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弥太郎の日記「瓊浦日録」を「完走」

瓊浦けいほ日録」の紹介を半年前(2023年11月4日)に始めて、日記の最後の日である万延元年(1860年)うるう三月十八日までやっと終えることができました。一ヶ月分としては他より短いのですが、これを「幕末青春日記」のマガジンとしてまとめました。一日始まりで順番に読めます。

 弥太郎が実際に長崎を離れたのは同月二十一日なので、マガジンには、それ以降の記述のある「西征雑録」から、旅立つまでの三日分を併せて掲載しました。トップ画像はWikipediaより。

 紹介を終えるのが想定していたより大分遅くなったのは、持ち前の怠惰な性質に加え、遅れても誰にも非難されないことが大きく作用していました。何か理由がつくと、すぐサボってしまうのです。しかし、別の事情もありました。紹介を進めるほどに、弥太郎日記の独自性が際だったものに感じられ、これを十全に理解するためにはもっと調べておくべきことがあるという思いが強まったのです。

 弥太郎の日記が、様々な失敗談や遊郭での遊びの詳細、それらを通しての人間的な成長といったことを記した江戸期には他に例のないユニークなものだと見当をつけていたのですが、それを確言するためにはもっと多くの日記にあたる必要があると考えたのです。それで、江戸期の日記のうち活字化された刊本にできる限り当たることにしました。

 活字化されたものに限ったのは、手書きや木版印刷の続け字を読む能力が私にないからですが、活字本だけでも膨大な数があり全部読むことは誰にもできません(断言)。さらに研究機関に属さない身で入手できる刊本には限りがあるのですが、探っていく内に私の観点からは読まなくていいものも多数あることが分かって来ました。例えば、藩の公的な記録や大名の残した日記などは、私的な生活の記録がまず含まれないので割愛して大丈夫なのです。

 前にも何度か書いた通り、生々しい私生活の記録としての日記は、口語体が浸透した二十世紀には当たり前になるので、弥太郎が漢文や候文で残した日記の独自性が見えにくくなっています。しかし、日記刊本や日記の解説本を可能な限り調べた範囲では、弥太郎日記に似た例はほぼないと今では明言することができます。

「明言」できるようになるために、随分たくさんの資料を調べたことを信じてもらいたいので、近いうちに文献リストを示すことにします。

 時間がかかったのは日記文献の探索だけではありませんでした。弥太郎日記の理解のためには江戸期の遊郭について知る必要がありました。私にはそうした知識がなかったので、これにも時間を要しました。念のため、以前に書いたことを繰り返すと、弥太郎の遊興は彼の特別な色好みを示すものではありません。当時の長崎出張において、丸山遊郭に出入りすることは仕事の一部ですらありました。

 良い例えではないかもしれませんが、多くの大企業勤めの男性にとって、仕事上の人間関係をつなぐのにゴルフが不可欠だったのに近いと言えます。付きあいで始めたゴルフにのめり込む人がいるように、弥太郎は丸山の誘惑の罠にかかったのでした。そうした遊郭での経験を赤裸々に記した日記も、他には見つけることができませんでした。

 そして、遊郭について勉強する内に、遊郭で遊んだ側の記録(日記に限らず)が出て来ないことにも気づきました。これは私が調べた範囲になかっただけなのかもしれないのですが、たとえば先日記した大吉原展の展示にも「遊んだ側の視点」はありませんでした。本当にそうした記録がないのだとすると、弥太郎の日記は遊郭の仕組みについて知る上で貴重な資料である可能性があります。

 ただし、遊郭で遊んだ「ユーザー」の日記や記録は今もどこかに眠っているかもしれません。というのも、遊郭での遊びのような「下賤」なことは文章にすべきではないと考えられていたはずで、上級武士や大商人は何も書き残さなかったようなのですが、下級武士や町人の中には、弥太郎以外にも、そうした規範から自由だった者がいて不思議ではありません。

 しかし、記録者が故人となった後、遺族や関係者が外聞が悪いからとそうした記録を隠したり破棄したりしたために、どこにもないように見える、と……。岩崎弥太郎の日記が、その存在を知られていながら岩崎家によって長く秘匿され、公認の伝記執筆者にさえ見せなかったのは、少なくともその理由の一つは、遊郭の記述だっただろうと私は考えています。

「瓊浦日録」の紹介に時間がかかった理由は、もう一つあります。途中で言文一致の考察に寄り道をしたせいでした。先述したのでここでは立ち入りませんが、弥太郎日記の独自性の一つは、口語日記的な内容であることを改めて確認しておきます。以降、この「はるかな昔」では弥太郎が丸山に深入りした過程についてまとめと考察を行い、「青春日記」では、「西征雑録」から抜粋して紹介をします。


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