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長崎丸山、誘惑の引力

1.初心うぶだった弥太郎

 岩崎弥太郎は、長崎到着から一ヶ月以上が過ぎた安政7年(1860年)1月17日、花街丸山の遊女屋へ、同宿の者たちに無理矢理連れて行かれます。ところが、誰も遊ぶのに十分な金を持たず、弥太郎を先頭に遊女屋から脱走しました。このとき弥太郎は若輩ではなく、二十代半ばという一人前の年齢でした。

 弥太郎がもっと若い時期、江戸に留学した際には、宿場女郎の本場である東海道を通った時にも、吉原のある江戸滞在時にも、遊女と遊んだ形跡はありません。当時は貧乏だったでしょうが、藩からの「出張旅費」が出ていた土佐から長崎への道中でも、長崎到着後も、丸山のすぐ近くに住んだのに当分遊女に近づきませんでした。

 遊女屋に拉致された時には、弥太郎は「遊女と枕を共にしない」と心の中で誓います。それまでの素行からして本気だったでしょう。身持ちが堅く、初心だった弥太郎が、やがて公金に手をつけてまで丸山で「豪遊」するようになります。井原西鶴は「丸山遊郭がなければ、上方の(商人が長崎で稼いだ)金銀も無事に帰宅できたのに」と『日本永代蔵』に書いていますが、その誘惑からは弥太郎もいつまでも無事ではいられませんでした。

2.丸山遊郭に近い土佐藩宿舎

 岩崎弥太郎と同行の上司下許武兵衛は、長崎に出張する土佐藩士の定宿「大根屋新八」を寓舎としました(宿名は主人の屋号と名)。長崎土佐商会が設立される前で、土佐藩は長崎に蔵屋敷を持ちませんでした。大根屋のある鍛冶屋町は丸山に近く誘惑の引力が強かったのと同時に、丸山との近さには実利がありました。

 丸山とその周辺は茶屋や飲食店が充実していて、長崎での情報収集や商談にはそうした場所での交際が有用……というより必要だったからです。弥太郎と下許らは、そこで長崎の地役人=有力商人や外国事情に詳しい人士と酒宴を開き、長崎在の清人と筆談をしました。銀座のクラブでの交遊が大企業幹部にとって必須だった(?)ようなものです。しかし、弥太郎は丸山には行っても、当分のあいだ遊女を買うことをしませんでした。

 長崎はオランダや清との海上貿易のために開かれた人工的な港町で、市街地が狭いことが特徴です。丸山の引力は長崎の全体に及んでいました。有名な出島と限らず、長崎の市域は埋め立てによって拡張されて来ました。それでも、今では40万人以上の人口があるのに、繁華街に出かけると知り合いに出会ってしまう確率が高いと言われています(これを実証したTV番組もあったとか)。

3.丸山遊郭で「公的な交際」をする武士

 江戸期であっても遊女屋への出入りは人聞きのいいものではなく、武士は茶屋の裏門から入って遊女を呼んだりしていました。一方で、驚くべきことに、丸山では遊女を交えての宴席を職務上の交際の場とした武士たちがいたのです。肥前、佐賀、薩摩など九州の有力諸藩は、当時唯一外国に開かれた都市長崎での情報収集のため聞役ききやくと称される藩士を派遣しており、情報交換と互いの交際の場として丸山で寄合を持ったのです。丸山での寄合-宴席が長崎では当たり前であるかのように(なぜ当たり前と思われたのか、可能ならば次回に考察します)。

 寄合での情報交換、遊女同席の宴会という「仕事」の後、藩士たちがどうしたのか、皆一様ではなかったでしょうが、聞役となったがために遊女屋に多額の借金を抱えた藩士は少なくなかったとのことです。遊郭での交際を厭い、宴席を欠席しがちな聞役もいたものの、こうした者は仲間はずれにされ、情報交換ができなくなって、聞役の仕事がままならなくなりました。

 後には、いくつかの藩から遊郭での寄合はやめにしたいと提案がなされています。しかし、それでも多くの藩の聞役は、丸山での宴席は「入魂の交わり」の場であるとして固執しました。篠田鉱造『幕末百話』に、江戸勤めとなった地方の若い藩士が、吉原に魅入られて多額の借金を抱える話が紹介されていますが、「遊郭都市」長崎丸山の魅力は決して吉原に劣るものではありませんでした。

 土佐藩は聞役のネットワークには入っていなかったものの、下許が情報を得るために聞役たちと接触していた節があります。弥太郎の日記(1月13日)に、下許が一人で公文書(「御用状」)を持って遊女屋に行ったことが書かれています。聞役は各藩で高い地位の職務とされ、上士どうしのつきあいとなるので、便宜的に下士の地位を与えられていた身分の低い弥太郎は同行できなかったでしょう。

 丸山の大門を、弥太郎は「地獄門」と書いています。その門戸はもちろん金さえあれば誰に対しても広く開け放たれていました。初心だった弥太郎が天国のような地獄のような丸山遊郭に、どのように深入りしていったか、次回に記します。

 聞役については『長崎聞役日記 幕末の情報戦争』山本博文(ちくま新書、1995年)による。もちろん、文責は伊井にあります。
 トップ画像は「長崎 丸山の図」勝川春亭画。Wikipediaより。



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