最近の記事

母親の記憶

なんの用事だったか、母親と近所のフードコートにいた。わたしは成人していて、帰省した時だったと思う。ドトールかなんかでアイスココアを買ってもらった。細かい氷がぎっしり入って、表面に小さなソフトクリームが乗っていた。その丈の高いグラスをお盆に乗せて運んでいたのだが、母親の目の前で倒してしまった。「怒られる!」ととっさに身構えた。しかし母親は「せっかく買ったのに!」とは言ったが、わたしに怒ることはしなかった。 母親はもうあの頃にはしじゅう頭がぼんやりしていて、発話に詰まるし、まっす

    • 祖父が亡くなった

      祖父が亡くなった。 人づてに聞いたから詳しいことはわからない。 祖父はたしか太平洋戦争開戦の年に生まれたので、82歳のはずだ。なので、まぁ平均的な死を迎えたのではないかと思う。 あの世代の人にはめずらしく背が高く、身体が骨ばっていて、彫りの深い顔立ちの男性だった。 祖父に関する話で印象深いのは彼の子どもの頃の話だ。祖父の父親は復員兵で、妻(祖父の母)を早くに亡くし、心か身体かの傷がどうにも癒えず、祖父をふくめ4人の子どもを長屋のすみに置いたまま、女性をつぎつぎと引っ張り込ん

      • 母親が自殺した

        お母さんが死んだ。 わたしのお母さんはものすごいヒステリックで、わたしが子どもの頃ものを落としたり足音を立てたりすると頭がぐわんぐわんするくらいの声量で怒鳴って、頭を叩いてくる人だった。お母さんの機嫌を損ねないように顔色を伺っていつもニコニコしてできるだけ音をたてないように暮らすのが習い性になった。 でもわたしが中学生になって、家にあんまりいないようになって、お母さんがガラッと変わった。あんなにキレてた物音におびえるようになって、叩いたり怒鳴ったりしたわたしにそばにいてほ

        • ジェニー・オデル(2021)『何もしない』早川書房

          『何もしない』を読み、なんか中高生向けの「スマホに注意!」みたいなブックレット読んでるような残念な気分になったのでその話をする。 筆者はアテンション・エコノミーといって、我々の時間と注意力がIT企業を儲からせるための資源になっている状態に問題意識があるようで、そこから抜け出すために、「今ここでの拒絶」を推奨する。そうすれば人間の有限の注意力を他者や社会問題に振り向けることができ、もっと有意義なことができるはずだという。 いや、本当に正しい。本当に正しいことを書いてるんだけ

        母親の記憶

          『DUNE/デューン 砂の惑星』をみた

          あんまりおもしろくなかった。超巨大建築や超広大空間と小さな人々を引きで撮るヴィールヌーヴのお得意のやつはあいかわらず見応えがあるが、それだけという感じ。 シェイクスピア史劇のようなもってまわった言い回しや意味深な警句が、作品全体のテンポと噛み合っていないように思う。キャラクターへ親しみも感じさせないうちにみんな退場させるが、そのかわりに勢いがあるかというとそれもなく、腰が落ち着かない。飛び立つ船団を遠目で見守る(おまえも乗るんだろ)シャラメのシーンとか本当にいらないし、夢を

          『DUNE/デューン 砂の惑星』をみた

          最近のこと

          最近はずっとぼんやりしていて、朝起き縦になりメシを食いトイレしてれば日が暮れていくという具合だ。屋外は激烈に夏だが、直射日光と疫病があるので外には出ない。昔から夏の気配が好きで嫌いだった。 小説を読んだ。『三体』はKindle版が黒暗森林の下巻まで半額になっていたので買って、勢いで死神永生も正規の価格で買い、読んだ。破壊的なセールになっていなければわざわざ読まなかっただろう。わたしはとくべつSFが好きではない。本の話をするのに値段のことをまず言う程度の愛情しか持ちあわせてい

          最近のこと

          ヴィルジニー・デパント『ウィズ・ザ・ライツ・アウト』

          ヴィルジニー・デパント『ウィズ・ザ・ライツ・アウト』は「現代版・バルザック『人間喜劇』と称される文芸三部作」である。『人間喜劇』は世界史の文化史問題でも問われる古典的作品で、フランス文学をすこしでも齧ったことのある人なら聞いたことはあるだろう、というレベルの作品。 それの「現代版」というのだから大きく出たなと思い読み始めたが、たしかにこれはおもしろい。のちに世界史の問題になるかはわからないが、著者はゴンクール賞などの大きな文学賞の審査員もつとめる作家で、現代フランス文学界では

          ヴィルジニー・デパント『ウィズ・ザ・ライツ・アウト』

          エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』

          『サハリン島』を読んだ。大変おもしろかった。 内容はまったくカオスで、実現されるべき未来の存続のために未来が過去(作中の現在)に侵入してきて、望ましくないものは排除されるっぽい。それで、今ってサハリン(樺太)がヤバいことになってるからこのままじゃヤバいかもしれない。だからとりあえずどんな感じになってるのか見に行く。という話だ。 サハリンがヤバいことになっているのは、これより前に核戦争が起きて欧米が死んで、生き残った工業国が日本だけだから。あとユーラシア大陸のほうで謎のゾンビ

          エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』

          布団を捨てました

          わたしにはお母さんがいて、この人というのが困った人で、平たくいえばまぁマイルドめな虐待を受けていたんですけど、10年間くらい。お母さんはわたしの物音とか挙動とかがいちいち気に入らないらしくて、小6の女の子なんていうのはおしゃれに目覚めたりもするものですが、夜に洋服を鏡の前で試着していると、その物音で起こされたと怒鳴り込んでくることがありました。別室で寝ていたはずなんですが、うるさかったんですかね。その時はなんだかそこら辺に置いてあった紙袋で背中をしこたま叩かれた記憶があります

          布団を捨てました

          ノーマン・オーラー『ヒトラーとドラッグ』

          映画『ジョジョ・ラビット』を観てきたのでうさぎの話はせず『ヒトラーとドラッグ』の話をする。 まあ要するにストイックなイメージのあるヒトラーが実はとんでもないヤク中だったという本。戦間期、ポーランド侵攻からソ連侵攻(1939~1941)、独ソ戦から東部戦線崩壊くらいまで(1941~1944)、その後、という時系列順4部構成になっていて読みやすい。以下おもしろかったところ。 1部:国民ドラッグ「メタンフェタミン」(1933~1938)そもそも覚醒剤のメタンフェタミンを発見した

          ノーマン・オーラー『ヒトラーとドラッグ』

          寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』

          マジックリアリズム寺尾によって「マジックリアリズムの土台を作った」と紹介されたグアマテラのミゲル・アンヘル・アストゥリアス(1899-1974)とキューバのアレホ・カルペンティエール(1904-1980)だが、とくにカルペンティエールの紹介に笑ったので引用しておく。 カルペンティエールの生い立ちは、インタビューなどで本人が眉唾ものの逸話を繰り出して事実を歪めたせいで今も謎が多いが、現在では、父はフランス人、母はロシア人、出生地はハバナではなくスイスのローザンヌと確認されてい

          寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』

          Midsommarを観た

          ネタバレを含む。でもホラーのネタバレとは…? よかったところオープニング これはもう完全に良い。主人公の女性の妹が両親を道連れにガスを引き込んで自殺するという引くほど陰鬱なエピソードから始まるのだが、家族の訃報を知った主人公が恋人の膝にとりすがって慟哭している様へカメラが寄り、観客の視線は彼らを通り越していったん窓の外へ出る。夜の吹雪からタイトルバックが浮かび上がるが、カメラはまた屋内へ戻り、そこではすでに夜が明けていて、家族を喪った主人公の日常が続く。この内/外ー日常/非

          Midsommarを観た

          ウラジーミル・ソローキン『氷』『23000』

          ソローキンは世界のグロテスクなパロディをずっとやっているのだと思う。物語がズタズタに分断された文章で語られるのはそのためなのだ。個々のタイムラインに閉じこもり、人々が直接触れ合うことを放棄し、孤独な夢を見続けている群衆、ずっとそれをやっているのだろう。 チェーホフはドストエフスキーら大作家が亡き後の世紀末に現れた新進気鋭の作家だが、彼は長編小説を書かなかった。1861年の農奴解放令で旧来のヒエラルキーを失い、根本的になにかが変わったロシアの世界に、人々が同じものを見て同じ物

          ウラジーミル・ソローキン『氷』『23000』

          『ジョーカー』を観た

          『ジョーカー』を観た。実質永山則夫だと思った。以降ネタバレ含む。 よかったところ・イライラの末の初めての殺人(仕事帰りでたまたまピエロ姿だった)がなんかヒーロー視され、いつの間にかピエロがデモ隊のアイコンになっていたというしかけ。よく考えたなと思う。 ・デモ隊に混じっていけない主人公。わたしは何かあるとすぐデモだ暴動だと言うし今なら香港の状況も無責任に雑に「ええやんけ」と思っているが、実際ああいう群衆での行動に乗っていける側ではないし、主人公含め内気な人間というのはそうだろ

          『ジョーカー』を観た

          ウラジーミル・ソローキン『ブロの道』

          ツングースカに隕石が落ちた日(1908年6月30日)、裕福な資本家の家に生まれた主人公は幸福な幼年期を過ごすが、ロシア革命と戦争の動乱で家族を喪ってしまう。20年後、隕石探索隊に加わった主人公は当地で氷の塊を発見し、太古の記憶を思い出し心臓に「光」を感じる。主人公の正体は人間ではなくはるか昔から存在する「光」だったのだ!(ハ?)2万人以上の「光」を宿した仲間を見つけ地球を滅ぼすことが自分の使命と自覚した主人公は「兄弟」探しを始める…というストーリーの3部作の1作目。 ツン

          ウラジーミル・ソローキン『ブロの道』

          ウラジーミル・ソローキン『テルリア』

          ロシア崩壊後の世界を描く近未来小説。小国が乱立し、ワッハーブ派(イスラム教スンナ派に属する)に蹂躙されたヨーロッパでは十字軍がロボットを駆り、獣の頭を持つ獣人が闊歩し、「電脳」と呼ばれる変幻自在のスマホのようなものが普及している…というトンデモな細部がなんの説明もなく明かされていく。それでもなんか伝わってくるのがふしぎ。 聖堂にはまるで映画館のように柔らかく深い肘掛け椅子が何列も並んでおり、半ば身を横たえることすらできた。これは快適だった。広げた椅子からはミケランジェロの

          ウラジーミル・ソローキン『テルリア』