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やさしくなれないあなたは悪くない ~子育てや介護で行きづまった時に~

子どもや高齢になった親に、やさしくしたいのについ怒鳴ってしまったりして、後で落ち込んでしまう。多かれ少なかれ、誰にもそんな経験があるのではないでしょうか。
「人にはやさしくしなければならない」という思いと、「(あの)人にやさしくしたい(しよう)」という思いとは、よく似ていますがまったく別のものです。このことに気づかないと、育児や介護の中で、相手への憎悪と自分への嫌悪の悪循環に陥ってしまうことがあります。


「義務」と「責任」を混同しないために

「人にはやさしくしなければならない。人には思いやりを持たなければならない」という思いを、わたしは「義務(感)」と呼んでみたいと思います。それに対して、「(あの)人にやさしくしたい。(あの)人に思いやりの心を持ちたい」という思いを、「責任(感)」と呼んでみたいと思います。「やさしくなれないわたしが嫌いだ」という自己嫌悪は、たぶん、このような「義務」と「責任」を混同していることから起きています

一般に、「義務」と「責任」は、似たような意味で使われることが多いのですが、わたしは、「義務」とは「自分の外側からの『そうしなければならない』という強制(プレッシャー)」だと考えています。「義務」の典型は、法律です。これに対して、「責任」は、「自分の内側からの『そうしたい、そうしないではいられない』という思い」です。この二つは、結果としての行動は同じになることもあります。(交通事故における人命救助などは、その典型的な例です。)しかし、その本来の性質(本質)は、まったく別のものですから、「やさしくしたい(「義務」を果たしたい)のに、やさしくできない(「責任」を果たせない)」というようなことが起きるのです。

人の心自体は、善でも悪でもない

人の心の中には、「自分のためによくしたい[自分が喜びたい]」という思い(A)と、「(自分の目の前の)人のためによくしたい[相手を喜ばせたい]」という思い(B)があって、この二つの思いは対立していると、ふつう考えられています。Aを重視する人は、性悪説に共感しますし、逆にBを重視する人は、性善説に共感します。しかし、すでにnoteに書いたように、性悪説も性善説も、どちらも同じように間違っています。人の心の中にある本来の思いは渾然一体となっていて、AとBのようには区別できないものだからです。そういう意味で、人の「性(本来の性質)」は善でも悪でもないのです。(くわしくは、「人の心は善か悪か ~性善説と性悪説の議論に終止符を打つ~」をご覧ください。))それなのに、われわれはふつう自分の中にAとBのような対立する思いがあるように感じています。なぜでしょうか。

善や悪は、集団や社会が生んだもの

それはたぶん、人は、すでに成立している家族や地域社会などの集団や社会の中に生まれ、育っていくからです。もともと人の心の中に善や悪があるのではなく、人の集団や社会が、「よいもの(よい振る舞い)」と「わるいもの(わるい振る舞い)」を設定し、それぞれの原因となると想定される人の思いを、「善なる心」、「悪なる心」として人の心の中に設定している中に、人は生まれてきて、育つからです。人の集団や社会のとって「よいもの」とはなんでしょうか。それははっきりしています。その集団や社会の維持や発展に役立つものが「よいもの」です。先ほどのAの思いとBの思いで言えば、もちろんBの思いが、集団や社会に役立つ「よいもの(よい思い)」になります。

集団や社会は、Bを「よいもの(よい思い)」とし、それをその集団のしきたりやマナーや常識にし、それを守らない者(Aに基づいて行動しているように見える者)を、罰したり、自分たちの集団から排除したりします。このようにして、道徳や倫理が生まれ、さらにそこから法律が生まれてきます。子どもは、物心つく前から、その集団のしきたりやマナー、タブー、道徳、倫理、法律を無意識に、また意識的に教えられ、植えつけられて育つため、人は子どもの頃から、数えきれない「こうしなければならない」というものを自分の中に抱えて生きることになります。この「こうしなければならない」というものが、わたしの言う「義務」です。この「義務」の中には、「人にはやさしくしなければならない。思いやりの心を待たねばならない」という項目も、当然入っています

「義務」は、人の心に「責任」を生むわけではない

しかし、誰でも自分を振り返ってみればわかることですが、自分の幼い子どもや、認知症になって生活がままならなくなった自分の親に、その人が喜ぶような何かをしてやりたいと思うのは、社会的な義務(扶養義務等)があるからではありません。そうしないではいられない思いが、自分の中からわき起こるからです。まさにそれが、わたしの考える「責任」=「自分の内側からの『そうしたい、そうしないではいられない』という思い」です。逆に言えば、「義務(そうしなければならない)」があるからといって、「責任(そうしたい)」がその人の中に生まれるとは限りません。「やさしくしたいのに、やさしくできない」という苦しみが生まれてくる原因がここにあります。

「やさしさ」「思いやり」「愛情」というトリック

すでにここまでお読みになって、お気づきになった方もいらっしゃるかもしれませんが、「何かしてやりたい」という思いは、実は、一般に「やさしさ」とか、「思いやり」とか、「愛情」とかという名で呼ばれるもの(わたしの言う「責任」)だけありません。時によっては、「相手を苦しめてやりたい」という思いも人の中にはわき起こるからです。「何かしてやりたい」という思いは、「善」も「悪」もそれ以外のものも含んだ、もっと大きな、ある意味、混沌としたものです。ざっくり言ってしまえば、家族や地域や社会は、ひとりひとりの内にこみ上げるさまざまな「(あの人に)何かしてやりたい」という思いの中で、家族や地域や社会にとって都合のよい部分に、「やさしさ」「思いやり」「愛情」等の名をつけて、それを人間なら誰でも持っていなければならない「すばらしいもの」として祭り上げ、人に義務づけたのです。

よく「愛情と憎悪は同じ感情の表と裏だ」とか、「愛と憎しみはひとつだ」というようなことを言います。心理学では、これを「アンビバレンス(両価性)」と呼びますが、家族の中でひどい虐待が起きてしまう理由の一つがここにあります。強い愛情は容易に強い憎悪に変わりうるからです。

集団や社会のつくった「義務」を、なぜ自分の「責任」と思ってしまうか

「やさしくしたいのに、やさしくできない」そんな苦しみは、わたしだけでなく、多くの人が味わっていると思います。このような場合の「やさしくしたい」は、多くの場合、親としての、子としての、人としての「義務(子ならそうでなければならない、人ならそうするはずだ)」から生まれてきています。このような思いは、一見、自分の内側から生まれてきているように感じられますが、実は社会が押しつけている「義務」を、自分の「義務」と思い込んでいる(内在化している)だけにすぎません。そういう意味では、この「義務」は、精神分析を始めたジークムント・フロイトが言う「超自我」の命令に近いものです。

これに対して、「やさしくしたいのに、やさしくできない」の後半部分の「やさしくできない」は、そのような「義務」に従おうとしても、従えない自分の状態を表しています。実際には、「やさしくできない」だけではなく、心ならずも、相手を非難、攻撃、無視してしまっていることも多いのです。「やさしくしたいのに、やさしくできない」という苦しみは、言わば、「相手を喜ばせたいのに、相手を苦しめてしまっている」という場合に、われわれが味わう苦しみです。

「相手が自分の思うとおりにならない」ことから生まれる苦しみ

どんな場合に、われわれは心ならずも「相手を苦しめてしまう」のでしょうか。ひと言で言ってしまえば、「相手が自分の思うとおりにならない」場合です。最初の方で、われわれはふつう、人の心の中には、「自分のためによくしたい[自分が喜びたい]」という思い(A)と、「(自分の目の前の)人のためによくしたい[人を喜ばせたい]」という思い(B)の両方があると感じていると書きました。しかし、実際にはAとBは渾然一体となっているもので、悪の心と善の心などと分けられるものではないとも書きました。しかし、子育てや介護の場合は、それがうまく進まない中で、AとBが対立(分裂)してしまうことがあります。Bの思い(相手への思いやり等)が受け入れられないと、「こんなにやってあげているのに、あなたはなぜわからないの」という思いがつのり、Aの思い(「力を使ってでも相手を自分の思うとおりに変えて、自分が正しいと納得したい」等)が、Bの思いを圧倒してしまうということが生じるのです。

にっちもさっちもいかない袋小路

ただ、現実には相手を非難、攻撃、無視しても、ふつうそんなことで相手は変わりませんから、結果として、Aの思い自体も満たされないという、にっちもさっちもいかない袋小路に入り込んでしまいます。実は、このようなことは、虐待に限らず人間関係が泥沼化した(相手がどうしてもわたしの思いどおりにならない状態になってしまった)場合に、必ず見られることです。

「できることをすればいい」という考え方に切り替える

「やさしくしたいのに、やさしくできない」、そんな袋小路の苦しみに入ってしまった「わたし」は、どうすればいいのでしょうか。一番簡単で、一番効果があるのは、「できることをすればいい」という考え方に切り替えることだと思います。「(子や親や人には)やさしくしなければならない」という「義務」を取りあえず捨てて、今、わたしにできることをすればいいのです。わたしにできることとは、わたしがしようと思えることです。つまり、社会や家族が強制してくる「義務(そうしなければならない)」に無理に従おうとせず、自分の中からわき出す「責任(そうしたいと思う)」に従おうということです。このことは、少し前のnoteで、「わたしはわたしのままでいいんだよ」と書いたことと実は同じことになります。(くわしくは、「あなたのままでいいんだよ ~わたしが幸せになるために~」をご覧ください。)

必ず、あなたを助けてくれる人がいる

子育てや介護で苦しむ方々に伝えたいことがあります。「したいけれどできないことは、しなくていい」のです。自分はしたいと思うけど、そこまではできないということがあったら、「できない」自分を責めるのではなく、周りに助けを求めてください。家族や親族が助けてくれなかったら、さらにその外(行政組織やNPOなど)に対して、あきらめずに「助けて」と伝えて続けてください。あきらめなければ、必ず、あなたを助けてくれる人が出てきます

「わたし」を行きづまらせているのは、「わたしがなんとかしなければ」「この方向に進まなければ」という「わたし」の思いです。一歩も先に進めなくなった袋小路でも、その反対側(もと来た側)は、必ず開けているのです。振り返れば、必ずそこには光が見えます。

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