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人間解放の実践のために [4/4]

―― 人 間 解 放 の 実 践 の た め に ――
序文 -- 人間解放の実践のために
「理想工場」の射程 -- 小林茂の理念と実践
「マネジメント・ゲーム」の射程 -- 会社を奪還せよ
▶ 「人間主義」の射程 -- マルクスを超えて ◀


「人間主義」の射程 -- マルクスを超えて

 マルクスは、資本主義の仕組みを鋭く分析するとともに、社会の処方箋を提示した。「共産主義」と呼ばれる処方箋はもはや過去のものとなったが、資本主義の分析はいまだに有効である。マルクスが問題にしたのは、まさに資本主義そのものが人間性を圧殺する装置だということであった。我々は、マルクスを踏まえつつも、彼の処方箋を超えていかねばならない。


マルクスの「人間主義」

 労働は、決して「死んだ時間」ではない。それは人間本来の創造性を発揮するプロセスであり、人間的な歓びに満ちているべきだ。これは小林茂の信念であり、西順一郎の信念であり、同時にマルクスの信念であった。

 マルクスは、人間の人間たるゆえんを「自由な労働」に見出す。小麦、クッキー、音楽、建物、絵画、時計、学問など、人間の文明を構成するあらゆるものは、すべて「自由な労働」の賜物である。人間的な労働において、人間は、自然や他の人間と豊かに交流することを通して、歓びとともに生産物を作り上げ、歓びとともにそれを享受する。労働の歓びとは、自らの人間性を存分に味わうことである。

動物は、その生命活動と隙間なくぴったり一体化している。動物は生命活動そのものだ。たいして人間は、生命活動を意志と意識の対象とする。生命活動を意識的におこなうわけで、生命活動とぴったり一致してはいない。〔‥‥〕だからこそ、その活動は自由な活動なのだ。〔‥‥〕動物は目の前の肉体的な欲求に従って生産するだけだが、人間は肉体的欲求を離れて自由に生産し、自由のなかで初めて本当に生産する。

カール・マルクス『経済学・哲学草稿』第一草稿

 労働とは、本来的に人間的な活動であり、まさに人間を象徴する営みである。しかし現実には、労働こそが人間を苦しめている。歓びに満ちているはずの労働が、人間に敵対して、人間性を否定する活動へと逆転する。労働は「死んだ時間」へと変貌するのである。

第一に、労働が労働者にとって外的なもの、かれの本質とは別のものという形を取る。となると、かれは労働のなかで自分を肯定するのではなく否定し、心地よく感じるのではなく不幸せに感じ、肉体的・精神的エネルギーをのびのびと外に開くのではなく、肉体をすりへらし、精神を荒廃させる。

カール・マルクス『経済学・哲学草稿』第一草稿

 人間性を享受する活動であるはずの労働が、人間性を否定する活動になっている。マルクスは、その逆転が資本主義の仕組みによって引き起こされていることを洞察した。小林茂の赴任した厚木工場で「人間性の否定」が無限循環していたように、資本主義社会の全体においてもそれが無限循環しているのである。

 マルクスにおいて、人間性の否定は「自由な労働」の否定として現れる。人々は、経済的な必要から労働者となって、わずかな賃金と引き換えに、労働の「自由」を会社に差し出してしまう。ここで労働は「自由な労働」から「不自由な労働」へと変わり、人間性を否定された労働者たちが資本を増殖させる。こうして増殖した資本は、さらに大きな強制力を持って労働者から「自由」を剥奪し、増殖を加速させていく。

 資本の無限増殖の運動と、それにともなう人間性の無限否定の運動こそ、マルクスが洞察した資本主義の本質である。だとしたら、人間が人間らしく生きるためには、資本主義を放棄するしかない。こうしてマルクスの「人間主義」は「共産主義」へと地滑りし、指導者や大衆による「マルクス主義」の深刻な誤解と歪曲をも取り込んで、人類史上最大の敗北者となったのである。


マルクスを超えて

 もちろん我々は、マルクスの水準に留まるわけにはいかない。マルクスの「人間主義」はまさしく我々が立脚するところであり、彼の資本主義への洞察も、大いに参照すべきだろう。そのうえで「共産主義」に転落せず、それに代わる理念を練り上げて現実化することは、いかにして可能だろうか。

 我々は、「人間主義」を具体化した理念も、それを現実化する方法も、すでに知っている。それこそが、井深大の「理想工場」であり、小林茂の「厚木工場」である。あるいは、経済的かつ社会的な次元における人間解放の二重プロセスであり、西順一郎の「マネジメント・ゲーム」である。

 マルクスは、人間性の無限否定を資本主義の必然とした。しかし我々は、その資本主義の只中において、人間性を回復した「理想工場」を次々と生み出してきたではないか。人間たちが豊かに交響する共同体としての「会社」を、着実に作り上げてきたではないか。

 人間性の無限否定は、たしかに資本主義の傾向かもしれない。しかし、それはあくまで傾向であって、我々の理念と実践によって抗うことは可能だと信ずる。我々の人間解放の実践は、資本主義の傾向に抗い続ける〈永久革命〉としてのみ意義を持ちよう。

[ 終 ]



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