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勝小吉の吉原記述、言文一致と遊郭関連の文献

 勝海舟の父勝小吉は、自らの破天荒な人生を記した『夢酔独言』の書き手としても知られています。この自叙伝は江戸弁の文章で綴られていて、いわば「言文一致」でした。小吉は幼少時から学問を嫌って「文盲同然」だったため、後に読み書きを覚えたものの候文や漢文の文章を書けなかったのです。粗野で読みにくいものの、独特の魅力があります。

『夢酔独言』が言文一致の観点から注目されないのは、その文体が明治後期に形成される口語体に資するところがなかったからです。ところで、私がここで注目したいのは彼の人生や文章ではなく、小吉が吉原での体験をどう記したかということです。小吉は、御家人の子でありながら乞食旅をしたり、刀を振り回して喧嘩騒ぎを起こしたりの「不良」でした。『独言』は「子々孫々」へのいましめとして、半生を赤裸々に記したものです。吉原での遊蕩は懺悔の一項目です。

 ところが小吉は、吉原で散々遊んだと記しながら具体的な事柄は何も書きません。遊女の名前、どれほどの金を使ったか、吉原に深入りしていった過程など、岩崎弥太郎が長崎での日記に記したような詳細が無いに等しいのです。江戸期の士人には、遊郭の中でのことは書かないという暗黙の了解があったかのようにさえ思われます。これが本当なら、破天荒な小吉でさえ遵守した「見えないルール」を弥太郎は破ったことになります。

 ただ一箇所、「みんながおそれる」「九州者」の剣術使い島田虎之助を吉原に案内したエピソードは、小吉の遊蕩の度合いを彷彿させる興味深いものです。小吉は、江戸に慣れない虎之助が吉原を忌避していたのを、すしを食べるという口実で大門の内に引っ張り込み、たばこを吸わせ、酒を呑ませ、ついに妓楼で一晩を過ごさせてしまうのです。落語のくるわ明烏で、遊び人が堅物のお坊ちゃんを騙して吉原に誘い込むストーリーそのまま、と言っても過言ではありません。

 上記のエピソードを紹介したかったもう一つの理由は、下のリンクの記事で紹介した歌川豊春「新吉原春景図屏風」が小吉の話の挿絵になっていることです。日が暮れててふちん提灯とぼるし、折節(ちょうど)(が満開)だ」「太夫たゆうが道中するから、二階より見せたら虎がいふには、「誠に別世外世界だ」」さらに小吉は、夜桜見物の客で満席の店で自らの「威勢を見せ」て座敷を明けさせ、一番の器量の「女郎」を呼んで遊んだのでした。小吉の散財は弥太郎以上だったかもしれません。

 下のリストは言文一致関連、遊郭関連のどちらも原則的に初出の古い順に並べました。元号と西暦は基本的に原本のままで混在しています。言文一致、遊郭の双方で参照した文献は、どちらか一方のみに記しています。 

<言文一致関連参照文献リスト>

式亭三馬『浮世風呂 日本古典文学大系 63』中村通夫校注、岩波書店、昭和32年
『漢文の話』吉川幸次郎、ちくま文庫、1986年(原本は筑摩書房、1962年)
『本居宣長全集 第九巻』大野晋編、筑摩書房、昭和43年
山本正秀「言文一致体」『岩波講座 日本語10 文体』、岩波書店、1977年
『日本近代文学の起源』柄谷行人、講談社文芸文庫、1988年(原本は講談社、1980年)
『完本 文語文』山本夏彦、文春文庫、2003年(原本は文藝春秋、2000年)
『漢文の素養』加藤徹、光文社新書、2006年
『古典日本語の世界――漢字がつくる日本』東京大学教養学部国文・漢文学部会編、東京大学出版会、2007年
『漢文脈と近代日本 もう一つのことばの世界』齋藤希史、日本放送出版協会、2007年
『古典日本語の世界[二]――文字とことばのダイナミクス』東京大学教養学部国文・漢文学部会編、東京大学出版会、2011年
『日本語スタンダードの歴史―ミヤコ言葉から言文一致まで―』野村剛史、岩波書店、2013年
『日本近代史を学ぶための 文語文入門―漢文訓読体の地平―』古田島洋介、吉川弘文館、2013年
勝小吉『夢酔独言』勝部真長編、講談社学術文庫、2015年(原本は平凡社東洋文庫、1969年)
『日本語全史』沖森卓也、ちくま新書1249、2017年
『日本語「標準形」スタンダードの歴史 話し言葉・書き言葉・表記』野村剛史、講談社、2019年
『江戸POP道中文字栗毛』児玉雨子、集英社、2023年
『エクリチュールへ1 明治期「言文一致」神話解体 三遊亭円朝考』鈴木貞美、(株)文化科学高等研究院出版局、2023年
『<書くこと>の十九世紀明治―言文一致・メディア・小説再考―』山田俊治、岩波書店、2023年

<遊郭関連参照文献リスト>

十返舎一九『東海道中膝栗毛 日本古典文学大系62』麻生磯次校注、岩波書店、昭和33年
近松門左衛門『近松浄瑠璃集 上 日本古典文学大系 49』重友毅校注、岩波書店、昭和33年
『長崎』原田伴彦、中央公論社、1964年
『増補 幕末百話』篠田鉱造、岩波書店、1996年 
山東京伝「傾城買四十八手」式亭三馬「柳髪新話浮世床初編」『洒落本 滑稽本 人情本 新編 日本古典文学全集 80』中野三敏・神保五彌・前田愛 校注・訳、小学館、2000年
『図説江戸6 江戸の旅と交通』竹内誠監修、学習研究社、2003年
『近世北奥社会と民衆』浪川健治、吉川弘文館、2005年
『「株式会社」長崎出島』赤瀬浩、講談社、2005年
『シリーズ遊郭社会Ⅰ 三都と地方都市』佐賀朝 吉田伸之編、吉川弘文館、2013年
『長崎丸山遊郭 江戸時代のワンダーランド』赤瀬浩、講談社現代新書、2021年
『図説 吉原遊郭のすべて』株式会社エディキューブほか編集執筆、双葉社、2022年
『吉原細見 歴史と文化探求編』江戸伝統文化推進 燈虹塾監修、吉原商店会 企画・発行、令和4年
『遊郭 儚き世界』「時空旅人vol.66」、株式会社三栄、2022年
『風俗画入門』辻惟雄、講談社学術文庫、2024年
『大吉原展』東京藝術大学美術館・東京新聞編集、東京新聞・テレビ朝日、2024年

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