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人間解放の実践のために [3/4]

―― 人 間 解 放 の 実 践 の た め に ――
序文 -- 人間解放の実践のために
「理想工場」の射程 -- 小林茂の理念と実践
▶ 「マネジメント・ゲーム」の射程 -- 会社を奪還せよ ◀
「人間主義」の射程 -- マルクスを超えて


「マネジメント・ゲーム」の射程 -- 会社を奪還せよ

 マネジメント・ゲームがいかに会社を変えるかは、その変化を経験した人間がいちばんよく知っているだろう。私はここで、経営改革の具体例を紹介しない。その代わりに、あらゆる経営改革に底流するMGの効果の骨格を取り出してみたい。それぞれの読み手に即して、いかようにも豊穣化されうる土壌として、この論考が読まれることを願う。


「会社」からの疎外 -- 人間性の喪失

MG開発の基本理念は、「人間性と効率の同時実現」であった。

西順一郎『MGの原点』「MG開発期/パート2」

 この言葉が重みをもって響くのは、現代社会では一般に、「人間性」と「効率」のどちらも実現されていないからである。ここで、人間性の実現とは社会的次元における解放を意味し、効率の実現とは経済的次元における解放を意味する。

 組織とは、本来的には、人間と人間とが豊かに交流する場であろう。そこでは互いに創造性を発揮し、相手の歓びを自らの歓びとして、人間性を相乗させていくことができる。しかし現実はどうだろう。実際の組織は、むしろ人間性を抑圧するように働いていないか。官僚主義的な分業組織のなかで、ますます人間はトータリティーを喪失し、張り巡らされた規則の網のなかで創造性を喪失していく。

こうした状態は、個人と切り離された組織が、たえず閉鎖的でより大きな存在として、個人の上にのしかかっているとも考えられる。あげくのはてに、「組織に所属する限り自分勝手な言動は許されない」と言われたり、「組織のなかに自由などありえない」と信じられるようになったりするのでは、人間にとって組織とは一体何だろうかと思わざるをえない。

北尾誠英・西順一郎『知的戦略の時代』p. 188

 しかし、社会的な解放は、経済的な解放を前提とする。利益を安定的に生み出しているからこそ自己実現を追求できるのであって、倒産や解雇におびえていれば「やりがい」などと言っていられない。衣食住の心配を取り除くことが先決である。仕事場における人間解放は、労働者にしても経営者にしても、貨幣の心配から解放されたうえでの課題である。

実際、どんなに自分たちは「やりがい」を感じて働いているといっても、その結果をまとめた数字が赤字になったのでは、やはり自分たちのやり方が正しかったとは言いにくいであろうし、やり方が正しくないところに、本当の「やりがい」はないであろう。

北尾誠英・西順一郎『知的戦略の時代』p. 108

 恐ろしいのは、「組織」も「利益」も、その会社で働いている人間たちによって作られているにもかかわらず、その人間たちと敵対するように運動を始めることである。一生懸命に働いているはずなのに、なぜか「利益」が出ない。あるいは、一生懸命に働こうにも、「組織」がそれを許さない。我々が作り出したはずの会社は、いつの間にか我々にとって不可解な運動体となって、経営者や労働者の人間性を奪い去ってゆく。

 ゆえに我々は、「会社」を奪還せねばならない。会社の運動法則を解明し、経営の原理原則を体得しなければならない。「利益」や「組織」に一方的に振り回されるのではなく、社会的使命のために利益や組織を活用しなければならない。そのような経営改革を経て、会社は、人間性が豊かに相乗される場へと再生されるはずである。

何事においても、「一般原理」、原理原則というものが一番大切である。〔‥‥〕それが、この複雑、変転極まりない "経営" という分野についても存在したら、どんなに良いだろう? ――それが、私が、MGに託した夢なのである。

西順一郎『MG教科書A』p. 4-5


「利益」の奪還 -- 経済的次元における解放

 経営改革では「PQ主義からMQ主義へ」がよく掲げられる。これはすなわち、「利益」の奪還をめざすスローガンである。

 MGをやれば、PQとGが連動しないことにすぐ気づくだろう。商品をたくさん販売しているのに、期をまたぐたびにキャッシュが目減りしていって、だんだん経営が苦しくなる。何かがおかしい。そう思って隣人の決算表を覗き込むと、自分よりも少ないPQで、結構なGを叩き出している。〔私の実体験である。〕

 経済的次元における経営の原理原則は、Gの創出であり、すなわちFによるMQの創出である。ここでPQについては何ら言及されない。そのためPQ主義にとどまる限り、「利益」はまるで不可解な数字として現れ、我々はそれに翻弄されてしまう。この状況では、決算は「過去情報」でしかあり得ず、赤字が判明したときにはもう手遅れである。会計情報はまるで最後の審判かのように、人間にはどうしようもないものとして宣告される。

 このような状況で、安心して働けるわけがない。強迫観念にかられた経営は、経営者や労働者をじわじわと締め上げていく。あるいは、労働者に利益意識がない場合には、経営者ひとりがすべての重圧を背負うことになる。だからこそ、人間は「利益」を奪還しなければいけない。すなわち、経済的次元における人間解放である。

 この経済的な解放は、全社的なMGの導入か、少なくとも社員への会計教育の徹底を必要とする。すべての人員が、自分の仕事と利益のつながりを理解することで初めて、利益が「最後の審判」ではなくなるからである。そしてこの過程は、それぞれの人員を「組織」へと再結合するがゆえに、社会的な解放と並行して進んでいく。


「組織」の奪還 -- 社会的次元における解放

 「PQ主義からMQ主義へ」が経済的な解放のスローガンであるならば、「X理論からY理論へ」が社会的な解放のスローガンである。

 小林茂が厚木工場で直面したのは、X理論的な管理とX理論的な人間とが相互に再生産する地獄であった。硬直した組織は、硬直した人間を作り出す。人間本来のしなやかな創造性は圧殺され、際限のない内部抗争が繰り広げられる。

 「組織」はいかにして人間と敵対するのか。もっと厳密に言えば、人間はいかにして「組織」を自らに対立させるのか。それは、組織の本来の目的を忘却することを通して、である。組織のメンバーたちが本来の目的を保っているかぎり、組織は人間の創造性が相乗的に発揮されるフレキシブルな生命体として機能する。しかし、メンバーたちが本来の目的を忘却し、組織や役割の維持を自己目的化するようになると、組織は非人間的な硬直した機械体へと変貌する。

 我々は、組織をしなやかな生命体へと再生させねばならない。経営改革を通して、組織はその目的を回復し、豊穣化させていく。多くのケースで、まずは組織メンバーたちの目的を「利益」に集中することになるだろう。すなわち、経済的な人間解放が目的にされる。それがある程度まで達成されると、「利益」そのものは目的から外れ、社会貢献や社会的使命へと重心を移していく。そして、この全過程を通して、人間は「組織」を奪還し、社会的次元における人間解放が達成されるのである。


「会社」の奪還 -- 人間性の回復

 これまで述べてきたように、経営改革は人間解放の二重プロセスとして実践される。それは、経済的解放が社会的解放を準備するとともに、社会的解放が経済的解放の実践手段となるような、不可分一体のプロセスである。

 そして、ついに我々は「会社」を奪還する。もはや「組織」は人間を圧殺する監獄ではなく、人間と人間とが豊かに交流する場となる。もはや「利益」は人間を脅迫する物神ではなく、人間が豊かに自己実現するための原資となる。

そこでは、 "自由" と "創造性の発揮" が許され、フレキシブルである。つまり、生物的な組織で、機械的な組織ではない。〔‥‥〕言い換えれば、いかに組織のなかの個人に、自主性の発揮を許すか、自由の幅を広げるか――人間性の回復そのものなのである。

北尾誠英・西順一郎『知的戦略の時代』p. 70

 この論考では、具体性を削ぎ落として、MGの効果の骨格のみを精製して提示することを試みた。概念の抽象度を高めたことで、さまざまな実例を代入して展開する余白を生み出せたと思う。読み手にとって、自らの経験を再解釈したり、経営改革の理想像を明確化したりするときの触媒になるならば、嬉しいかぎりである。

[ 続 ]



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