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「よい/わるい」で、人や自分を裁かない ~人は、誰かのために生きるのではない~

「よい/わるい」、「善い/悪い」、「良い/悪い」、そういう見方で人や自分を裁いていませんか。だれかとだれか、だれかとわたしを比較して、どちらが「よいか、わるいか」決めていませんか。わたしを含めて、人は何かにつけて、どうしてもそういうことをしてしまいます。しかし、そういうことをし続けて、幸せになれる人はあまりいません。


人が幸せに生きるために、どうしても必要なもの

人が生き生きと生きるために、人が幸せに生きるために、どうしても必要なものが三つあると以前、noteに書きました(「高校生のための人権入門(17)」などをご覧ください。)その三つとは、「安心」、「自信」、「自由」です。「安心」とはわたしの言葉で言えば、「わたしはここにいていい」という思いであり、「自信」とは、「今のわたしはこれでいい」という思いであり、「自由」とは、「わたしのことはわたしが決めている(わたしがわたしの人生の主人公だ)」という思いです。

「自信」は、「自己有用感」ではない

わたしがそんなことを人に話した時、「あなたの言う『自信』は、『自己有用感』と言い換えてもよいか」と聞かれたことがあります。その時、わたしは、その人に「すいません、ちょっと違います」とお答えしましたが、はっきり言えば、まったく違いますし、場合によっては正反対のものとなることもあります。

その人の考えでは、日本の子どもたちは「自己肯定感」が低い。しかし、「自己肯定感」自体をすぐに持たせたり、高めたりすることは非常にむずかしい。だから、子どもに何かをやらせて、それで相手が喜べば、自分のしていることが誰かの役に立っていることが実感できて、子どもの「自己有用感」が高まるだろう。「自己有用感」が高まれば、自然に「自己肯定感」も高まるはずだというお話でした。

これだけ聞くと、いかにももっともらしい意見に聞こえますが、わたしにとっては、「風が吹いたら、桶屋がもうかる」式のご都合主義、それを言っている「強い立場の人(この場合は、おとな)」にとってはいいことだらけの話、「弱い立場の相手(この場合は、子ども)」にとっては、実は、本質的には迷惑な話に思えます。そして、このような意見の一番の問題点は、それが、強い立場の人たちの純粋な「善意」によって思いつかれ、純粋な「善意」によって今も実践されていることです。

「自己有用感」の強調が「自己無用感」を生む

「自己有用感」とは、「自分が誰かの役に立っている(誰かによろこばれている)」という思いでしょう。その「誰か」が、身近な具体的な「弱い立場の人」(小さな子どもや目の前のお年寄り等)である場合は問題がないのですが、その「誰か」が「強い立場の人」(親や、教員や、クラスという集団等)であった場合は、「したいのに(しなければならないのに)、それができない」という思いで、その子をひどく苦しめることがあります。その子が直面した「自分は人の役に立つ人間になれない」という現実が、場合によってはその子を、「自己無用感(わたしなんか、いてもしょうがない。わたしなんか、いない方がいい)」に陥れてしまうからです。前回書いた「やさしくしたいのに、やさしくなれない」苦しみは、実はこの延長上にあるものです。

あなたは、まずあなたのために生きるのです

ここで確認しておかなければならない重要なことがひとつあります。人は、本来、「誰かのために」生きるものではないということです。あなたは、まずあなたのために生きるのです。あなたの人生はあなたのものだからです。わたしは、まずわたしのために生きるのです。この大原則からはずれた、どんな立派な「よい=善い=良い」意見も、すべてウソです。だまされてはいけません。

「自由(わたしのことはわたしが決めている)」の重要性

最初に、人が幸せに生きるために、どうしても必要なものは「安心」、「自信」、「自由」だと書きました。実は、その三番めの「自由」の意味がここにあります。ただ、誤解していただきたくないのは、人は誰かのために生きるものではないということは、人が誰かのために生きてはいけないということではないということです。「自由」とは、「わたしのことはわたしが決めている(わたしがわたしの人生の主人公だ)」という思いです。わたしが「自由」という言葉を使って言いたいのは、わたしはだれか(たとえば、自分のパートナー、自分の子、弱い立場の人等)のために生きるということも、わたしが決めた(選択した)ことでなければ、わたしは幸せには生きられないということです。前回、「(その人に)やさしくできないのなら、やさしくしなくてもいい」、「できないこと(したいと思えないこと)はしなくていい」という意味のことを書いた根拠がここにあります。

なぜ、日本の子どもや若者の「自己肯定感」が低いのか

人は、本来、「誰かのために」生きるものではないということが、わたしの考える「自信」の根拠にもなります。もし、人が自分以外の誰か(親や職場や社会等)のために生きるべきものであれば、「誰かのために」役立つ人間であるかどうかが、その人の「よい/わるい」(評価)になります。そして、必然的に、誰かとわたしとどちらが所属する集団のために役に立っているかが、比較されることになります。このような「誰かのために」役立つ人間であるかどうかの評価や比較(「裁き」)は、わたしが考える本当の「自信(今のわたしはこれでいい)」を、時間とともにどんどん根元から切り崩していきます。残念ながら、このような「よい/わるい」(評価、比較、裁き)の集団・社会の典型が日本の学校であり日本の家庭です。「人のために役立つ人間になれ」「(少なくとも)人に迷惑だけはかけるな」が強調される日本の家庭や学校で育った子どもや若者の「自己肯定感」が低くなるのは、あまりに当然のことではないでしょうか。

さらに、「よい/わるい」で、人や自分を裁く(裁き合う)世界に、人はもちろん「安心(わたしはここにいていい)」とともに生きることはできません。

「あなたはあなたのままでいいんだよ」の意味

これと正反対に、人は、本来、「誰かのために」生きるものではないという考え、わたしはわたしのために生きるんだという考え、あの人はあの人のために生きるんだという考えは、わたしとあの人の「自信(今のわたし(今のあの人)はこれでいい)」、「安心(わたし(あの人)はここにいていい)」を保障することになります。このようなことをひと言で言えば、「あなたはあなたのままでいいんだよ」ということになります。(くわしくは、「あなたのままでいいんだよ ~わたしが幸せになるために~」をご覧ください。)

「義務」から「責任」へ

誤解されそうなので、繰り返しますが、人は「誰かのために」生きるものではないという考えは、現実に、ある人がその人のパートナーや子どもや弱い立場の人のために生きることを、「自ら選ぶこと」となんら矛盾しません。「自由」とは、自らの生き方を自ら選択することですから。そのような生き方を自ら選ぶことは、今までnoteに書いてきた「責任(そうしないではいられない)」に基づく行為になります。これに対して、本質的に相容れないのは、「人は誰かのために生きなければならない(誰かの役に立たねばならない)」という「義務」(道徳、倫理、法律、マナー、しきたり等)の考え方です

「義務」に基づいて生きることはその人の幸せを削り取り、「責任」に基づいて生きることはその人の幸せ(生きがい)を支えます


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