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20220813新発田朝祷会メッセージ「キリスト者の原動力」(Ⅱコリント5:14-20)(兼・戦後77年所感)

 夏休みで実家のある新発田に戻っているということで、昨年末以来となる朝(食祈)祷会でのメッセージ(奨励)のご依頼をいただきました。今回は前回と異なる会場で行われ、その外観が今回の見出し画像です。店名は、今年生誕100周年を迎えたクリスチャン作家・三浦綾子さんの名作タイトルから採られています。

道ありき (新発田市)|あなたの街の情報屋さん。

 こちらの動画は今回調べるに当たって初めて見つけました。

 この長谷川さんは、2軒隣の教会の牧師でもあります。

2018年12月撮影

 さて本題に入る前に、今回も若干言及した前回のメッセージを貼らせていただきます。

 この記事と同じ流れで、メッセージの前後に歌った賛美歌をご紹介します。
 開会賛美はこちら。

 今年刊行25周年を迎えた歌集「讃美歌21」の中で、平和を願う賛美歌として最も歌われている歌ではないかと思います。
 この動画で弾き語りしておられる高浪晋一先生は、2016~19年のこの時期に受講した「キリスト教音楽講習会」(日本基督教団讃美歌委員会主催)でお世話になっていた先生の一人でした。作曲された山中さんともこの講習会でお会いしたことがあり、サインをいただいたという逸話もあります。

 メッセージ後の応答賛美はこちらでした。noteに賛美歌の動画を貼る時はできるだけ弾き語りを選んでるんですが、この曲については動画そのものが貴重なので例外です(^^;; キリスト教会の一致を願う賛美歌で、「讃美歌第二編」24番に収録されています。

 記事タイトルに掲げた聖書朗読箇所はこちらからお読みいただけます。では、メッセージ原稿をどうぞ。

 おはようございます。新潟聖書学院神学科(紹介note)で2年目の学びに入っておりますが、私自身の近況報告は後ほどさせていただきたいと思います。
 昨年12月の朝祷会で奨励を担当させていただいた直後に世話人のMさんから今日のこともご依頼いただきましたが、8月ということですぐさま「平和をテーマにしよう」と考えていました。ただ、この半年の間に本当に多くの心痛む、心騒がせる出来事がありました。ロシアによるウクライナ侵攻(関連note)、またこの1ヶ月は元首相の銃撃に端を発して、旧統一協会と政界の間にただならぬ関係があったことが明るみに出ました。昨日はソウルで統一協会の大会があり、そこで安倍元首相の追悼が行われたということで、本当にとんでもないことが起きているなぁと思わされますが。さらに台湾を巡る情勢も先日来非常に不安定になっています。そして、ここに来て最大級となっているコロナ禍と、本当に数多くの心騒ぐ出来事が起きていることを覚えます。そのような中で、先週の広島・長崎の原爆の日(関連note)をはじめとして、今年も戦争と平和について特に考えさせられる時期を迎えています。まだ30年しか生きていない人間がこのテーマで語らせていただくのは少々気が引けてしまうところもありますが、神様によって与えられた私なりの経験を分かち合わせていただきつつ、先程お読みいただいた御言葉を共に分かち合ってまいりたいと思います。
 私が生まれた1992年は、冷戦終結の数年後、また湾岸戦争の翌年に当たります。私が初めて認識した戦争は、2001年のアメリカ同時多発テロに端を発したアフガニスタン戦争でした。私の父は市議選に3回、県議選に1回出馬し―すべて落選しましたが―、さらに大杉栄をはじめとする地元出身の著名人を顕彰するイベントを毎年のように主催してきた人間ですので、そういった家庭環境から私が小学生の頃から社会的な出来事に強い関心を向けていたのは自然な流れだったかと思います。アフガニスタンでは、ちょうど1年前にタリバンが再び実権を握るようになりました(関連note)。イラクの「その後」を考えても、パックス・アメリカーナ=アメリカの平和、世界の警察とまで言われたアメリカのこのような政策、さらに言えば武力による平和がいかに脆いものかを思わされます。

 さて、前半は―前回も同じような流れでしたが―お二人の方との出会い・交わりについての証しとなります。
 1人目の方とは敬和学園高校在学中に出会いました。ご存知の方もおられると思いますが、敬和高校には修学旅行という形の一度限りの行事はなく、むしろ修養会という名前で、9月末に全学年一斉で2泊3日の宿泊行事が行われています。1・2年生は県内が会場ですが、3年生は必ずと言っていいほど県外へ出かけます。ただし、毎年同じところに行くのではなく、毎年各学年の先生方が内容や行先を決めます。私の場合、1年生の時は胎内市乙にある新潟県少年自然の家のキャンプ施設でキャンプ―食事は自分たちで作りました―、この時は「べてるの家」の向谷地生良さんが講師でした。2年生の時は、高校のある太夫浜から瓢湖までの片道40kmを往復して歩くという修養会。この通称「歩く修養会」は歴代の2年生でよく行われている伝説のような修養会です。この時の講師は、日本基督教団新潟教会元牧師の春名康範先生(著書紹介)でした。そして、3年生の時はこれも名物修養会と位置づけられている「ヒロシマ修養会」でした。広島に到着した日の夜に被爆証言を語ってくださったのが、毎年のように全国放送のテレビに出演して核廃絶を訴え続け、昨年の秋に亡くなられた坪井直さんだったのです。(関連note。下記内容と重複した内容もありますが)
 私が後日執筆を担当した報告文(上記noteに掲載)が坪井さんの簡単なプロフィールにもなっていますが、坪井さんは被爆の後遺症を抱えながら中学校の先生として働かれました、しかし、学校の先生にとって一番のやりがい、醍醐味であろうクラス担任は2クラスしか持てなかったと最近になって知りました。在職中から原爆被害のフィールドワークを生徒と共に行なってはいたものの、被爆者団体に入って本格的な核廃絶運動に関わるようになったのは定年退職した後だったそうです。その後坪井さんは30年余に渡って国内外で被爆証言を続け、「ネバーギブアップ!」を合言葉にしておられました。
 坪井さんのお話を聞いた私は。非常に感銘を受けました。昔は本の著者プロフィールに連絡先が載っているのは普通だったと思いますが、そのような感覚で坪井さんは講演のレジュメにご自宅の住所を記しておられました。私はその翌年(2010年)の年賀状を坪井さんにお送りしたのです。それに対して坪井さんから送られてきたのは、ご自身が出演されたテレビ番組を録画したDVD等の資料と、「また広島を訪れることがあれば連絡してください」というお手紙でした。この温情に触れた私は―非常に単純な頭をしていますので―、直後の(高校卒業と大学入学の間)春休みに再び広島を訪れたのです。坪井さんは私のために一日を費やしてくださり、被爆体験にまつわる場所を案内してくださったり、出演依頼のあったイベントに同行させてくださったりしました(この日に関するnote)。その間にはお好み焼きをご馳走になって一緒に食べたりもしたんですが、被爆体験にまつわる場所で坪井さんが「一緒に写真を撮ろう」と言って通行人の方に私のデジカメを渡してくださいました。これがなければツーショットの写真は手元に残らなかったのだろうなぁと思います。その後も年賀状のやり取りは続いたものの再びお会いすることは叶いませんでしたが、私の人生の中でも特に印象に残る出会いの一つとして記憶に残り続けています。
 当時のオバマ大統領が2016年に広島を訪れた際、坪井さんは全国中継される中で大統領と言葉を交わしておられましたが、そんな坪井さんがアメリカについての思いを吐露した内容が証言集に記されていたので、そのままご紹介します。
「私の憎しみ『アメリカの野郎…』ゆう気持ちは、今でも腹の底の方にはありますよ。でも、それを乗り越えにゃいかん。どうして乗り越えられるかゆうたら、人類の幸せを考えるから。『人類が幸せになるために核兵器はいりませんよ』ゆうことです。」

 さて、前回のメッセージでお話した通り2015年秋から信仰の回復に導かれた私は、それに深く連動する形で教会音楽や礼拝学への関心を深めるようになりました(この経緯についてのnote)。反比例するように社会的な出来事や平和について関心を向ける時間は減少しましたが、そのような私にちょうどいい形で、神様はこれからご紹介する方との出会いをお与えくださいました。
 2016年7月、ちょうど大学院中退を決断してしばらく経った頃のことでしたが、NHK-BSで「しあわせなら手をたたこう 名曲誕生の知られざる物語」という2時間に及ぶドキュメンタリードラマが放送されました。不思議と毎年のように再放送されているので、ご覧になった方もおられるかもしれません。

 何の気もなしに見始めた私は取りつかれるようにして最後まで見続けました。ご存知の方もおられるかもしれませんが、この歌は一人のキリスト者によって、しかも聖書の言葉に基づいて作られたのです。
 時は1959年、和解の旅として企画されたフィリピンでのYMCAのワークキャンプに参加された当時25歳の木村利人さんは、そこで読んだ聖書の言葉と、現地の子どもたちが歌っていたメロディをもとにあの名曲を作ったのです。その聖書の言葉は、詩編47編2節「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。」でした。「しあわせなら手をたたこう」はすぐに日本中でブームとなり、坂本九さんとオリンピックのおかげで一気に世界に広まりました。木村さんはその後研究者として海外でも活躍し、生命倫理学という新たな学問領域を切り開いた日本のパイオニアの一人として知られています。
 私は坪井さんと同じような感じで木村さんにも非常に感銘を受けました。今でもそうですが、私は出身教会(新発田キリスト教会)の本間牧師と共に同盟教団の新潟山形宣教区「教会と国家」委員を務めています。毎年8・2月に集会を行なっていますが、木村さんにぜひ新潟で講演していただきたいと思ったのです。それで木村さんに連絡を取り、すぐに快諾をいただきました。そして、ちょうど5年前のこの時期に木村さんが新潟福音教会で講演してくださったのです。

客観的証拠性が最も高い写真

 木村さんは言うまでもなく研究に関する著作も数多く発表されていますが、ご自身の人生に関して、また「しあわせなら手をたたこう」の謂れについて紹介している本が単著と共著の計2冊あります。

 単著の方に書かれていた、戦後まだアメリカの統治下にあった時代の思い出が印象に残ったのでご紹介したいと思います。
 当時中学生だった木村さんは放課後、日比谷にあったNHKの前で友達を待っていました。当時NHKもアメリカの管轄下にあったので、そこにも米兵が出入りしていました。そのうちの一人が木村さんに話しかけました。まだ中学校で英語を学び始めたばかりだった木村さんは会話がままならなかったので、米兵は別れ際にメモを渡しました。木村さんが帰ってからメモの意味を調べてみると、「今度私のオフィスにおいで」という非常に親しいメッセージと米兵の部屋番号が記されていたというのです。次の機会はその通りの展開となり、その後木村さんは毎週のように米兵のマンションに食事に招かれるようになりました。米兵の突然の異動で音信が途絶えたものの、40年後に木村さんが仕事でアメリカに住んでいた際に再会が実現しました。なんとその米兵はカトリック司祭になっていたそうです。
 木村さんはその日の日記にこう記していました。
「子どもの時に与えられたキーフさんのあの心の優しさ」によって、「1950年に洗礼を受けた僕の魂の出発点であるキリストの愛といのちの喜びへと導かれたのだ。さあ、これからも主にあって前進し続けよう。未来にむけて!」。
 このキーフさんとの出会いについては、木村さんのお連れ合いが子どもにも読みやすい本を書かれています。(Amazonのみで購入可)

 お二人を紹介する中で、それぞれ最後にご本人の言葉を引用しました。坪井さんはキリスト者だとはっきりお聞きしたことはありませんし、恐らくそうではなかったのだろうと思いますが、神が願っておられる平和の実現のために尽力された一人だったのは言うまでもないことだと思います。そして、坪井さんも木村さんも、また木村さんの少年時代に大きな印象を残したキーフ少佐も、敵意を乗り越えて愛を示した人でした。また、坪井さんが被爆直後に2人の愛によって助け出されたことは報告文でご紹介している通りですし、木村さんが名曲を作るに至った過程においても、日本とフィリピンの青年クリスチャン同士の和解があり、共に同じ御言葉に聞き、涙ながらの祈りを捧げるという主にある一致があったのです。愛と平和、またそれを求める思いは、キリスト教信仰の有無にかかわらず神が多くの人に与えてくださっている共有財産と言えるのではないかと思います。
 私は、特に信仰のマンネリ期を脱するまでの間にいわゆる市民団体の講演会や東日本大震災後の反原発デモ等に可能な限り通っていました。大学時代も教職課程を学んでいたのでそんなに暇ではなかったんですが、年数回は参加していたと思います。また、大学の卒論や大学院の修士論文では平和教育をテーマにしましたが、それは間違いなく坪井さんとの出会いが根っこにあったのです。しかし、回心前の時点ですでに、私は「キリスト信仰なしの平和運動に、どのような希望があるのだろうか」と思うようになっていました。残念ながら、平和や社会正義を求める人々の願いと逆行するような出来事の方が多く起こっている中にあって、神を知らない方々がよくこれだけ熱心に行動されているなぁと、失礼な表現のような気もするのですが思ってしまうのです。もちろんキリスト者は思いを共有できるすべての人と共に平和を求めていくべきですし、むしろ坪井さんをはじめとする多くの方々から平和を追い求める熱心さを学ぶべきだとは常々思うのですが。

 では、キリストを信じる私達に与えられている希望の根拠はどこにあるのかを考えてみたいと思います。様々な表現ができるかと思いますが、先程お読みいただいた聖書で言うならば「神と和解させていただけている」ことだと言えます。詩編124編2~3節にはこのようにあります。
「主がわたしたちの味方でなかったなら わたしたちに逆らう者が立ったとき そのとき、わたしたちは生きながら 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。」
 先程読んでいただいだⅡコリント5章15~16節の内容をまとめると、「新しい生き方は自己中心的なものではなく、他者やキリストを肉に従って知ろうとしなくなること、すなわち霊に従って知るようになることだ」となるかと思います。これは、神との関係においても、隣人との関係においても、平和を保ち、または不和から和解へと進んでいくための不可欠な要素です。
 エフェソ書2章にある通り、キリストこそ私たちの平和であり、敵意という隔ての壁を取り壊し、十字架によって敵意を滅ぼされました。また、神と人との間にあった隔てをも、イエス様は十字架での贖いによって取り払ってくださいました。キリストによる和解の御業は、罪の赦しと贖いによって実現したことを、今日改めて共に覚えたいと思います。
 そして、主は私たちに、和解のために奉仕する任務を与えてくださってもいます。私たち自身の能力や努力では到底成し得ないことを、神がキリストを通して実現させてくださるのです。この手紙の宛先はすでにキリストを信じた人々が大半だったはずですが、20節に改めて「神と和解させていただきなさい」と語られています。これは、私たちが生涯「赦された罪人」であることを日々自覚し、悔い改めを重ねていくことが大切であるからではないかと思います。そういった謙虚さを持ちつつも、私たちはキリストの働きを担わせていただいているということも忘れることなく、日々力強く歩ませていただきたいと願うのです。
 ルターが残した『キリスト者の自由』の一節も思い起こします。
「キリスト者は、あらゆるもの、最も自由な主であって、何ものにも隷属していない キリスト者は、あらゆるもの、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している」。
 この世の既存の枠組にとらわれない自由さと、すべての人に奉仕する謙遜さは決して矛盾するものではないと言い換えることができるでしょうか。それは、私達を自由にしてくださった真理のお方でありながらも、ご自分を無にして十字架の死にまで従われたキリストを私たちが主と告白し、その告白に日々生きる者とされたからに他なりません。

 最後に、木村さんが講演の最後に残してくださった合言葉をご紹介して終わりたいと思います。

     し=知ること
     =愛すること・赦すこと
     =輪を作ること
     =世界に輪を広げていくこと

 木村さんの経験に基づけば、「知ること」は日本がフィリピンをはじめとするアジア各地でどれだけ残虐な加害行為をしたかということであり、「愛すること・赦すこと」は先程ご紹介したフィリピンでの和解のことですが、この「しあわせ」を信仰者の歩みに置き換えてみたいと思います。
 私たちは神と出会って以来、神を知り続ける歩みをしていると同時に自らの罪深さをも知らされ続ける日々を歩んでいます。しかし、その責任を自ら負わないといけなかったはずの私たちが、主イエスの贖いの御業のゆえに赦されたのです。それは御子をも惜しまぬほどに神がこの世を愛してくださったからであり、和解の務めはこの神の愛を周りの人々に分かち合うこととも言えるのではないでしょうか。そして、「輪を作る」というのは交わりに他なりませんし、教会とも言い換えることができるかと思います。最後の「世界に」という点は、海外へ行く志向がない私にとって非常に尻込みしてしまうテーマですが、この点については新潟聖書学院におられる韓国出身のお二人との交わりの中で教えられていることなのかもしれないなぁと思わされます。それは、この日本に数多く住んでおられる外国にルーツを持つ方々と共に生きていくということが「世界に輪を広げる」第一歩なのではないかということです。
 さらに、「しあわせ」という言葉自体を考えてみると、信仰者にとって感謝や喜びと言い換えることができるのではないでしょうか。その根拠を突き詰めれば14節冒頭の「キリストの愛」なのではないかと思います。そして、感謝や喜びと言えば、Ⅰテサロニケ5章16~18節の「喜び、祈り、感謝」を思い起こします。この御言葉は命令形で書かれているので、私たちは時に高い理想のように思えてしまうかもしれません。しかし、「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられる」これら3つのことは、神が人間の様子を見てただ満足するというだけのものではなく、人間が生き生きと歩んでいくために大切なものとして神様が提示してくださっているものなのではないかと今回思わされました。
 先程歌った賛美の中で「辛い世の中も、希望に満ちて」とありました。皆さんからしてみれば「まだ30年しか生きていない」人間がこのようなことを言うのも恐縮ですが、様々なデータを見ても年々この日本社会は生きづらくなっているのではないかと思います。さらに言えば、異教社会においてキリスト者は様々な困難に遭います。しかし、その中で明日も生きていこう、信仰を守り抜こうと思えるのは、私を救い出してくださった神が共にいてくださるから、主が日々恵みを注いでくださっているからではないでしょうか。
 冒頭でも簡単に触れましたが、元首相銃撃事件を巡って旧統一協会が大きくクローズアップされています。他のカルト宗教も含めれば、どれだけの人々、家庭、若者、子どもたちがその被害に苦しんでいるのでしょうか。私たちが神から与えられている希望こそが真の希望なのだという確信を持って、しかしながら自分たちに光を当てるような生き方ではなく洗礼者ヨハネのように神を指し示す生き方を目指して、共に歩んでいきたいと思います。そのための力は、上からの恐怖や威圧によって不本意に出させられるものではなく、神の愛に対する感謝から自然と湧き出してくるものなのです。

 ご在天の父なる神様、御言葉を賜ったことを感謝致します。戦争と平和という大切なテーマを覚えさせられるこの時期にあって、私たちは現代に数多くの困難な課題があることを覚えます。先日は県北で豪雨の被害があり、今週は青森・秋田で同様の被害が起きています。どうか困難の中にある方々にあなたの力強い助けの御手が注がれますように。また、国内外を問わず、戦い・貧困・抑圧・暴力に直面している方々がおられます。どうか、そのようなお一人お一人にあなたの助けをお与えください。
 私たちは現実の難しさを前にして力を失ってしまうこともありますが、私達の力の源はあなたにあります。どうか日々喜びをもってあなたに仕え、あなたを証ししていくことができますように。あなたの民一人一人を、またその群れである諸教会をいよいよ祝し、またこの朝祷会をもさらなる豊かな交わりの場としてお用いくださいますようにお願い致します。主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げ致します。アーメン

 参加者の方にはA3両面印刷の「別紙」をお配りしました。表面は讃美歌2曲の楽譜のコピーで、裏面は坪井さんの講演についての報告文と木村さん・坪井さんをさらに知っていただくための書籍・YouTube動画紹介でした。
 すでに本文中でリンクを貼ったものもありますが、そうでないものについてダラダラと貼らせていただきます。

※2冊目は版元品切れ。Amazonで中古書購入可。

※紙版はAmazonのみ購入可とのこと。

 この3冊は、複数人によるエッセイ集の中に木村さん(1・2冊目)と坪井さん(3冊目)のエッセイも掲載されているというものです。
 続いてYouTubeです。

 第3回まであります。

 ここから坪井さんです。(追悼noteに載せたものも含む) 見応えのある、長尺の動画に絞っています。

 この映像は、坪井さんが63歳の時に撮影されている、今出は非常に貴重なものです。

 これだけ例外ですが、掲載した理由は映像の内容がPDFファイル(文字)でも提供されているからです。NHKの役割はやはり大きいなぁと改めて実感しました。

 さて、noteを始めて以来「戦後○年所感」を発表してきました。

 今回は本記事を「戦後77年所感」とします。ただ、これを書いているちょうど一週間前の経験も非常に大きなものだったので、最後にそれをご紹介します。

 この番組の前には、映画「ヒトラー~最期の12日間~」が放送されました。2番組で合計3時間半弱…非常に重々しい気持ちにさせられました。
 映画は地デジ時代に放送された時に録画していたはずですが、それっきりになっていたようです。そして、写真でご紹介したのは、母校・敬和学園大学を2020年度末に定年退職された桑原ヒサ子先生。

 この先生はナチス女性雑誌研究をされていて、講義でそれについてのお話を聞いたこともありました。(上記リンクでも紹介されています)

 また、今年の夏は長岡空襲の犠牲者追悼をルーツとする長岡大花火大会が3年ぶりに開催された夏でもありました。新潟市は原爆投下候補地の一つでしたし、

 上越市直江津ではこのような史実が継承されています。

 同じ現・上越市の名立では、終戦の4年後にこのような痛ましい事故が起きました。

 精査できなかったので載せませんでしたが、これに関する解説動画もYouTubeにいくつか上がっています。(地元関係者が作ったものではなさそう)

 ということで、足早に「戦後77周年所感」らしさを出したところで^^;本記事は終了です。お読みいただきありがとうございました。

より多くのアウトプットをするためには、インプットのための日常的なゆとりが必要です。ぜひサポートをお願いしますm(_ _)m