伊井直行

当note当初の目的である「常陸国風土記」現代語訳を完成した後も、note継続中。一方…

伊井直行

当note当初の目的である「常陸国風土記」現代語訳を完成した後も、note継続中。一方、小説家は休業継続中。最新作は『宮殿のアルファベット』(Kindle版)。レワニワ書房とレワニワ図書館の従業員。生年公示協会会員(1953年生まれ)。古い経歴はWikipediaにあります。

最近の記事

弥太郎日記の検証文献リスト

 文献リストを作り始めて間もなく、やらなければ良かったと後悔しました。長いリストになりそうな上に、奥付を確認するのが思ったより面倒な作業だったからです。上の写真のように、参照した文献の多くは奥付を含めて必要な部分だけコピーしておいたのですが、実際に書き始めると奥付の内容の確認を改めて取らなくてはならないケースが少なくありませんでした(ネット上で作業を完結できるのは有り難いことでしたが)。  これだけ多くの日記を見ても、岩崎弥太郎の日記に似た内容のものは探し当てられませんでし

    • 弥太郎の日記「瓊浦日録」を「完走」

      「瓊浦日録」の紹介を半年前(2023年11月4日)に始めて、日記の最後の日である万延元年(1860年)閏三月十八日までやっと終えることができました。一ヶ月分としては他より短いのですが、これを「幕末青春日記」のマガジンとしてまとめました。一日始まりで順番に読めます。  紹介を終えるのが想定していたより大分遅くなったのは、持ち前の怠惰な性質に加え、遅れても誰にも非難されないことが大きく作用していました。何か理由がつくと、すぐサボってしまうのです。しかし、別の事情もありました。紹

      • 大吉原展の光と影

        1.芸大美術館へ  先週木曜日(4月11日)の午後、大吉原展を見に東京芸術大学美術館へ行きました(上野の桜は盛りを過ぎていました)。岩崎弥太郎日記を理解するために、遊郭に関する知識を補おうというのが一番の目的です。江戸時代にも遊郭にも以前から興味があったわけではないので、参考になることがあればと思ったわけです。また、喜多川歌麿が好きなので、その展示も楽しみでした。  入場料二千円。平日午後というのに結構混んでいて、若い観客、それも女性が多いのが印象的でした。美術展は、平日

        • 言文一致と日本語標準形

          1.小さくて大きな違い  言文一致とは話し言葉と書き言葉を一致させることではなく、話し言葉を元にした口語の文体を確立することだった、と前回述べました。今この文章を読んでくれている方は両者の違いを分かっていただけると思いますが、中には、なにが違うの? 小さな違いでは? と感じる人もいるかもしれません。私が言文一致について多くを学んだ野村剛史氏の著書から、明治時代、口語体が確立する前の文章の例を引きます。  明治前期には言と文とを一致させようとする様々な試みがなされ、上記のよ

        弥太郎日記の検証文献リスト

        マガジン

        • 常陸国風土記を旅する
          8本
        • 楽しい風土記
          16本

        記事

          言文一致という「言葉の罠」

          1.言文一致は誤解を生む言葉  noteに書いている人で、「言文一致」という言葉を知らない人はまずいないと思います。しかし、正しく理解している人は案外少ない可能性があります。私は間違っていました。この四文字熟語は実は誤解へと導くトラップなのです。私は罠にかかった後になって、誤解の「危険性」がかねてから指摘されていたことを知りました(後述します)。  私が何となく理解していた言文一致は、次のようなものでした。「明治時代、それまで古文(文語)で記されていた文章を話し言葉(口語

          言文一致という「言葉の罠」

          『「カギ括弧」のない時代に……』の記事を訂正します

          1.誤りの報告  何を今さらと思われるかもしれませんが、昨年5月25日に投稿した『「カギ括弧」のない時代に文字に記された声を聞く』の記事について、誤りの報告と訂正をします。誤りに気づいたのは数ヶ月前で、訂正しなくてはと思いながら時が過ぎてしまいました。何をどう間違えたのか、考え、調べる必要があったためです。まずは誤りの箇所を示します。タイトルと以下の引用箇所です。 2.明治より前に「 も口語文も存在した  何がきっかけだったのか思い出せないのですが、ある時、江戸後期の滑

          『「カギ括弧」のない時代に……』の記事を訂正します

          「幕末青春日記」に新マガジン 丸山通いの功罪

           岩崎弥太郎が最初の長崎滞在時に記した日記「瓊浦日録」の紹介が3月分まで進んだので、1日から順に読めるようにマガジンにしました。下記のリンクから、どうぞ。日記に記載はありませんが、この3月に元号が変わり安政7年から万延元年になります(西暦1860年)。  3月の日記では、花街丸山の水に慣れた太郎が、遊蕩にふけったかと思うと反省し、なのにまた遊郭に繰り出し、また反省して……を繰り返しています。ところで、弥太郎が初めて西洋人と接点を持ったのは、この懲りない丸山通いのおかげ(?)

          「幕末青春日記」に新マガジン 丸山通いの功罪

          弥太郎の書いた「リアルな」日記

           前回岩崎弥太郎の日記は「当時ほかに類を見ない」と書きましたが、そのとき私は当然、自分が別の「黒い白鳥」の出現を恐れるべき立場であることを忘れていました。江戸時代の教養ある人士が、遊郭での放蕩を記録した日記が家族や子孫の手によって秘匿され、どこかに眠っている可能性はないとは言えません。  ところで、岩崎弥太郎が自らの遊郭での行状を詳らかに記録したこと自体、確かに驚くべきことではあるのですが、彼の日記の価値はそこに留まるものではありません。自らの心神の状態に目を向けていること

          弥太郎の書いた「リアルな」日記

          「黒い白鳥」としての彌太郎日記

           江戸期の日記や旅行記を集中的に読み、岩崎弥太郎の日記は明治維新期以前に類例のないものという推測に私は自信を深めていました。最近になって、ドナルド・キーン『百代の過客 日記にみる日本人』と、司馬江漢『江漢西遊日記』及びその解説を読んでさらに確信を深めました。『百代の過客』にも、芳賀徹氏の解説にも、弥太郎日記は登場しないのですが。  弥太郎日記は、昭和50年(1975年)に翻刻が刊本として公開され、意欲さえあれば今でも誰もが読むことができます。しかし彌太郎の日記は、隠されてい

          「黒い白鳥」としての彌太郎日記

          遊郭都市長崎での成長記録

           前回、岩崎弥太郎がどのように丸山遊郭に深入りしていったか記すと予告しました。若い弥太郎について考える入口にしようと考えていたのですが、誤解を生む可能性があることに思い至り、道筋を変えることにしました。ただでさえ悪役にされがちな弥太郎に、長崎での遊郭通いのせいでさらに悪い印象が重なるのではと危惧したのです。  弥太郎の日記は彼自身の成長記録となっています。現代なら、長く書かれた日記から成長の過程が読み取れるのは普通のことでしょうが、明治維新期以前には(私の知る限り)他に類を

          遊郭都市長崎での成長記録

          長崎丸山、誘惑の引力

          1.初心だった弥太郎  岩崎弥太郎は、長崎到着から一ヶ月以上が過ぎた安政7年(1860年)1月17日、花街丸山の遊女屋へ、同宿の者たちに無理矢理連れて行かれます。ところが、誰も遊ぶのに十分な金を持たず、弥太郎を先頭に遊女屋から脱走しました。このとき弥太郎は若輩ではなく、二十代半ばという一人前の年齢でした。  弥太郎がもっと若い時期、江戸に留学した際には、宿場女郎の本場である東海道を通った時にも、吉原のある江戸滞在時にも、遊女と遊んだ形跡はありません。当時は貧乏だったでしょ

          長崎丸山、誘惑の引力

          岩崎弥太郎の露悪趣味と正直な日記

          1.弥太郎の露悪趣味  岩崎弥太郎の遊郭での豪遊は、弥太郎について調べ始めたらすぐに誰もが知ることになります。一方、同時代の実業界のライバル渋沢栄一の女好きは、別に秘密ではありませんが、それほど知られていません。無数の愛人、子供の数が何十人といった話は、確かに、NHK大河ドラマの主人公や、お札の肖像となる人物にはふさわしくないでしょう。両者の扱いは不公平のように見えます。  そうでなくても不人気な弥太郎さんを、私は少し気の毒に思っているのです。一方で自業自得の面があること

          岩崎弥太郎の露悪趣味と正直な日記

          弥太郎日記二月分をマガジン化&夜の街問題

           岩崎弥太郎が第一次長崎出張時に残した日記を、二月分まで紹介することができました。二月の日記を一日から順に読めるように配置し、「岩崎弥太郎 長崎日記2(安政七年二月)」としてマガジンにまとめました。  この二月、弥太郎は長崎での生活に馴染み、外国事情の調査に派遣された藩士として充実した日々を送るようになります。二月の日記には、隣藩への出張の失敗といった挫折も含めて、一人前に成長していく過程が活き活きと描かれています。一月下旬の「失恋」の詳述も含め、弥太郎日記の「正直」な記録

          弥太郎日記二月分をマガジン化&夜の街問題

          旅日記「西遊草」と弥太郎の長崎日記

          1.母を連れて大旅行  庄内藩(山形県)の郷士で、富裕な酒造家に生まれた清河八郎(1830-1863)は、安政二年(1855年)三月、母親孝行のため伊勢参りに母親を伴って旅立ち、伊勢参拝後も旅を続けてついには安芸宮島の厳島神社に到達、さらに各地を巡って同年九月に帰郷するという大旅行を行いました。その際の和文日記が「西遊草」です。旅程や名所旧跡について詳細に記されていますが、何と筆まめなことか、八郎は同時に漢文の日記もつけていました。 「西遊草」の面白さは、まずは母親を連れ

          旅日記「西遊草」と弥太郎の長崎日記

          弥太郎日記に一区切り&本居宣長の日記

          1.弥太郎日記紹介の進展  岩崎弥太郎の日記「瓊浦日録」の前半部(巻之一)の紹介を終えました。弥太郎の第一回長崎赴任時代の日記の半分をすませたことになります。一区切りついて、この日記はやはり面白い、紹介の価値のあるものだという思いがさらに深まりました。  弥太郎の日記は、史料として、幕末維新史や経営史の中の三菱研究という観点から主に二度目の長崎赴任期が注目されて来ました。私が紹介を続けている一度目は、歴史的な事件や人物と関係が薄いために史料的価値が低いとみなされ、弥太郎の

          弥太郎日記に一区切り&本居宣長の日記

          弥太郎日記、一月から二月へ

           先日、「岩崎弥太郎 幕末青春日記」の最初の一月分の紹介が終わり、二月分を始めることができました。ひとりで勝手にやっているだけなので、少数でも読んでくれる人がいるのは嬉しいことです。一月分について、前書きを含め冒頭(安政七年元旦、1860年1月1日)から順番に読めるように配置してマガジンにまとめました。ご利用いただければ幸いです。  紹介を進めるほどに、興味深い日記だという思いは深まる一方です。なのに、その真価が世間に知られていないのは、一つには岩崎弥太郎の不人気、もう一つ

          弥太郎日記、一月から二月へ