岩崎弥太郎の露悪趣味と正直な日記
1.弥太郎の露悪趣味
岩崎弥太郎の遊郭での豪遊は、弥太郎について調べ始めたらすぐに誰もが知ることになります。一方、同時代の実業界のライバル渋沢栄一の女好きは、別に秘密ではありませんが、それほど知られていません。無数の愛人、子供の数が何十人といった話は、確かに、NHK大河ドラマの主人公や、お札の肖像となる人物にはふさわしくないでしょう。両者の扱いは不公平のように見えます。
そうでなくても不人気な弥太郎さんを、私は少し気の毒に思っているのです。一方で自業自得の面があることも理解しています。明治初期に弥太郎の盟友だった大隈重信は、海運事業で成功した弥太郎が、大勢のお供を大名行列のように連れて吉原に通ったことを語っています。こうした派手な遊びぶりは、弥太郎の後世に続く悪評の一因となりました。
弥太郎には露悪趣味があったようです。明治維新後、土佐藩所有の船を託された弥太郎は、海運事業に成功して富を得た後、元土佐藩重役の邸宅を買い取り、新居のお披露目に大阪の芸者を多数引き連れて「凱旋」しました。元は武士とも言えない身分だった弥太郎の増長ぶりは土佐の人々に憎まれ、敷地に石を投げ込まれたり、門を壊されたりしました。
弥太郎は元々土佐では好かれていませんでしたが、そうなると、俺は世間の目など気にしないと却って傍若無人になるのも弥太郎の一面でした。こうした共感を持ちにくいキャラクターが、会社の創造という彼の画期的な業績を見えにくくさせる一因になったのは残念です。ところで、これから述べるのは、成功後の弥太郎のこうした悪役然としたイメージから、若い長崎赴任時の行動を捉えるのはやめよう、という話です。
2.遊女の名前
何度か(批判的に)引き合いに出して来た山田一郎『坂本龍馬と長岡謙吉』では(「風評再生産のメカニズム」の回を参照)、弥太郎の第一回長崎赴任時の日記に、その遊蕩ぶりが「一人一人の妓名をあげて詳述されている」と記されています。「一人一人の妓名をあげ」ることが、弥太郎の遊女への耽溺を示す証拠であるかのように。もっともらしい指摘ですが、実は的外れです。江戸時代の日記で遊んだ遊女について書く場合、実はその名を記すことがほぼ全てであったからです。どんな相手だったか詳述されることはまずありません。
幕末の近江商人小杉屋基蔵(元蔵)の旅日記では、宿場で女郎と遊ぶ度に「一人一人の妓名をあげ」ています。たとえば、江戸での商いの帰り道である東海道では、8月12日白須賀宿で「おなか」、熱田宮駅神戸町で15日「磯治」、16日「お銀」、17日「お勝」など。他にも、旅の先々で(大抵)一度だけの交わりである相手の名が記されています。(『近江商人 幕末・維新見聞録』佐藤誠朗、三省堂、1990年)
元蔵に限らず、また相手の遊女と限らず、出会った人の名前や、訪れた土地の名を、江戸期の多くの日記作者はこまめに記録しました。上記のように再び会うことがない相手でも、また二度と来そうにない場所だったとしても――。現代はおおむね名より実を取る実用本位の時代と言えるでしょうが、近代以前は実より名、あるい名と実が区別されない時代だったようです。
3.正直な記録者
上述の小杉元蔵は、特に色好みではなかったのですが(熱田宮駅神戸町では同行者の女遊びに付き合わされて閉口している)、街道や港の旅宿が遊女の仕事場であるのはごく当たり前のことでしたから、遊女との宴席や交わりが少なからず記録されたのでした。徒歩での移動が主であった時代、旅と遊女とは不可分の関係だったようです。旅の歌人や俳人は旅先で見知った遊女を歌い、元蔵や弥太郎は日記に記しました。しかし、誰もが二人のように正直に書いたわけではありません。
武士は、私が見た範囲では、町人と違って遊女との交わりを滅多に日記に記さなかったと思われます。町人でも大きな商家の主人などは旅での遊女との交わりを曖昧にしたり、言い訳のようなことを書いたりしました。農民と武士の境目の身分出身の弥太郎は、名前だけでなく彼女らとの交際についてもあけすけに記しました(もちろん性行為そのものについてではありません)。こんな日記を他に知りません。
弥太郎の放蕩という風評は、事実無根ではないものの、他の人が口をつぐんでいる中で際だってしまった面があるのも確かです。あり得ない仮定ですが、もし長崎に派遣されることがなければ、弥太郎は女遊びをしない偏屈な堅物として生涯を終えた可能性さえ考えられます。この推測には、いささかの根拠があります。以下、次回。
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