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寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』

マジックリアリズム

寺尾によって「マジックリアリズムの土台を作った」と紹介されたグアマテラのミゲル・アンヘル・アストゥリアス(1899-1974)とキューバのアレホ・カルペンティエール(1904-1980)だが、とくにカルペンティエールの紹介に笑ったので引用しておく。

カルペンティエールの生い立ちは、インタビューなどで本人が眉唾ものの逸話を繰り出して事実を歪めたせいで今も謎が多いが、現在では、父はフランス人、母はロシア人、出生地はハバナではなくスイスのローザンヌと確認されている。本人は、ハバナ生まれのハバナ育ちで、幼少期から黒人農夫と接触していたと生涯繰り返し強調したが、実際には少年期のかなりの期間をフランスで過ごしたようだ。

作家にウソつきが多いのはまあそうだが生い立ちくらい正直に答えればいいのに…

補足しておくとこの二人はともに祖国で左翼思想にかぶれ、時の権力者を中傷したかどで投獄の危険があり(というかカルペンティエールはじっさいに少しの間捕まっている)、そこで1920年代のパリへ渡る。シュルレアリズム華やかなりし頃のパリで二人の若者が影響を逃れようもなく、書いた小説が『失われた足跡』(1953)や『グアマテラ伝説集』(1930)であった。
『グアマテラ伝説集』は特にヴァレリーに「西欧的視点からインディオの世界を描くのではなくその内側から驚異的現実を描いた」として絶賛されたらしいが、まぁそもそも小説を書いたりパリに出ていける時点で祖国では相当の「インテリ層」であり、彼らが描く現実(マジックリアリズム的世界)の「中」から書けているとは言うのは難しい。
寺尾はこのあたりのことを、『グアマテラ伝奇集』に対して「黒人は教化の対象と考えていたアストゥリアスがこのような作品をかけたのはあくまで遠い過去に時代を設定して『伝記的現実』を構築したためともいえる。」、カルペンティエール『失われた足跡』に対して「驚異に生きる現地の視点は放棄され、西欧の文化に生きる知識人が現地の川を登ることで時代をもさかのぼっていくような驚異に接するという方法でこの作品は描かれている。」と指摘している。
「路地」をひとり抜け出して大作家となった中上が罪悪感のようなものを抱えていたという話に似ていなくもない。かくもものを書くというのはその中に埋没していてはできず、冷徹な距離を保持することを求められる営為なのだろう。

アルゼンチン幻想文学

さて中米・カリブ地域から(もしくはパリから)マジックリアリズムが生まれたころ、アルゼンチンには一人の異常者がいた。みんな大好きホルへ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)である。

「アルゼンチン幻想文学」とも分類される彼の著作はマジックリアリズムと混同されるのかもしれないが、幻想文学は「現地のみならず西欧の知見も取り入れ、現実とはまったく異なる純粋な虚構を築こうとするもの。ここでの対立は『現実』対『虚構』」。対してマジックリアリズムは「西欧からみた驚異を基盤に文学を立ち上げようとする。ここでの対立はいわば『西欧的普通』対『現地的驚異』」ということになるらしい。小説のジャンルなぞ無視して好きに読めばよいと個人的には思うが、しかしこう言われてみると一定の説得力を感じる枠組みではある。ボルヘスにしても父親は英語を教える教師兼弁護士という、ブエノスアイレスのめちゃめちゃ教養ある家庭の出身だ。

アルゼンチン人がこれほど現実からかけ離れた(というか現実に対抗できるほどの強度を持った)虚構を希求した理由はその土地の歴史に求められる。1816年にスペインより独立を宣言して以来、アルゼンチンの指導者は広い国土の調停に追われたが、1880年にようやくブエノスアイレスを首都と定め、中央集権的なシステムを確立することに成功した。ヨーロッパへの牛肉の輸出で経済発展がすすみ、好景気をみたアルゼンチンが行き詰まったのは1929年、世界恐慌のおりである(ちなみにこの年までの50年間でアルゼンチンには約230万人の移民が流入しているらしい。この数字を見てなぜかトルコのエルドアン大統領がクルド人襲撃に対して非難するなら「難民を360万人送る」と言ったニュースを思い出した。人間がアホのような数にまとめられているというのはそれだけでいつも少しおもしろい)。
そうしてむかえた1930年からの10年は「忌まわしき10年間」と呼ばれ、クーデタで民主主義は崩壊しブエノスアイレスは荒廃した。

ヨーロッパに頼ることもできず、といって労働者階級と連携するわけにもいかず、まして実体のないガウチョにも自己同一化できない知識人層にとって、救いの場所はもはやフィクションのユートピアしかなかった。

これは松尾による当時のアルゼンチン人の自意識の解説だが、わたしは夏目漱石『それから』やんけ…となった。やはり非・西ヨーロッパ地域の遅れて「発展」した国の知識人の心情というのは似るものなのかもしれない。

こうした精神的な需要から生まれたアルゼンチン幻想文学であるが、この背景にはボルヘスら作家に多大な影響を与えたこれまた異常者、マセドニオ・フェルナンデス(1874-1952)がいる。

中でもとりわけ大きな影響力をもったのは奇人マセドニオ・フェルナンデスだった。エリート知識人の集まる文学談義におけるその突飛な言動が人気を博したほか、後に『エテルナの小説博物館』1967というタイトルで死後出版される草稿を筆頭に、マセドニオがあちこちに書き散らかした文章は当時の作家に広く読まれており、とくにボルヘスやビオイは、文学におけるフィクションとリアリズムの分離を旨とするそのテーゼに共鳴した。
『小説博物館』を見れば分かる通り(作品の半分以上が序文)、マセドニオの作品は往々にして内容よりテーゼが先行し、リアルな要素や感情的局面を排しながら読者をフィクションに引き込んで酩酊状態を経験させるという、矛盾に満ちた目論見を達成しているとはいい難い。だが、そこに打ち出された提言、とくに現実世界から離脱する手段としての文学の存在意義は、忌まわしい10年による現実世界の危機に怯えていたアルゼンチンのエリートの憧憬に応えるものだった。

まあ、サロンに入り浸る、なぜか生活に困っていない遊民という感じのおじさんだったのだろう。奇人と紹介されるのはなかなか憧れる。

余談だが20世紀初頭のロシア、ペテルブルクにアレクセイ・レーミゾフという作家がおり、彼は「猿類大自由院」という「秘密結社」を結成し同時代の作家たちを会員にしていた。
彼を敬愛する作家、哲学者、画家たち(と多少の変人も含めて)はみな会員=叙勲者にされた。〈森と自然界の帝王アスィカ1世(レーミゾフ自身)とすべての猿は忌まわしき人類の偽善と奸策を一切許さず〉とするマニフェスト及び入会規則があった。」とは「猿類大自由院」の説明であるが、会員はローザノフ、シェストーフ、ゴーリキイ、アフマートワ、ベールイ、アレクセイ・トルストイ(SFのほう)などそうそうたる顔ぶれだ。
ええ大人がアホらしくはなかったんかと思うが、作家が異常者のもとに群れて「薫陶」を受け、相互に影響を与えるという現象はそこそこあるもののようだ。

このアルゼンチン奇人のもとにいたのはなにもボルヘスだけではない。上の引用にも出てきたアドルフォ・ビオイ=カサーレス(1914-1999)という作家がいる。代表作は『モレルの発明』で、これまたアルゼンチン幻想文学の決定的な作品となっているが、笑ったのはボルヘスによるビオイの扱いである。

『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』において「鏡とセックスは人間を増やすがゆえに忌々しい」というエセ引用を披露する役を与えられたビオイ

そんな悪いオタクみたいなことを友人に言わせるなよというところだが、ビオイはじっさいに「三面鏡の内側で無限に複製される映像をヒントに、人間を寸分違わず三次元に複製する機械を考案し、ウェルズにオマージュを込めて、SF的小説を書こうと思い立っ」て『モレルの発明』を書いたという。
これを眺めていると異常者のもとに性格の悪い異常者が群れてできたのがアルゼンチンの幻想文学なのかという感じだが、しかしこうした交流が優れた作品を生んだのも事実である。

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