失敗は防げるか?
先日、「岩崎弥太郎 幕末青春日記」の続きを書いていて、手痛い失敗をしました。注意すれば防げたのにと後悔する一方で、失敗に到る必然と思える事情もあり、これを免れる方法は本当にあったのだろうかと考えてしまいました。
弥太郎は赴任地の長崎を離れて故国土佐に戻るのに、九州を横断して豊後国(大分県)佐賀関に到り、豊後水道を渡って四国に戻る経路を選びました(往路は山陽道経由)。四国の東端、九州に向かって細長く伸びる佐田岬半島南側の付け根にある港町八幡浜に、弥太郎は上陸しました。八幡浜の近くには、東に向かって大洲、南に向かって宇和島という二つの城下町があります。
弥太郎は八幡浜から「宇和島の関」を通過して高知を目指します。当然南ルートを辿ったと私は考え、そう記しました。しかし、日記にどうも変なことが書いてあったのです。関を越えた後「大洲治城」に登った、と。宇和島藩に、大洲の名のついた城があるのか……? しかし、江戸時代の藩には支藩や飛び地が存在し、また大阪に江戸堀があったり、東京都大田区に品川駅があったり、所在地と一致しない名前は別に珍しくない……と思ってしまったのがいけませんでした。
上記を5月27日にアップし、次の回を書き始めると、経由地は(小さな集落ばかりで調べるのに難儀しましたが)四国山地を東に向かう並びになっていました。弥太郎は八幡浜から東進し、大洲を通過していたのです。なぜ宇和島の関が八幡浜と大洲の間にあったのでしょう? 調べたら、すぐに分かりました。八幡浜は宇和島藩の領地だったのです。八幡浜港は江戸期に海上輸送の要として賑わい、宇和島藩の財政にも寄与していたのだとか。(下のリンクは訂正後の記事)
地元では常識で、苦も無く調べられることを、私はなぜ間違えたのでしょう? 実は私の父方の祖父は、大洲から宮崎県北部延岡市(私の故郷)に来た移住者で、そうした関係から半端な知識があったために、大洲と八幡浜とは一体の地域だと思い込んでいたのです。半世紀以上前の少年時代、曾祖父の白寿の祝いに別府から船で八幡浜に上陸して大洲に行きましたし、「大洲の親戚」からは毎年八幡浜名物の蒲鉾「びり鯛」が箱で送られて来ました。これが美味しくて……。
で、八幡浜と大洲の間に宇和島藩の関所があるとは、全く意想外だったのです。弥太郎の記述と自分の知識と乖離があったのに(宇和島に「大洲治城」があるのは変)、私が調べることをしなかった理由です。この間違いに気づくことは、開き直りでなく、かなり難しかったと考えます。正しいと信じ込んでいる知識は、間違っていると自ら気づく糸口がないからです。
しかし、こうした失敗を回避する方法を、私は以前には実践していたのです。「瓊浦日録」の紹介をしていた際には、1回分を書いても次の回を書き終えるまでアップしませんでした。間違いを避けるためというより、先の回に進むと意味があやふやだった部分が明らかになることが多かったからですが、結果的にミスの予防にもなりました。上述の通り、このやり方を続けていれば今回の失敗は防げたのです。
しかし、日録の続きの「西征雑録」は旅日記で、長崎時代のように人物や出来事が前後でかかわることは少ないと考え、また紹介のテンポを少し速めるために、書き終えて見返しをしたらアップすることにしたのでした。1回分溜めておいて次にかかると、なぜか「筆の勢い」が弱まり、書くのに思ったより多くの時間がかかるのが難点でした。
「幕末青春日記」に締め切りはありませんが、目算や目安はあって、それより大分遅れていることからスピードアップしたい思いがありました。今回の失敗にもかかわらず、このやり方は変えることはしません。これまでもやっていたことですが、書く前に日記を先回りして読む際、さらに注意をこらすようにします。
失敗を避けるための最善の方法は、第三者の目を通すこと、つまりは校正ですが、こうした個人的なブログには馴染まないでしょう。費用がかかり、しかも掲載のテンポがさらにゆっくりになってしまいます。ブログによっては、読み返すことすらせずにアップしているものもあり、速度感が大事だと読者の側も理解して受け入れられているケースがあるようです。
校正(の機能)は出版社の持つ最大の資産の一つだと私は考えています。これ、実はAIでは代替困難な仕事なのです。いや、そんなことない、既に行われているではないかと思われた人は、厳密なプロの仕事としての校正作業を知らないはずです。出版社や新聞社によっては、この大事な校正を非採算部門とみなして、校正者をリストラしたり、ひどい待遇のまま放置し、さらには悪化させたり、なんていうこともあったようです。
結果、「次の人が見るからヨシ」、「前の人が見たからヨシ」、「前に二人が見たからヨシ」で間違いがスルーされる「校正版現場猫案件」みたいな失敗例が生じることもあるようです。
失敗は防げるのか? 神様だって失敗するようなので(でなきゃ、この世界の現状は何?)、恐らく最終的には無理なのですが、最善を尽くすこと、失敗を教訓にすることは、神ならぬ身にも可能だろう、と無理矢理結論みたいなことを記して終わります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?