ASMRの現象学 -- 意識が着陸するとき
ASMRが「眠る」ために用いられていることに注目したい。
どうしてわれわれは「眠れない」のか。どうしてわれわれはASMRを聞くと「眠れる」のか。本稿では、この表裏一体の問いに、現象学的な解答を与えることを目指す。
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眠れないことの苦しさを知る人間は少なくないと思われる。これはダブルミーニングであって、「眠れないのに眠りたい」という状況と、「眠りたいのに眠れない」という状況の双方を表している。前者はたとえば大学の講堂やオフィスビルの会議室でよく見られる現象であり、後者はたとえば自室のベッドや飛行機の座席でよく見られる現象である。
能動的に「眠る」ことの不可能性を、これらの例はよく示している。第一に、「眠れないのに眠りたい」ときには、意識の能動性はむしろ「覚醒する」ことに向けられており、「眠る」ことは能動性が身体に屈服したことを意味する。第二に、「眠りたいのに眠れない」ときには、意識の能動性が「眠る」ことに向けられているのにもかかわらず、その達成が身体によって阻まれていることを意味する。結局のところ、これらの状況の核心は、意識と身体が対立するものとして経験されていることである。
ここまでの問題提起によって、「眠る」ことの現象学的な問題性が示されたはずである。身体から離陸した意識が、身体へと着陸できないときに、「眠れない」ことが苦しみとして経験される。「眠る」ことは意識によっては決して達成されず、むしろ意識を手放すことによって達成される。
私の浅薄な理解では、現象学では伝統的に、意識が身体から離陸することを主題にしていた。たとえばサルトルの実存主義は、「意識=対自存在」が「身体=即自存在」ではないことの主張をハイライトにしているし、メルロ=ポンティの身体論も、いかに身体性の次元から意識性の次元が立ち上がってくるのかを示そうとしているように見える。そこで、これらとは逆の方向性、すなわち意識が身体へと着陸することも主題化されるべきではないか、というアイデアが生じる。
もちろん、それは私だけのアイデアではない。スピノザの〈神=自然〉、宮沢賢治の〈ひかりの微塵〉、ル・クレジオの〈物質的恍惚〉、ドゥルーズの〈内在平面〉、見田宗介の〈心のある道〉は、いずれも意識と身体との和合を、テーマの核心あるいは片鱗としていたように思われる。しかし、それらのテーマはすべて近代社会へのラディカルな批判を含んでいる。意識が身体へと着陸することを、近代社会に内在したまま主題化するには、「眠る」というテーマが最適なのである。
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人間が「眠る」ときには、何が生じているのだろうか。
「眠れない」状況と「眠れた」状況とを現象学的に比較することは難しい。なぜなら、誰も眠りに落ちた瞬間を記憶していないからである。
そこで、ASMRに注目する。「眠る」ためにASMRを聞く人が少なくないことは、「眠れない」状況と「眠れた」状況とを、ASMR体験が架橋していることを示唆するからである。直接的にはアプローチできない「眠れた」状況に対して、ASMR体験を媒介にした間接的なアプローチを試みる。
私の実体験に基づけば、ASMRを聞きながら眠りに入ろうとしているときの感覚は、ルソーが「幸福な人」と呼ぶ状態に近い。
「眠れない」ことが苦しみとして意識化されているとき、人間は、「取り返しのつかない過去」もしくは「迫りくる未来」について考えている。眠れないわれわれの状態は、ルソーが書いている「過去を呼び起こす必要もなく、未来に一足飛びする必要もないような状態」とは対照的である。このことは、諸君の実感に照らして納得していただけると思う。
ただし、過去と未来を同列に語ることはできない。「迫りくる未来」へピン留めにされてしまった意識があるとき、その未来を一定の枠内に規定してしまう「取り返しのつかない過去」が付随的に意識化されるのであるから、本源的なのは未来への恐怖なのである。
「日がまた昇る」ことへの恐怖。
私は以前、別の記事🔗で、朝日をもたらすことを責務としていた神女について書いた。原始共同体の不安と恐怖は、われわれとは対照的に、「日がまた昇る」ことが必然ではないことにあったのである。この奇妙な逆転にこそ、近代が必然的に「不眠」を病む原因があるに違いない。
古琉球の原始共同体にとって「日がまた昇る」ことは、象徴的には、豊穣と大漁をもたらす神の再臨であり、現実的には、充溢した関係性への再包摂である。そこでは近代的な孤立した自我は析出せず、自然と人間とが同期し、人間と人間とが即融していた。即自的な共同性のなかに生きているかぎり、「日がまた昇る」ことが恐怖の対象になることはあり得ない。
どうして未来は、迫りくるものとなってしまったのか。天岩戸の神話を引き合いに出すまでもなく、朝日は歓待されるものだったはずである。だとしたら、いったい何が未来を変質させたのだろうか。
結論から書こう。社会における支配的な人間関係が、共同性から他者性へと変化したことによって、未来が「迫りくる」ものとなったのである。即自的な共同性から、媒介された共同性への転換。共同性が行為事実の次元へと封じられ、意識の次元では他者性が社会を組織することの反作用として、行為事実の共同性を媒介するメディアがわれわれに「迫りくる」のである。
ここで具体的な解説をする余裕はないので、イメージを喚起するために、『鏡の国のアリス』からの引用を載せておこう。「赤の女王」の有名なセリフである。
ゲマインシャフト原理からゲゼルシャフト原理への転換は、「万人の万人に対する闘争」という理念上の中間段階を経由して、「万人の〈物神〉に対する服従」という社会をもたらす。その〈物神〉とは、たとえば「貨幣」であり、あるいは「時間」である。
真木悠介は、近代社会の内部で「時間の圧力」から解放されようと考えることを「幻想的なユートピズム」だと断定する。確かにそれはその通りなのかもしれないが、しかし、時間の圧力から意識が解放されないことには、われわれはいつまでも眠ることができない。
ここで、先に引用したルソーへと立ち戻ろう。ルソーは「時間が魂にとってなんの意味もなく」という状態を書いている。彼は、空想によってこの「幸福の人」を書いたわけではない。この記述は、次のような回想に付随しているのである。
「湖のほとりの砂浜のどこか隠れた休み場所」において、ルソーは、たしかに時間から解放されている。すなわち、時間を存立させる他者性から、意識が解放されているのである。
ルソーにおいては、「波の音と水の動き」が感覚を飽和させることで、「内面の運動」が消えていった。これと同じことが、ASMR体験でも生じている。われわれにおいては、ASMR体験が感覚を飽和させることで、「迫りくる未来」への恐怖から意識が解放される。
感覚が飽和した状態は、意識の再帰性が解かれた状態である。そこでは、自己意識を意識することができない。再帰性のバベルのような自己意識が、まるで蜃気楼のように揺らめいて蒸発する。フーコーの言う「主体の二重化」が解除され、ル・クレジオの言う「物質的恍惚」へと至る。自我の輪郭が消失し、身体へと即融していく。
「眠る」とは、自我の輪郭が消失することである。自我は、感覚処理と自己観察とを同時に遂行しており、自己観察によって自我の輪郭が維持されている。だとするならば、処理しきれない感覚を自我に流し込むことこそが、自己観察を停止させる方法である。自己観察が停止した意識は、意識ではなく身体に地盤をもつことになり、身体の要請がそのまま遂行される。
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現代社会において「眠る」ことは、他者性へと疎外された意識を身体へと着陸させることであり、すなわち、「時間」へと疎外された意識から身体を解放することである。このことが、近代社会の内部にありながら近代の原理を封印する営みに他ならないことを、われわれは見てきた。
以上の考察は、おそらく、現代社会における他の現象にも応用できる。どれほど「意識」が肥大化したとしても、人間は「身体」をもって生きているのであり、身体から完全に自由になることはできないからである。
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あなたに安眠がもたらされることを願っている。