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風評再生産のメカニズム 岩崎弥太郎の場合

 一度悪い評判が立って定説のようになると、風評にさらに別の風評が積み重なって「被害」が増大します。岩崎弥太郎日記と関連して、悪い風評が生み出される過程が明瞭に見えるケースに出遭いました。倒叙ミステリーみたいに「犯人のアリバイ」を崩していく(?)過程が面白かったので、弥太郎日記紹介のスピンアウト版として記します。

<主要登場人物>
岩崎弥太郎:後の三菱創業者。「事件」当時26歳、優れた漢詩を書くインテリだが、身分は下級武士以下の地下じげ浪人。生前から今世紀に至るまで悪評を蒙り続けるが、財閥の祖なので誰も同情してくれない。
今井純正:長崎留学中の医学生。実は脱藩者。弥太郎と同い年。後に長岡謙吉と改名、海援隊隊士に。坂本龍馬亡き後の二代目海援隊長だが、地味すぎてNHK「龍馬伝」ではいないことにされていたらしい。
山田一郎:1919年高知県生まれ~2010年没。共同通信社常務を経て土佐山内家資料館館長。重要な海援隊士なのに顧みられない長岡謙吉を顕彰するために『海援隊遺文 坂本龍馬と長岡謙吉』(新潮社、1991年)を上梓。

1.風評の発見 私(伊井)は、弥太郎日記に登場する今井純正について調べようと、Wikipediaの「長岡謙吉」の項を読み、下の文章に遭遇して驚きました。ひどい書かれようで、弥太郎の「新発見の風評被害」かもしれないと思い、この項の文献の元をたどってみると、山田の上掲書を参考にしていることが判明しました。

土佐国を脱藩した後、長崎遊学中の長岡に嫉妬する岩崎弥太郎らから、濡れ衣を着せられ、藩命に沿って八つ当たりの拷問された(以下略。原文ママ。出典とされる長松清潤『仏教徒 坂本龍馬』(講談社、2012年)に山田の上掲書があげられている)

2.風評被害の拡大 山田の本を読むと、「弥太郎らは嫉妬から今井を拷問した」と断言しているわけではありませんでした。Wikipediaや出典の筆者は、弥太郎の「悪評」を悪い方向に拡大再生産したわけです。ただし、山田が弥太郎に向ける視線はネガティブで、そうした受け止め方を誘導しているようにも見えます。

3.今井の「濡れ衣」事件 今井は、土佐藩から弥太郎ら三人が派遣されるより前に長崎に来ており、三人に先駆けて土佐藩御用の複数の有力商人や周囲の仲介者たちと繋がりを持っていました。弥太郎らは、ある仲介者から、今井が藩の代理人であるかに装って有力商人と接触し、借金するなど藩の交易の邪魔になっているとの話を聞きます。これを質すと今井は否定、別の仲介者から話を聞いてくれと反論します。

4.今井への追及 話が本当なら土佐藩への背信であり、今井は詐欺行為をしたことになります。山田は上掲書で、弥太郎らが怪しい仲介者を信頼して今井の反論を聞かず、一方的に罪に陥れたのだと主張しています。今井は、藩から派遣された下横目(下級警吏)の手で土佐に送還されたものの、結局、脱藩のとがで軽い追放刑を受けるにとどまりました。

5.冤罪? 今井は冤罪の被害者だったのでしょうか? 山田の論拠は、主に窮地の今井が助けを求めて故郷に出した複数の手紙と、弥太郎の日記(瓊浦けいほ日録)です。また、山田は、派遣された三人が信じた仲介者は、有力商人の周囲で怪しい動きをしていた人物の一人で信用ならないと読者に示唆します。一方で、今井もまた怪しい周辺人物の一人であり、商人から借金していたことは無視します(今井の手紙の最大の目的は、借金返済のための無心と読めます)。

6.山田の論証 この「コップの中の嵐」的小事件の真相は、裏付けが日記と手紙しかない以上100%の解明は困難です。しかし、山田は、今井が「弥太郎らによって無実の罪に陥れられた」と断定します。今井の手紙に「剛放果敢にて諸人の嫉妬を受け」、「日々拷問同様のこと」との記述があり、山田はその裏付けを弥太郎の日記中に探したのです。告発側の落ち度を見つけて弁護をするやり方です。山田の論点は、弥太郎に対して色々とアンフェアなのですが、以下に問題の大きい二点をあげます。

7.今井への嫉妬? 山田は、弥太郎が嫉妬心から無実の今井を陥れたという方向へ読者を導きます。私も、漢学しか知らない弥太郎が、洋学を学んだ今井を羨むことはあり得ると思っていました(だから冤罪を仕組んだ、とまでは考えませんでしたが)。しかし、山田の生前には公開されていなかった弥太郎の別の日記「征西雑録」から、嫉妬は邪推と考えてほぼ間違いないことが明らかになったのです。

征西雑録」には、弥太郎が長崎に到着した後、今井と一緒に散歩し酒を飲み、やがて二人で「心事」を語り合ったり、今井が弥太郎の背中に灸を据えたりしたことが書かれています。心の中を語り合うのは、互いを対等の関係と認めたからでしょう(弥太郎は派遣団の一人や坂本龍馬とも「心事」を語り合っています)。「瓊浦日録」では、今井と弥太郎が緊張関係になっているのが分かります。これは弥太郎らが知らされていなかった今井の行状が露見したためだと、「西征雑録」を併せて読むと納得できます。

8.今井は拷問された? 拷問は肉体的な苦痛を与えて取り調べることですから、旅宿で拷問などあり得ず、今井は「拷問同様」と濁しています。山田も弥太郎らの糾問が執拗で激しく不当だったと批判しているわけで、Wikipediaの記述は暴走と分かります。藩の派遣団として、弥太郎らが不祥事を明かそうとするのは当然であり、派遣団と今井は三対一で今井が不利なのは事実ですが、日記を読む限り度を超した追及をしたとは思えません

9.印象操作 山田は、謎の多い長崎での今井の一件について、真実を解明するというより、弥太郎の嫉妬心や取り調べが不当であることを強調し、今井の無実を読者に印象づけようとしたのでした。このため、弥太郎が今井追及の傍ら酒色に溺れていたというエピソードを差し挟む印象操作を行い、弥太郎の信用をさらに下落させてもいます。著者の言を信じるなら、弥太郎は品性下劣な極悪人です。

10.弥太郎の悪評 弥太郎への印象操作が行われたのは、しかし山田個人の今井=長岡謙吉びいきだけが理由ではありません。弥太郎に生前からの悪評という土台があったからこそ、山田は弥太郎を安んじて「悪役」に仕立てることができたのでした。実は、弥太郎は出身の高知県で、特に歴史関係者の間で、評判が悪いのです(理由を書くと長くなるので省略します)。

11.風評の再生産 冒頭にも記しましたが、悪評の土台があれば風評は真実と信じられ、それがまた別の風評を呼んで悪評が拡大再生産されていきます。ちょうど、山田が長岡謙吉を顕彰するために、既に悪評のある弥太郎をさらに貶め、Wikipediaの間違った記述に繋ったように。弥太郎は実はこの手の「風評被害」を数多く受けています。山田は自著の弥太郎と今井をめぐる章に、「青春の長崎」という素敵なタイトルをつけました。二人の青春を偏りなく観察し、弥太郎を下げるのではないやり方で今井を救ってくれていたら……と大変に残念です。

「征西雑録」とトップの写真については、下のリンクを参照してください。


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