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「少しは哲学しよう。」


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では、本題。


中島義道著・「哲学の教科書」を読んだ。

客観的でわかりやすく・品が良く・立派なものとして語る哲学書は多いけど、

著者の考えでは哲学とは、

病的なもの・凶暴性・危険性があり、自分の体験に沿って語らなければならないという。

生や死をはじめとした様々な問に苦しめられ考え抜いた者が、

アリジゴクのように他人を引きずり込もうという悪趣味な書こそ「本物」の哲学の教科書だと。

そんな考えの著者が書いたこの本は、

哲学とはなにか?哲学ではないとはなにか?を知ることができ、純粋な問いを持つことの重要性を感じることができる。



哲学はべつに、深いことではない。

むしろ、深いという言葉を使ってくるヤツは自分が無責任だといっているようなものだから気をつけたほうがいい。

見るべきは深さではなく表面で、そこに秘密が隠されているんだ。

つまり哲学とは、

足元に転がっている単純なことを徹底的に疑って考えることだ。

例えば、

「生きるとは?」「死ぬとは?」といった当たり前にあることを考えたり、

「自分は存在するのか?」「なぜ自分の腕を動かすことができるのか?」といったことも哲学だ。

そのためには、素朴な疑問を持ち、「なぜ?」とすぐ聞いてくる子どものような純粋な目をもたなければいけない。

そして哲学のいちばんの敵は、

疑問があるのにぶつけない、
何も感じていないのに感じているフリをする

といった、「わかったつもりになる」ことだ。


だから、

難問をずっと抱えるチカラ
いつも疑問をもちその不安定さに耐えるチカラ

が必要なんだ。

その疑問が何十年後かに解決するかもしれないからね。



純粋な疑問を持つ。わかったつもりにならない。

このことが哲学にとって重要なことだとわかると、多くの人はもっと哲学をしたほうがいいんじゃないかと思った。

だって、みんな純粋な疑問どころか疑問を感じてすらいないでしょ。

わかったつもりにならないどころかわかろうともしないでしょ。

疑問を持たない、わかろうともしないってもはや思考停止だからね。



疑問を感じても聞かない→言語化しなくなる→疑問を感じなくなる

と書いてあったように、疑問を感じなくなる前にはプロセスがあるんだ。

そして疑問を感じなくなった先に、

思考の死(思考停止)が待っていて、それは哲学の死でもあるんだ。


このプロセスってかなり正確だと思うんだよね。


わかりやすく書くと、

疑問を感じても聞かないってことは、自分で調べないということ。ググりもしないということ。

調べるときには言葉を使うんだから、調べなければ言語化能力は鈍くなる。

言語化能力が鈍くなれば自分の疑問・感じていることだって上手く言葉にできなくなる。

つまり、言葉を使えないってことは感性も鈍くなるんだ。



「調べない」「言語化しない」ことは個人的問題かもしれないけど、

広く考えると、それは日本の社会がつくりだす風潮が原因じゃないかな。

だって、日本社会は同調圧力の風潮があるからね。

それに、示された答えが絶対だという答え合わせ教育をしているから疑問を感じにくい。

もし感じたとしても、「それが答えだから」で終わり。

本の中でも書いてあったけど、

今の日本社会は疑問を持ち議論をしたり何かを語らせる社会ではない。
そもそも、空気を察して語らせないようにする社会なんだ。

つまり、「疑問を感じても聞かない」を推し進めているんだ。

そりゃ、言語化が下手・感性が鈍い・疑問を感じない・思考が死んでる奴が多いわけだ。



だから、少しくらい哲学したほうがいいんだよね。

ニュースやSNSの情報を鵜呑みにしたり、誰かの言葉をコピペするだけじゃダメなんだよ。

少しくらい疑問に思って、少しくらい自分で調べて、少しくらい自分の言葉を使わないと。


思考が死んだらただの操り人形だ。自分の人生ではない。


操り人形がイヤなら、

疑問を持とう。

調べよう。

言葉にしよう。

哲学しよう。


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