ノーマン・オーラー『ヒトラーとドラッグ』
映画『ジョジョ・ラビット』を観てきたのでうさぎの話はせず『ヒトラーとドラッグ』の話をする。
まあ要するにストイックなイメージのあるヒトラーが実はとんでもないヤク中だったという本。戦間期、ポーランド侵攻からソ連侵攻(1939~1941)、独ソ戦から東部戦線崩壊くらいまで(1941~1944)、その後、という時系列順4部構成になっていて読みやすい。以下おもしろかったところ。
1部:国民ドラッグ「メタンフェタミン」(1933~1938)
そもそも覚醒剤のメタンフェタミンを発見したのは日本人である。これだ。
これに目をつけたドイツの製薬会社が「ペルビチン」という名前で商品化したのが1938年とのこと。
しかし、そもそも以前からベルリンには薬物汚染が広がっており、「コカインやモルヒネを描いた映画が映画館にかけられ、街角でそうしたドラッグはすべて処方箋なしで入手できた。ベルリンの医師たちの40%がモルヒネ中毒であったともされている」。この壊れっぷりを表現した文章がよくて、
「すべてが毒物による酩酊の中で、もつれ合い絡まりあった。この時代のアイコンとも言うべき女優でダンサーのアニータ・ベルバーは、朝食用に白薔薇の花びらをクロロホルムとエチルアルコールのカクテルに浮かべて飲んだという。」
朝食にクロロホルムとエチルアルコールに浮かべた白薔薇。カッコイイ。
こんな調子だから当然ペルビチンも爆発的に流行るわけで、本書には「メタンフェタミン入りプラリネ」のポスターまで掲載されている。作者はこの流行を「発展を続ける能力主義社会を示す兆候」と分析するのだが、ドラッグに汚染された霞が関を知っている我々からしてもうなずける話である。
さて同時期ベルリンにはテオドール・ギルベルト・モレルという医者がいた。「彼に生きがいを感じさせてくれる瞬間、それは治療を受けた患者に笑顔が戻り、気前よく治療費を払い、そしてできることなら病気が早く再発してまた戻ってきてくれるとき」なる人物だったのだが、人の紹介でヒトラーを診ることになる。
胃痙攣や消化不良に悩まされていたヒトラーにモレルがムタフロ-ル(「非病原性大腸菌株」ですって)を処方したところ体調は改善し、以降モレルはヒトラーの主治医に迎え入れられる。この大腸菌株、じつは「バルカン戦争の際に戦友の多くが腸の不調に悩まされたにもかかわらず、1人だけ元気だったある下士官の腸内細菌叢から採取されたもの」で、「それらの細菌は生きたままカプセルに入れられ、患者の腸内に住み着き、増殖し、腸の不調を引き起こす可能性のあるものも含め、他のすべての細菌株に取って代わった」らしい。
「性格は『腸内細菌』によって決まる」という記事があったが、この考えでいくとヒトラーは1936年の時点でもはやヒトラーではなかった可能性があるわけですね。
第2部:ジーク・ハイ-電撃戦はメタンフェタミン戦なり(1939~1941)
ドイツ国内を席巻したペルビチンは当然ながら国防軍も汚染した。この薬剤の驚異の力が1940年のフランス侵攻を可能にしたと作者は主張している。
将軍エルヴィン・ロンメルの異常な速度を留保なしに「メタンフェタミンの典型的な症状」とするところなどは強引な感じがあるが、この戦いに同行した軍医中佐オットー・F・ロンメルという人物の従軍日誌に、メタンフェタミンへの言及が多々散見されることを主な根拠とし、のちのノーベル賞作家ハインリヒ・ベルが実家の両親にペルビチンを無心している手紙を参照するなど、全体としての納得度は高い。「薬剤によって加速させられた軍隊の異常な進軍」など擦られつくして見向きもされないネタだが、現実は小説より~である。
あの謎のダンケルク「停止命令」(連合国軍をフランスの港町ダンケルクまで追い詰め包囲しておいて、進軍を停止させるという謎ムーヴ)も、「アヘンによって多幸感に満たされたゲーリングの頭の中」で考え出されたという書き方がされるのだが、そもそもわたしはゲーリングがモルヒネ中毒者だったということを知らなかった。「メーリング(ゲーリングとモルヒネからの造語?)」と呼ばれていたくらい知れた話らしく、Wikipediaにも同様の記述がある。1923年ミュンヘン一揆のさい受けた銃弾のせいで依存症になっていたそう。
さて、こうして人工的に加速させられた装甲車軍団が敵を蹴散らして進むあいだ、総統閣下の主治医は何をしていたかというと、大本営の中で孤立していた。そもそも軍人ばかりの司令部で文民モレルは異分子であり、なんとか馴染もうと「自らデザインして淡い灰緑色の襟章の上に金のアスクレピオスの杖を縫い込んだ、奇抜な制服を仕立てさせた」など見当違いの努力を重ね、冷笑されたりしていたらしい。このころ嫁さんに送った手紙が泣かせる。
「お偉方はみんな忙しくしているので、自分はいつも一人ぼっちなんだ。(中略)総統閣下の仕事でなければ、いいかげん家に帰りたくなることもある。だって私はもう54歳になるんだよ。」
ちょっとかわいい。
第3部:ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医(1941~1944)
1941年6月のソ連侵攻以来悪化する戦況からヒトラーは二重に守られていた。ヴォルフスシャンツェ(当時の大本営、現在のポーランド北東部に位置する湿原)に立ち込める霧と薬物によって。
ヒトラーは、もはや世界情勢を理解できなかった。本人の言葉を借りると、ヒトラーはバルバロッサ作戦で『これまで見たことのない闇の部屋の扉』をこじ開けてしまった。『扉の向こうに何が潜んでいるのか知りもせずに。』だがモレルが記したように、闇は実際にヒトラーを取り囲んでいた。『それ以外は陽の光の届かぬブンカー生活だった。』この闇の中で、この隠棲した独裁者の心を動かすことはもはや何もなかった。こうして彼は現実を無視することができたのだ。ヒトラーが閉じ籠もった装甲車のように硬い殻を突き抜けることができたのは、ホルモン剤の静脈注射を行う主治医の注射針だけだった。
これと同様の記述は、1944年に国防軍が東部戦線からの撤退を余儀なくされ、ヒトラーが逃げ込んだドイツ東南部バイエルン州の別荘についてもなされている。
たえず空襲の恐れがあったため、例の有名なパノラマ窓にはカムフラージュ用のネットがかけられていた。誰もがその永遠の薄闇の中で日々をやり過ごし、暖炉の前のベンチや高価な肘掛け椅子に座り、ほこりだらけのゴブラン織りの壁掛けをじっと見ていた。自然光を恐れる吸血族のような人々。外で日差しがさんさんと降り注いでいても、屋内には電灯が灯され、分厚いカーペットはかび臭い匂いを発していた。
こんな曖昧な人間たちの曖昧な命令でアホほど人が殺されたことを思うとどうにもやるせないのだが、それはそれとしてわたしは文芸書にまぎれるこうした叙情的な記述が大好き。
まあとにかく1941年以降ヒトラーの薬物依存が本格的に強まったと作者は主張しているわけである。主治医モレルの日記によるとヒトラーはこの霧深い土地で赤痢にかかり、ドランチンという麻薬を投与されたらしい。陸軍上層部を信用できない総統閣下は一日も休養を取ることができず、二度とおなかいたで倒れるなどということのないように「予防的な投与が増えていった」ことが日記からわかるそうだ。理解できる話ではある。
この主治医はしかし抜け目ないところがあって、占領下のチェコ・スロヴァキア、オロミュッツでとんだ大事業を興している。ユダヤ人から取り上げた油脂加工工場を「臓器製剤工場」に改造して、製薬会社を建てたのだ。この総統閣下お気に入りの医者のもとへ、占領下のウクライナ中から家畜の内臓が集められた。
悪臭を放つ臓物はそこでアセトンとメチルアルコールを加えられた大鍋で何時間も煮立てられた。有毒成分が分留されると、蜂蜜のようにねっとりとした褐色の液体があとに残った。これを水で薄め、アンプルに詰める。1日1万個。モレルご自慢の製品「ハンマ社製肝臓薬」の完成だ。
なんというか、祝祭感がある。世界のいっぽうでは戦争でバッタバッタと人が死んでいき、もう片方では動物の臓器が大鍋でグツグツと煮られていた事実になぜか興奮する。
さて、大忙しの医者モレルは患者Aことアドルフ・ヒトラーの他に患者Bもかかえており、これがヒトラーの愛人のエーファ・ブラウンである。モレルは当然のように彼女にもヒトラーと同一の薬物を投与していた。
これは言葉の真の意味において、薬物に2人の間を取り持たせるためだった。勝利に見放され、ますます長引くこととなった戦況会議の合間に、ひとときの性の勝利を味わってもらいたい、そうモレルは考えたのだ。いずれにせよ、巷間の噂とは異なり、ヒトラーはこちらの戦いにも大いに勤しみ、それどころか婚外関係のほうが様々な点で勝っているとまで主張した。なぜならそれは、2人の間の自然な性的吸引力に根ざすものであるからというのだ。
医者が本当にそう考えたのかはわからんがヤクキメセックスに耽る権力者というのはイメージ通りではある。
おもしろかったのはこのあたりだった。以降、ヒトラー暗殺未遂事件で負った怪我を機にヒトラーの薬物依存がより重篤になるとか、もはや人間魚雷的な作戦に頼るしかなくなった軍の訓練中にODで少年の命が多数失われたとか、まあそうだろうな&陰鬱…な話が続く。
訳者解説では「ヒロポンの生まれ故郷・ニッポンで自著が翻訳されることをオーラー氏はことのほか楽しみにしておられた」という記述があり、正直これに一番ウケた。ヒロポンの子孫の自覚、持っていこう。
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