌ちゃん、大丈夫だよ。俺は凌ちゃんのそばにいるよ。
 将太の声と、俺を安心させるような笑い声。
「……将太?」
 包まれるあったかさが一瞬強くなり、すっと消えていった。
 俺の願望が幻聴になっただけなのか、幻覚を見せただけなのか。でもたしかに感じた。
 あれは、将太だった。
 気付けば口元が綻んでいる。寂しい気持ちじゃなく、今度はあったかい気持ちが俺の頬を濡らしていた。
 将太の部屋から一つだけ持ち出し、それを持って一階に下りる。リビングに入るとおじさんとおばさんの優しい笑顔が迎えてくれた。
「おじさんおばさん、これ貸してもらってもいいかな?」
「ペン入れ?」
「うん、明日からの共通テストに持って行きたくて」
「えっ!それって大学受験でしょ?」
「うん」
「おい、こんなにのんびりしてて大丈夫なのか?」
「うん、ちゃんと準備はできてる。俺、あんまり根詰めると逆効果だから」
「あそう。ならいいけど」
「凌君は肝が据わってるな」
「そんなことないよ。明日になれば多少は緊張すると思う」
「それでも多少なんだな」
「なんか私たちのほうが緊張しちゃう」
「父さんも同じこと言ってた。絶対大丈夫とは言えないけど、俺なりにできることはしたし、それに一般入試もあるからなんとかなるよ」
「ふふ。凌君がそう言うなら大丈夫ね」
「うん、そうだな。凌君なら大丈夫だ。将太のそれも持ってって。それに、借りるんじゃなくて貰ってよ。将太もそうしてほしいって思ってる」
「うん、貰ってちょうだい」
 俺はなにかを確かめるように手に持ったペンケースに視線を落とし、微笑んで頷いた。
「じゃあ貰う。大切にする」
「うん、そうしてやって」
「将太も喜んでるな」
「うん、ありがとう」
 おじさんに抱きついて、おばさんに抱きついて、また来るねと二人に約束をする。見送るおじさんとおばさんも、見送られる俺も、笑ってた。

 大学入学共通テストが終わって数日後、俺は裕吾と学校に向かってる。駅前にある洋菓子店でプリンとシュークリームを四つずつ買い、龍河先生に早く会いたい気持ちを抑えながらてくてく歩いてく。
 この前この道を歩いたのは一週間ちょい前ぐらいだろうか。たったそれだけしか経っていないのに懐かしい気分になる。卒業したらもう歩くことはないんだろうなって思うとやっぱり寂しい。
 校門を通ったとき、ちょうど授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。下駄箱に靴を入れて上履きに履き替える。そのまま英語準備室へ向かうが、英語準備室が近づけば近づくほど俺らの口数が減っていった。あと十歩、そのぐらいの距離になってようやく裕吾が口を開き、「なんか緊張すんな」と呟いた。
「うん、すごいわかる」
 そう、俺は今ものすごくドキドキしてる。なんでかはわかんないけど、たとえばずっと会いたかった憧れの人に会えるような気分なのだ。今まで毎日のように会っていたはずなのに、ちょっと会わないだけでこんなことになってしまう俺ら。高揚感と緊張感ではち切れそうだ。
「なあ、今日行くって言ってないんだよな?」
「うん」
「大丈夫か?迷惑じゃないか?」
「まだ期末前じゃないし大丈夫だと思う。っていうかたぶん、俺らが顔出しても先生はいつも通りだと思う」
 裕吾と顔を見合わせ、息を大きく一つ吐いてからノックする。そっとドアを開けると、龍河先生は左手で口元を覆うようにしながら机に肘をつき、なにやらペンを動かしていた。ペンの動きが止まって、龍河先生の顔がゆっくりと俺らに向けられる。俺の予想通り驚いた様子もなく、もちろん、「久しぶりじゃん!よく来たね!」なんて喜んで歓迎する素振りもなく、すぐに顔を戻してペンを動かしはじめた。
 それでこそ先生。そしてその横顔、ああ、かっこいい。
 裕吾と一緒に部屋に入り、開けたときと同様そっとドアを閉める。キリがよくなったのか、龍河先生はペンを置いて身体ごと向き直ってくれた。
「来ると思った」
「え、なんでですか」
「予知能力者っすか」
「将太の月命日だろ?」
 言い当てられて、俺と裕吾は頬を緩めた。
「はい、月命日はみんなで集まりたいなと思って」
 今度は龍河先生が頬を緩める。
「お前ららしいな」
「はい」
「よし、やっと緊張が解けてきたぞ」
「緊張?」
「いや、なんでかわかんないんですけど、さっきまで緊張してたんです」
「俺としてはどっかの国王に会いに行く気分でした」
 きょとんと裕吾を見る龍河先生。そりゃそうだ。
「先生、プリンとシュークリーム買って来たんです。一緒に食いましょ」
「お、マジで。食う食う」
 龍河先生がコーヒーを淹れるのを待って、視聴覚室へ移動した。なぜだか机をくっつけたくなった俺は机を四つくっつけて、プリンとシュークリームを一個ずつ机に置いていく。将太がいつも座る机にも置く。
「先生、食べてください。ここおいしいって評判らしいです」
「へえ」と言いながら、龍河先生はシュークリームを手に取ってかぶりついた。俺らも同じようにかぶりつく。クリームを包む生地がサクッと音を立てて、中のクリームがとろりと口の中に広がっていく。
「うまっ」
「うまいっすね」
「うん、うまい。久しぶりにシュークリーム食ったけど、こんなにうまかったっけ?」
「この店がうまい」
「やっぱそうなんですか」
「へえ、評判通りなんだ。三年も通ってたのにもったいねえことしたな」
「だな。父さんたちの分買って帰ろうかな」
 シュークリームは直径七、八センチはあったと思う。かなり大きかったけど、それほど甘いものが好きじゃない俺でもぺろりと食べられるぐらいうまかった。カスタードクリームの甘さがちょうどよく、生地のサクサク感とそのカスタードクリームの柔らかさが絶妙だった。
 絶妙と言えば、今日の龍河先生も絶妙です。
 えんじ色の丸首トレーナーにグレーのチノパン。首元と裾から下に着ている白Tがチラ見えしてる。
 ああ、久しぶりに見るこの絶妙感。何度見ても感心してしまう。ああ、なんてかっこいいんだろう。身体によさそうななにかが俺の目から全身に行き渡っていく。
 俺が勝手になにかを吸い取ってるとは露知らず、龍河先生はシュークリームを食べ終え、早くもプリンをスプーンで掬って口に入れていた。
「うまっ」
 いつも同じ感想だからわかりづらいが、ほんとにいつもおいしそうに食べる龍河先生。ただこのプリンは相当おいしいようで、若干目を見開き、おいしさに驚いている。そんな龍河先生も、ああ、可愛い。
「俺このプリンすげえ好き」
「ほんとですか。俺も食べよ」
「俺も俺も」
 スプーンを入れると、よくあるとろとろのプリンではなく、少し硬めのプリンだった。だけど口に入れると滑らかで舌触りも柔らかい。カラメルソースは甘みの中にわずかな苦みが残っていて、プリンのほのかな甘みと絡んでこれまた絶妙。これはうまい。
「この硬さがちょうどいいですね。カラメルの苦みも。俺とろとろのプリンよりこういうほうが好きなんですよ」
「さすが凌、わかってんな」
「先生もですか?」
「俺は断然こっち」
「この店マジでうまいっすね。マジでもったいねえことした」
「どこにあんの?」
「反対口なんです。でも駅出てすぐですよ。吉原洋菓子店っていう店です」
「帰り寄りましょうよ。ケーキも売ってたよな?」
「うん、どれもうまそうだった。でも先生の好みがわかんなかったんで、プリンとシュークリームなら間違いないだろうって裕吾と話して」
「ケーキならなにが好きなんすか?」
「なんでも」
「あはは!じゃあいくつか買ってくればよかったですね」
「これで十分だよ」
「じゃあ、次はケーキにします」
「なんもいらねえよ。お前らだけで来い」
「俺が食ってみたいんで」
「俺も食ってみたいっすね。こんだけうまけりゃ」
「そしたら俺に連絡しろ。駅まで行くから」
「ダメです」
「ん?」
「だって呼んだら絶対先生がお金払っちゃうじゃないですか」
「当たり前だろ。お前らに払わせるわけにはいかねえよ」
「ダメです。そうやっていつも俺らご馳走になっちゃってるんですから」
「そうっすそうっす。俺らにも払わせてください」
「先生にお礼がしたいんです。少しずつでも、どんな形でも、なにか先生にしたいです」
「俺もです。こんなんじゃ全然足りないっすけど、お返しさせてください」
 龍河先生は困ったような呆れたような顔で俺らを見て、小さく笑った。
「わかったよ。お前らの気持ちに甘えさせてもらう」
「はい!」俺と裕吾の声が揃う。
 嬉しそうな笑みを広げ、龍河先生はプリンを食べる。俺も裕吾も目を合わせて笑い合い、プリンを口に運んだ。
「あ、そうだ」と裕吾が手を止めて俺を見た。
「うん?」
「凌、来月誕生日じゃね?」
「ああ、うん。そうだな」
「じゃあ、来月買うケーキは凌の誕生日ケーキにするか。だからお前は金払うんじゃねえ。俺がでっかいケーキを買ってやる」
「はあ?いいよ、そんなの」
「よくねえよ。誕生日は一番めでたい日なんだから」
「いや、まあ、そうだけど。でも来月のケーキは俺と裕吾で先生のために買うんだよ。それにたぶん、っていうか絶対、父さんか姉ちゃんが買ってきてくれるから、誕生日ケーキはそれで十分」
「……そうか、それなら仕方ないか。でもせっかくだからな、なんか考えとく」
「いいって。そう思ってくれるだけで嬉しいよ」
「誕生日いつなんだ?」
「二月二十二日です」
「覚えやすいな」
「はい、みんなに言われます」
「先生は誕生日いつなんすか?」
「九月」
「過ぎてんじゃないですか!」
「半年近くも前じゃないっすか!ちょっと!九月のいつっすか!」
「二十七」
「早く言ってくださいよ!」
「おい、今から祝うぞ」
「祝うってなにすんだよ」
「……歌うぞ」
「は?」
「ハッピバースデートゥユーを歌うんだよ」
「それは、ちょっと、恥ずかしくないか?」
「なんでだよ。誕生日と言ったらハッピバースデートゥユーだろ!」
「だって先生の前だぞ?あの歌唱力のある先生の前だぞ?英語が流暢な先生の前だぞ?」
「……それは照れちゃうな」
「だろ?そうだろ?」危ない危ない。とんだ恥をかくところだった。「冷静になって、ほかの方法を考えよう」
「ほかってなんだよ」
「なんかあんだろ。っていうか、べつに今日じゃなくてもいいだろ」
「ああ、それもそうか」と裕吾が真面目な顔で答えると、頬杖をつきながら龍河先生は可笑しそうに笑って、俺らを交互に見た。
「ほんと面白えな、お前らは」
「いや、先生、笑えないですって。裕吾の暴走止めんのほんとに大変なんですから。今までは将太がいてくれたけど、これからは俺一人止めなきゃなんないんで」
 俺がそう言うと、龍河先生は誰も座ってない机に置いてあるプリンとシュークリームに視線を移し、柔らかく微笑んで言った。
「そうだな。将太も今頃、凌が苦労してるの見て笑ってるな」
 俺も裕吾も笑ってる将太を想像して、自然と微笑んでしまう。言葉も自然と零れ出た。
「俺、共通テスト前に将太んちに行ったんです。将太がいなくなってからずっとおじさんとおばさんと話せてなかったし、体調も心配だったし、伝えたいこともあったし」
「俺も葬式以来会ってねえな。どうだった?おじさんとおばさんの様子」
「うん、明るかったよ。もちろん、心を励まして、明るく振る舞うように努めてるんだろうけど、でもちゃんと笑ってた。店もそろそろ再開するって」
「そっか。よかった」
「店はじまったらまた食いに行こ。二人も裕吾が顔出したら喜ぶよ」
「そうだな。おじさんの飯食いたいわ」
「先生も行きましょうね」
「ああ」
「それで?将太んち行ってなんかあったのか?」
「うん。おじさんとおばさんとしばらく話して、その後将太の部屋に入らせてもらったんだ。ラックにかかってる制服とかコートとか、整頓された机の上とか、なんか、不思議な気分だった。将太がそこに残ってた」
 息を細く吐き出す。
「部屋をぐるって見渡してたら、本棚の参考書の間に薄い冊子が挟まってるのが目に入って、なんだろうと思って手に取ったら、大学案内のパンフレットだった」小さく笑みが漏れ、震える唇を噛み締めた。「俺が第一志望にしてる大学と同じだった」
「それって――」
「偶然だよ。ほんとに偶然。まさかここを選んだ時と同じことがまた起こるなんて思ってなかった。すごい驚いた。でも、そこには俺しかいなくて――」瞬きで押し出された涙を指で拭う。「悔しかった。悔しくて悔しくて、どうしようもなく将太に会いたくなって、大泣きしながらずっと将太の名前を呼んでた」
 あのときのあったかい温もりが蘇ってくる。心があったかくなる。
「そしたら、信じらんないかもしれないけど、俺の肩が包まれたんだ。ふわって風が吹いて、その風が俺の肩を抱きしめるみたいに、あったかく包んでくれた。そしたら聞こえたんだよ」
 ――凌ちゃん、大丈夫だよ。俺は凌ちゃんのそばにいるよ。
「将太の声が。将太の笑い声が」
 視線を上げ、裕吾と龍河先生に笑顔を向ける。目尻から涙が落ちた。泣きながら、笑いながら、隣に座ってる将太に伝える。
「嬉しかった。すごい、嬉しかった。俺が困ってたら駆けつけるって、その約束、守ってくれた。将太はやっぱり、最高の、一生の友達だよ」
 笑顔も涙も全開になる。手のひらで目元を押さえて涙を拭い、大きく息をついてから前を向くと、裕吾は泣き笑いの顔で、龍河先生は穏やかに微笑んで、俺を見つめていた。
「嘘みたいな話ですけど――」
「いや」と龍河先生が俺の言葉を遮る。「嘘じゃねえよ。将太はいつも凌を想ってる。凌も将太をいつも想ってる。それが通じ合ったんだ」
 龍河先生の隣で裕吾は何度も何度も頷いている。
「はい、通じ合えました」
 やっぱりそうなんだ、という安堵感と、裕吾と龍河先生が当たり前のように受け入れてくれた嬉しさで、心がすっと軽くなった。話そうと思って話したことじゃなかったけど、話してよかった。
「先生、将太の分食べちゃってください」
「俺を太らせるつもりか。お前らが食えよ」
「じゃあ、プリンは先生が食べてください。シュークリームでかいんで裕吾と分け合います」
 問答無用で龍河先生の前にプリン、裕吾の前にシュークリームを置く。
「半分こじゃねえの?」
「手で割れないから食って。食えるなら全部食っちゃっていいよ」
「唾液だらけにしてやろうかな」
「俺が先に食う」
「もう遅い」にやりと笑い、裕吾がシュークリームを頬張った。
「先生、シュークリームもいかがですか」
「いらねえ」
 即答で拒否。悲しい目をした裕吾に見つめられながら、龍河先生はスプーンで掬ったプリンを口に入れた。
 唾液まみれにならなかったシュークリームの半分が裕吾から渡されて、それを一口頬張った俺に裕吾が訊いた。
「凌は一般いつなんだ?」
「二日と三日と六日。裕吾は?」
「俺は二日と三日と」
「そっか。いつも通りやれば問題ないな、裕吾なら」
「それは凌もだろ。っていうか、どこの大学受けんだ?」
「第一が――大学で、第二が――大学、滑り止めが――大学」
「マジか。第二が同じだ」
「マジで。裕吾は第一どこにしたの」
「――大学」
「裕吾ならもっと上のレベル行けるだろ」
「担任にも言われたけど、なんかここが一番しっくりきたっていうか」
「そっか。裕吾がそう感じたならそこが一番いいんだと思う。でも第一が違うってことは、裕吾と大学が被ることはないんだな」
「否定したいとこだけど、そうだな。俺も凌も第一に行くからな」
「そうなりますように」
「大学生になっても遊んでね」
「あはは!考えとく」
「嘘だろ!そこは迷わず『うん!』だろが!どう思いますか、先生」
「毎日電話してやれ」
「なるほど」
「先生、余計なこと言わないでください」
「おはようとおやすみの電話をしてやるよ」
「ほら先生、こうなるんですから」
「いいじゃねえか。俺もしてやろうか?」
「え、それは嬉しいです。ウエルカムです」
「おい凌。泣いちゃうぞ」
「裕吾、お前らなら大丈夫だよ。そりゃ今まで通りとはいかねえだろうが、お前らは変わんねえよ」
 裕吾が俺を見て、俺も裕吾を見る。
「そうですね」「そうっすね」と俺と裕吾の声が重なった。そのまま裕吾はどこか悩んでるような眼差しになり、宙を見て言う。
「でも、実感が湧かないんすよね。高校生じゃなくなって大学生になるっていう。俺だけかもしんないすけど、大学生になった途端に将来が迫ってくるような気がしちゃって。今までも考えなくはなかったけど、それが生々しくなるっていうか。あと数ヶ月でそういう世界に足を踏み入れるのかって思うとなんか不安なんすけど、でもどこかまだ他人事っていうか」
「うん、なんとなくわかる」
「ぼんやりとはあるんです。学部を選ぶ時点で、こういうことやってみたいなあとか、こういうの面白そうだなあとか、そういうのは考えたんすけど、でもそれもどこか他人事っていうか。うまく言えないんすけど」
「裕吾が言いたいことはわかる。先生は、音楽をやろうって決めたきっかけとかあるんですか?」
「いや、ただ面白かったから」
「はあ」
「そんなもんだろ。なにかをはじめる理由なんて」
「……それもそうか」
「自分がなにをしたいのかなんて、そんなのやってみなきゃわかんねえよ。自分になにが向いてるのかってことも、やってみなきゃわかんねえ。面白いと感じても、それが自分に向いてるとは限んねえし、興味なかったことにたまたま触れて、それが一生続けてく仕事になることもある」
「先生は音楽以外にやってみたいとか、やってみようと思ったことないんですか?」
「ねえな。音を鳴らすのはずっと楽しいし面白えし、もちろんしんどいこともあるが、それも含めて音楽のすべてが俺は好きだ。これからも続けてくし続けたいし、そのために努力するし、たとえギターが弾けねえ身体になったとしても、俺は音楽を続けるよ」
「そんな風に思えるなにかに出会えるのかな」
「どうやったら出会えんだ」
「お前らが言ってんのは、夢のことか?それとも自分の才能を活かせる仕事のことか?」
「うん?どういうことですか?」
「例えば、俺は音楽で生きてくことが夢で、俺は今それを叶えられてる。夢が叶って、それで食ってけてる」
「はい」
「俺のダチは、いつか田舎で民宿をやりたいっていう夢を持ってる。だが今は音楽関係の仕事をしてる。かと言って、今の仕事を辞めたいとは思ってねえし、むしろ楽しくて仕方がねえ。今の仕事が自分に向いてると思ってるし、実際センスは抜群だし仕事もできるし、マジですげえ才能ある奴なんだよ。だが今の仕事はそいつの夢じゃねえ、自分の才能を活かせる仕事ってだけだ。この先そいつが民宿をはじめて夢を実現させたら、もちろん俺らは全力で応援するし、そいつ自身も努力して努力して、やれることは精一杯やるに決まってる。だが、うまくいくとは限らねえ。いくら努力してもうまくいかねえこともある。残酷だが、それはただそいつには向いてなかったってだけだ」
「なんか頭がこんがらがってきたぞ。凌、俺がバカなのか?」
「俺も今整理してるとこだから黙ってろ」
「夢を叶えてそれで食ってくってことは、やりたいことを見つけて、さらにそれが自分の才能を発揮できるもんじゃなきゃダメだってことだ」
「ああ、そうか」
「技術だとか知識は努力次第でどこまでも身につけられる。だが、才能だとか才覚は生まれ持つもんだろ」
「はい、そうですね」
「お前らが言ってんのが、夢を見つけてそれで食っていきたいってことなら、夢を持つことはできる、としか俺には言えねえ。そうじゃなくて、才能を発揮できる仕事を見つけたいってんなら、それはお前ら自身でどうにかするしかねえよ」
「やっぱりそうなりますよね」
「言えるのは、自分の世界を広げろってことだ。夢を見つけるにしても、才能を発揮できる仕事を見つけるにしても、ただ毎日を手の届く範囲で過ごしてたらなんも見つかんねえよ。いろんな奴と出会って、いろんな場所に行って、いろんなことを経験する。大袈裟に考えなくていい。飲み屋で隣に座った奴に話しかけてみる、降りたことのねえ駅で降りてみる、読めねえ本を読んでみる、そんな些細なことでもいいし、世界中を旅してみる、なんて最高に楽しいことでもいい。そうすりゃ、なんか心に引っかかるもんが見つかるずだ。そしたらとりあえずやってみろ。そのうちのどれかが夢になるかもしれねえし、一生もんの仕事になるかもしれねえ。それが重なれば、夢が叶う」
「……自分が動かなきゃなにもはじまらない」
「そういうことだ。自分から広げなきゃ世界は広がらねえ。お前らがなにかを望むなら、自分の世界を自分で狭めるな」
 そうだよな。なりたい自分になるためには自分が突き進むしかない。誰かが道を作ってくれるわけじゃない。なりたい自分を見つけるために、自分の未来は自分で作らなきゃいけないんだ。世界を広げる。そうすればなりたい自分が見えてくる。
「なんか、未来が明るくなりました」
「言っとくが、そう簡単には見つかんねえかんな」
「え、それ今言います?」
「現実を知っておくことは大事だろ」
「そうですけど」
「簡単には見つかんねえ。だから特別なんだろうが」
「そうか、そうですよね」
「だからもし、その特別を見つけることができたなら、全力でやれ。それを見つけられた奴はすげえ幸せもんなんだよ。見つからなくてもがいてる奴らのために、それを見つけられた奴は死に物狂いでぶつかって、真っ正面から逃げずに向き合っていかなきゃなんねえ。特別を見つけようとすんなら、それだけは忘れるな」
 龍河先生の言葉がちゃんと沁み込むまで待って、俺は頷いた。
「はい」
 ところが、裕吾からの返事がない。見ると、考え込むように机の上に視線を落としている。「裕吾?」と俺が声を掛けて我に返った。
「あ、すいません」
「大丈夫か?」
「うん。なんか、考え込んじゃった。あ、でもちゃんと聞いてました!」
「じゃあ先生の言葉繰り返してみろよ」
「そういういじわるはよくないですよ」
「聞いてないな」
「聞いてたよ。要約すると、世界を広げろ、やるからには覚悟を持てってことっすよね?」
「だいぶ短くまとめたな」
「うるせえな。シュークリームさっさと食えよ」
「はいはい」と返事して、シュークリームを口に運ぶ。
「俺との間接キッスの味はどうだ」
「さっきよりまずいと思ったら」
「おい凌。泣いちゃうぞ」
 あはは!と俺が笑う。龍河先生も笑ってる。拗ねてた裕吾も頬を緩めた。
 将太を喪った悲しみと悔しさをそれぞれが抱えながら、それでも少しずつ、一歩ずつ、それぞれの歩幅で前へと進みはじめた。
 そして、俺らは着実に違う道を歩みはじめている。だからと言ってバラバラになるわけじゃない。裕吾が、龍河先生が、この先どんな道を進もうと、俺らはちゃんとそばにいて繋がっている。
 理由なんてないけど、裕吾はとんでもない未来を作るんじゃないかって、なんとなくそう思った。

≫≫ 二月へつづく


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