見出し画像

ウラジーミル・ソローキン『氷』『23000』

ソローキンは世界のグロテスクなパロディをずっとやっているのだと思う。物語がズタズタに分断された文章で語られるのはそのためなのだ。個々のタイムラインに閉じこもり、人々が直接触れ合うことを放棄し、孤独な夢を見続けている群衆、ずっとそれをやっているのだろう。

チェーホフはドストエフスキーら大作家が亡き後の世紀末に現れた新進気鋭の作家だが、彼は長編小説を書かなかった。1861年の農奴解放令で旧来のヒエラルキーを失い、根本的になにかが変わったロシアの世界に、人々が同じものを見て同じ物語を信じている(ちょうど『アンナ・カレーニナ』のような)一大ロマンはもはや適当ではないと考えたのだ。そうして選んだ演劇や短編小説という形式の中で彼はいわゆる「都市生活者」を描き、歴史に名を残す作家となった。チェーホフが生み出したのは単なる軽妙なよくできた短編小説ではなく、新しい時代に即した新しい語り方だったのだ。

ソローキンは三部作からなる『氷』という一大長編をものしたが、中身はやはり分断の時代に即した分断の言語だ。戦前~WW2までを扱う『ブロの道』は統制された一人称で語られるが、ソ連成立~崩壊~現代に舞台を移した『氷』『23000』では語りは複雑化し、朗々と一人の声が響くというかたちを放棄する。とくに『氷』前半部の光の兄弟となる人物らの覚醒を描いたパートでは作家お得意の短文の連続や、時間と場所と人物を提示しおもむろにキャラクターを動かすという、ト書きのような手法をとっている。

04時15分、コマールとヴェーカの貸しアパート
引っ掻き回された浴室、ところどころ欠けた青いタイル、水が流れた跡が錆びついている浴槽と洗面器、古いランプのくすんだ光、たらいに浸された汚れた下着。ラービンとイローナは裸で湯があふれる浴槽に浸かっていた。イローナはラービンに跨り、煙草を吸っていた。性器が膣に入っていた。彼女はゆっくりと動いていた。ラービンはなかば我を忘れ、目を閉じたり開けたりしていた。

そういえばソローキンの西側映画のお気に入りは『パルプ・フィクション』らしいが、同じパートで展開するギャングの内部抗争劇での意味性を欠いたスプラッターはさながら『パルプ・フィクション』みがあった。物語でなく語りの方法で幻惑するという姿勢は共通しているように思える。

『23000』ではさらに語りは複線的になり、いよいよ全信徒を目覚めさせんとする光の兄弟団と、その目覚めの儀式(心臓を氷のハンマーでぶっ叩くという極めて野蛮なもの)で生き残った一般人という2つの視点から交互に物語が展開することになる。光の兄弟団幹部の老婆と少年の濃密な描写と被害者のアメリカ人女性のさっぱりした語りの落差たるやすごいものがあるが、他にも兄弟団の最後に覚醒する3人の人物というのがおり、三者三様のまったく異なった語りを展開してくれる(3人のうちのひとりの殺し屋は日本に滞在している設定で、実際に東京外大で教鞭をとっていたソローキンの経験が垣間見える。東京を「地震を待ちながらたたずんでいる」というように描いたり日本人女性を「日本の女性はフェラができない」と描いたり、そんなふうに映ってたのか…というのがある)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?