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「黒い白鳥」としての彌太郎日記

 江戸期の日記や旅行記を集中的に読み、岩崎弥太郎の日記は明治維新期以前に類例のないものという推測に私は自信を深めていました。最近になって、ドナルド・キーン『百代はくたいの過客 日記にみる日本人』と、司馬江漢『江漢西遊日記』及びその解説を読んでさらに確信を深めました。『百代の過客』にも、芳賀徹氏の解説にも、弥太郎日記は登場しないのですが。

 弥太郎日記は、昭和50年(1975年)に翻刻が刊本として公開され、意欲さえあれば今でも誰もが読むことができます。しかし彌太郎の日記は、隠されていたわけでもないのに(まるでエドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」のトリックのように)、驚くべき内容であるにもかかわらず、文学系の研究者や批評家の目にとまることはありませんでした。

 私は、迂闊にもドナルド・キーン『百代の過客』を最近まで読まないままでいました。弥太郎日記に言及がないのは分かっていたものの、読んでみれば得るところ大で、後悔しました。同書に、西洋画風の油絵を残したことで知られる司馬江漢が江戸から長崎への旅で記した日記の項があり、下のように記されています。

江漢のユニークな個性と、彼が体験を述べる際の徹底的な率直さによって、まれに見るほど興味深い作品となっている。江漢の日記を読む時、おそらく私たちは一種の衝撃を受ける。近世のいわば平面的な日記を多く読んできたあとで、一人の立体的な人物に、急に対面させられた時の衝撃にほかならない。

ドナルド・キーン『百代の過客 日記にみる日本人』金関寿夫訳、朝日新聞社、1984年

 キーン氏が弥太郎日記を読んだら、どのように感じたでしょう? 弥太郎日記の衝撃は、江漢に勝っただろうと想像します。弥太郎日記が驚くべき内容であると気づくには、キーン氏のように「平面的な日記を多く読」む必要があり、私も「平面的な日記を多く読ん」で初めて理解しました。江漢の日記の刊本の解説で、校注者である芳賀氏(当時東大教養学部教授)は次のように書いています。

自分の旅すがたを……その日その日の自分の気分、感情のあられもない動きまで含めて、このように投げだすように率直に描き綴った旅日記とは、当時他に存在しただろうか。寡聞にして私は知らない。

司馬江漢『江漢西遊日記』芳賀徹、太田理恵子校注、平凡社東洋文庫461、1986年

「当時他に存在しただろうか。寡聞にして私は知らない」と記す心持ちは、僭越ながら私にもよく分かります。江戸期以降、残された日記の数は膨大であり、世間に知られているもの、自ら目を通すことのできるものはその一部でしかないからです。未知の「黒い白鳥」が発見される可能性は、完全には消すことはできません。

 ところで、弥太郎の日記は、まさに「気分、感情のあられもない動きまで含めて……投げだすように率直に描き綴った」もう一つの例でした。察するに、芳賀氏は弥太郎日記を読んでいません。弥太郎は有名人ですが、その日記は未知の「黒い白鳥」だったわけです。キーン氏もおそらく同様です。『百代の過客』にこういう一節があります。

己自身に関してはばかることなく語る彼の性癖は、己の性生活の告白にまで及んでいる。遊女屋で過ごした幾夜かのことを、彼は平然と描くのである。共に寝た遊女の名前ばかりか、その値段まで記している。

 弥太郎の「性生活の告白」は、江漢の日記を控えめに感じさせるほどのものであることは、二つの日記を読み比べた人――私以外にいるかどうか知りませんが――には一目瞭然です。また、前回記したように少数ながら遊女との交わりについて(も)記した庶民の日記があります。この辺りから、キーン氏と芳賀氏が弥太郎の驚くべき日記を見逃した理由がぼんやりと見えて来ます。

 莫大な量の江戸期の日記や旅行記が残存していることが前提です。全てを調査することは誰にとっても不可能である以上、研究対象の選好が必要であり、その際に弥太郎の日記は外れたとものと考えられます。キーン氏の選好の最上位は松尾芭蕉であり、庶民中の知的な層が最低ラインのようです。教養ある白拍子(遊女)は選ばれても、旅の商人や芸人は埒外です。

 キーン氏は(芳賀氏も)、弥太郎の日記を読んでいれば、さすがに無視をすることはなかったと思われます(思いたい)。しかし、彌太郎がひとかどの知識人であり、詩人であるという認識がないまま、悪名高い弥太郎は知的な人物ではないだろう、その日記が面白いはずもないと判断され、よしんば候補にあったとしても結局は読まれなかったのでしょう。

 江漢は町民出身ですが、画家、思想家など多彩な才能の持ち主であり、平賀源内や大田南畝なんぽらとも交流を持った18世後半の才人の一人でした。弥太郎は教養の水準から言えば江漢のはるか上を行くものの、江漢がその内にあった江戸の才人をつなぐ人脈のようなものと縁のない、地方の孤立した知識人でした。

 キーン氏の『百代の過客』の続編には、渋沢栄一の「洋行日記」が採られています。渋沢栄一を選び、岩崎弥太郎を省くのは、日本の知的エスタブリッシュメントの常道です。これが歴史的人物としての岩崎弥太郎の運命のようです。前に書いた通り、近世以前の日記を集めた『日記解題辞典――古代・中世・近世』(東京堂出版、2005年)でも弥太郎日記は無視されていて、まるで故意に隠されたかのように、彼の日記は世界から消えています。

 かくして、弥太郎日記は、弥太郎本人や三菱史に関心を持つ人と、幕末維新期の補完的な史料として以外ほぼ読まれていません。これには、岩崎家と三菱が、弥太郎日記が広く知られることを望まなかった(らしい)ことも影響しているでしょう。何しろ、最初の公式の伝記執筆者にも日記を公開しなかったくらいですから。弥太郎の遊郭での行動の記述が、秘匿の大きな理由だっただろうと私は推測します。

『岩崎彌太郎傳』岩崎彌太郎 岩崎彌之助傳記編纂會、昭和42年。この本には、執筆者が日記全文を参照していたら避けられたであろう誤りが散見されます。
『岩崎彌太郎日記』岩崎彌太郎 岩崎彌之助傳記編纂會、昭和50年。

 弥太郎が、失敗談や遊女との交流を率直に記し、自らの心神の状態に目を向けたこと、通読すれば書き手の変化、成長が読み取れることは別アカウントの「幕末青春日記」を読んでくださる方ならご承知でしょう。こうした点において、これは当時ほかに類を見ない日記です。

 その上、弥太郎日記には、彼が維新期に成し遂げたイノベーションの根っこを知ることができるという、他の江戸期の日記にはない格別の長所もあります。この件については機会を改めます。

 トップ画像は司馬江漢「相州鎌倉七里浜図」。Wikipediaより。Shiba Kôkan. The 7 mile beach.PD-US-expired.

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