失うものが何もない人なんて、いないでしょう?


「気楽でいいよな、お前は」

丸裸で、なにも武器は持っていない。丁寧に言葉を使おうと必死になって、それはもはや、「滑稽」になる。雑草が目に入れば、人は毟る。本当は「花」になって摘まれたかった。大切な花瓶の中で束になり、瑞々しく生きていたかった。


「もう失うものはなにもない」

そう思って踏み出したあの日、もしかすると足裏には悲鳴を上げていた虫たちがいたかもしれない。命は"消える"というよりは、薄く、うすく、剥かれていく。小さく丸まった体をみて、ほんの少し、かわいいと思ってしまった。

いってきますね、と、恋人の頬にキスをして始まる毎日。目の前にいる、愛する人を「手に入れた」わけではない。とはいえ、"別れ"と名のつくものが降ってきたとき、わたしはそれを「失った」と表現するのだろう。



「おはようございます」

いつものように職場に着いた。

飲食店でフリーターとして働いているわたしの日常。朝五時くらいには店に着き、制服に着替える。鏡の前に立っていてもなにも言われることはない。"人に見られる仕事"をするのだから、当然だ。普段のわたしはほとんど鏡の前に立つことはない。醜い姿を、わざわざ瞳に入れてやる必要はないからだ。

無理やり別の色で上から塗りつぶしている。どちらかというとその行為は、「なかったことにしたい」という気持ちが強いのかもしれない。

わたしは鬱々としている。おもしろいことが起こる、それを期待する分だけ痛い目を見てしまう気がして、傷つかないように心を守っている。



「今日からよろしくお願いします」

新人の方が、おそらくわたしを見て挨拶をしてくれた。その方の面接をしたのは、わたしだ。フリーターとはいえ、副店長のポジションについているわたしは採用の仕事もしている。


「こちらこそよろしくお願いします」

40代の女性の方。わたしのいる店は七割、女性で構成されている。会社の方針だ。よっぽど"いい人"でなければ男性は採用しない。わざわざ首を突っ込むことはないが、つまらないものだと思う。「イメージ」がそこにあるのだから、仕方のないことなのだろう。とはいえ、今年28になるわたしが、年上の女性へ仕事を教えるのはなんとなく、抵抗がある。それも本当につまらないものだ。


教育の担当でもあるわたしが初日を受け持つ。店内の説明、備品の使い方や、キッチンでの過ごし方。それをひとつもこばさないようにしていたのか、わたしの発した言葉が、「書記」のようにメモ帳に書かれていたのが見える。

「もちろん、今日だけじゃなくてこれからも教えていくので、一回で全部覚えようとしなくても大丈夫ですよ」

少し心配になったわたしはそう声をかけた。すると彼女は「すみません、ちょっと心配で…」と不安そうにしている。面接をしたときはやはり、強がっていたのだろう。それもわかった上で店長と相談して採用は決めていたが。


彼女はつい最近、離婚したらしい。子どもがいなかったことが「救い」だと言っていた。引っ越しも済ませ、完全に「ひとり」になれたとも——。

少し、目が潤んでいたようにも見えた。

一通り説明を終えたわたしに、彼女は言う。


「もう、失うものはなにもないので、頑張ります」


胸がちくりと痛んだ。そうなる自分も少し、おかしいと思う。背負っていたものも違う。重さがあるとしたら、それも。

ただほんの少し、昔のわたしを見ているようだった。職を失い、恋人と別れ、「なにもない」と思っていた自分。「なにかある」なんてとてもじゃないが思えなかった。


その当時わたしは鬱になり、家から数ヶ月、数年という単位で家に引きこもっていた。いまもわたしはパニック発作がなおらない。日々状況に合わせて笑ったり、耐えたりを繰り返している。店で発作が起きることもある。ただそのときわたしが無意識に動かす心は「生きていたい」と喋っている。命という壮大なものではなかったとしても、わたしは常になにかを持っているようだった。


いまの店で働き始めてから、わたしには言われてきた言葉がある。学生時代の友人にも、同じ職場の従業員にも、お客さんにも言われてきたふたつの台詞。


「気楽でいいね」「もう失うものないね」だ。


たとえば、いつでもわたしはいまの仕事を辞めて、ほかの仕事へ就くことも可能だろう。それは、フリーターだから、か。考えすぎかもしれない。ただそのわりには、28になるわたしはこの店にいるだけで「気楽」に見えるらしい。もちろん、「気楽」だと自分自身思い、フリーターとして生きている人もいるだろう。

「もう働けない」と思っていたわたしが、這って、やっとたどり着いた場所がいまの飲食店だった。気楽ではない。その言葉にムキになるのであれば、わたしはいま「慎重」で、「真剣」だ。ここに来る前から、なにかを持って、挑んでいた。



一旦わたしは彼女と事務所に戻る。席に座ってもらい、細かい書類の記入もしてもらっていた。その隣でパソコンを見るふりをしながら、様子を窺う。ペン先が潰れてしまいそうなほど力む彼女を見て、なにが正しいかはわからなかった。それでもわたしは、自分だったら言ってほしかった言葉をこぼす。


「わかんないですけど、いま持っているもの、大事にしていいと思います」


それを聞いてか、彼女はぽつぽつと泣いていた。よかったかどうかはわからない。「ありがとうございます」とは言っていたが、結婚をしたこともないわたしに言われて腹が立っていたかもしれない。単純に嫌悪していたかもしれない。書類に一度書いた名字にバツをつけて、「すみません、間違えてしまいました」と言っていた彼女の瞳は、強く生きて、号泣だった。



退職した人、離婚した人、失恋した人、そんな人に対して「もう失うものなにもないね」と、簡単に言うものではなかった。自分自身に対して"使う"ときも気をつけたい。結果わたしはその言葉で自分の"傷のようなもの"を愛せなかった。それが今更、膿んでいる。


「なんかもう全部どうでもよくなっちゃった」

そう思う日が何度もある。

生きていてもいいことがない、のではなく、「いいこと」に対して喜んだり、楽しんだりする力がなくなっているのだ。その度わたしは、自分には「なにもない」と思う。


数年前、わたしは"書くこと"を好み、こうして日々エッセイを書いて生きるようになった。エッセイを"失った"わたしにはなにも残らないと思う。そして「失うものはもうなにもない」と思ってしまうだろう。想像しただけで苦い、「死」を思うような結末だ。

ただ、言いたい。

自戒だ。いま「持っているもの」を手離したとしても、「自分」が死ぬわけではない。


人は歩み、進むことができる。

新しい人にも、新しい言葉にも、新しい瞬間にも出会える。そんな「可能性」があるかぎり、人は何かを失ったと思い、傷を作る。

わたしたちはいま、なにを持って生きているだろうか。言語化は別にしなくてもいい。言葉に救われてきたこと、わたしは何度もある。とはいえ、現実は、言葉では言い表せないような感情がある。言葉にする体力もないときがある。仮に"失うものがなにもない人"がいたとしたら、その人は無敵になったわけでも、傷がつかなくなったわけでもない。


持って、生きている。

大事にしたいこと、想いがある。

「持っているよ」

誰になんと言われようと、自分の「宝物」は、自分の生き続ける「心」だと思うのです。


書き続ける勇気になっています。